☩「聖人になる」ということは「喜び」と「預言」の道を歩むことー諸聖人の日に

(2021.11.1 Vatican News staff writer)

  教皇フランシスコは1日、諸聖人の日の正午の祈りの説教で、イエスの山上の説教(マタイ福音書5章1~12a)が神の王国と幸福に至る道をどのように示しているかを考察され、「聖人になるということは、とくに私たちの人生において明らかにされる喜びと預言を通して、この道を歩むことです」と語られ、この道に、「喜び」と「預言」の二つの側面があることを強調された。

*「喜び」なくして神聖さはない

 まず、「喜び」。イエスは山上の説教を、「幸いである」を基調として語られる。教皇は、「これは、『神の愛する息子と娘であることの喜ばしい発見』を意味します。それゆえに、私たちは祝福されているのです」とされ、「キリスト教徒の喜びは、つかの間の幸せや楽観ではなく、神の愛に満ちた眼差しのもとで人生のあらゆる状況に直面し、その眼差しから勇気と力を得るという確信に基ずくものです」と説かれた。

 そして、聖人たちは、この事実の偉大な証人であり、多くの苦難を乗り越えながらも、神に愛され、支えられる喜びを常に証ししおり、「喜びがなければ、信仰は”厳格で抑圧的”な鍛錬になってしまう恐れがある。自分の人生で喜びを発散しているだろうか、それとも、”お葬式の顔”をしているだろうか、自問すべきです。喜びなくして神聖さはありません」と言明された。

 

*「預言」は世俗的な幸せの秘訣とは相反する

 聖人の道のもう一つの側面、「預言」。「山上の説教は、貧しい人々、迫害されている人々、そして正義を求める人々に向けられている。富や権力、名声を求めることに主眼を置いた世俗的な幸せを得る”秘訣”と相反するメッセージです」と教皇は語られ、「イエスは、真に満たされた人生は、主に従い、主の御言葉を実践することによって得られるのだ、と言っておられるのです。そしてこれは、私たちが神なくしては無であり、真の喜びを見つけるために自分の人生の中に主の場を開けておかねばならないことを知るように、求めているのです」と説かれた。

*山上の説教は、新しい生き方の預言だ

 まとめとして、教皇は、「山上の説教は、新しい人、新しい生き方の預言ーつまり、自分を小さくし、他の人に勝とうとせず神に委ねること、自分を相手に押し付けようとせず柔和であること、自分のことだけを考えず憐れみを実践すること、不当や不平等を助長するのではなく寡黙であっても正義と平和に専心することーです」とされた。

 そして、こう語られたー「神聖さは、神の助けを借りて、この世に大変革をもたらす預言を受け入れ、実践します。自分自身に問いかけましょうー私たちは、イエスの預言を証ししているだろうか?洗礼によって受けた預言的な霊を表明しているだろうか?それとも、『自分にとって良ければ、何でもいい』と思い、快適な暮らしと怠惰に身を委ねているだろうか?イエスの預言の喜ばしい知らせを、世に伝えているか、それとも、間違ったことにいつも不平を漏らしているか?」。

 最後に、聖母が、祝福された魂ー「権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げ」(ルカ福音書1章52節)られる主を喜び称える魂の幾分でも私たちにお分けくださるように、と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2021年11月2日