☩「私たちの聖体祭儀が世界の変容につながるように」教皇、「キリストの聖体の主日」ミサで

(2021.6.6  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは6日夕、聖ペトロ大聖堂で「キリストの聖体の主日」のミサを捧げられ、説教の中で、私たちが人生の旅を続けるために、主の臨在と愛、そして永遠の命の食べ物と飲み物を必要としていることを強調された。

 説教で教皇はまず、ミサの言葉の祭儀で読まれたマルコ福音書(14章12-16, 22-26節)  から三つの場面を取り上げられた。

*「神への渇望」を自覚する

 第一の場面は、弟子たちが、水がめを運んでいる男性に付いて、イエスと一緒に過ぎ越しの食事をする宿屋に行き、そこの主人に二階の部屋に案内してもらう場面だ。

 教皇は「この場面は、『私たちの神への渇望ー私たちが、神の必要を感じ、神が側にいて、愛してくださることを望み、一人では歩むことはできず、旅を続るために永遠の命の食べ物と飲み物を強く望んでいること』を自覚するにとの呼びかけ、とみることができます」と指摘。

 「残念なことに、今の世の中では、神への渇望は弱くなっていることから、教会は、人々と出会い、神への渇望、福音の熱望を知り、回復させる方法を学ぶように、呼びかけられているのです」と強調された。

*私たちと教会に必要な大きな心、”大きな部屋”

 二つ目の場面は、イエスと弟子たちが過ぎ越しの食事をする部屋。

 教皇は、その部屋は「小さなパンのための大きな部屋」で、「そのことが象徴しているのは、『神が、ご自身をパンの一切れのように小さくされること』であり、『私たちが、神を知り、崇敬し、受け入れるために大きな心を持つこと』 」とされ、「私たちは、自分の殻から抜け出し、神の謙虚で無限の愛の臨在を驚き讃える大きな広がり経験するために、二階の部屋の大きな空間に入っていくために、心の空間を解放する必要があります… それが、崇敬が、ご聖体の臨在に私たちが必要とする態度であることの理由なのです」と説かれた。

 さらに、教皇は、これは教会についても言えることであり、「教会は、”大きな部屋”でなければなりません。小さな、閉鎖的な空間ではなく、『大きく両腕を広げ、すべての人を歓迎する共同体である必要があります」とし、「聖体祭儀は、旅の途中で疲れ、空腹になった人たちに、滋養のある食べ物を提供するもの」とされる一方、「”純粋で完全”な教会は、誰のいる場もない部屋と同じです」と指摘された。

*キリストに倣い、私たちも”裂かれたパン”になる

 そして、最後の場面は、一同が食事をしているとき、イエスがパンを裂かれた場面だ。

 教皇は、「これは、聖体祭儀の頂点です。私たちの信仰の際立ったしるし… 私たちが新しい命に生まれ変わることができるように、ご自身を捧げられる主に出会う場所」とされた。

 そして、「イエスは私たちに命を与えるための贖いの小羊となられます。聖体祭儀において、私たちは愛の神を深く思い、賛美します… 主の無限の愛と贈り物に感謝し、聖体祭儀を行ない、経験することによって、私たちは、この愛を共有しますが、それにとどまらず、私たちの兄弟姉妹に心を開き、彼らの苦しみを共にし、彼らが必要とする助けを行なうように、私たちの心を開かねばなりません」と強調。「私たちが行う聖体祭儀は、自分自身を変容させ、他の人のために裂かれたパンになるようにすることで、世界を変容させるのです」と指摘された。

 最後の教皇は、キリストの聖体の主日の特徴である聖体行列に触れ、「聖体行列は、私たちが外に出て、他の人たちのところにイエスをお連れするように求められていることを、思い出させてくれます」と述べられ、「私たちが日々の生活で出会う人たちにキリストをもたらすように、また、主を信じる人たちの共同体としての教会が『誰もが入って、主に会うことのできる、大きくて、皆を温かく迎え入れる部屋」になるように、熱心に努力するよう強く勧められた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年6月7日