◎新・教皇連続講話「聖ヨセフ」⓵私たちの時代の模範、証人

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience  (Vatican Media)

(2021.11.17 Vatican News Christopher Wells)

   教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見で、先週終了した「ガラテヤの信徒への手紙」をテーマとした連続講話に続いて、「聖ヨセフー私たちの時代の模範、証人」をテーマとした講話を始められた。

 新たな連続講話を始めるにあたって、教皇は「かつてないほど、世界的な危機に見舞われている今の時期に、聖ヨセフは助け、慰め、そして導きを私たちに提供してくれる」と述べ、カトリック教会の保護者として宣言されて150周年を記念した「ヨセフの年」が終わりを迎える12月8日を前に、「聖ヨセフの模範と証しによって、残された期間が私たち啓発に一層、役立つことを願っています」と語られた。

 

*信仰に満ちた男

 教皇は講話の中で、まず、旧約聖書の創世記に登場するヤコブの息子、ヨセフの姿を思い起こされ、「ヤハウェが増し、成長しますように」を意味するヘブライ語の「ヨセフ」という名前は、神の摂理への信頼を基礎に置いた「特に出産と子育てに向けられた願いと祝福」であり、「これは、『神への信仰、神の摂理に満ちた人』という、ナザレのヨセフの人格の本質的な側面を明らかにしています」と説かれた。

 さらに、聖ヨセフと関わりを持つベツレヘムとナザレを取り上げ、「これらの場所は、この聖人について私たちが理解するうえで、重要な役割を担っています」と指摘。

 ベツレヘムはヘブライ語で「パンの家」、アラビア語では「肉の家」を意味し、「どちらも受肉と聖体に照らして重要性に満ちた表現です。ベツレヘムはまた、この地からのメシアの到来を予告したミカの預言とともに、ダビデ王の曽祖母であるルツのことを思い出させます。

 またエルサレムは、「主に愛された都、聖なる都」だったが、聖ヨセフと最も関係の深い場所は、「喧噪や時代の権力から遠く離れた」郊外の村だった。 教皇は、「ベツレヘムとナザレがヨセフと深い関係を持つ場所として選ばれたのことは、社会の”周辺部”が神によって好まれているのだ、と私たちに教えてくれます」とされ、 「この事実を真剣に受け止めないと、福音と神の働きを真剣に受け止めることはできません」と指摘された。

*社会の周辺部に

 イエスは、社会の周辺にいる人たち、罪人だけでなく、「悪を行わなかったが、悪とされているものに苦しんだ人々、つまり、病気の人、飢えている人、貧しい人、欠乏している人」を求めて出かけていかれる。教皇は「その当時と同じように、現代にも社会には中心部と周辺部があります。そして周辺からの福音を宣べ伝えるように召されていることを、教会は知っています」と語られた。

 そして、聖ヨセフはその教会の模範であり、「彼は、他の人が捨てたものに特別な重要性を与えることを、私たち一人一人に思い起こさせます。その意味で、聖ヨセフは、真に”本質の達人”です。真に重要なことは、私たちの注意を引くことではなく、評価されるべき忍耐強い識別だということです」と説かれた。

 講話の最後に教皇は、「全教会が、このような洞察力を取り戻すことができますように」とヨセフの仲介を祈られ、「私たちもベツレヘムから出直しましょう。ナザレから出直しましょう」と信徒たちに呼びかけられた。さらに、地理上、あるいは事実上の”周辺部”に住むすべての人たちに対して、「あなた方が、聖ヨセフの中に、証人と保護者を見つけることができますように」と祈られた。

 そして、以下の聖ヨセフへの祈りで締めくくられた。(以下、公式英語訳)

Saint Joseph,
you who always trusted God,
and made your choices
guided by His providence
teach us not to count so much on our own plans
but on His plan of love.

You who come from the peripheries
help us to convert our gaze
and to prefer what the world discards and marginalises.

Comfort those who feel alone
and support those who work silently
to defend life and human dignity. Amen.

2021年11月17日

☩「善を行なう人は”永遠”に投資する」年間第33日主日の正午の祈りで

(2021.11.14 Vatican News  Linda Bordoni)

  教皇フランシスコは14日、年間第33主日の正午の祈りの説教で、形ある物と外見のはかなさを指摘され、神の御言葉に基礎を置いて人生を送るように、信徒たちに促された。

 説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の「いちじくの木の教え」(13章24‐32節)を取り上げ、この箇所で、「イエスは、ご自分の言葉以外はすべて過ぎ去っていく、と私たちに告げられ、『善は決して失われない。永遠に続く』のであるから、地上に天国を建てことに励むよう、勧めておられます」と強調。

 また、この箇所の前半でイエスは、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ちる」(13章24‐25節)と警告されているが、教皇は「イエスは、終末論者ではなかった。この言葉の狙いは、神の愛と福音の救いのメッセージ以外のこの世のものは、遅かれ早かれ、すべて過ぎ去るのだ、と私たちに理解させることなのです」と説かれた。

*人生で重要なことは

 そして、「このたいせつなメッセージは、私たちを人生の重要な決定に導きます」とされ、「すぐ満足させられるものに価値を置きすぎないように、お金、外見、物質的な満足感など、過ぎ去るものに執着しすぎないように。忍耐を持って、目先のことを超越し、善を行なう人生を築き上げることが重要です」と信徒たちに強く勧められた。

 「イエスが”招待”されているのは、砂の上にあなたの人生を築くことではありません。イエスによれば、忠実な弟子とは、彼の言葉である岩の上に人生を見出す者なのです」(マタイ福音書7章24‐27節参照)と指摘され、また聖パウロの言葉を引用して「愛は決して滅びません(コリントの信徒への手紙1・13章8節)」とされ、「善を行う者は、”永遠”に投資しているのです」と語られた。

 

*地上に天国を築く

 「心が広く、親切で、柔和で、忍耐強い人、妬まない、うわさ話をせず、自慢せず、高ぶらない、誇りを振り撒かず、礼を失しない人(コリントの信徒への手紙1・13章4‐7節参照)。そのような人は、地上に天国を築きます。彼らは注目されず、出世することは無いかも知れないが、決して迷うことはない。善が失われることは決してなく、永遠に続くからです」と言明された。

 教皇は続けて、「イエスの言葉を基礎に置いた人生を送ることは、歴史からの逃避ではなく、愛をもって変容させるために、この世のもろもろの現実に没頭し、永遠のしるし、神のしるしを刻印すること」とされ、これを念頭に置いて重要な選択をするように信徒たちに求められた。

 そして、「決断する前に、私たちが人生の終わりにイエスの前に、愛である方の前に立っていることを心に描いてみましょう。イエスがおられ、永遠の入り口にいる自分を思い描き、今日の決断をします。とても容易でない、とても即決できるものではないかも知れないが、正しい決断となるでしょう」と語られた。

*キリストは貧しい人々の中におられる

 聖母マリアの祈りの後、教皇は、14日が5回目の「貧しい人のための世界祈願日」であることに注意を向けられ、それが2015年12月から2016年11月の「慈しみの特別聖年」を受けて設けられたことを改めて指摘されt。

 そのうえで、「キリストは貧しい人々の中におられます。そして、貧しい人々の叫びは、地球の叫びと結ばれて、グラスゴーで開かれた国連気候変動サミット(COP26)で響き渡りました。私は、世界に政治的、経済的責任を持つ人たちが、勇気と先見性をもって今、行動するように訴えます」と述べるとともに、「貧しいのための世界祈願日」である14日に、統合エコロジーを促進する「ラウダートシ・アクションプラットフォーム」への登録が開始されることに関心を向けられた。

*「ラウダート・シ・アクションプラットフォーム」への登録受け付け開始

 「ラウダート・シ・アクションプラットフォーム」は今年5月に教皇が設置を発表されたもので、今後7年間にわたって、総合的なエコロジーの精神に基づき、持続可能な世界を実現していくために、「家族と個人」「小教区と教区」「教育機関」「医療機関」「信徒グループや市民団体」「経済セクター」「修道会」に対して、七つの目標ー「地球の叫びへの応答」「貧しい人々の叫びへの応答」「エコロジカルな経済」「持続可能なライフスタイルの採用」「エコロジー教育」「エコロジカルな霊性」「共同体としての取り組みと参加型の行動」を呼びかけるもので、14日から、登録の受け付け(https://laudatosiactionplatform.org/register/)を始めている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年11月14日

☩「今日の痛みを癒やすことで明日の希望を育くもう」14日の『貧しい人のための世界祈願日』ミサ

(2021.11.14  Vatican News staff writer)

  教皇フランシスコは14日、今年で5回目となる「貧しい人のための世界祈願日」にあたって、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられ、「神の救いは『将来の約束』であるだけでなく、私たちのこの傷ついた世界で生きています」とされ、「私たちはキリスト教徒として、今日の痛みを癒やすことで明日の希望を育まねばなりません」と語られた。

*今日の痛み

 教皇は、「貧しい人々が、苦難、暴力、痛み、不公正によって特徴付けられる世界の歴史の中で、どれほどひどく傷つき、抑圧されているか、そして決して訪れることが無いように思われる解放を待っているのでしょうか」と述べ、「今日の『貧しい人のための世界祈願日』は、最も弱い立場にある人々の苦しみに特別な仕方で注目するように、私たちに呼びかけます。なぜなら、そうして人々は、不正と不平等によって苦しみを受け、彼らを無視し、放棄する『使い捨ての社会』によって、さらにひどい目に遭っているからです」と訴えられた。

*明日の希望

 一方で、そのような状況が引き起こす苦しみと恐れから生まれる「希望の光」が存在し、「救いの未来」を指し示していることを教皇は指摘され、「イエスは、私たちの心を希望に向けて開き、不安と恐れから解放することをお望みです」。そして、「今日の痛みの中で、明日の希望が花を開く… この希望は今日、私たちの傷ついた歴史の中で働くのですー神の国は、柔らかい若葉のように生き生きと開き、歴史を目的地ー神が私たちを完全に自由にされる主との最終的な出会い-に向けて導きます」と説かれた。

 

*私たちは何ができるか?

