◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑧「ヨセフの父性は神の優しい愛を反映している」

Pope Francis arrives at the General AudiencePope Francis arrives at the General Audience  (Vatican Media)

(2022.1.19  Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは19日、水曜恒例の一般謁見で「聖ヨセフについて」の講話をお続けになり、神の優しさを反映した「愛情深い父親」としてのヨセフの役割は、「私たちのすべての弱さを気にかけられ、受け容れられ、主の愛によって変えられたことを、私たちに感じさせることにある」と語られた。

 講話の中で教皇は、まず、聖ヨセフが父親としての役割をどのように果たしたのかを、福音書は詳しくは述べていない、とされたうえで、「ヨセフがイエスに与えた教育と愛情深いいたわりの形で実践した”正義の人”であることは確信できます」と語られた。

*父なる神

 そして、イエスがいつも、「父」という言葉を使って神と神の愛について語られたことを、福音書がどのように証言しているか思い起こされ、「例えば、放蕩息子のたとえ話は、罪と赦しの経験を示すにとどまらず、”慈悲深い父”が罰ではなく、愛情深い抱擁を通して息子を赦すさまをを語っています」と指摘。

 「優しさは、この世の論法よりもすぐれています。それは正義を行うための予期されないやり方です。神は、私たちの罪、過ち、堕落を恐れておられない。それよりも、私たちが心を閉ざし、ご自分の愛を信じないことを恐れておられるのです」と強調された。

*神の愛の優しさ

 さらに教皇は、一昨年12月8日から昨年12月8日までを「聖ヨセフの特別年」と定められたご自身の使徒的勧告「Patris corde,父の心をもって)」を引用される形で、「神の愛の経験の中には大きな優しさがあります」と述べ、「この現実をイエスに伝えた最初の人がヨセフ自身だった、と考えるのは素晴らしい。この優しさについて私たち自身の経験を振り返り、私たちがその証人になることで、神が私たちにヨセフの父性にご自身を映し出し、その優しい愛によって私たち自身が変えられるように」と勧められた。

 そして、「優しさは、感情的な、あるいは感傷的な問題ではありません。貧しさと悲惨さの中にある私たちが、神にしっかりと愛され、受け容れられ、歓迎され、その愛によって変えられた、と感じる経験です」と語られた。

 

*請け出された弱点

 また教皇は、聖パウロが「コリントの信徒への手紙」で自身の経験として、主が「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と彼に語ったことを振り返り、「私たちの弱さを通してお見せになった神の優しさのこの経験は、私たちに自分の弱さを知り弾劾させる邪悪な者の視線から回心し、聖霊が慈しみ深い愛の光をあててくれるようにすることを、求めています」とし、さらに次のように述べられた。

 「だからこそ、神の憐れみに出会うことがとても重要です。特に、神の真理と優しさを体験する和解の秘跡で、神は私たちを非難されるのではなく、喜んで迎え入れ、支え、赦してくくださるのです」。

 さらに教皇は、「贖いと罰を混同しない正義のシステムを備えた『優しさの革命』が求められている」とされ、刑務所にいる人々のことを思い起され、「彼らが自分の過ちに対して支払うのは正しいこと。だが、過ちを犯した人々がその過ちから自分自身を贖い出すことができるようにするのは、もっと正しい」とも述べられた。

 最後に、教皇は次の祈りを捧げられた。

 優しさの父、聖ヨセフ、
私たちの中で最も弱い者も神にしっかりと愛されていることが分かるように、私たちに教えてください
私たちの貧しさと神の愛の偉大さの間に、障害物を置かないように
和解の秘跡に近づきたいという私たちの願望をかき立ててください
私たちが赦され、貧しさの中で私たちの兄弟姉妹を優しく愛することができるように
過ちを犯し、その代償を払っている人たちの近くにいてください
彼らが正義だけでなく、優しさも見つけ、彼らが再び歩み始めることができるように 彼らを助けてください
そして、彼らに再び歩み始める方法を、心から赦しを願うことであることを、教えてください
アーメン。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月19日

☩「私たちキリスト者は一致を目指す巡礼者」-教皇、一致祈祷週間へ参加呼びかけ        

(2022.1.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコは16日の正午の祈りの中で、18日から始まる「キリスト教一致祈祷週間」に言及された。

 今年のテーマ「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ福音書2章2節)について教皇は、「救い主である王としてお生まれになった方を拝むために、東方からベツレヘムへ旅した東方三博士のエピソードに基づいています」とされた。

 そのうえで、「私たちキリスト者は、異なる宗派と伝統の中にあっても、完全な一致を目指し、歩み続ける巡礼者。私たちの主、イエスに眼差しを注げば注ぐほど、その目標に近づくことができます」と説かれ、「『キリスト教一致祈祷週間』の間、私たちの努力や苦しみも、キリスト者の一致のために捧げましょう」と世界のキリスト教徒に宗派を超えて呼びかけられた。

 「キリスト教一致祈祷週間」は、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章 21節)というイエスの祈りのもとに、すべてのキリスト者の一致を共に願い祈ることを目的に、毎年1月18日から25日までキリスト教諸教会の参加のもとに行なわれている。

 今年のテーマ選択、それに沿った祈りと黙想のテキストは、教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会(WCC)の協力のもと、中東地域の諸教会が参加する中東教会協議会(本部:ベイルート)が中心となって作成された。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月17日

♰「福音書で示された”しるし”は、私たちへの神の愛を示す手がかり」年間第二主日正午の祈り

Pope Francis during Sunday's AngelusPope Francis during Sunday’s Angelus  (Vatican Media)

 

*神の愛のしるしに注意を払う

 さらに、イエスがなさったこの最初のしるしは、「並外れた癒し」ではなく、「人が必要としていることに対する率直で具体的な対応」であり、「これが、行動することを大事に愛される神のなさり方なのです」と指摘。

 「カナの婚礼でのマリアのように私たちが願うなら、イエスはいつでも、私たちを助け、私たちを立ち上がらせてくださいます。そして、私たちがそうした”しるし”に注意を払えば、私たちは主の愛に”征服”され、彼の弟子になるのです」と語られた。

 

*”良いぶどう酒”は私たちの喜びを保証する象徴

 カナの婚礼の物語ではまた、もともと水であったのものが、”良いぶどう酒”に変えられたことについても、世話役の言葉を通して述べられている。これについて教皇は、「神が私たちと私たちの幸せにとって、少しでもいいものをー限度や条件を設けず、私たちの喜びが完全で、決して薄められることがないことを保証してくださる、ということを象徴的に示しています」と説かれた。

*日々の生活の中に神の愛のしるしを見つけよう

 説教の締めくくりに、教皇は「私たちが記憶をよみがえらせれば、悩み苦しんだ時にあっても、私たちの生活の中に主が働かれ、私たちへの愛を示された”しるし”を発見することができるでしょう… 私たちは主の近さ、優しさの個々の愛情深い”しるし”を心に刻み、心に喜びを感じる必要があります」とされ、次のように祈られた。

