Pope Francis arrives at the General Audience (Vatican Media)
(2022.1.19 Vatican News staff writer)
教皇フランシスコは19日、水曜恒例の一般謁見で「聖ヨセフについて」の講話をお続けになり、神の優しさを反映した「愛情深い父親」としてのヨセフの役割は、「私たちのすべての弱さを気にかけられ、受け容れられ、主の愛によって変えられたことを、私たちに感じさせることにある」と語られた。
講話の中で教皇は、まず、聖ヨセフが父親としての役割をどのように果たしたのかを、福音書は詳しくは述べていない、とされたうえで、「ヨセフがイエスに与えた教育と愛情深いいたわりの形で実践した”正義の人”であることは確信できます」と語られた。
*父なる神
そして、イエスがいつも、「父」という言葉を使って神と神の愛について語られたことを、福音書がどのように証言しているか思い起こされ、「例えば、放蕩息子のたとえ話は、罪と赦しの経験を示すにとどまらず、”慈悲深い父”が罰ではなく、愛情深い抱擁を通して息子を赦すさまをを語っています」と指摘。
「優しさは、この世の論法よりもすぐれています。それは正義を行うための予期されないやり方です。神は、私たちの罪、過ち、堕落を恐れておられない。それよりも、私たちが心を閉ざし、ご自分の愛を信じないことを恐れておられるのです」と強調された。
*神の愛の優しさ
さらに教皇は、一昨年12月8日から昨年12月8日までを「聖ヨセフの特別年」と定められたご自身の使徒的勧告「Patris corde ,( 父の心をもって)」を引用される形で、「神の愛の経験の中には大きな優しさがあります」と述べ、「この現実をイエスに伝えた最初の人がヨセフ自身だった、と考えるのは素晴らしい。この優しさについて私たち自身の経験を振り返り、私たちがその証人になることで、神が私たちにヨセフの父性にご自身を映し出し、その優しい愛によって私たち自身が変えられるように」と勧められた。
そして、「優しさは、感情的な、あるいは感傷的な問題ではありません。貧しさと悲惨さの中にある私たちが、神にしっかりと愛され、受け容れられ、歓迎され、その愛によって変えられた、と感じる経験です」と語られた。
*請け出された弱点
また教皇は、聖パウロが「コリントの信徒への手紙」で自身の経験として、主が「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と彼に語ったことを振り返り、「私たちの弱さを通してお見せになった神の優しさのこの経験は、私たちに自分の弱さを知り弾劾させる邪悪な者の視線から回心し、聖霊が慈しみ深い愛の光をあててくれるようにすることを、求めています」とし、さらに次のように述べられた。
「だからこそ、神の憐れみに出会うことがとても重要です。特に、神の真理と優しさを体験する和解の秘跡で、神は私たちを非難されるのではなく、喜んで迎え入れ、支え、赦してくくださるのです」。
さらに教皇は、「贖いと罰を混同しない正義のシステムを備えた『優しさの革命』が求められている」とされ、刑務所にいる人々のことを思い起され、「彼らが自分の過ちに対して支払うのは正しいこと。だが、過ちを犯した人々がその過ちから自分自身を贖い出すことができるようにするのは、もっと正しい」とも述べられた。
最後に、教皇は次の祈りを捧げられた。
優しさの父、聖ヨセフ、
私たちの中で最も弱い者も神にしっかりと愛されていることが分かるように、私たちに教えてください
私たちの貧しさと神の愛の偉大さの間に、障害物を置かないように
和解の秘跡に近づきたいという私たちの願望をかき立ててください
私たちが赦され、貧しさの中で私たちの兄弟姉妹を優しく愛することができるように
過ちを犯し、その代償を払っている人たちの近くにいてください
彼らが正義だけでなく、優しさも見つけ、彼らが再び歩み始めることができるように 彼らを助けてください
そして、彼らに再び歩み始める方法を、心から赦しを願うことであることを、教えてください
アーメン。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.1.16 バチカン放送)
教皇フランシスコは16日の正午の祈りの中で、18日から始まる「キリスト教一致祈祷週間」に言及された。
今年のテーマ「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ福音書2章2節)について教皇は、「救い主である王としてお生まれになった方を拝むために、東方からベツレヘムへ旅した東方三博士のエピソードに基づいています」とされた。
そのうえで、「私たちキリスト者は、異なる宗派と伝統の中にあっても、完全な一致を目指し、歩み続ける巡礼者。私たちの主、イエスに眼差しを注げば注ぐほど、その目標に近づくことができます」と説かれ、「『キリスト教一致祈祷週間』の間、私たちの努力や苦しみも、キリスト者の一致のために捧げましょう」と世界のキリスト教徒に宗派を超えて呼びかけられた。