 では、私たちキリスト教徒には何ができるのか。教皇は「それは『今日の痛みを癒やすことで、明日の希望を育むこと』です」とされ、キリスト教徒の希望は、「事態が明日にはもっと良くなるだろう」というような、ただの”純真”な楽観主義ではなく、「神の救いの約束を、今日そして毎日、確実にするように行動するように、という宣言」であり、それは「具体的な行動を通して、イエスが始められた『愛、正義、友愛の王国』を日々、作り上げることです。そして、助けを必要とする人々を決して無視したり、傍を通り過ぎたりしないことです」と強調。

 さらに「私たちは思いやりの証人でなければなりません。社会の無関心に苛まれている人々を助けるために、彼らに寄り添いたいという願望によって動かされる、心からの優しさと思いやり、が求められているのです」と付け加えられた。

 

*希望は組み立てねばらない

 また教皇は、貧しい人々に身近に接した故人、イタリアのドン・トニーノ・ベロ司教がいつも口にしていた言葉ー「私たちは希望することで満足してはならない。希望を組み立てる必要がある」を引用され、「私たちの希望は、正義と連帯のための決意、支援、働きをもって、貧しい人々の痛みを和らげることが具体的に表現されるもの、私たちの日々の生活、私たちの人間関係、私たちの社会的、政治的な関わりの中で現実のもの、であるべきです」と強調。この希望を具体化するために貧しい人々を支援する教会の働きかけを助ける仕事を買って出た人々に敬意を表された。

*優しさで希望の花を開かせる

 教皇は、今日のミサで読まれたマルコ福音書の「いちじくの木の教え」(13章28節)でイエスが指摘されたように、「いちじくの葉は、枝が柔らかくなると、出てきます。そして、この『やわらかさ=思いやりのある優しさ』が、この世に希望の花を開かせ、貧しい人々を痛みから解放するのです」と指摘。

 「その柔らかい葉が、私たちの周りすべてにある汚れを吸い取り、”良いもの”にします。そして、私たちは、問題や課題をただ議論するだけでなく、何かせねばなりませんーその葉のように、汚れた空気をきれいにし、善をもって悪に対処することで、おなかをすかしている人たちとパンを分け合い、正義のために働き、貧しい人たちを元気づけ、彼らの尊厳を取り戻すために働くことで、善の”変換器”になることです」と説かれた。

 説教の締めくくりに、教皇は、貧しい人たちに手を差し伸べ、福音を分かち合って共に歩み、彼らの痛みから希望が生まれることを知らせるようとするとき、教会はどれほど美しく、預言的な存在になるか、を語られ、 「このような希望を、他者への思いやりのある優しさをもって、私たちの世界にもたらしましょう。彼らの中にイエスがおられ、私たちを待っておられるのですから」と信徒たちに呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年11月14日

☩「私たちが食べ物に事欠く人たちと常にパンを分かち合えますように」アッシジで(VN)

Pope Francis prays with the poor in the Basilica of St. Mary of the AngelsPope Francis prays with the poor in the Basilica of St. Mary of the Angels  (Vatican Media)

(2021.11.12 Vatican News Devin Watkins)

 14日の「貧しい人のための世界祈願日」を前に、教皇フランシスコが11日朝、イタリアのアッシジの町を訪問。貧しい人々と言葉を交わし、祈られ、すべてのキリスト教徒に「助けを必要としている人々に手を差し伸べるように」と促された。

 教皇はまず、クララ会修道院へ予定外の訪問をされ、教会奉仕のシスターたちにお会いになった後、天使の聖マリア大聖堂に向かわれ、貧しい人たちから、巡礼者であることを示す杖とマントで迎えられた。そして、欧州各地から集まった約500人のホームレス、失業者、移民など生活困窮者たちと話をされ、30分の休憩中に参加者たちに十分な量の軽食が配られた。

 食事の後、教皇と参加者たちは、大聖堂に戻って、祈りと聖歌の時間を持った。教皇は冒頭、アッシジと密接に関係する聖フランチェスコ、聖クレア、福者カルロ・アクティスを含む多くの聖なる人々が、主の声に従って、貧しく、社会から見捨てられた人々に命を捧げてきたことを思い起こされ、誰もが「最も困窮している人々に奉仕するという決意を新たにすることができるように」と祈られた。

 そして、主の祈りに先立って、マルコ福音書(14章3-9節)で、イエスが弟子たちに「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるのだから、したいときにいつもしてやれる」と語られ、「毎日のパンを(貧しい人々も含めて)互いに分かち合わなければならない」ことを思い起こさせたことに、注意を向けられた。

 そのうえで、主なる神に、「あなたがくださる自由とパンは決して不足しないこと、私たち皆が イエスがご自身をお与えになったに倣うことを、学ぶことができますように」と祈られた。さらに、アッシジに集まった貧しい人たちと彼らを支援するボランティアの人々に手を伸べて祝福し、祈られた。

「私たちの父なる神よ、あなたの憐れみには限りがありません。
あなたの言葉に導かれて、このあなたの子供たちを見守ってください。
彼らが愛の道を決して見失うことのないように。
渇望と苦痛にさいなまれた兄弟姉妹の心を通して。
あなたの霊が、困難にある彼らに手を伸べ、力、勇気、そして粘り強さを与えてくれますように」

祈りの最後に、教皇は彼ら一人一人に、衣服、靴、ジャケット、フェイスマスクを詰めたバックパックをプレゼントされた。そしてバチカンに戻られる前に、聖フランシスコが神の声をきき、 財産を投げうって布教の拠点として譲り受けたとされるポルツィウンコラ礼拝堂から採った石ーホームレスの避難所に渡されるーを祝福された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年11月12日

☩教皇、コロナ危機克服へ「責任ある希望」を呼びかけーパリの平和フォーラムへ(VN)

Paris marks Armistice DayParis marks Armistice Day  (AFP or licensors)

(2011.11.11 Vatican News staff reporter)

   教皇フランシスコは11日から始まった「パリ平和フォーラム2021」にメッセージを送られ、新型コロナウルスの大感染がもたらしている世界の安定・平和にとっての危機を克服するために「責任ある希望」が強く求められていることを強調。

 また恒久的な世界平和を生み出すために、「統合的な軍縮へ世界各国が協力して具体的に取り組む決意と行動が必要」と訴えられた。

*”正常状態への復帰”は弱者排除の古い社会構造への回帰に

 メッセージの中で教皇はまず、にコロナ大感染の脅威が続いている世界の現状に注意を向けられ、「歴史的な危機の中で、私たち人間家族は選択に迫られています」とされた。

 そして、選択肢の一つは、いわゆる「正常な状態への復帰」だが、「これは『自給自足、ナショナリズム、保護貿易主義、個人中心主義と孤立に触発された古い社会構造』への復帰を意味し、私たちの貧しい兄弟姉妹を排除することに、つながります」と警告。

 さらに、「現代のグローバル化の一方でひび割れた世界では、私たちが今日行う決定が、現在の危機を克服し、これから進むべき『道』を決めることになります」とし、「より良い未来を創造するために、コロナ以前よりも良くなるために協力しなければなりません」と訴えられた。

 

*統合的な軍縮の推進も、世界の平和・安定にとっての緊急課題

 また、コロナ大感染は、「私たちの社会と生活様式の限界と欠点を、私たち全員の前に明らかにしましたが… それにもかかわらず、私たちは希望を持つ必要があります」とされ、「キリスト教の伝統、特に教会の社会的教義、そして他の宗教的伝統は、『不当行為や暴力は避けられないものではなく、私たちに運命づけられたものではない』という確信と希望の助けになる」と語られた。