 「イエスがそばにおられること、そしてマリアの執り成しを体験した時のことを思い起こしましょう。カナの時のようにいつも注意を払っている聖母が、私たちの生活の中に神がおられる”しるし”を大切に心に刻むのを助けてくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年1月16日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑦「労働は私たちの霊的成長に欠かせない」

General Audience in the Paul VI HallGeneral Audience in the Paul VI Hall  (Vatican Media)

(2022.1.12  Vatican News staff writer)

  教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、「聖ヨセフについて」の講話を続けられ、「私たちの人間としての成長と霊的な成長に欠かすことのできない労働について、聖ヨセフの生き方を通して考察された。

 講話の中で、教皇はまず、マタイとマルコはそれぞれの福音書で、ヨセフを「大工」あるいは「指物師」と呼んでいることに注目された。

 二つの福音書では、ナザレの人々は、イエスが話しておられるのを聞いて、「この人は大工の息子ではないか」(マタイ福音書13章55節、マルコ福音書6章3節参照)などと言い合った、と書かれている。

 教皇は「ヨセフの仕事を表現するために、(日本語などで『大工』と訳されている箇所は)福音書の原文ではギリシャ語の『 tekton』と言う言葉が使われていますが、これはいろいろな言葉に翻訳されています」と指摘。

 ラテン語では教父たちが『大工』と訳したが、「イエスの時代のパレスチナでは、木材は鋤やさまざまな家具を作るためだけでなく、木製の枠と屋根を持つ家を建てるためにも使われていた」とされ、ヨセフとイエスは、単なる今でいう「木工職人」ではなく、家を建てるのに関連した仕事全般を担当していたと考えられる、とされた。

 「木材だけでなく、製材、鉄などの重い資材を扱うは大変な作業でしたが、収入は決して多くなかった。そのことは、マリアとヨセフが神殿でイエスを主に捧げた時、「山鳩一つがいか若い家鳩2羽しか、いけにえとして捧げることができなかった(ルカ福音書2章24節参照)ことからも推測できます」と語られた。

 そして、「このような聖ヨセフの仕事から思い起こされるのは、現代の労働者たち、特に鉱山や特定の工場で過酷な労働をしている人たち、搾取されている人たちや強制的に働かされている子供たち、そしてごみの中から何か利用で来るものを探している人たち。さらには、仕事を続けられなくなり、苦しみの中にある人たち、悲惨な状態に置かれている家族、です」と強調。

 「新型コロナの世界的大感染で、多くの人たちが職を失いました。そして、耐え難い重荷に押しつぶされて、自分の命を投げ出す人もいます。今日、そうした人たちとその家族一人一人を思い起こしましょう」と、一般謁見の参加者たちに呼びかけられた。

 教皇はまた、労働は人間生活と「神聖に至る道」の不可欠な構成要素である、指摘され、「労働は、生計を立てる手段であるだけでなく、私たちが自分自身を表現し、有用であると感じ、具体性のある素晴らしい教訓を学ぶ場所でもある。霊的生活が”心霊主義”に陥るのを防ぐ助けとなります」と説かれた。

 さらに教皇は、「悲しく思うのは、労働が、人間の尊厳に敬意を払い、生活を保証するために守られるのではなく、社会的不正義に関連する問題に捕らわれることが多いという事実です」とされ、「どのような心を持って日々の労働に携わっているか、私たちの労働が他の人や自分の運命とどのように関わっているのか、について自問しましょう。それは、イエスがどのように働かれ、聖ヨセフから仕事を学ばれたかを知るためにも、良いことです」と語られ、1969年5月1日に聖パウロ6世が聖ヨセフに捧げた次の祈りを、すべての信徒に勧められた。

 聖ヨセフよ、
教会の守護の聖人!
あなたは肉となられた言(ことば)と共に 自分たちのパンを得るために 日々働かれた
生き、働くための力を主からいただいて あなたは、明日への不安、貧しさの苦しみ、仕事を得る確証が得られない悩みを経験された あなたは、人々の目には、立派な模範、謙虚に見えるが
神の目には最高に喜ばしいものに映るー
苛酷な日々の暮らしの中にある労働者たちを守り 落胆と反抗、そして誘惑の耽溺に落ち込むのを防き この世で平和を保つことが 平和だけが人々の発展を確実にすることができるのです

アーメン。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月12日

☩「対話と兄弟愛で世界平和を目指して」新年の外交団へのあいさつで

教皇フランシスコ、バチカン駐在外交団に新年の挨拶 2022年1月10日 教皇フランシスコ、バチカン駐在外交団に新年の挨拶 2022年1月10日   (Vatican Media)

(2022.1.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、バチカン宮殿の祝福の間で、駐在外交団と新年のあいさつを交わされた。

 あいさつで教皇は、現在の世界情勢を視野に置きつつ、新型コロナの世界的大感染、移民・難民、気候変動、紛争と軍縮、教育と労働などの諸課題を幅広く取り上げられた。

*新型コロナの感染の再拡大阻止に全力を 

 コロナ感染については、最近の急激な再拡大の状況をふまえ、「コロナとの戦いには、なお皆さんの多大な努力が必要になっています」とされた。

 そして、大感染が世界中の多くの人の社会的孤立と犠牲を強いる一方で、ワクチンの普及が進んだ地域では感染者の重症化が抑えられている現状を指摘。「人々にできる限り免疫を獲得してもらうために、個人、政治、国際社会のそれぞれのレベルにおける様々な努力が求められます」と強調された。

 また教皇は「人は自分の健康に責任を持つとともに、周りの人の健康をも尊重せねばなりません」とされ、新型コロナへの対応をめぐって、しばしば裏付けのない情報が流され、「そうした情報で築かれたイデオロギーに影響される風潮があるのは、残念なことです」と語られた。

 ワクチンについて「回復のための魔法のような道具ではありませんが、新たに開発された治療法と合わせ、この感染症に対する最も理にかなった解決法です」と語られ、各国政府や国際機関の関係者に「感染防止と免疫獲得のための政策を通して人々を守るように、世界のすべての人が平等に基本的な医療ケアとワクチンにアクセスできるように」と包括的な取り組みに協力して当たるように求められた。

*移民・難民発生の背景にある経済・政治危機への対処を

 教皇は昨年の国家元首・政府首脳らとの出会いや海外訪問などを振り返る中で、昨年7月にバチカンで行われた「レバノンのための考察と祈りの一日」を思い起こされ、レバノンの経済・政治危機克服を祈るとともに、関係国や国際機関などによる支援を改めて願われた。