「キリスト教一致祈祷週間」は、「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ福音書17章 21節)というイエスの祈りのもとに、すべてのキリスト者の一致を共に願い祈ることを目的に、毎年1月18日から25日までキリスト教諸教会の参加のもとに行なわれている。
今年のテーマ選択、それに沿った祈りと黙想のテキストは、教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会(WCC)の協力のもと、中東地域の諸教会が参加する中東教会協議会(本部:ベイルート)が中心となって作成された。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis during Sunday’s Angelus (Vatican Media)
(2022.1.16 Vatican News staff writer)
教皇フランシスコは年間第二主日の16日の正午の祈りの説教で、福音書の中に記された”しるし”は、常に私たちのすぐ近くにあって、優しくて、思いやりのある神の愛を明らかにする手がかりとなる、と説かれた。
説教で教皇は、この日のミサで読まれたカナでの婚礼でイエスが水をぶどう酒に変えられた奇跡(ヨハネ福音書2章1‐11節参照)の箇所を取り上げられ、「カナで示されたこの”しるし”は、神の愛を明らかにする手がかりになります」とされ、弟子たちの信仰がこれによってかき立てられたことを説明された。
*神の愛はいつも近くにある
福音書に記されている、この”しるし”は、弟子たちがその後の宣教活動で示した並外れた「力」よりも、神の愛がいかに「常にすぐ近くにあって、優しく、思いやりがある」ことを彼らに教えさせた「愛」に、注意を向けられた。
*愛は控えめに表された
そして、「イエスは控えめに振る舞われ、婚礼の宴会が台無しになるのを防ぎました。そして、ぶどう酒がなくなことについて、そっとイエスの注意を引いたのは聖母でした。主は、この”失態”を表ざたにすることなく、召使いたちに水がめにいっぱいにさせた水をぶどう酒に変える、というなさり方で、”舞台裏”で介入されました」とされ、「このシンプルでありながら驚くべきしるしは、神がどのようにして、私たちのすぐ近くで、個々に働かれるかを示し、その瞬間をさらに素晴らしく、イエスの中にある神の愛を表しているのです」と説かれた。
*神の愛のしるしに注意を払う
さらに、イエスがなさったこの最初のしるしは、「並外れた癒し」ではなく、「人が必要としていることに対する率直で具体的な対応」であり、「これが、行動することを大事に愛される神のなさり方なのです」と指摘。
「カナの婚礼でのマリアのように私たちが願うなら、イエスはいつでも、私たちを助け、私たちを立ち上がらせてくださいます。そして、私たちがそうした”しるし”に注意を払えば、私たちは主の愛に”征服”され、彼の弟子になるのです」と語られた。
*”良いぶどう酒”は私たちの喜びを保証する象徴
カナの婚礼の物語ではまた、もともと水であったのものが、”良いぶどう酒”に変えられたことについても、世話役の言葉を通して述べられている。これについて教皇は、「神が私たちと私たちの幸せにとって、少しでもいいものをー限度や条件を設けず、私たちの喜びが完全で、決して薄められることがないことを保証してくださる、ということを象徴的に示しています」と説かれた。
*日々の生活の中に神の愛のしるしを見つけよう
説教の締めくくりに、教皇は「私たちが記憶をよみがえらせれば、悩み苦しんだ時にあっても、私たちの生活の中に主が働かれ、私たちへの愛を示された”しるし”を発見することができるでしょう… 私たちは主の近さ、優しさの個々の愛情深い”しるし”を心に刻み、心に喜びを感じる必要があります」とされ、次のように祈られた。
「イエスがそばにおられること、そしてマリアの執り成しを体験した時のことを思い起こしましょう。カナの時のようにいつも注意を払っている聖母が、私たちの生活の中に神がおられる”しるし”を大切に心に刻むのを助けてくださいますように」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
File photo: Pope Francis during his Sunday Angelus (ANSA)
Pope Francis addresses the faithful gathered in St Peter’s Square for his Sunday Angelus and asks that on the day of the Baptism of the Lord, they reflect on the importance of prayer and remember the date of their own baptism.