 続けて教皇は、「世界を揺るがすコロナ大感染の危機に直面して、「私たちの良心は、不正によって特徴付けられた”正常状態”には戻らず、”希望の道”を目指すように呼びかけています。コロナ危機を、私たちの生き方と経済的、社会的システムを見直し、改めるための機会なのです」、さらに「『責任ある希望』をもつことは、安直な解決策をとろうとする誘惑を拒み、貧しい人々と私たちの共通の家をいたわりながら、前進する勇気を与えてくれます」と説かれた。

 また、コロナ危機克服とともに、世界にとっての緊急課題は「統合的な軍縮に各国が協力して具体的に取り組む決意と行動であり、それ無しには、平和創出の協力はあり得ません」と強調。「世界の国々の支配層と政府は、『武力の均衡による紛争の抑止』という説明を乱用しますが、それは軍備増強をせいとうかするものです。軍備による紛争抑止の考え方は、これまでの歴史の中で、多くの場合、誤っており、重大な人道的悲劇をもたらすことが証明されています」と説かれた。

 メッセージ最後に教皇は、「私たちの世界をより良くするために、この(コロナ危機によって私たちに与えられた)機会を無駄にしないようにしましょう。この(『責任ある希望』の)信念によって、私たちは活気づけられ、自然の賜物を守りながら、世界の人々のすべてのニーズに応える経済モデルを創出し、人間家族全体としての発展を促進する前向きな政策を生み出すことが可能になるのです」と締めくくられた。

e human family.”

2021年11月12日

◎教皇連続講話・聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」⑮最終回「聖霊の導きで歩むことは私たちを自由にする」

(2021.11.10 カトリック・あい)

 教皇フランシスコがこれまで14回にわたって続けて来られた水曜一般謁見での聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」をもとにした連続講話が10日、最終回を迎えた。以下、バチカン広報が発表した講話原稿の全文。

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 私の「ガラテヤの信徒への手紙」をもとにした連続講話は、今日で最後となりました。この聖パウロの手紙を通して、私たちは多くのことについて深く考えることができたのではないでしょうか。神の言葉は尽きることのない泉です。そして、パウロはこの手紙を通して、福音宣教者として、神学者として、そして司牧者として、私たちに語りかけてきました。

 アンティオキア司教の聖イグナチオ(70‐107A.D.)は、素晴らしい表現で次のように書いていますー「一人の師がいる。彼は語った、そして成し遂げられた。彼が沈黙のうちにしたことでさえも、御父にふさわしい。イエスの言葉を持つ者は、まことに、彼の深い静寂でさえも、聴くことができるのだ」。

 使徒パウロは、この神の沈黙に対して、声をかけることができた、と言うことができます。彼の最も独創的な直感は、イエス・キリストの啓示に含まれる衝撃的な新しさを発見するのに役立ちます。彼は真の神学者であり、キリストの謎を熟考し、創造的な知性でそれを伝えました。そしてまた、方向を見失い、混乱した教会共同体に対して司牧の使命を果たしました。

 皮肉、堅さ、優しさをもって、様々な方法を用い… 使徒としての自身の権威を明らかにしましたが、同時に自分の性格の弱点を隠すこともしませんでした。聖霊の力を受け、復活したキリストとの出会いが人生を変え、人生を完全に福音宣教に捧げました。それがパウロです。

 パウロは、厳しさを欠いた穏やかな言葉でキリスト教の信仰を受け止めたことは決してありませんでした。強い情熱をもって、キリストがもたらした自由を守りました。そのために彼が耐えた苦しみと孤独を考えると、私たちの心は動かされます。彼だけが応えられる呼びかけを受け、ガラテヤの信徒たちに、彼らもその自由ー古い約束の相続人、そしてキリストにおいて神の子とされたことで、奴隷状態から解放される自由ーに呼ばれていることを説明したいと望んだのです。

 また、この自由の概念がもたらすリスクも承知しており、自由が必然的にもたらす結果を過小評価することはありませんでした。キリスト教徒の自由がもたらすリスクを承知していましたが、その結果を最小限に抑えることはしませんでした。

 ”Parrhesia(パレーシア=包み隠さず話すこと)”、つまり勇気を持って、信徒たちに、自由は決して不節制と同等の行為ではなく、それが無遠慮な独行につながることもない、と繰り返し説きました。パウロは自由を愛の影の中に置き、その一貫した運動を慈善の奉仕の上に置きました。この全体的なビジョンは、神からイスラエルに与えられた律法を成就し、罪の奴隷に陥ることを防ぐ聖霊による、人生のパノラマの中に設定されました。

 しかし、いつも後戻りする誘惑がありますね?聖書にあるキリスト教徒の定義の1つは、「私たちキリスト教徒は、後戻りする、引き返すタイプの人々ではない」ということです。これは素晴らしい定義です。そして、誘惑は、もっと安全になるように引き返そうとすること、聖霊の導きによる新たな命を無視し、律法に逆行すること。パウロが私たちに教えているのは、真の律法の成就は、イエスによって私たちに与えられた聖霊に導かれた命に見出されます。そして、この聖霊に導かれた命は自由の中でのみ生きることができます。キリスト教の自由。これは最も素晴らしいものの1つなのです。

 聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」をもとにした講話の”旅”の終わりにあたって、私たちの中には二重の感情が生まれる可能性があるように、私には思えます。ひとつは、パウロの教えは私たちに熱意を起こします。「聖霊の導きに従って歩む」という自由の道を即座にたどることに惹かれているのを感じます。聖霊の導きに従って歩むことは、いつも私たちを自由にします。

 ですが、その一方で、私たちは限界を知っています。なぜなら、聖霊に素直に従うことが、その助けとなる働きに身を委ねることが、どれほど難しいかを日々感じているからです。そうして、倦怠感を覚え、熱意をさましてしまう。世俗的なライフスタイルを基準にして落胆し、脆弱になり、時には疎外されていると感じます。

 聖アウグスティヌスは、福音書のガリラヤ湖でイエスの弟子たちが乗った舟が嵐に遭う箇所を取り上げて、この状況の置かれたら、どのように対応すべきか述べています。「あなたの心の中にあるキリストの信仰は、舟に乗っておられるキリストのようだ。あなたは侮辱され、疲れ果て、動揺し、そしてキリストは眠っておられる。キリストを起こし、あなたの信仰を奮い立たせなさい!船が大揺れしている時でさえも、何か出来るはずです。あなたの信仰を呼び起こしなさい。キリストは目を覚まし、あなたに話しかけます…。だから、キリストを起こしなさい… あなたが言われたことを信じなさい。そうすれば、あなたの心は途方もなく穏やかになるでしょう」((Sermon 63)。

 ここで聖アウグスティヌスは、困難な時というのは、嵐の中で舟に乗っているようなものだ、と言っています。それで、弟子たちはどうしたでしょう?イエスを起こしました。眠っておられるイエスを起こしなさい。あなたは嵐の中にいますが、イエスがおられます。イエスを起こすことは、私たちが大変な状況にある時にできる唯一のことです。

 私たちの中におられ、舟の時のように眠っておられるイエスを起こしなさい。弟子たちがしたことと、全く同じでの心の中のおられるでキリストを起こさねばなりません、そうすることで、私たちは、”嵐”を超越したイエスの目で物事を見つめることができるのです。その落ちついた澄んだ眼差しを通して、私たち自身の力ではできないような広々とした眺めを見ることができるのです。

 この挑戦的でありながら魅惑的な「ガラテヤの信徒への手紙」の旅の中で、聖パウロは私たちに、善を行うことに倦むことはできない、ということを思い起こさせてくれますー「たゆまず善を行ないましょう」(6章9節)。

 聖霊がいつも弱い私たちを助け、必要な支えをくださることを信じねばなりません。ですから、もっと頻繁に聖霊を呼び覚ますことを学びましょう!