 昨年3月に訪れたイラクの人々が尊厳と平和のもとに生活できるよう祈られ、9月のハンガリーとスロバキア訪問、12月のキプロスとギリシャ訪問をエキュメニカル・諸宗教対話の機会として示された。

 またギリシャ訪問中の、レスボス島の移民施設での人々との出会いに触れられ、「祖国を離れざるを得なかった移民・難民の人たちを前に、無関心でいたり、壁を築くことはできません」と述べる一方、移民・難民の受け入れと保護の努める政府や市民に感謝を表された。

*気候変動問題で”解決策の断片化”が広がっている

 気候変動問題については「多くの問題が絡み合い、複雑化した課題を前に、”解決策の断片化”が広がっていること」を憂慮されるとともに、「問題解決に向けて対話の窓を開き、兄弟愛の絆を構築する、という”意志の欠如”が見られます… 『一つの人類という家族』としての共通のアイデンティティーの意味を取り戻す必要があります」と強調。世界各国、国際機関などに対して、「共通の解決策を見出し、それを実行に移すための積極的な努力」を望まれた。

 関連して、昨年10月に英グラスゴーで開かれた国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)で、適切な方向性においていくつかの進展が見られたことを評価しつつ、「対応すべき課題の重大さに対して、その成果はいまだ少ない」と語られ、2020年以降の地球温暖化対策の国際的な枠組みであるパリ協定の目標達成への道は「長く険しく、残された時間は少ないように見えます… グラスゴー会議での決定事項をいかに強化できるかを見極めながら、今年11月にエジプトで開催予定のCOP27に向けて取り組みを加速するよう、求められた。

 

*紛争克服の本質的要素は「対話と兄弟愛」

 世界各地で紛争が続いていることを憂慮された教皇は、「対話と兄弟愛」を危機を乗り越えるための本質的要素として示される一方、「国家間の建設的対話の努力にもかかわらず、戦争は止むことがありません… 時として代理戦争の様相をも帯びた、終わることのない紛争に解決を見つけることは、国際社会全体にとっての急務」と訴えられた。

 特に内戦が続くシリアについて、「再生をもたらすためには、政治と憲法の改革推進と同時に、経済制裁が国民の日常生活に直接影響を与えないことが大切です」と述べられた。

 また、イエメンにおいて内戦と人道危機の惨状が、メディアで十分に伝えられず、国際社会の無関心の中で静かに進行し、「女性や子どもをはじめ多くの犠牲者を出していることを、忘れてはなりません」とされた。

 イスラエルとパレスチナが二つの国家として、互いを赦し、憎悪と怨恨を持つことなく、平和と安全のもとに共存できるよう、平和プロセスの今後の進展を願われた。

 アフリカのサヘル地域におけるテロリズム、スーダン、南スーダン、エチオピアの内戦にも、和解と平和を願われた。

 また、ウクライナとコーカサスの緊張に対して、早急に解決を見つるけこと、ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとするバルカン地域に新たな危機がもたらされるのを防ぐことの必要を説き、危機の勃発から間もなく1年となるミャンマーに対話と兄弟愛による平和の回復を訴えられた。

 

*「紛争抑止のための武装」は幻想だ

 また、これらの紛争の背景として、大量の武器の供給と、それを流通させる武器商人たちの責任感が欠落した行動を挙げ、「『武装は、紛争抑止の役割を果たすために必要』との考えは幻想です。武器を持つ者はいずれそれを使うことになることを歴史が教えています」と語られた。

 武器の中でも、特に核兵器の拡散・拡大に対して大きな憂慮を示された教皇は、ニューヨークで開催予定だった核拡散防止条約再検討会議が新型コロナ感染の影響で延期されたことに言及。「核兵器のない世界は可能であり、必要です。会議がこの目標を目指す有意義な一歩をしるす機会となるように」と希望された。

 さらに、「21世紀において、核兵器は、安全への脅威に対処する手段として、ふさわしくないものであり、その保有は倫理に反する」とのバチカンの立場を確認された。

 

*教育と労働は「対話と兄弟愛の文化」を促進するはずが・・カトリック校での虐待を憂慮

 教皇は「対話と兄弟愛の文化」を促進する要素として、教育と労働の大切さを強調された。

 そして「教育は人間の統合的発達に最も重要な役割を担い、人を自由で責任ある者とし、対話を育み、文化を創造し、人と人との出会いの橋をかけるもの。カトリック教会は、若者の精神的・道徳的・社会的成長のために、常に教育の役割と価値を認識してきました」とされた。

 だが、そうした認識にもかかわらず、「小教区や学校など教育の場で、未成年者に対する虐待行為が起きている」ことを深刻に受け止められ、「このような犯罪に対しは、真相を解明するとともに、責任を明らかにし、被害者の権利を認め、このような残忍なことが二度と繰り返されないように、断固とした意志をもって対応しなければならなりません」と強調された。

 また、労働については、「自分に与えられた恵みの表現としての労働、同時に義務と努力、他者との協力でもある労働は、平和を築き守るための不可欠な要素であり、私たちがより良い世界への貢献を学ぶ場所でもあります」と語られ、「新型コロナがもたらした危機によって大きな影響を受け、経済的・心理的に不安な状況に置かれた労働者と家族たち」に思いを寄せられた。

 あいさつの最後に教皇は、「生活の中に平和を広げながら、互いに対話と兄弟愛を育み、人の心から心へ、そして世界へと平和を伝えていきましょう」と外交団に呼びかけられた。

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 バチカンの外交団は現在、バチカンと外交関係を持つ183か国と欧州連合、マルタ騎士団で構成されている。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月11日

☩「苦しみの中でも、祈ることで”酸素”をいただける」ー「主の洗礼」祝日正午の祈り

File photo: Pope Francis during his Sunday AngelusFile photo: Pope Francis during his Sunday Angelus  (ANSA)
 Pope Francis addresses the faithful gathered in St Peter’s Square for his Sunday Angelus and asks that on the day of the Baptism of the Lord, they reflect on the importance of prayer and remember the date of their own baptism.