(2022.1.9 Vatican News Francesca Merlo)
「主の洗礼」の祝日の9日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、イエスがヨルダン川のほとりに行き、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面を思い起こされた。
「これがイエスの公の生活が始まりです。 30年ほど目立つことなくお暮しになった後で、イエスがまずなさったことは、奇跡を起こしたり、大きな神殿で登壇して教えたりすることはありません。ヨハネから洗礼を受けることを望んだ罪人たちの列に並ばれることでした」とされ、「こうしてイエスは、私たち多くの罪人と行動を共にされ、私たちのところに降りて来られ、私たち罪人を癒やすための水に沈められたのです」と語られた。
*イエスは祈られる
また教皇は、ルカ福音書で「イエスも洗礼を受けて祈っておられる」(3章21節)と書かれていることに触れて、「イエスは、私たちがしているように祈っておられるのでしょうか」と問いかけられ、「そうです。福音書は、多くの箇所で、イエスは頻繁に祈られること、そして、その祈りは生きた対話、父との親密な関係を示すであることが、語られています」と指摘。この日のミサで読まれた福音書で「私たちはイエスの人生の『二つの動作』を見ることができます。一つは、私たちに向かってヨルダン川の中に降りこられること。もう一つは、祈りの中で眼差しと心を、父に上げることです」と述べられた。
*祈ることは「逃げ道」ではない
そして、「これは私たちにとって素晴らしい教訓になります」とされ、「私たちは皆、人生の問題と多くの複雑な状況の中に置かれ、自分を引きずり降ろそうとする難問や選択を直視するよう求められています… 引きずり込まれ押しつぶされないように、私たちはすべてを引き上げる必要があります」と強調。
「祈ることは、逃げ道ではありません。私たちの内に神が働いてくださるようにする方法です。祈ることは、私たちを助けてくれます。私たちを神に結びつけ、神との出会いへ、私たちを心を開いてくれるからです。祈ることは、主に心を開く鍵なのです」と説かれ、さらに「苦しみの最中にあって、祈ることは、私たちに酸素を、息をする空間を供給し、私たちに物事をもっと広く見るようにさせてくれます」と語られた。
説教の最後に教皇は、「祈ることで、私たちはヨルダン川のイエスと同じ経験をすることができます。私たちを、主なる父に愛された子供のように感じさせます」とされ、「私たちが洗礼を受けた日を忘れないようにしましょう。そして、主の言葉に耳を傾けましょう」と締めくくられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南寿俊二)
教皇フランシスコ、「第30回世界病者の日」に向けメッセージ (Vatican Media)
(2022.1.7 バチカン放送)
2月11日のカトリック教会の第30回「世界病者の日」に向け、教皇フランシスコが7日、メッセージをおくられた。
「世界病者の日」へのメッセージのテーマは「『あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい』(ルカ福音書6章36節)ー 愛の歩みにおいて苦しむ人に寄り添う(仮訳)」。
冒頭で、教皇は、「世界病者の日」にあたって当初予定されていたペルーのアレキパでの記念ミサが、新型コロナ大感染の影響で中止となり、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサが捧げられることになったことを説明された。
そのうえで、「世界病者の日」を機会に、「いかなる時も、父の愛をもって子らを見つめる『憐れみ豊かな神』(エフェソの信徒への手紙2章4節)に眼差しを向けるように」と促され、「神は父の強さと母の優しさをもって、私たちに配慮され、聖霊において新しい命を与えることを望まれます」と強調。
また「憐れみ深い御父の愛の至上の証人は、その御一人子イエスです。福音書には、イエスと病者との出会いが、どれほどたくさん語られていることでしょうか」と問いかけられ、「苦しみは人を孤立させ、その孤立の中から他者への嘆願が生まれます。御父の憐れみそのものであるイエスに倣い、神の愛の証し人として病者に寄り添い、慰めの油と希望のぶどう酒をその傷に注ぐことが重要です」と説かれた。