 「それで、父よ、聖霊はどのようにして呼び覚まされるのですか?私は、私たちの父と共に、父に対してどう祈ればいいか、知っています。聖母マリアと共に、マリアに対してどう祈ればいいか、知っています。聖痕への祈りと共に、イエスにどう祈ればいいか、知っています。では、聖霊に対して… 聖霊に対しての祈りはどうなのでしょうか?」

 聖霊への祈りは自然に出て来るものーあなたの心から出てくる必要があります。カギとなるのは、このような祈りですー「来て、来てください」。でも、あなたはそれを自分自身の言葉でで口に出さねばなりませんー来てください、困難に遭っているので、暗闇の中にいるので、来てください。どうしたらいいか分からないので、来てください。倒れそうなので、来てください。来て。来てーこれが聖霊の言葉、聖霊を呼び求める祈りです。

 聖霊を頻繁に呼び覚ますことを学びましょう。一日の生活のさまざまな瞬間に、簡単な言葉ですることができます。そして、おそらく私たちのポケットにある福音書の中で、教会で祈られる「聖霊の続唱」の美しい祈りを皆で唱えることができます。それは、「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らしください / 貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方/ やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ…来てください…」とさらに続く、とても美しい祈りです。

 しかし、あなたが祈りを知っていれば、あるいは祈りが見つからないとき、祈りのポイントは「来てください」です。聖母マリアと使徒たちがキリストが昇天された日々の間、祈ったように。彼らは、”上の部屋”で自分たちだけで願っていましたー来てください、つまり聖霊が来てくれるように、と。

 頻繁に祈るのがいいでしょう。「聖霊来てください」。そして、聖霊がおられることで、私たちは自分たちの自由を守ります。私たちは自由、自由なキリスト教徒であり、悪い意味で過去に縛られず、​​慣習に鎖でつながれていません。キリスト教徒の自由は、私たちを成長させます。「聖霊来てください」という祈りは、私たちが聖霊のうちに、喜びのうちに、歩むのを助けてくれるでしょう。なぜなら、聖霊が来るとき、喜び、真の喜びが来るからです。主があなたを祝福してくださいますように。ありがとうございました。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2021年11月10日

☩「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」ー11月14日「貧しい人のための世界祈願日」メッセージ

 1.「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ福音書14章7節)。イエスは、過越祭の数日前、ベタニアの、「重い皮膚病の人」と呼ばれていたシモンという人の家での食事の席でこのようにいわれました。福音記者が語るところによれば、一人の女性がとても高価な香油の入った石膏の壺をもってきて、イエスの頭に注ぎかけました。この行為は驚きをもたらし、異なる二つの受け止め方が生じました。

 一つ目は、弟子たちを含め、そこにいた何人かの憤慨です。

 労働者一人の1年分の賃金に匹敵する300デナリオンほどの高価な香油だということを思えば、それを売って、貧しい人々に施したほうがよかったと考えたのです。聖ヨハネによる福音書によれば、この立場をとったのはユダでした。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。そしてヨハネはこう指摘しています。

 「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていたからである」(ヨハネ福音書12章5‐6節)

 裏切る人間の口からそうした辛辣な批判が出るのは、偶然ではありません。貧しい人々のことを大事にしない人は、イエスの教えを裏切っており、彼の弟子であるはずがない、ということの証拠です。この点に関し、私たちはオリゲネスの強烈な言葉を思い起こしたいと思います。「ユダは貧しい人のことを案じているようであった。……もし現在も、教会の財布を預かり、ユダと同じく貧しい人への思いを口にしつつも、皆が入れたものに手を付ける人がいるなら、その人はユダと同じ役回りを演じることになるのだ」(『マタイ福音書注解』XI, 9)。

 二つ目の受け取り方はイエス自身のもので、女性がした行為の深い意味を理解させてくれます。

 イエスはこう言っておられます。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」(マルコ福音書14章6節)。ご自分の死が近いことをイエスは知っておられ、彼女の行為に、墓に入る前のいのちの尽きたご自分のからだに油が注がれることの前表を見ているのです。そのような見方は、ともに食卓を囲んでいた人たちには想像の及ばないことです。

 イエスは、いちばん貧しい者はご自分であること、貧しい人々の中でもっとも貧しい者であると、なぜならすべての貧しい人はご自分であるからだ、と彼らに言われます。神の御子がこの女性の行為を受け入れたのは、貧しい人、孤独な人、疎外されている人、差別された人の名においてなのです。その女性は、女性ならではの感性で、彼女だけが主の心境を理解していることを教えてくれます。この名もない女性は、おそらく女性であるという理由から、何百年も声を奪われ暴力に苦しむことになる女性の世界全体を象徴するよう定められています。

 さらに、キリストの生涯の頂点となる瞬間、すなわち十字架と死と埋葬、そして復活した方としてのその姿に立ち会う女性たち、という重要な存在の先達となったのです。女性たちは、実にしばしば差別の対象となり、責任ある立場から遠ざけられていますが、福音書の中では打って変わって、啓示の歴史の主人公です。そして、その女性を偉大な福音宣教と結びつけられたイエスの締めくくりのことばには説得力があります。「よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ福音書14章9節)。

2.イエスとその女性の間にある、こうした強い「共感」、そして彼女が油を注いだことについてのイエスの受け止め方は、ユダや他の人々が醜聞だとする受け止めとは対照的に、イエス、貧しい人、福音の告知、これらの間の切ることのできない結びつきについての、実りある考察につながるものです。

 イエスが明かしてくださる神のみ顔は、実は、貧しい人に向けておられる御父のみ顔、貧しい人に寄り添う御父のみ顔なのです。イエスのすべての業が、貧困は運命によるものではなく、私たちの中にイエスがおられることの具体的なしるしだということを示しています。私たちが望む時に望む場所でイエスを見い出すのではなく、貧しい人の生活の中に、彼らの苦しみや困窮の中に、彼らが強いられるしばしば非人間的な境遇の中にイエスを認めるのです。何度も申し上げていますが、貧しい人こそ真の福音宣教者なのです。彼らは最初に、福音を受け、主とそのみ国の幸いを分かち合うよう招かれている人々だからです(マタイ福音書5章3節参照)。

 いかなる境遇でも、またいかなる場所にいても、貧しい人は、私たちを福音化してくれます。なぜなら彼らによって私たちは、御父の真の素顔に、常に新しい形で気づけるようになるからです。

 「貧しい人は多くのことを教えてくれるのです。彼らは「信仰の感覚(sensus fidei)」にあずかるのに加え、自分自身の苦しみをもってキリストの苦しみを知っています。私たちは皆、彼らから福音化されなければなりません。新しい福音宣教とは、彼らの生活がもっている救いをもたらす力を認め、彼らを教会の歩みの中心に置くようにとの招きです。彼らのうちにキリストを見い出し、その代弁者となり、さらに彼らの友となって、耳を傾け理解し、彼らを通して神が伝えようと望んでおられる不思議な知恵を受け取るよう招かれているのです。私たちの関わりは、促進と支援の行動や計画にとどまるものではありません。聖霊が引き起こしているのは、活動への過剰な傾倒ではなく、まず何よりも『ある意味で自分と一体とみなし』ている他者に目を向けることです。愛のまなざしは、人を本当の意味で心配することへの最初の一歩です。そこから、その人の幸福を実際に求めるようになるのです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』198-199)。

3.イエスは貧しい人のそばにおられるだけでなく、運命そのものを彼らとともになさいます。このことは、いつの時代であれ、その弟子たちにとって重要な教えです。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」というイエスの言葉も、それを示しています。私たちの間に彼らは常に存在していますが、そのことを無関心につながる慣れにしてはならず、むしろ、他人任せではいけない人生を分かち合うこと、その呼びかけとすべきです。

 貧しい人は共同体にとって「部外者」ではなく、共に苦しみを担うべき兄弟姉妹であり、彼らの苦労と疎外感を和らげることで失われた彼らの尊厳は回復され、欠かすことのできない社会包摂が確保されるのです。しかし、慈善行為というものは支援者と受益者を前提としていますが、分かち合うことからは兄弟愛が生まれることは、ご存じのとおりです。施しは散発的なもの、他方、分かち合いは永続的なものです。前者には、施す側を気持ちよくさせ、受け取る側の自尊心を傷つける危険がありますが、後者は、連帯感を強め、正義を実現するために必要な前提です。つまり信者たちは、イエスにじかに会いたい、自らの手で触れたいと思ったときに、どこへ行けばいいかを知っているのです。貧しい人々はキリストの秘跡であり、彼らはイエスの姿を表し、彼を指し示しているからです。

 貧しい人と分かち合うことを、人生の事業とした聖人たちの模範がいくつもあります。なかでもわたしは、救ハンセン病の使徒、ダミアン・デ・ブーステル神父に思いを馳せます。

 ダミアン神父は、ハンセン病患者と生き、彼らと死を迎えようと、患者しか入れないゲットーとなっていたモロカイ島に渡るという召し出しに、寛大な心をもって応えました。病に冒されて追いやられ、どん底に突き落とされたその哀れな人々の暮らしを、生活という名にふさわしいものにしようと、額に汗し、何でもしました。危険について考えもせず自ら進んで医師となり看護師となり、当時「死の集落」と呼ばれた島に愛の光をもたらしたのです。

 ハンセン病はダミアン神父にも襲いかかりますが、これは彼が命を捧げた兄弟姉妹と、すべてを分かち合ったしるしでした。彼の証しは、新型コロナウイルスの世界的大感染に特徴づけられる今日に、実にかなったものです。人目につくことはなくとも、何らかの具体的な分かち合いをもって、もっとも貧しい人のために尽くす多くの人の心には、確かに神の恵みが働いているのです。