(2022.1.9 Vatican News  Francesca Merlo)

 「主の洗礼」の祝日の9日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、イエスがヨルダン川のほとりに行き、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面を思い起こされた。

 「これがイエスの公の生活が始まりです。 30年ほど目立つことなくお暮しになった後で、イエスがまずなさったことは、奇跡を起こしたり、大きな神殿で登壇して教えたりすることはありません。ヨハネから洗礼を受けることを望んだ罪人たちの列に並ばれることでした」とされ、「こうしてイエスは、私たち多くの罪人と行動を共にされ、私たちのところに降りて来られ、私たち罪人を癒やすための水に沈められたのです」と語られた。

*イエスは祈られる

 また教皇は、ルカ福音書で「イエスも洗礼を受けて祈っておられる」(3章21節)と書かれていることに触れて、「イエスは、私たちがしているように祈っておられるのでしょうか」と問いかけられ、「そうです。福音書は、多くの箇所で、イエスは頻繁に祈られること、そして、その祈りは生きた対話、父との親密な関係を示すであることが、語られています」と指摘。この日のミサで読まれた福音書で「私たちはイエスの人生の『二つの動作』を見ることができます。一つは、私たちに向かってヨルダン川の中に降りこられること。もう一つは、祈りの中で眼差しと心を、父に上げることです」と述べられた。

 

*祈ることは「逃げ道」ではない

 そして、「これは私たちにとって素晴らしい教訓になります」とされ、「私たちは皆、人生の問題と多くの複雑な状況の中に置かれ、自分を引きずり降ろそうとする難問や選択を直視するよう求められています… 引きずり込まれ押しつぶされないように、私たちはすべてを引き上げる必要があります」と強調。

 「祈ることは、逃げ道ではありません。私たちの内に神が働いてくださるようにする方法です。祈ることは、私たちを助けてくれます。私たちを神に結びつけ、神との出会いへ、私たちを心を開いてくれるからです。祈ることは、主に心を開く鍵なのです」と説かれ、さらに「苦しみの最中にあって、祈ることは、私たちに酸素を、息をする空間を供給し、私たちに物事をもっと広く見るようにさせてくれます」と語られた。

 説教の最後に教皇は、「祈ることで、私たちはヨルダン川のイエスと同じ経験をすることができます。私たちを、主なる父に愛された子供のように感じさせます」とされ、「私たちが洗礼を受けた日を忘れないようにしましょう。そして、主の言葉に耳を傾けましょう」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南寿俊二)

2022年1月9日

☩「キリスト教徒としてのアイデンティティを受け取る」ー教皇、「主の洗礼」祝日にシスティナ礼拝堂で乳児たちに洗礼

(2022.1.9 Vatican News  staff writer)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月9日

☩「病者に慰めをもたらすことは、すべてのキリスト者の義務」ー2月11日「世界病者の日」へメッセージ

教皇フランシスコ、「第30回世界病者の日」に向けメッセージ教皇フランシスコ、「第30回世界病者の日」に向けメッセージ  (Vatican Media)

(2022.1.7 バチカン放送)

 2月11日のカトリック教会の第30回「世界病者の日」に向け、教皇フランシスコが7日、メッセージをおくられた。

 「世界病者の日」へのメッセージのテーマは「『あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい』(ルカ福音書6章36節)ー 愛の歩みにおいて苦しむ人に寄り添う(仮訳)」。

 冒頭で、教皇は、「世界病者の日」にあたって当初予定されていたペルーのアレキパでの記念ミサが、新型コロナ大感染の影響で中止となり、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサが捧げられることになったことを説明された。

 そのうえで、「世界病者の日」を機会に、「いかなる時も、父の愛をもって子らを見つめる『憐れみ豊かな神』(エフェソの信徒への手紙2章4節)に眼差しを向けるように」と促され、「神は父の強さと母の優しさをもって、私たちに配慮され、聖霊において新しい命を与えることを望まれます」と強調。

 また「憐れみ深い御父の愛の至上の証人は、その御一人子イエスです。福音書には、イエスと病者との出会いが、どれほどたくさん語られていることでしょうか」と問いかけられ、「苦しみは人を孤立させ、その孤立の中から他者への嘆願が生まれます。御父の憐れみそのものであるイエスに倣い、神の愛の証し人として病者に寄り添い、慰めの油と希望のぶどう酒をその傷に注ぐことが重要です」と説かれた。

 さらに、「御父のように憐れみ深い者となるように、とのイエスの招きは、とりわけ医療関係者にとって特別な意味を持つもの」と指摘。「医師や、看護師、医療技師、ボランティアなど、苦しむキリストの肉に触れるこれらの人々の手は、御父の憐れみ深い御手のしるしとなることができるのです」と語られた。

 教皇は、今日の医療技術の進歩を神に感謝する一方で、「一人ひとりの病者の尊厳や脆さを、忘れてはなりません… 病者は、常に、その人の病気そのものよりも大切。それゆえ、患者の声や事情や不安を考慮せずに、治療を行うことがあってはなりません」とされ、「たとえ回復の見込みがない場合でも、ケアや、慰め、寄り添いは常に可能です。病者に耳を傾け、良い関係を築くことができるような、医療関係者の育成プロセスが望まれます」と希望された。

 また、「『世界病者の日』は、ケアを行う場所に対する関心を高める機会でもあります。キリスト教共同体は何世紀にもわたって『善きサマリア人の宿』として、あらゆる病者を受け入れる施設を設けてきました。カトリックの医療機関の重要さを再確認するとともに、この大切な宝を守り、支えていかなくてはなりません」と訴えられた。

 そして、「苦しんでいる貧しい人々に対する最悪の差別は、霊的な助けの欠如です。祝福や、御言葉、秘跡を通して、これらの人々に神の寄り添いを伝える必要があります」とされ、「病者への寄り添いと司牧的ケアは、一部の人々の務めではなく、すべてのキリストの弟子の務め。どれだけの病者やお年寄りたちが、人々の訪問を待っていることでしょうか。『お前たちは、私が病気のときに見舞ってくれた』(マタイ福音書25章36節参照)というイエスの言葉を胸にしつつ、病者に慰めをもたらすことは、すべてのキリスト者の義務です」と強調された。

 メッセージの最後に教皇は、「病者とその家族が世の苦しみを背負うキリストに一致し、意味と慰めと信頼を見出すことができるように」と聖母の取り次ぎを祈られ、「すべての医療関係者が豊かな憐れみをもって、病者らに適切な治療と兄弟的な寄り添いを与えることができるように」と祈願されている。

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 カトリック教会は、毎年2月11日の「ルルドの聖母」の日に「世界病者の日」を記念する。教皇聖ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡「サルヴィフチ・ドローリス – 苦しみのキリスト教意味」(1984年)の精神のもとに1993年に創設されたこの日は、病者がふさわしい援助を受けられるよう、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように祈ると共に、病者とそのケアにあたる人々への関心を教会内はもとより社会に広く呼びかけることを目的としている。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月8日

☩「高ぶる者が主の存在に気付くことはない」ー「主の公現」の正午の祈りで

教皇フランシスコの、2022年1月6日「主の公現」の祭日のお告げの祈りが行われた、バチカン・聖ペトロ広場1月6日「主の公現」の祭日のお告げの祈りが行われたバチカン・聖ペトロ広場  (ANSA)

   「主の公現」の祭日を迎えた1月6日、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げ、正午にはお告げの祈りを広場の巡礼者たちと共に唱えられた。