さらに、「御父のように憐れみ深い者となるように、とのイエスの招きは、とりわけ医療関係者にとって特別な意味を持つもの」と指摘。「医師や、看護師、医療技師、ボランティアなど、苦しむキリストの肉に触れるこれらの人々の手は、御父の憐れみ深い御手のしるしとなることができるのです」と語られた。
教皇は、今日の医療技術の進歩を神に感謝する一方で、「一人ひとりの病者の尊厳や脆さを、忘れてはなりません… 病者は、常に、その人の病気そのものよりも大切。それゆえ、患者の声や事情や不安を考慮せずに、治療を行うことがあってはなりません」とされ、「たとえ回復の見込みがない場合でも、ケアや、慰め、寄り添いは常に可能です。病者に耳を傾け、良い関係を築くことができるような、医療関係者の育成プロセスが望まれます」と希望された。
また、「『世界病者の日』は、ケアを行う場所に対する関心を高める機会でもあります。キリスト教共同体は何世紀にもわたって『善きサマリア人の宿』として、あらゆる病者を受け入れる施設を設けてきました。カトリックの医療機関の重要さを再確認するとともに、この大切な宝を守り、支えていかなくてはなりません」と訴えられた。
そして、「苦しんでいる貧しい人々に対する最悪の差別は、霊的な助けの欠如です。祝福や、御言葉、秘跡を通して、これらの人々に神の寄り添いを伝える必要があります」とされ、「病者への寄り添いと司牧的ケアは、一部の人々の務めではなく、すべてのキリストの弟子の務め。どれだけの病者やお年寄りたちが、人々の訪問を待っていることでしょうか。『お前たちは、私が病気のときに見舞ってくれた』(マタイ福音書25章36節参照)というイエスの言葉を胸にしつつ、病者に慰めをもたらすことは、すべてのキリスト者の義務です」と強調された。
メッセージの最後に教皇は、「病者とその家族が世の苦しみを背負うキリストに一致し、意味と慰めと信頼を見出すことができるように」と聖母の取り次ぎを祈られ、「すべての医療関係者が豊かな憐れみをもって、病者らに適切な治療と兄弟的な寄り添いを与えることができるように」と祈願されている。
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カトリック教会は、毎年2月11日の「ルルドの聖母」の日に「世界病者の日」を記念する。教皇聖ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡「サルヴィフチ・ドローリス – 苦しみのキリスト教意味」(1984年)の精神のもとに1993年に創設されたこの日は、病者がふさわしい援助を受けられるよう、また苦しんでいる人が自らの苦しみの意味を受け止めていくための必要な助けを得られるように祈ると共に、病者とそのケアにあたる人々への関心を教会内はもとより社会に広く呼びかけることを目的としている。
(編集「カトリック・あい」)
1月6日「主の公現」の祭日のお告げの祈りが行われたバチカン・聖ペトロ広場 (ANSA)
(2022.1.6 バチカン放送)
「主の公現」の祭日を迎えた1月6日、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げ、正午にはお告げの祈りを広場の巡礼者たちと共に唱えられた。
教皇は祈りの前に、マタイ福音書の東方からの博士たちのエピソード(2章1-12節参照)を取り上げ、次のような説教を行われた。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
主の公現を祝う今日、福音書は東方からの博士たちのエピソードを語っています。
東方からの博士たちは、ユダヤ人の王を礼拝するために、長く困難な旅に出ます。 (同2,2)。不思議な星に導かれ、ようやく目的地に達した彼らが見たものは、荘厳な何かからはほど遠い、母と共にいる幼子の姿でした。
「こんな貧しい幼子のために、苦難の長旅をしたわけではない」と、彼らは不満を言うこともできたでしょう。しかし、彼らは臆することも、驚くことも、嘆くこともなく、幼子の前にひれ伏しました。
福音は伝えています「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」(同2章11節)。