4.したがって、「悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)という主の招きに、私たちは確信をもって従う必要があります。この回心はまず、貧困のさまざまな形態を認識するために心を開くこと、そして告白する信仰と一致した生き方を通して神の国を明らかにすることから始まります。

 しばしば貧しい人は、特定の慈善事業を必要としている一つのカテゴリーとして、他とは分かたれた人々だと見なされています。この点で、イエスに従うことは、考え方を変更させる、つまり、「共有」と「参与」という挑戦を受け入れることなのです。

 「イエスの弟子になる」ということは「地上には宝を積まない」という選択をすることです。ここで言われる「宝」は、実際にはもろくはかない、安心の幻想を与えるだけのものです。それよりも、永遠なるもの、何にも誰にも壊されることのないものを見極めるために、真の喜びと幸いに至るのを妨げるあらゆる束縛から自らを解放する意欲が必要なのです(マタイ福音書6章19‐20節参照)。

 ここでもまた、イエスの教えは大勢に逆行しています。と言うのも、その教えは信仰の目によってのみ、見ることができ、絶対的確信をもって経験できることを約束しているからです。

 「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(マタイ福音書19章29節)。

 はかない富、この世の権力、虚栄心において貧しい者となることを選ばない限り、愛のためにその命を差し出すことは決してできないでしょう。善意にあふれてはいても、世界を変えるほどの力はない、半端な人生を生きることになるでしょう。だからこそ、キリストの恵みに全面的に自らを開くことが重要です。その恵みが、私たちをキリストの無限の愛の証し人にしてくれるのであり、世界における私たちの存在に信頼を取り戻せるのです。

5.キリストの福音は、貧しい人について特別に関心をもつよう私たちを突き動かし、あまたの、あまりにさまざまな倫理的・社会的逸脱ーここからは必ず新たな形態の貧困が生まれますーについて理解するよう求めています。貧しい人がその状況にあるのは彼ら自身の責任だという考えだけでなく、彼らは、少数の特権階級の利益を第一とする経済システムにとって、耐え難いお荷物になる、との考えも広まりつつあるようです。

 倫理原則を無視したり取捨選択したりする市場は、今すでに不安定な境遇で暮らす人々を打ちのめすほどの、悲惨な条件を生み出します。そのように私たちは、人間性や社会的責任を欠き、良心のとがめを失った経済・金融関係者が生み出す貧困と排除の罠が、常に新たに創出されている場に立ち会っているのです。

 そのうえ昨年は、新型コロナの世界的大感染という別の惨劇が加わり、貧しい人がさらに増えました。それは無数の人の戸を叩き続け、苦痛や死をもたらさずとも、貧困の前触れではあるのです。貧困層は激増しており、残念ながらそれは今後数か月は続くでしょう。一部の国はコロナ感染の極めて深刻な影響を受け、もっとも弱い立場の人は生活必需品も得られなくなっています。炊き出しに並ぶ長蛇の列は、こうした事態の悪化を如実に表しています。

 党利党略を事とせず、世界レベルでウイルスと闘う最適な対策を見い出すことに目を向けなければなりません。とくに、失業の憂き目を見た人々に、具体的に対応することが急務です。失業によって非常に多くの、世帯を支える人たち、女性、若者が大きな打撃を受けています。社会的連帯と、ありがたいことに多くの人が示す寛大さは、長期的展望をもった、人間らしい地位向上を目指す数々の事業とともに、この非常事態にあって重要な貢献をしており、今後もそれは続くでしょう。

6.とにかく、少しも答えの見えない問題が残されたままなのです。ただ無視される、さもなくば嫌な思いをする対応ばかり受ける大勢の貧しい人々に、どうしたら具体的な解決策を提供できるのかー。社会的格差を乗り越え、あまりにしばしば踏みにじられる人間の尊厳を回復するには、どのような正義の道を歩むべきなのかー。

 個人主義的な生活様式は貧困を生み出すことに加担し、しかも貧困の状況の責任をすべて貧しい人に負わせてばかりです。しかし、貧困は運命の産物ではありません。エゴイズムの結果です。したがって決定的なのは、すべての人の能力が生かされる開発プロセスを生み出すことです。能力を補い合うことと、多様な役割によって、参画という共通資源を生み出すためです。

 「金持ち」がもつ貧しさの多くは、「貧しい人」の豊かさによって癒されるものです。出会い、知り合いさえすればいいのです。貧しいからといって、相互のかかわりにおいて、「自分にある何か」を差し出すことができない人はいません。貧しい人が受けるだけの人であるはずはありません。応えるすべを彼らは熟知しているのですから、与えることのできる立場に置かれるべきなのです。

 私たちは、多くの分かち合いの例を目にしています。貧しい人は私たちに、連帯と分かち合いをたびたび教えてくれています。確かに彼らは、何かに事欠く人たちで、手にできないものは多く、生活必需品さえ欠いていることがしばしばですが、すべてに恵まれていないわけではありません。何にも誰にも奪うことのできない、神の子としての尊厳をもっているからです。

7.こうした理由から、貧困に対して、これまでとは異なるアプローチが必要とされています。それは、政府や国際機関が、今後数十年にわたって世界全体に決定的な影響を及ぼす新しい形態の貧困に対抗しうる、長期的展望を備えた社会モデルをもって取り組むべき課題です。貧しい人が、その状況は自ら招いたものであるかのように疎外されてしまうと、民主主義の理念そのものが危うくなり、あらゆる社会政策が破綻してしまいます。

 私たちは、貧しい人を前にして彼らに采配を振るう資格がほとんどないということを、心から謙虚に認めなければなりません。私たちは彼らについて、理屈で論じています。統計にとどまったり、ドキュメンタリーにして感動させようと考えたりしています。

 ですが貧困は、創造的な計画を生み出すはずです。各人固有の能力をもって、自己実現のための実際の自由度を高めるようにする計画です。お金があれば自由が認められ、その度合いが増すという考え方は、遠ざけておくべき幻想です。貧しい人に実際に仕えることで、行動へと駆り立てられ、人類に属するこの一団を元気づけ向上させるふさわしい方法を見つけられるようになります。ほとんど常に名で呼ばれず、声も奪われているものの、彼らには、助けを求める救い主のみ顔が刻まれているのです。

8.「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」(マルコ福音書14章7節)。これは、「善を行う機会を見落とさないように」という呼びかけです。背景に、聖書にある古くからの命令が透けて見えます。

 「あなたの神、主があなたに与えられた地のどこかの町で、あなたの兄弟の一人が貧しいなら、あなたは、その貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまぬいていてはならない。彼に向かって手を大きく広げ、必要なものを十分に貸し与えなさい… 彼に惜しみなく与えなさい。与えるときに惜しんではならない。そのことで、あなたの神、主は、あなたのすべての働きとあなたのすべての手の業を祝福してくださる。この地から貧しい者がいなくなることはないので、私はあなたに命じる」(申命記15章7‐8節、10‐11節)。

 同様に使徒パウロも、エルサレムの最初の共同体の貧しい人々を助けるために、自身の共同体のキリスト者に勧めています。「各自、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(コリントの信徒への手紙2・9章7節)。

 いくばくかの施しでうしろめたさを和らげるのではなく、「貧しい人々に対して無関心や不公平な態度を取る文化」に対抗することが大切です。

 これについては、聖ヨハネ・クリゾストモの言葉も思い起こすとよいでしょう。

 「寛大な者は、その(貧しい人の)過去の行動について問いただしてはならず、貧困の境遇を改善し、必要を満たすことだけに尽くすべきです。貧しい人には、たった一つの抗弁しかありません。その貧しさ、彼らが置かれている窮状だけです。その人にそれ以上、求めてはなりません。それどころか、その人が世界一の悪党であろうが、最低限必要な食べ物にも事欠くのであれば、飢えから救い出さなければなりません… あわれみ深い人は、困窮者の港です。港は、難破した人をすべて受け入れ、危険から解放します。悪人であろうと、善人であろうと、どんな人であろうと、危険に遭う人を、入り江で包み保護します。ですからあなたがたも、陸地で、貧しさに難破した人を見たならば、裁かず、その人がしてきたことを問いたださず、その不幸から救い出してください」(『貧しいラザロについて』II、5)。

9.生活の質(QOL)の変化に合わせて常に変わる貧しい人が必要とするものを知ることに、もっと敏感になる必要があります。確かに今日、高い経済的成長を遂げた地域では、昔に比べて、貧困問題に取り組む意欲が低下しています。相対的には豊かだと思われる状態に慣れてしまい、犠牲を払ったり窮乏を受け入れたりすることがますます難しくなっています。

 人は、簡単に手に入れた実を奪われないよう、あらゆる備えをします。ですから、恨んだり、あえぐほど怒ったり、恐怖や不安、場合によっては暴力にすらつながるようなクレームを出したりするのです。こうしたことを、未来を築くうえでの根拠にしてはなりません。ただ、これもまた、目を背けてはならない貧困の一種です。