 教皇は祈りの前に、マタイ福音書の東方からの博士たちのエピソード(2章1-12節参照)を取り上げ、次のような説教を行われた。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 主の公現を祝う今日、福音書は東方からの博士たちのエピソードを語っています。

 東方からの博士たちは、ユダヤ人の王を礼拝するために、長く困難な旅に出ます。 (同2,2)。不思議な星に導かれ、ようやく目的地に達した彼らが見たものは、荘厳な何かからはほど遠い、母と共にいる幼子の姿でした。

 「こんな貧しい幼子のために、苦難の長旅をしたわけではない」と、彼らは不満を言うこともできたでしょう。しかし、彼らは臆することも、驚くことも、嘆くこともなく、幼子の前にひれ伏しました。

 福音は伝えています「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」(同2章11節)。

 考えてみてください。遠方からやって来た豊かで学識ある賢者たちが、地面にひれ伏して、幼子を礼拝するのです。この賢者たちが示した、これほどまでに謙虚な態度に驚かされます。

 その時代、大きな権力や栄光のしるしを帯びて立つ権威者の前に、ひざまずくことは普通でした。今日でもそれが普通でしょう。しかし、ベツレヘムの幼子の前でひざまずくことは、容易ではありません。神性の隠された神、威光が見えないこの神を礼拝することは、簡単ではありません。それは「小ささの中に表される神の偉大さ」を受け入れるということです。

 博士たちは神の論理の前にぬかずきます。想像していたような偉大な姿ではなく、小さく貧しい、そのままの主を受け入れます。この博士たちの態度は、自分自身の思いよりも、神に場を譲る者の姿勢を表しています。

 福音書はこの点を強調します。博士たちは、単に礼拝したのではありません。ひれ伏して、拝んだ、と強調しています。礼拝とひれ伏すことが共に語られています。博士たちはこうして、謙遜の中にご自分を示されるお方を、自分たちも謙遜をもって受け入れることを示しているのです。

 このように、彼らは神への礼拝に開かれていくのです。開かれた宝の箱は、開かれた彼らの心の象徴です。 博士らの本当の豊かさは、その名声や成功にあったわけではありません。その謙遜に、救いを必要とするその心にあったのです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、神の御前で、いつも自分の考えにとらわれ、自負するようなら、決して真の出会いにも、礼拝にも、至ることはないでしょう。様々な野望や競争に没頭すれば、人生で誰かと出会い、何かを獲得できるかもしれませんが、それは決して、主ではないでしょう。それに対し、謙遜であり、内的に小さな者となるなら、イエスを真に礼拝する驚きを得るでしょう。なぜなら、礼拝は、心の謙遜から来るものだからです。

 高ぶる者が、主の存在に気付くことはありません。博士たちの来訪を受けた時、イエスは皆のそばにいましたが、多くの人から無視されていました。しかし、博士たちはイエスに気付いたのです。

 博士たちを見つめながら、「私の謙遜は、どうだろうか」と自問しましょう。

 傲慢が私の霊的成長をはばんでいることを、しっかり理解しているでしょうか。神や隣人に奉仕するために、柔軟な心を持つ努力をしているでしょうか。 あるいは、いつも自分のことや、自身の考えにとらわれてはいませんか。神や他人の思いを受け入れるために、自分の見方を犠牲にすることができるでしょうか。何かを必要とする時だけ、祈ったり、礼拝したりしてはいないでしょうか。あるいは、自分はいつもイエスを本当に必要としていると信じて、そのようにしているのでしょうか。

 神の仕え女、聖母マリアが、真の謙遜と礼拝が何であるかを理解させてくださいますように。アーメン

(編集「カトリック・あい」=表記は「聖書協会・共同訳」に準じました)

2022年1月7日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑥ヨセフは家族愛を分かち合う「養父」の模範

(2022.1.5 Vatican  News Devin Watkins)

   教皇フランシスコは5日、今年初の水曜一般謁見で、「聖ヨハネについて」の講話を続けられた。講話の中で教皇は、聖ヨセフの父性を振り返り、すべての子供たちが、例え養父と養子の関係であっても、父性愛の絆で結ばれるように、と祈られた。

 バチカン放送(日本語課)による講話の要旨は次のとおり。

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 今日は、イエスの父親としての聖ヨセフを観想しよう。福音記者マタイとルカは、ヨセフをイエスの「血のつながった実の父親」ではなく、「養父」として示しています。マタイは正確を期して、系図の中でヨセフを「マリアの夫」と定義し、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ福音書1章16節)としている。一方、ルカは系図の冒頭で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ福音書3章23節)としています。

 イエスの公の父親として、ヨセフは、子を名付ける権利を持っていました。名付けることは、その子を法的に認めることでもありました。

 古来、名前はその人のアイデンティティーを示すものであり、名前を変えるとは、自分自身を変えることを意味していました。名を与えるとは、名付けられたものに及ぶ、自分の権威を示すことでした。

 ヨセフは、マリアの子のために神が用意した名前を、すでに知っていまし。「イエス」という名前、それは「神は救う」という意味を持ちます。実際、天使は、ヨセフに「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1章21節)と命じています。

 「イエスの養父」としてのヨセフの姿は、父性や母性とは何かを考えさせてくれます。

 父であるため、母であるためには、自分の子を世に送り出すだけでは足りません。「父親とは生まれるのでなく、なるものである。ただ自分の子が誕生したからと言って、父になるのではない。責任を持ってその子を世話してこそ、父親になれる。いつでも誰かが他者の人生に責任を負う時は、ある意味で、その人に対し、父性をもって接する、と言える」(使徒的書簡「パトリス・コルデ」)。

 特に、自らを開き、養子縁組という道を通して命を受け入れるすべての人たちのことを思う。ヨセフは、このような形の絆が決して二次的なもの、妥協的なものではないことを教えてくれます。こうした選択は、最も気高い愛や父性・母性の形の一つなのです。

 いったい世界でどれだけの子どもたちが、誰かが自分の世話をしてくれるのを待っているでしょう。そして、いったいどれだけの夫婦が、父親や母親になりたくても、生物学的理由でそれができないでいることでしょう。あるいは、どれだけの夫婦が、すでに子はいても、家族の愛を経験できない子たちと、家族の愛を分かち合いたく思っていることでしょう。養子縁組の道を選び、受け入れの「リスク」を負うことを恐れてはなりません。

 誰一人、父の愛の絆の欠如を感じることがないように。聖ヨセフが孤児たちを守り、助けてくれますように。そして、子を持つことを望む夫婦のために取り次いでくれますように。

 聖ヨセフよ、
あなたはイエスを父の愛で愛しました。
お父さん、お母さんを求める、
身寄りのない多くの子どもたちのそばにいてください。
子を持ちたくても持てない夫婦たちを支えてください。
これらの夫婦たちがこの苦しみをとおして、
より大きな計画を見出せるよう助けてください。
誰もが家と絆と気にかけてくれる人を持つことができますように。
いのちに自分を閉ざす人たちが、愛に心を開けるよう、
彼らをエゴイズムから癒やしてください。
アーメン。