考えてみてください。遠方からやって来た豊かで学識ある賢者たちが、地面にひれ伏して、幼子を礼拝するのです。この賢者たちが示した、これほどまでに謙虚な態度に驚かされます。
その時代、大きな権力や栄光のしるしを帯びて立つ権威者の前に、ひざまずくことは普通でした。今日でもそれが普通でしょう。しかし、ベツレヘムの幼子の前でひざまずくことは、容易ではありません。神性の隠された神、威光が見えないこの神を礼拝することは、簡単ではありません。それは「小ささの中に表される神の偉大さ」を受け入れるということです。
博士たちは神の論理の前にぬかずきます。想像していたような偉大な姿ではなく、小さく貧しい、そのままの主を受け入れます。この博士たちの態度は、自分自身の思いよりも、神に場を譲る者の姿勢を表しています。
福音書はこの点を強調します。博士たちは、単に礼拝したのではありません。ひれ伏して、拝んだ、と強調しています。礼拝とひれ伏すことが共に語られています。博士たちはこうして、謙遜の中にご自分を示されるお方を、自分たちも謙遜をもって受け入れることを示しているのです。
このように、彼らは神への礼拝に開かれていくのです。開かれた宝の箱は、開かれた彼らの心の象徴です。 博士らの本当の豊かさは、その名声や成功にあったわけではありません。その謙遜に、救いを必要とするその心にあったのです。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、神の御前で、いつも自分の考えにとらわれ、自負するようなら、決して真の出会いにも、礼拝にも、至ることはないでしょう。様々な野望や競争に没頭すれば、人生で誰かと出会い、何かを獲得できるかもしれませんが、それは決して、主ではないでしょう。それに対し、謙遜であり、内的に小さな者となるなら、イエスを真に礼拝する驚きを得るでしょう。なぜなら、礼拝は、心の謙遜から来るものだからです。
高ぶる者が、主の存在に気付くことはありません。博士たちの来訪を受けた時、イエスは皆のそばにいましたが、多くの人から無視されていました。しかし、博士たちはイエスに気付いたのです。
博士たちを見つめながら、「私の謙遜は、どうだろうか」と自問しましょう。
傲慢が私の霊的成長をはばんでいることを、しっかり理解しているでしょうか。神や隣人に奉仕するために、柔軟な心を持つ努力をしているでしょうか。 あるいは、いつも自分のことや、自身の考えにとらわれてはいませんか。神や他人の思いを受け入れるために、自分の見方を犠牲にすることができるでしょうか。何かを必要とする時だけ、祈ったり、礼拝したりしてはいないでしょうか。あるいは、自分はいつもイエスを本当に必要としていると信じて、そのようにしているのでしょうか。
神の仕え女、聖母マリアが、真の謙遜と礼拝が何であるかを理解させてくださいますように。アーメン
(編集「カトリック・あい」=表記は「聖書協会・共同訳」に準じました)
VIDEO
(2022.1.5 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは5日、今年初の水曜一般謁見で、「聖ヨハネについて」の講話を続けられた。講話の中で教皇は、聖ヨセフの父性を振り返り、すべての子供たちが、例え養父と養子の関係であっても、父性愛の絆で結ばれるように、と祈られた。
バチカン放送(日本語課)による講話の要旨は次のとおり。
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今日は、イエスの父親としての聖ヨセフを観想しよう。福音記者マタイとルカは、ヨセフをイエスの「血のつながった実の父親」ではなく、「養父」として示しています。マタイは正確を期して、系図の中でヨセフを「マリアの夫」と定義し、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ福音書1章16節)としている。一方、ルカは系図の冒頭で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ福音書3章23節)としています。
イエスの公の父親として、ヨセフは、子を名付ける権利を持っていました。名付けることは、その子を法的に認めることでもありました。
古来、名前はその人のアイデンティティーを示すものであり、名前を変えるとは、自分自身を変えることを意味していました。名を与えるとは、名付けられたものに及ぶ、自分の権威を示すことでした。