 私たちは、現代世界において宣教者となるために、新たな様式を描く時のしるしを読み取るべく、開かれていなければなりません。貧しい人の必要に応える緊急支援によって、先を見据えることが妨げられてはなりません。遠くを見る視点は、今日の人類が経験している新しい貧困に応える、キリスト教の愛と慈善の新たなしるしの実践に必要なのです。

 貧しい人のための世界祈願日は、今年で5回目を迎えますが、地方教会にしっかりと根づき、どこにあっても最初の要求として、貧しい人と交わる、という福音化の運動へと開かれていくよう願っています。彼らから戸をたたいてもらうのを待っているわけにはいきません。私たちから、彼らの家へ、病院、介護施設、路上へと、目立たぬようにしている街の隅へ、避難所、受け入れ施設などへと出向き、彼らの所を訪れることが急ぎ求められています。彼らが何を感じ、何を味わい、何を願いとして心に抱くのか、を理解することが重要です。

 プリモ・マッツオーリ司祭(1890-1959年)が切実に訴えた言葉を、私たちも自分のものとしましょう。「お願いですから、貧しい人はどこにいるのか、それは誰なのか、何人いるのかと、私に尋ねないでください。そうした質問が、気休めや、良心と心に突きつけられることをごまかす口実になってしまう、と心配するからです… 私は貧しい人を数えたことはありません。貧しい人は勘定されるべき存在ではないからです。貧しい人は抱きしめられるべきであり、数えてよいものではないのです」(彼が刊行していた雑誌Adesso 7号[1949年4月15日])。

 貧しい人は、私たちの間にいます。「私たちも貧しい」ー私たちがそう本気でいえたなら、それはどんなに福音的なことでしょう。そうすることによってのみ、私たちは、彼らを真に理解し、彼らを私たちの人生の一部とし、救いの道具とすることができるからです。

ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年6月13日 パドバの聖アントニオの記念日
フランシスコ

(カトリック中央協議会訳をもとに、「カトリック・あい」が編集しました=漢字の表記は読みやすくするために当用漢字表記に統一し、聖書の引用は、正しい現代日本語に近く、聖書の原典にも近い「聖書協会・共同訳」に改めてあります。また原文よりも改行を増やし、メッセージの意味を捉えやすくしてあります)

2021年11月8日

☩「”金ぴかの飾り物”はいらない。誠実と謙遜な愛を」教皇の第32主日正午の祈り

(2021.11.7  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは7日、年間第32主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の「律法学者を非難する」「やもめの献金」(12章38-44節)の箇所を取り上げ、「彼ら(この箇所で非難されている律法学者)のように”二重”の信仰生活を送ることのないように気を付ける一方で、この場面に登場する、神への謙遜な愛の模範となる未亡人の誠実さに注目する必要があります」と語られた。

イエスはエルサレムの神殿の境内で人々に教えられている時、こう言われた。「律法学者に気を付けなさい。彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マルコ福音書12章38‐40節)。そして、「イエスは献金箱の向かいに座り、群衆後それに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。そこえ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわり1クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。

*「律法学者」と「やもめ」の対照

 教皇は、この「律法学者」と「やもめ」の対照に注意を向けられ、「イエスが教えておられたエルサレムの神殿の境内には、『やもめの家を食い物にし、会堂で長い祈りを唱える時に上席に迎えられ、敬意を受ける律法学者たち』がいます。そこに、『権力に搾取される貧しい未亡人』がやって来て、献金箱に銅貨二枚を入れました。彼女が持っている物、生活費を全部です」とされ、「この対比は、今の私たちに、警告を与えるもの」と指摘。

 そして、「私たちは、ここに登場する律法学者たちのように偽善の信仰生活を送らないように気を付けねばなりません。同時に、神への誠実さ、謙遜さ、愛において、私たちが見倣うべき模範である未亡人に注目する必要があります」と説かれた。

*律法学者の偽善は私たちへの警告

 この福音の教訓を日々の生活の中で実践するために、教皇は「日常生活で『偽善』に気をつけ、外見に気を取られ、自己に重きを置くことに執着しないように注意する必要があります」とされ、「『偽善』は、『危険な心の病』になり得ます。さらに悪いことに、私たち自身の利益に役立つように信仰を操作しかねません」と、信徒たちに警告された。

 さらに、当時の律法学者たちの多くが、自身の利益のために”神の名”において、ユダヤ教を使い、権威を乱用し、貧しい人々を搾取していたことを思い起こされ、 「このような行為は、いつも、すべての人に対する警告です。教会においても、一般社会においても、権威は乱用されてはならず、金もうけのために貧しい人々から搾取し、他の人々を抑圧してはなりません」と強調。

 そのうえで、「自分がどのように神に、隣人に、とくに助けを必要としている人々に本当に奉仕しているのかを自問するよりも、自分自身―自分の外見や言動ーにどれほど執着しているのかを自問する必要が、私たちにはあります」と注意された。

*貧しい未亡人の誠実さと謙虚な愛に倣おう

 また教皇は、このマルコ福音書の箇所で、イエスは、私たちに貧しい未亡人に注目するように勧めておられる、とし、「彼女が神殿の献金箱に持っている物すべてを入れましたが、自分は神においてすべてのものを持っている、と確信している。彼女は、捧げる人の喜びを倍増させる『神の豊かさ』を信頼している。私たち誰にとっても模範です。心から惜しみなく自由に捧げた行為ゆえに、イエスは信仰の教師として彼女を指し示されたのです」。

 そして、「彼女が、わずかな銅貨を献金箱に入れた時、金持ちが沢山の献金をした時よりも、はるかに美しい音を立てました。なぜなら、彼女の心を尽くして神に捧げる誠実な生き様を表す音だったからです」と語られた。

 説教の最後に教皇は、「今日の福音書に登場した貧しい未亡人から、”金ぴかの飾り物”を付けない、内面の誠実さと、神と兄弟姉妹への謙虚な愛によって特徴づけられる信仰をはぐくむように」と信徒たちを促された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年11月7日

◎教皇連続講話・聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」⑬「イエスを信じることはイエスに従うこと」

(2021.11.3 Vatican Neews  Christopher Wells)

 教皇フランシスコは3日、水曜恒例の一般謁見で、聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」を題材にした講話を続けられ、パウロの信徒たちへの言葉「霊によって歩みなさい」(5章16、25節参照)を取り上げられた。

*聖霊は一生続く「キリストの道」の案内役

 まず、「イエスを信じることは、イエスに従うことを意味します。そして、それは、自分の利益を求めるのと反対のこと、利己主義を避けることを意味します」と説かれた教皇は、ガラテヤの信徒への手紙で「霊によって歩みなさい」「霊によって進もうではありませんか」とパウロが語っている聖霊は、「私たちが洗礼を受けた時に始まり、一生続く、とてつもなく素晴らしいが、困難でもある『キリストの道」を歩む私たちの旅の案内役なのです」と語られた。

 そして、「イエスの道で、キリスト教徒は『人生の前向きなビジョン』に導かれます。そのビジョンは、「人生で出会う悪や困難を否定するのではなく、神を信じることは、いつも私たちの反抗よりも強く、私たちの罪よりも大きい、ということを意味するのです」と説明。

*パウロが「霊によって歩むこと」を自分自身にも勧めたのは

 「聖パウロはガラテヤの信徒たちに『霊によって歩む』ように勧めるとき、自分自身に対しても進めているのです。なぜなら、彼は自分の中にキリストがおられることを知っていたけれども、まだ目標に到達していないこともはっきりと自覚していたからです」と続けられ、「パウロは、自分自身を彼の教会共同体の上にではなく、皆の旅のただ中に置きました。それは、聖霊に導かれ、神に従うことがどれほど必要なことなのか、しっかりと示すためだったのです」と語られた。

 また教皇は、「聖霊に従って歩むことは、個人としてだけでなく、共同体としての私たちにも求められる。厳格な戒律に頼ってイエスに従えという『刺激的だが、要求の厳しい』呼びかけに応えるのは容易なことだが、そうすれば、『自由の道』から外れてしまいます。聖霊に従って歩む旅には、『恵みと慈しみ』のスペースが必要です」と指摘。

*道から外れた人には優しさと謙虚さをもって正せ

 「他の人が間違いを犯したり、イエスの道から外れたりしたとき、彼を裁きたくなることがよくあります。そのような場合には、我が身を振り返りなさい。それでも、他人を正す必要があると感じたら、優しさと謙虚さをもって、そうすべきです」と諭され、 「聖霊は、私たちに優しさの賜物を与えるだけでなく、私たちに連帯し、他の人の重荷を負うように勧めます。私たち野兄弟姉妹を正す最高の手段は『愛』ー兄弟姉妹の善を願うことです」と強調された。