 (編集「カトリック・あい」)

2022年1月5日

☩「神は、私たちのただ中に住まうことを強く望まれる」年初の主日、正午の祈りで 

(2022.1.2 Vatican News  Devin Watkins)   新年の最初の主日、主の公現の祭日となった2日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、「神は私たちの間に住むことを強く願われています。ですから、イエスを、私たちの生活、特に私たちが苦労している困難な場所にお招きするように」と信徒たちに促された。

*相反するものがイエスにおいて和解する

 説教で教皇はまず、主の降誕の意味を私たちに明らかにする、正午の祈りでいつも唱えている箇所「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ福音書1章14節)を取り上げ、「この言葉には逆説が含まれています。永遠の『言葉』と人間の『肉』は、神が人となられる以前には、正反対のことを意味しました」とされた。

 そして、「『言葉』は、イエスが父の永遠の言葉であり、すべての被造物の前に、いつまでも存在する無限の言葉であることを示し、『肉』は、私たちが作り上げる現実、壊れやすく、限りがあり、死を免れないものを示しています」と説かれ、「天と地」「無限と有限」「精神と物質」「光と闇」は、本来、明らかに相反するもの、とされた。

 にもかかわらず、「イエスにおいて、これらの正反対のすべてが一緒になり、神の子の受肉で和解しているのです」とされ、「イエスは、世の闇に入った神の光。神は光です。神には不透明性さはありません。私たちには暗闇がたくさんありますが、イエスと共に、光と闇ー神聖と罪、恵みと罪ーがであうのです」と強調された。

 

*神は私たちのただ中に住まわれる

 さらに、教皇は、「福音書は、神の驚嘆すべき、なさり方を表すために、こうした相反の極にあるものを使っています」とされたうえで、「神が、私たちの弱さに直面したとき、身を引き、永遠の無限の光の中に戻られることはありません。神はそのようなことをなさらないばかりか、暗闇に降り、ご自分にとって異質な場所に住まわれるのです」とし、次のように語られた。

 「私たちの間に来られる-それが神の働きです。私たちが、自分自身を『価値がない者』と考えても、神は、そのままにはしておかれない。私たちが、神を拒絶しても、神は、私たちを懸命にお探しになる。私たちが、神を受け入れる準備ができておらず、進んで受け入れようとしなくても、神は、私たちのところにおいでになることを強く望まれます」

*私たちの貧しさの中に入って来られる

 また教皇は、「自分自身の価値を疑うので、私たちは、しばしば神から離れたところに立ちます。そうした中で、降誕節は、私たちを、神の視点から物事を見るように誘います… 神は、人間の姿で地上に来ることを望まれます。ですから、イエスの側に行くことで、恐れを克服するように」と信徒たちを強く促された。

 「ベツレヘムの馬小屋を考えてみてください。イエスはその貧しさの中でお生まれになりました。それは、あなたの心を訪ねること、貧しい所に住むことを厭わないこと、を私たちにお告げになるためです」とされ、「福音書が使っている『住む』は、親密さと『完全な分かち合い』を表しているのです」と説かれた。

*「我らの内なる馬小屋」にに住まわれる神

 そうして、「罪深い状態のあるなしに関係なく、私たちの心の中にイエスのための場を作り、降誕節のメッセージを喜びを持って受け入れるようにしましょう… 馬小屋の前にしばしたたずむことで、私たちはイエスを歓迎することができるのです」と信徒たちに呼びかけられた。

 説教の最後に、教皇は、「飼い葉桶に寝かされた幼子の姿は、私たちの現実の、普通の暮らしーすべてがうまくいっているわけではなく、問題だらけの暮らしーの中に住まわれるために来られたイエスを象徴しています… 神は、私たちの日々の暮らしのあらゆる場面のただ中においでになり、私たちがそうした暮らしの様々な問題を、ご自分に話してくれるのを待っておられます」と語られ、次のように締めくくられた。

「私たちの日々の暮らしに、神を公けにお招きしましょうーとくに暗くて湿った所…私たちの『内なる馬小屋』に。そして、神に話しましょうー恐れずに、今起きている社会の、教会の問題について、私たちの抱える個人的な、困難な問題についても。神は、私たちの中に住まわれることを強く望んでおられるのです」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年1月3日

☩「神の母聖マリアに新年を託し、新たに歩みを始めよう」元旦の正午の祈り

2022年元日 教皇フランシスコによる正午の祈りの集い バチカン・聖ペトロ広場2022年元日 教皇フランシスコによる正午の祈りの集い バチカン・聖ペトロ広場  (Vatican Media)

 教皇フランシスコは、2022年の元日、バチカンで正午の祈りを巡礼者らと共に唱えられた。

 カトリック教会の典礼暦は、一年の最初の日を「神の母聖マリア」に捧げると同時に、「世界平和の日」を記念し、戦争や分裂、憎しみや飢餓などのない平和な世界のために祈る。

 教皇フランシスコは、2022年の元日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の母聖マリア」の祭日のミサを司式された。そして、正午には、バチカンの広場に集った多くの巡礼者らと共に、「お告げの祈り」を唱えられた。

 正午の祈りに先立つ説教で、教皇は「神の母聖マリアに新しい年を託しつつ、新たな歩みを始めよう」と呼びかけられた。

 教皇は、天使から主の降誕の知らせを受け、急いで駆けつけた羊飼いたちが探し当てた、「マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」( ルカ福音書2章16節)を改めて観想し、特に「イエスを飼い葉桶に寝かせたばかりの優しく配慮にあふれる母、マリアの姿を想像する」ことを勧められた。

 そして、「聖母は御子を自分のために抱きしめるのではなく、私たちに御子を示し、御子を見つめ、受け入れ、礼拝するように、と私たちを招いている」とされ、「マリアの母性、それは生まれた御子を、私たち皆に与えることにあるのです」と語られた。

 さらに「新年は、母の腕に抱かれて飼い葉桶に寝かされた神と共に始まります… 幼子イエスの姿は、私たちを優しさをもって勇気づけるものであり、実際、私たちはこの励ましを必要としています」と語られた。

 また、教皇は「私たちは今もなお、新型コロナの世界的大感染の影響で不安定な状況を生き、多くの人が未来に不安を抱えています… 「幼子イエスを飼い葉桶に寝かし、私たちに示すマリアは、『他者のために自分を捧げないかぎり、世界は変わらず、皆の生活も良くならない』と私たちに教えているのです」と強調。