ヨセフは、マリアの子のために神が用意した名前を、すでに知っていまし。「イエス」という名前、それは「神は救う」という意味を持ちます。実際、天使は、ヨセフに「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1章21節)と命じています。
「イエスの養父」としてのヨセフの姿は、父性や母性とは何かを考えさせてくれます。
父であるため、母であるためには、自分の子を世に送り出すだけでは足りません。「父親とは生まれるのでなく、なるものである。ただ自分の子が誕生したからと言って、父になるのではない。責任を持ってその子を世話してこそ、父親になれる。いつでも誰かが他者の人生に責任を負う時は、ある意味で、その人に対し、父性をもって接する、と言える」(使徒的書簡「パトリス・コルデ」)。
特に、自らを開き、養子縁組という道を通して命を受け入れるすべての人たちのことを思う。ヨセフは、このような形の絆が決して二次的なもの、妥協的なものではないことを教えてくれます。こうした選択は、最も気高い愛や父性・母性の形の一つなのです。
いったい世界でどれだけの子どもたちが、誰かが自分の世話をしてくれるのを待っているでしょう。そして、いったいどれだけの夫婦が、父親や母親になりたくても、生物学的理由でそれができないでいることでしょう。あるいは、どれだけの夫婦が、すでに子はいても、家族の愛を経験できない子たちと、家族の愛を分かち合いたく思っていることでしょう。養子縁組の道を選び、受け入れの「リスク」を負うことを恐れてはなりません。
誰一人、父の愛の絆の欠如を感じることがないように。聖ヨセフが孤児たちを守り、助けてくれますように。そして、子を持つことを望む夫婦のために取り次いでくれますように。
聖ヨセフよ、
あなたはイエスを父の愛で愛しました。
お父さん、お母さんを求める、
身寄りのない多くの子どもたちのそばにいてください。
子を持ちたくても持てない夫婦たちを支えてください。
これらの夫婦たちがこの苦しみをとおして、
より大きな計画を見出せるよう助けてください。
誰もが家と絆と気にかけてくれる人を持つことができますように。
いのちに自分を閉ざす人たちが、愛に心を開けるよう、
彼らをエゴイズムから癒やしてください。
アーメン。
(編集「カトリック・あい」)
2022年元日 教皇フランシスコによる正午の祈りの集い バチカン・聖ペトロ広場 (Vatican Media)
(2022.1.1 バチカン放送)
教皇フランシスコは、2022年の元日、バチカンで正午の祈りを巡礼者らと共に唱えられた。
カトリック教会の典礼暦は、一年の最初の日を「神の母聖マリア」に捧げると同時に、「世界平和の日」を記念し、戦争や分裂、憎しみや飢餓などのない平和な世界のために祈る。
教皇フランシスコは、2022年の元日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「神の母聖マリア」の祭日のミサを司式された。そして、正午には、バチカンの広場に集った多くの巡礼者らと共に、「お告げの祈り」を唱えられた。
正午の祈りに先立つ説教で、教皇は「神の母聖マリアに新しい年を託しつつ、新たな歩みを始めよう」と呼びかけられた。
教皇は、天使から主の降誕の知らせを受け、急いで駆けつけた羊飼いたちが探し当てた、「マリアとヨセフ、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」( ルカ福音書2章16節)を改めて観想し、特に「イエスを飼い葉桶に寝かせたばかりの優しく配慮にあふれる母、マリアの姿を想像する」ことを勧められた。
そして、「聖母は御子を自分のために抱きしめるのではなく、私たちに御子を示し、御子を見つめ、受け入れ、礼拝するように、と私たちを招いている」とされ、「マリアの母性、それは生まれた御子を、私たち皆に与えることにあるのです」と語られた。
さらに「新年は、母の腕に抱かれて飼い葉桶に寝かされた神と共に始まります… 幼子イエスの姿は、私たちを優しさをもって勇気づけるものであり、実際、私たちはこの励ましを必要としています」と語られた。