 最後に教皇は、「聖霊に導かれて、喜びと忍耐をもってこの道を歩むように」と、信徒たちを励まされた。

 

2021年11月3日

☩「気候変動の危機と”コロナ”後に対処する新たな世界構築を共に」COP26へメッセージ

(2021.11.3 カトリック・あい)

 教皇フランシスコが、10月31日から始まった国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)のアロック・シャルマ議長あてにメッセージを送られた。

*人的、資金的、技術的資源を注ぎ込む政治的意思が必要

 2日にバチカン広報局が発表したメッセージで、教皇はまず、「私たち皆が認識しているのは、気候変動のもたらす弊害を緩和し、最も強い影響を受けている世界の貧困層、脆弱国を助けるために、誠実さと責任、勇気をもって、さらに多くの人的、資金的、技術的な資源を注ぎこむ政治的意思を、国際社会全体に対して示す重大な役割を、この会議が担っている、ということです」と、会議が気候変動対策で大きな成果を上げることへの期待を表明された。

*コロナ感染前とは異なる新たな世界を共に構築

 また、この会議が、ほぼ2年にわたって私たち人間家族に大きな打撃を与えている新型コロナウイルスの大感染の最中に開かれていることに注目され、「コロナ大感染は、測り知れない悲劇を私たちにもたらしていますが、克服のために、私たち全員が参加せねばなりません。そしてそれには、世界の人々の強い連帯と友愛的な協力が必要です」とされ、「コロナ大感染後の私たちの世界は、感染が始まる前の世界とは必然的に異なったものになる。過去の過ちを認識したうえで、私たちが共に構築していかねばならない」と訴えられた。

 そして、「気候変動の地球規模の問題に取り組みでも、同様のことが言えます。私たちが協調し、責任ある方法で行動する場合にのみ、パリ協定によって設定された諸目標を達成することができます。これらの目標は野心的なものですが、もはや先延ばしすることはできません。今日、必要な決定を下すのは、皆さん次第です」と、会議に参加者した各国代表の努力を促し、特に先進国には、「脱炭素化、循環型経済など、気候変動対策への取り組みで、脆弱国に対する人的、資金的、技術的支援に主導的役割」を果たすよう求めた。

*持続可能な経済に必要な新しいライフスタイル、”いたわりの文化”

 バチカンとしての様々な取り組みの中で、特に、未来を背負う若者たちの間にそうした取り組みに沿った「新しいライフスタイル」を促進し、友愛と人間同士のつながりを中心に置いた持続可能な経済発展の文化を育てるような教育の必要性を認識するようになったこと、昨年10月にはバチカン主導でCOP26 を視野に入れた宗教指導者や科学者の会議を開き、さまざまな意見を交換し、現在の世界で支配的になっている「使い捨て文化」を、私たちの”共通の家”とその”家族”のための「いたわりの文化」に移行させる、という決意表明に至ったこと、を説明。

 そのうえで、「新型コロナの大感染によって私たち人間家族に負わされた傷と気候変動による弊害は、世界的な紛争が引き起こしているものに匹敵する」と指摘され、第二次世界大戦による荒廃からの復興に世界が力を合わせたように、「今、国際社会全体で、協調し、連帯し、先見の明のある行動目標を最優先事項として設定する必要があります」と強調された。

*”環境債務”や”環境難民”の増大抑える先進国の役割

 また、環境への被害と商業的利益の不均衡、および自国と他国の天然資源の均衡を欠いた使用がもたらす”環境債務”が増大しており、それが対外債務の増大につながって、しばしば人々の生活の向上、発展を妨げている、とも指摘され、新型コロナ感染終息後の世界では、気候変動がもたらす緊急事態への対応策として、「より持続可能で公正な世界経済の経済再編」に本格的に着手し、 「先進国は、再生不可能なエネルギーの消費を大幅に制限し、貧しい国々の持続可能な経済成長政策を支援することによって”環境債務”の返済を助けねばなりません」とも語られた。

 このような緊急の必要性が高まる中で、世界の現状を見ると、「残念なことに、気候変動に対処するために設定された国際的な目標の達成には、ほど遠い状態」にあり、「あまりにも多くの兄弟姉妹がこの気候変動の危機に苦しんでいる。数え切れないほどの人々、特に最も脆弱な人々の生活は、ますます頻繁に、壊滅的な影響を受け、子どもの生存の権利が脅かされ、近い将来、”環境難民”の数が、戦争や紛争による難民の数を上回りかねない状況にある」とも指摘。

*若者たちのこの”惑星”での未来は、私たちの選択にかかっている

 「私たちは、このような現状を正直に認めねばなりません。今の状態を続けるわけにはいかないのです。今こそ、ただちに、勇気を持って、責任を持って行動する時です。私たちに行動を強く促している若者たちが、私たちから継承するこの惑星は、私たちが行おうとしている選択にかかっている。彼らがこの惑星の将来に希望と信頼を置くことができるかどうかの瀬戸際になのです」と会議参加者に改めて努力を訴え、会議が大きな成果を上げることができるよう、祈られた。

(バチカン広報局発表文の翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年11月3日

☩「聖人になる」ということは「喜び」と「預言」の道を歩むことー諸聖人の日に

(2021.11.1 Vatican News staff writer)

  教皇フランシスコは1日、諸聖人の日の正午の祈りの説教で、イエスの山上の説教(マタイ福音書5章1~12a)が神の王国と幸福に至る道をどのように示しているかを考察され、「聖人になるということは、とくに私たちの人生において明らかにされる喜びと預言を通して、この道を歩むことです」と語られ、この道に、「喜び」と「預言」の二つの側面があることを強調された。

*「喜び」なくして神聖さはない

 まず、「喜び」。イエスは山上の説教を、「幸いである」を基調として語られる。教皇は、「これは、『神の愛する息子と娘であることの喜ばしい発見』を意味します。それゆえに、私たちは祝福されているのです」とされ、「キリスト教徒の喜びは、つかの間の幸せや楽観ではなく、神の愛に満ちた眼差しのもとで人生のあらゆる状況に直面し、その眼差しから勇気と力を得るという確信に基ずくものです」と説かれた。

 そして、聖人たちは、この事実の偉大な証人であり、多くの苦難を乗り越えながらも、神に愛され、支えられる喜びを常に証ししおり、「喜びがなければ、信仰は”厳格で抑圧的”な鍛錬になってしまう恐れがある。自分の人生で喜びを発散しているだろうか、それとも、”お葬式の顔”をしているだろうか、自問すべきです。喜びなくして神聖さはありません」と言明された。

 

*「預言」は世俗的な幸せの秘訣とは相反する

 聖人の道のもう一つの側面、「預言」。「山上の説教は、貧しい人々、迫害されている人々、そして正義を求める人々に向けられている。富や権力、名声を求めることに主眼を置いた世俗的な幸せを得る”秘訣”と相反するメッセージです」と教皇は語られ、「イエスは、真に満たされた人生は、主に従い、主の御言葉を実践することによって得られるのだ、と言っておられるのです。そしてこれは、私たちが神なくしては無であり、真の喜びを見つけるために自分の人生の中に主の場を開けておかねばならないことを知るように、求めているのです」と説かれた。

*山上の説教は、新しい生き方の預言だ

 まとめとして、教皇は、「山上の説教は、新しい人、新しい生き方の預言ーつまり、自分を小さくし、他の人に勝とうとせず神に委ねること、自分を相手に押し付けようとせず柔和であること、自分のことだけを考えず憐れみを実践すること、不当や不平等を助長するのではなく寡黙であっても正義と平和に専心することーです」とされた。

 そして、こう語られたー「神聖さは、神の助けを借りて、この世に大変革をもたらす預言を受け入れ、実践します。自分自身に問いかけましょうー私たちは、イエスの預言を証ししているだろうか?洗礼によって受けた預言的な霊を表明しているだろうか?それとも、『自分にとって良ければ、何でもいい』と思い、快適な暮らしと怠惰に身を委ねているだろうか?イエスの預言の喜ばしい知らせを、世に伝えているか、それとも、間違ったことにいつも不平を漏らしているか?」。

 最後に、聖母が、祝福された魂ー「権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げ」(ルカ福音書1章52節)られる主を喜び称える魂の幾分でも私たちにお分けくださるように、と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年11月2日

☩「神と隣人への愛が、私たちの心の中に響き渡るように」第31主日正午の祈りで

(2021.10.31  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは31日、年間第31主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所(12章28b~34節)を取り上げ、律法学者にイエスが答えられた言葉(29~30節参照)を引用して、「私たちの心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛し、隣人を自分自身として愛しなさい(旧約聖書レビ記19章18節・英語公式訳= love one’s neighbour as oneself )」と会衆に呼びかけられた。

 この場面で、律法学者の「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」との問いかけに、イエスは「第一の戒めは神を愛することであり、第二の戒めは隣人を自分自身として愛すること」(30節参照)と答えられ、律法学者は、この言葉を確認するように繰り返している(33節)。