 さらに、この元日に記念された「世界平和の日」に言及された教皇は、「平和とは、神からの賜物であると同時に、皆で分かち合う努力の実りでもあるのです」とされ、「平和をイエスに祈りながら、私たち自身もあきらめたり、嘆くことなく、積極的に平和の構築に取り組んでいきましょう」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月2日

☩神の母聖マリアの祝日ミサー「すべてのことを心に留め、思い巡らすのを助けてください」

(2022.1.1  Vatican News staff writer)

 2022年元旦、神の母聖マリアの祝日のミサを聖ペトロ大聖堂でささげられた教皇フランシスコは、「マリアの母性の保護の下に身を置くこと」を信徒たちに勧められ、聖母マリアに「私たちに勇気と、主が誠実な方で十字架を復活に変えることがおできになることことの確信をくださるように」と祈られた。

 「世界平和の日」でもある新年の初めのこのミサの説教で、教皇はまず、ベツレヘムの羊飼いが飼い葉桶に横たわっておられる幼子イエスを訪ねた時に経験した喜びを思い起こされ、「これは神の証し、貧しい人々や疎外されているすべての人々のそばにおられることを示しています。『小ささと貧しさ』の中で生まれたイエスは、私たちの心を『恐れ』ではなく『愛』で満たしてくださいます」と語られた。

 飼い葉桶の驚き 教皇は「この時のマリアの経験は『​​飼い葉桶の驚き』に耐えることを必要としました」とされ、「羊飼いが訪れるずっと前に、彼女は天使からメッセージを受け取り、身ごもって男の子を産み、イエスと名付けます。その子は『いと高き方の子』と呼ばれます。しかし、マリアは、その子を家畜たちのための飼い葉桶に置かねばなりません。どうしたら、彼女は『いと高き方の栄光』と『馬小屋の貧しさ』を調和できるのでしょう?」と問いかけられた。

 そして、「生まれたばかりの赤子が危なげな環境にあることに、さぞ彼女は当惑したでしょう。でも、マリアは、落胆することなく、すべてを心に留めて、思い巡らしました」と語られた。

 

*マリアと羊飼いたちの対照的な反応

 一方で、羊飼いたちは、喜び、夜通し羊の群れの番をしていた彼らに天使が現れ、救い主がお生まれになったことを告げ、それに従って、馬小屋のマリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かされたイエスを訪問したことを、人々に知らせた(ルカ福音書2章16‐17節参照)。

 教皇は、「起こったことを、マリアがすべて『心に留め、思いめぐらした』のに対して、羊飼いたちは『言葉と驚き』で対応をしました。この対照的な反応は、一般的な信仰体験を思い起こさせます」と指摘。

 「羊飼いたちの振る舞いは、私たちに、すべてが容易で明白と思われる、信仰の始まりの時を思い起こさせ、マリアの『心に留め、思いめぐらす』振る舞いは『成熟した大人の信仰』を表しています」と語られた。

 そして、「私たちは、『心に留め、思いめぐらす』という、同じ対応をすることで、神の母から学ぶことができます。私たちもまた、人生において、理想と現実がぶつかり合い、福音の喜びが試練にさらされる、という大きな苦難に耐えねばならないかも知れません」とされ、「マリアは私たちにこう教えますー困難に出会うことで、私たちは学び、育ち、信仰を成熟させることができる。目標である十字架への道は狭く、十字架なしには復活はあり得ないから、と」と述べらた。

*理想と現実

 また教皇は、「理想と現実のぶつかり合いを制御し、克服するために、マリアがしたように、私たちに起こったことの経験を「心に留め」、忘れたり、拒絶したりしないことが必要です」とされ、「マリアは、驚嘆するような人生経験と対応困難な人生経験の両方を心に留めていました。天使は彼女に素晴らしいニュースを伝えましたーそれはみすぼらしい馬小屋で出産することでしたが、彼女は他の選択肢をとることをせず、心に留めておいた。包み隠したり、飾り立てたりすることなく、人生を受け入れたのです」と語られた。

*マリアは心に留め、思いめぐらす

 続けて教皇は、マリアの「二つ目の対応」について語られた。それは、心と祈りの中で、心に留め、思いめぐらすー神の視点から考えることで識別する、という素晴らしく挑戦的な側面であり、それは、「『いと高き方の栄光は、謙虚さの中に現れる』ということを、マリアは実感し、神が飼い葉桶の中に身を横たえる、という救いの計画を歓迎する、ということでした」。

 そして、この「心に留める」と「思いめぐらす」という対応は、子を育てるという課題を受け入れる「母親たちのやり方」だ、と教皇は指摘。「この母の『眼差しと愛』は、より広い視野ですべてを見ることができ、意識的かつ現実的で、新たな希望を生み出す、いたわりと愛の形です」とし、「私たちには、このような人々が必要ですーすなわち、戦いと分裂の有刺鉄線の代わりに、親交の糸を紡ぐことのできる人々です」と付け加えられた。

 

*母の眼差し、復活への道

 説教の最後に教皇は、「再生と成長への道に眼差しを注ぐ私たちの母マリアの下に始まる新しい年に当たって、改めて、女性たちに対する酷い暴力が横行する世界の現状を嘆かれ、すべての人に対し、「母親たちの安全を確保し、女性たちを守るためにさらに多くの努力を払うように」強く求められ、「女性を傷つけることは、女性から私たちの人間性を受けられた神を侮辱することです」と付け加えられた。

 そして、私たちを守ってくださる母親としてのマリアに、次のように祈られたー「試練を恐れず、主が誠実な方であり、すべての十字架を復活に変えでくださる、という喜びの確信を持って、すべてを心に留め、思いめぐらすのを、助けてくださいますように」。さらに、エフェソスで神の民がしたように、「神の聖母、神の聖母、神の聖母!」とマリアを呼び求めるように促された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年1月1日

☩「喜びの時も悲しみの時も、イエスは朽ちることのない希望」ー大晦日:バチカンで夕べの祈りと「テ・デウム」

(2021.12.31 バチカン放送)

 2021年の大晦日の31日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、翌日祝う「神の母マリア」の祭日の前晩の祈り(第一晩課)が行われた。

 教皇フランシスコの参加のもと、枢機卿会首席、ジャン・バッティスタ・レ枢機卿によって司式されたこの晩課では、過ぎた一年を神に感謝し、賛歌「テ・デウム」が捧げられるとともに、聖体降福式がとり行われた。

 聖歌の調べに彩られたこの集いの説教で、教皇は「降誕祭に続くこの日々、神の御子の受肉の神秘に対する驚きを新たにするように」と促された。

 「降誕祭が心に引き起こすもの、それは驚きと観想です」とされた教皇は、「天使から輝く光のもとに、救い主の誕生の知らせを受け、ベツレヘムで幼子を探し当てた羊飼いたちの驚き、天使が話したことを羊飼いから聞いたマリアとヨセフの驚き、これらの驚きを自分たちのものとするように」と説かれた。