また、教皇は「私たちは今もなお、新型コロナの世界的大感染の影響で不安定な状況を生き、多くの人が未来に不安を抱えています… 「幼子イエスを飼い葉桶に寝かし、私たちに示すマリアは、『他者のために自分を捧げないかぎり、世界は変わらず、皆の生活も良くならない』と私たちに教えているのです」と強調。
さらに、この元日に記念された「世界平和の日」に言及された教皇は、「平和とは、神からの賜物であると同時に、皆で分かち合う努力の実りでもあるのです」とされ、「平和をイエスに祈りながら、私たち自身もあきらめたり、嘆くことなく、積極的に平和の構築に取り組んでいきましょう」と訴えられた。
(編集「カトリック・あい」)
(2021.12.31 バチカン放送)
2021年の大晦日の31日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、翌日祝う「神の母マリア」の祭日の前晩の祈り(第一晩課)が行われた。
教皇フランシスコの参加のもと、枢機卿会首席、ジャン・バッティスタ・レ枢機卿によって司式されたこの晩課では、過ぎた一年を神に感謝し、賛歌「テ・デウム」が捧げられるとともに、聖体降福式がとり行われた。
聖歌の調べに彩られたこの集いの説教で、教皇は「降誕祭に続くこの日々、神の御子の受肉の神秘に対する驚きを新たにするように」と促された。
「降誕祭が心に引き起こすもの、それは驚きと観想です」とされた教皇は、「天使から輝く光のもとに、救い主の誕生の知らせを受け、ベツレヘムで幼子を探し当てた羊飼いたちの驚き、天使が話したことを羊飼いから聞いたマリアとヨセフの驚き、これらの驚きを自分たちのものとするように」と説かれた。
そして、「その驚きの中心にあるもの、それは『言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた』(ヨハネ福音書1章14節)ということです… 神の御母マリアは、その驚きを最初に最も大きな形で体験した方であると同時に最も謙遜な方なのです」と強調。
さらに、「聖母は、主の降誕の真実、神は『その御子を女から』(ガラテヤの信徒への手紙4章4節)お遣わしになった、という真実に、私たちを連れ戻します」とされ、「キリスト教の神秘は、『母が腕に抱く乳飲み子』という現実からあふれ出る神秘です」と語られた。
「マリアの驚き、教会の驚き、それは感謝に満ちたものです」と指摘され、「多くの問題、困難や、心配があっても、神は、私たちを罪の隷属から解放し、子としての尊厳を取り戻させるために『御子をお遣わしになった』(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)、マリアは御子を見つめながら『私たちと共におられる神』を感じていたのです」と話された。
新型コロナウイルスの世界的大感染がもたらしている危機について、教皇は「最初、人々は戸惑い、その後、連帯感が生まれる一方で、『自分だけが救われればいい』という傾向も広がり出しました」と振り返りつつ、「それでも今、再び人々が新たな責任感を取り戻したことは、まさに神に感謝すべきこと」と述べられた
実際、人々の責任ある連帯は、「すべての人は神の子として兄弟姉妹だ」という、人類の「根源的な召命」から来るものという意味で、「この召命を人類の歴史に刻んだ神に、イエスに、感謝しなくてはなりません」と説かれた。
最後に教皇は、「神の母であると共に教会の母であるマリアは、御子を『道』として示し、信頼して従うようにと招いています… 日々の生活の歩みの中で、イエスに信頼をもって従いましょう」と呼びかけられ、「喜びの時も悲しみの時も、私たちはイエスに信頼する、なぜならイエスが与える希望は朽ちない希望だからなのです」と強調された。
(編集「カトリック・あい」)
Migranti: Papa, non chiudiamo occhi, � scandalo sociale (ANSA)
(2021.12.29 バチカン放送)
教皇フランシスコは29日(水)、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、「聖ヨセフについて」の連続講話を再開。「迫害下の勇気ある移民、聖ヨセフ」をテーマに話された。
教皇の講話の要旨は次のとおり。
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今日は、迫害下の勇気ある移民としての聖ヨセフを考えましょう。マタイ福音書には、伝統的に「エジプトへの避難」と呼ばれる出来事が記されています(2章13-23節参照)。
