☩「高ぶる者が主の存在に気付くことはない」ー「主の公現」の正午の祈りで

教皇フランシスコの、2022年1月6日「主の公現」の祭日のお告げの祈りが行われた、バチカン・聖ペトロ広場1月6日「主の公現」の祭日のお告げの祈りが行われたバチカン・聖ペトロ広場  (ANSA)

   「主の公現」の祭日を迎えた1月6日、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げ、正午にはお告げの祈りを広場の巡礼者たちと共に唱えられた。

 教皇は祈りの前に、マタイ福音書の東方からの博士たちのエピソード(2章1-12節参照)を取り上げ、次のような説教を行われた。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 主の公現を祝う今日、福音書は東方からの博士たちのエピソードを語っています。

 東方からの博士たちは、ユダヤ人の王を礼拝するために、長く困難な旅に出ます。 (同2,2)。不思議な星に導かれ、ようやく目的地に達した彼らが見たものは、荘厳な何かからはほど遠い、母と共にいる幼子の姿でした。

 「こんな貧しい幼子のために、苦難の長旅をしたわけではない」と、彼らは不満を言うこともできたでしょう。しかし、彼らは臆することも、驚くことも、嘆くこともなく、幼子の前にひれ伏しました。

 福音は伝えています「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」(同2章11節)。

 考えてみてください。遠方からやって来た豊かで学識ある賢者たちが、地面にひれ伏して、幼子を礼拝するのです。この賢者たちが示した、これほどまでに謙虚な態度に驚かされます。

 その時代、大きな権力や栄光のしるしを帯びて立つ権威者の前に、ひざまずくことは普通でした。今日でもそれが普通でしょう。しかし、ベツレヘムの幼子の前でひざまずくことは、容易ではありません。神性の隠された神、威光が見えないこの神を礼拝することは、簡単ではありません。それは「小ささの中に表される神の偉大さ」を受け入れるということです。

 博士たちは神の論理の前にぬかずきます。想像していたような偉大な姿ではなく、小さく貧しい、そのままの主を受け入れます。この博士たちの態度は、自分自身の思いよりも、神に場を譲る者の姿勢を表しています。

 福音書はこの点を強調します。博士たちは、単に礼拝したのではありません。ひれ伏して、拝んだ、と強調しています。礼拝とひれ伏すことが共に語られています。博士たちはこうして、謙遜の中にご自分を示されるお方を、自分たちも謙遜をもって受け入れることを示しているのです。

 このように、彼らは神への礼拝に開かれていくのです。開かれた宝の箱は、開かれた彼らの心の象徴です。 博士らの本当の豊かさは、その名声や成功にあったわけではありません。その謙遜に、救いを必要とするその心にあったのです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、神の御前で、いつも自分の考えにとらわれ、自負するようなら、決して真の出会いにも、礼拝にも、至ることはないでしょう。様々な野望や競争に没頭すれば、人生で誰かと出会い、何かを獲得できるかもしれませんが、それは決して、主ではないでしょう。それに対し、謙遜であり、内的に小さな者となるなら、イエスを真に礼拝する驚きを得るでしょう。なぜなら、礼拝は、心の謙遜から来るものだからです。

 高ぶる者が、主の存在に気付くことはありません。博士たちの来訪を受けた時、イエスは皆のそばにいましたが、多くの人から無視されていました。しかし、博士たちはイエスに気付いたのです。

 博士たちを見つめながら、「私の謙遜は、どうだろうか」と自問しましょう。

 傲慢が私の霊的成長をはばんでいることを、しっかり理解しているでしょうか。神や隣人に奉仕するために、柔軟な心を持つ努力をしているでしょうか。 あるいは、いつも自分のことや、自身の考えにとらわれてはいませんか。神や他人の思いを受け入れるために、自分の見方を犠牲にすることができるでしょうか。何かを必要とする時だけ、祈ったり、礼拝したりしてはいないでしょうか。あるいは、自分はいつもイエスを本当に必要としていると信じて、そのようにしているのでしょうか。

 神の仕え女、聖母マリアが、真の謙遜と礼拝が何であるかを理解させてくださいますように。アーメン

(編集「カトリック・あい」=表記は「聖書協会・共同訳」に準じました)

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2022年1月7日