 そして、「その驚きの中心にあるもの、それは『言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた』(ヨハネ福音書1章14節)ということです… 神の御母マリアは、その驚きを最初に最も大きな形で体験した方であると同時に最も謙遜な方なのです」と強調。

 さらに、「聖母は、主の降誕の真実、神は『その御子を女から』(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)お遣わしになった、という真実に、私たちを連れ戻します」とされ、「キリスト教の神秘は、『母が腕に抱く乳飲み子』という現実からあふれ出る神秘です」と語られた。

 「マリアの驚き、教会の驚き、それは感謝に満ちたものです」と指摘され、「多くの問題、困難や、心配があっても、神は、私たちを罪の隷属から解放し、子としての尊厳を取り戻させるために『御子をお遣わしになった』(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)、マリアは御子を見つめながら『私たちと共におられる神』を感じていたのです」と話された。

 新型コロナウイルスの世界的大感染がもたらしている危機について、教皇は「最初、人々は戸惑い、その後、連帯感が生まれる一方で、『自分だけが救われればいい』という傾向も広がり出しました」と振り返りつつ、「それでも今、再び人々が新たな責任感を取り戻したことは、まさに神に感謝すべきこと」と述べられた

 実際、人々の責任ある連帯は、「すべての人は神の子として兄弟姉妹だ」という、人類の「根源的な召命」から来るものという意味で、「この召命を人類の歴史に刻んだ神に、イエスに、感謝しなくてはなりません」と説かれた。

 最後に教皇は、「神の母であると共に教会の母であるマリアは、御子を『道』として示し、信頼して従うようにと招いています… 日々の生活の歩みの中で、イエスに信頼をもって従いましょう」と呼びかけられ、「喜びの時も悲しみの時も、私たちはイエスに信頼する、なぜならイエスが与える希望は朽ちない希望だからなのです」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月1日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑤「迫害下でも、主に信頼し勇気をもって行動する模範」

Migranti: Papa, non chiudiamo occhi, � scandalo socialeMigranti: Papa, non chiudiamo occhi, � scandalo sociale  (ANSA)

(2021.12.29 バチカン放送)

 教皇フランシスコは29日(水)、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、「聖ヨセフについて」の連続講話を再開。「迫害下の勇気ある移民、聖ヨセフ」をテーマに話された。

 教皇の講話の要旨は次のとおり。

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 今日は、迫害下の勇気ある移民としての聖ヨセフを考えましょう。マタイ福音書には、伝統的に「エジプトへの避難」と呼ばれる出来事が記されています(2章13-23節参照)。

 ナザレの聖家族は、不安定な状況の中で恐れや悲しみを抱きながら、自分の土地を後にして逃げる、という状況を自ら体験しました。

 今も、いまだ多くの兄弟姉妹が同じような不正義と苦しみを味わっています。原因の大半は権力者の圧政と暴力によるもので、イエスの場合もそうでした。

 ヘロデ王は、「ユダヤ人の王」が生まれたことを、東方から来た占星術の学者たちから聞き、不安を抱きました。「自分の権力が脅かされる」と考えたからです。ヘロデはエルサレムの権威者たちを集め、生まれた場所を知ろうとし、学者たちに「自分も拝みたいから、行って、その子のことを詳しく調べ教えてほしい」と頼みました。

 しかし、学者たちは幼子イエスを見つけ、拝んだ後、ヘロデのところへは戻らずに、別の道を通って自国に帰って行きました。それを知ったヘロデは、極悪非道な行為に出ます。ベツレヘムと周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。

 その頃、天使がヨセフに「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と告げました(マタイ福音書2章13節)。

 聖家族のエジプトへの避難は、イエスを救いましたが、残念ながら、ヘロデによる虐殺を止めることはできませんでした。このエピソードに、私したちは「残酷なヘロデ」と「配慮と勇気に満ちたヨセフ」という、まったく性質の異なる二人の人物の対比を見ます。

 ヘロデは、自分の権力を情け容赦ない残忍さをもって守ろうとます。実際、その冷酷さは、彼が妻の一人や、何人もの息子、また無数の敵対者たちを殺害したことにも表れています。ヘロデは古今の多くの暴君の象徴です。彼らにとって重要なのは、権力であって、人民ではありません。

 人類の歴史は、恐れにとらわれるがゆえに、それを追い払うために横暴となり、非道な暴力に訴える人物に溢れています。しかし、ヘロデのようになるのは独裁者だけではありません。私たちにも起こりうることなのです。自分の恐れをごまかすために、言葉や権力を振りかざし、近くにいる人を辱めるなら、私たちも小さなヘロデになりかねません。

 ヨセフは、ヘロデとは対極にあります。何よりも彼は「正しい人」でした(マタイ福音書1章19節参照)。また、ヨセフは天使の命ずることに勇気をもって応じました。長く危険な旅の間に、どれほどの困難に遭い、異国で過ごすために、どれほどの苦労をしたことでしょう。天使から「危険は去った、マリアとイエスを連れてイスラエルの地に帰るように」と言われて帰還した時も、ヨセフは勇気のもとに行動しました(同2章19-23節参照)。

 いつの時代、いかなる文化にも、自分の信仰に忠実に、不正や非難、死さえも恐れず、あらゆる困難を乗り越える、勇気ある人々がいます。勇気は、知恵、節制、正義と共に、いわゆる「枢要徳」(「カトリック・あい」注:古代ギリシア以来の西洋の中心的な徳目のこと。主に4つあるので、四徳などとも言う)をなすものです。

 この考察で、ヨセフは次のことを教えてくれます。

 「人生には常に逆境があり、それを前に脅威を感じることがある。しかし、ヘロデのように自分の最悪な部分を引き出すのではなく、ヨセフのように神の摂理に信頼し、勇気をもって行動することで、それを克服することができる」と。

 すべての移民・難民、迫害されている人々、困難な状況の犠牲になっている、すべての人々のために祈りましょう。また、戦地となった祖国から逃げたくても逃げられない人々、自由を目指しながらも、陸路や、海上で犠牲になった人々のために祈りましょう。ヨセフとマリアの腕に抱かれて避難するイエスの中に、今日のすべての移民・難民たちを見つめましょう。今日の移民・難民たちの現実から目をそむけることはできません。これは人類の社会的に恥ずべき醜聞です。

 聖ヨセフよ、
愛する人たちの命を救うために、
避難民となったあなたは、
逃げざるを得ない人々の苦しみを知っています。
戦争、憎悪、飢餓から逃れるすべての人々を守ってください。
試練において彼らを支え、
希望において励ましてください。
彼らが受け入れと連帯を見出すことができますように。
彼らの歩みを導き、
彼らを助ける人々の心を開いてください。
アーメン。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月30日