ナザレの聖家族は、不安定な状況の中で恐れや悲しみを抱きながら、自分の土地を後にして逃げる、という状況を自ら体験しました。
今も、いまだ多くの兄弟姉妹が同じような不正義と苦しみを味わっています。原因の大半は権力者の圧政と暴力によるもので、イエスの場合もそうでした。
ヘロデ王は、「ユダヤ人の王」が生まれたことを、東方から来た占星術の学者たちから聞き、不安を抱きました。「自分の権力が脅かされる」と考えたからです。ヘロデはエルサレムの権威者たちを集め、生まれた場所を知ろうとし、学者たちに「自分も拝みたいから、行って、その子のことを詳しく調べ教えてほしい」と頼みました。
しかし、学者たちは幼子イエスを見つけ、拝んだ後、ヘロデのところへは戻らずに、別の道を通って自国に帰って行きました。それを知ったヘロデは、極悪非道な行為に出ます。ベツレヘムと周辺一帯の2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。
その頃、天使がヨセフに「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と告げました(マタイ福音書2章13節)。
聖家族のエジプトへの避難は、イエスを救いましたが、残念ながら、ヘロデによる虐殺を止めることはできませんでした。このエピソードに、私したちは「残酷なヘロデ」と「配慮と勇気に満ちたヨセフ」という、まったく性質の異なる二人の人物の対比を見ます。
ヘロデは、自分の権力を情け容赦ない残忍さをもって守ろうとます。実際、その冷酷さは、彼が妻の一人や、何人もの息子、また無数の敵対者たちを殺害したことにも表れています。ヘロデは古今の多くの暴君の象徴です。彼らにとって重要なのは、権力であって、人民ではありません。
人類の歴史は、恐れにとらわれるがゆえに、それを追い払うために横暴となり、非道な暴力に訴える人物に溢れています。しかし、ヘロデのようになるのは独裁者だけではありません。私たちにも起こりうることなのです。自分の恐れをごまかすために、言葉や権力を振りかざし、近くにいる人を辱めるなら、私たちも小さなヘロデになりかねません。
ヨセフは、ヘロデとは対極にあります。何よりも彼は「正しい人」でした(マタイ福音書1章19節参照)。また、ヨセフは天使の命ずることに勇気をもって応じました。長く危険な旅の間に、どれほどの困難に遭い、異国で過ごすために、どれほどの苦労をしたことでしょう。天使から「危険は去った、マリアとイエスを連れてイスラエルの地に帰るように」と言われて帰還した時も、ヨセフは勇気のもとに行動しました(同2章19-23節参照)。
いつの時代、いかなる文化にも、自分の信仰に忠実に、不正や非難、死さえも恐れず、あらゆる困難を乗り越える、勇気ある人々がいます。勇気は、知恵、節制、正義と共に、いわゆる「枢要徳」(「カトリック・あい」注:古代ギリシア以来の西洋の中心的な徳目のこと。主に4つあるので、四徳などとも言う)をなすものです。
この考察で、ヨセフは次のことを教えてくれます。
「人生には常に逆境があり、それを前に脅威を感じることがある。しかし、ヘロデのように自分の最悪な部分を引き出すのではなく、ヨセフのように神の摂理に信頼し、勇気をもって行動することで、それを克服することができる」と。
すべての移民・難民、迫害されている人々、困難な状況の犠牲になっている、すべての人々のために祈りましょう。また、戦地となった祖国から逃げたくても逃げられない人々、自由を目指しながらも、陸路や、海上で犠牲になった人々のために祈りましょう。ヨセフとマリアの腕に抱かれて避難するイエスの中に、今日のすべての移民・難民たちを見つめましょう。今日の移民・難民たちの現実から目をそむけることはできません。これは人類の社会的に恥ずべき醜聞です。
聖ヨセフよ、
愛する人たちの命を救うために、
避難民となったあなたは、
逃げざるを得ない人々の苦しみを知っています。
戦争、憎悪、飢餓から逃れるすべての人々を守ってください。
試練において彼らを支え、
希望において励ましてください。
彼らが受け入れと連帯を見出すことができますように。
彼らの歩みを導き、
彼らを助ける人々の心を開いてください。
アーメン。
(編集「カトリック・あい」)