 教皇は、「この繰り返しは、教えの重要性を強調し、神の言葉は『特別な方法で受け取られなければならない』ということを理解するのに役立ちます」とされ、「私たちは、この言葉を繰り返し、自分自身のものにし、守らねばなりません」と語られた。

*神の言葉は深く思いめぐらす必要

 さらに教皇は「修道生活の伝統では、神の言葉は、“ruminate(深く思いめぐらす)”必要がある、とされています。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くすように」とイエスが言われるように、とても〝栄養価”が高く、人生のあらゆる側面で育て、よく味わう必要があるからです」と説かれt。そして、イエスの言葉を理解した律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言われたように、『主が心の中に住んでおられる』ことを深く思い、私たちの中で共鳴し、こだますように、せねばなりません」と強調された。

*福音を何度も読み直そう

 また、「主が求めておられるのは、「熟達した聖書解説者」よりも、ご自分の言葉を進んで受け入れ、内面の回心ができるようにする「素直な心を持った者」だと知るように言われ、「いつも福音書を手に持ち、何度も読み直し、夢中になるように」と勧められ、そうすることで、神の言葉は私たちの心の中に深く入り、「私たちは、神において実を結ぶのです」と語られた。

 今日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所は、「私たちが神と隣人を愛する必要のあることを読み、理解するだけでなく、この重要な戒めが、聖霊が私たちの中に御言葉の種を発芽させるように、私たちの心の中に響き渡り、良心の声となるようにせねばならない、と私たちに教えています」とされ、そうすることで「私たち1人ひとりは、『神からいただいた愛の言葉』の類ない表現を伝えることができるのです」と言明された。

*イエスの言葉を繰り返そう

 説教の最後に、教皇は会衆に対し、イエスの言葉ー「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛し、隣人を自分自身として愛しなさい」を繰り返し、私たちの心の中で活性化させるように促された。そして、聖母マリアに、「私たちの心に、福音の生きた言葉を進んで迎え入れるように導いてください」と祈られた。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年10月31日

☩教皇、COP26を前にメッセ―ジー「危機は私たちに共に築く機会を提供する」

2021年10月29日

◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」⑬「愛だけが人の心を惹きつけ、変える」

(2021.10.27 Vatican News By Christopher Wells)

  教皇フランシスコは、27日の水曜恒例の一般謁見で、聖パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」を題材にした講話を続けられ、「霊が結ぶ実」(5章2節)を中心に語られた。

 まず、教皇は、「パウロは、ガラテヤの信徒たち、そして私たちに、救いと信仰の中心にあるのは、主の死と復活だ、ということを教えてくれている」と語られ、それにもかかわらず、現代では、多くの人々が「『生きている真の神』ではなく『儀式と戒律』を重視し、神の愛を自身の全存在で受け入れるかわりに、宗教的保証を求めています」と警告。

 

*重要なことに回帰する

 そのうえで、聖パウロはガラテヤ人に「十字架につけられたキリストを通して私たちに命を与えてくださる神に従うように」(3章1節参照)とされ、「私たちが霊的生活の筋道が分からなくなっている」と感じたとき、聖体拝領を含め、「十字架につけられたキリストの前に身を置く」ことを勧められた。

 そして、「このようにすることは、さらなる一歩につながります。私たちが十字架につけられたキリストに出会う時、彼は私たちの心を変えます。 そして、聖霊を通して、私たちのキリスト教徒としての生活が新たにされ、私たちは『霊的な戦い』を続けることができるのです」と説かれた。

*「肉の働き」と「霊の結ぶ実」

 さらに、教皇は「ここで聖パウロは、『肉の働き』『霊の結ぶ実」の間の二分法を示しており、肉の働きは、『神の霊に反する行動』としているが、肉それ自体が悪である、と言おうとしているのではない。このような表現をもって、聖霊が私たちに命を与えてくれようとしているにもかかわらず、私たちは聖霊に対して心の扉を閉ざし、この世の者たちは老いて死んでいくことを、思い起こさせてくれます」と述べた。

 また教皇は、私たちキリスト教徒は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制忍耐、優しさ、善良さ、忠実さ、優しさ、自制心」という霊の実を結ぶことができるように、召されている、とされ、「聖パウロの手紙を読み、私たちがこのような霊の実を実を結んでいるかどうか、自分自身の行動を振り返り、確かめるように」と勧められた。

 

*私たちの共同体にとっての課題

 「聖パウロの教えは、私たちの共同体にも多くの課題をもたらします」と語られた教皇は、「イエス・キリストへの信仰の素晴らしさは、数多くの掟や多くの積み重ねで作られた道徳的ビジョンに基づいて捉えることはできない。そのようなものは、平安で喜びに満ちた証しの源である祈りによって育てられた愛の根源的な豊かさを、私たちに忘れさせてしまいます」と忠告。さらに、「聖霊の命は…心の回心をもたらす聖霊の恵みに近ずくことを妨げようとす”官僚機構”によって窒息させられることはありせん」と言明された。

*「十字架につけられたキリスト」を宣言する

 そして教皇は最後にこのように言われたー「私たちは、聖霊の愛の息吹で力づけられ、十字架上で死に復活されたキリストを宣言する、という大きな責任を持っています。人間の心を惹きつけ、変える力があるのは、この愛だけだからです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2021年10月27日

☩「勇敢に、心を尽くして神に向かえ」教皇、年間30主日の正午の祈り

(2021.10.24  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは24日、年間第30主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書(10章46-52節)を取り上げ、イエスに「ダビデの子のイエスよ、私を憐れんでください」と叫んだ盲人のバルティマイのように、主に祈るように励まされ、「私たちが、堅固で、決然とし、勇気ある信仰をもって、その言葉をたびたび繰り返すことができるように」と願われた。

 教皇は、イエスがバルティマイの叫びに応えて彼の目が見えるようにされた場面を思い起こされ、「イエスは、彼の叫びを聴かれて、立ち止まられました。神は貧しい人たちの叫びをいつもお聴きになるからです。周りの人々がイエスに向かって叫ぶのを止めるように咎めたにもかかわらず、勇気のある信仰と希望をもって、神に呼びかける彼に、イエスは、視力を回復する奇跡をなさいました。『あなたの信仰が、あなたを救った』と」と語られた。

*神の慈悲を訴える

 そして、バルティマイが、イエスをメシアとして認識し、自信を持って、心から、イエスを名で呼び、慈悲を求めたことに注意を向けられ、 「彼は、すべてを行うことができる方から、すべてを求めますー神の思いやり、憐れみ、そして優しさくださるように、と訴えます」とし、「彼は、わずかな本質的な言葉を使って、視力回復の奇跡を求めるだけでなく、身体的な傷、屈辱、壊れた夢、過ちによって引き起こされた人生の苦しみに打ちひしがれた心を癒やしてくださるように、『神の愛』に信頼してその身をゆだねたのです」と説かれた。

 また、教皇はご自身が母国のアルゼンチンで、ある父親が9歳の娘さんが重い病気にかかって入院した時のことを思い起こされた。病院の医師から「お嬢さんは、明日の朝まで生きていられないでしょう」と告げられた父親は、救いを求めて、バスで70 km離れた聖母マリア聖堂まで行ったが、深夜で、扉が閉まっており、中に入れなかった。彼は聖堂の外に立ち、夜が明けるまで神に、娘を救ってくださるように祈り続けた。朝になって、病院に戻ると、娘は奇跡的に回復していた。

 「なぜ回復したのか、説明できない、と医師は言いました。私たちも、すべてを与えることがおできになる神にすべてのことを願うために、この父親のような勇気と信仰を持つべきです」と訴えられた。

 

*「ダビデの子イエス、私を憐れんでください!」

 さらに教皇は、「ダビデの子イエスさま、私を憐れんでください!…今日、この祈りを私たち自身のものにしましょう。繰り返しましょう」と語られる一方で、「私たちも(バルティマイやこの父親のように)、勇気をもって、執拗に祈り、近くにおられる主を感じ、呼びかけることができるでしょうか」「私たちは主の前で、心を正直に開くでしょうか、それとも気後れして、あるいは十分に信頼せず、距離を置くでしょうか」と会衆に問いかけられた。

 そして、「信仰が生きたものであるなら、祈りは心からのものとなります」とされ、「私たちは、すべてのことを私たちのためになさることのできるイエスからすべてのことをいただけるように願う必要があります。イエスは、私たちの心に恵みと喜びを注ぐのを待っていることができないのです」と強調。

 最後に、「バルティマイの強固で、執拗で、勇気のある信仰が、私たちも同じことができるように気づかせてくれるように。そして、神がすべての祈りに注意深く耳を傾けてくださることを確信し、心を尽くして神に立ち帰るよう、聖母マリアが私たちを導いてくださいますように」と祈られ、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年10月24日