◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」⑥ヨセフは家族愛を分かち合う「養父」の模範

(2022.1.5 Vatican  News Devin Watkins)

   教皇フランシスコは5日、今年初の水曜一般謁見で、「聖ヨハネについて」の講話を続けられた。講話の中で教皇は、聖ヨセフの父性を振り返り、すべての子供たちが、例え養父と養子の関係であっても、父性愛の絆で結ばれるように、と祈られた。

 バチカン放送(日本語課)による講話の要旨は次のとおり。

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 今日は、イエスの父親としての聖ヨセフを観想しよう。福音記者マタイとルカは、ヨセフをイエスの「血のつながった実の父親」ではなく、「養父」として示しています。マタイは正確を期して、系図の中でヨセフを「マリアの夫」と定義し、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ福音書1章16節)としている。一方、ルカは系図の冒頭で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ福音書3章23節)としています。

 イエスの公の父親として、ヨセフは、子を名付ける権利を持っていました。名付けることは、その子を法的に認めることでもありました。

 古来、名前はその人のアイデンティティーを示すものであり、名前を変えるとは、自分自身を変えることを意味していました。名を与えるとは、名付けられたものに及ぶ、自分の権威を示すことでした。

 ヨセフは、マリアの子のために神が用意した名前を、すでに知っていまし。「イエス」という名前、それは「神は救う」という意味を持ちます。実際、天使は、ヨセフに「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ福音書1章21節)と命じています。

 「イエスの養父」としてのヨセフの姿は、父性や母性とは何かを考えさせてくれます。

 父であるため、母であるためには、自分の子を世に送り出すだけでは足りません。「父親とは生まれるのでなく、なるものである。ただ自分の子が誕生したからと言って、父になるのではない。責任を持ってその子を世話してこそ、父親になれる。いつでも誰かが他者の人生に責任を負う時は、ある意味で、その人に対し、父性をもって接する、と言える」(使徒的書簡「パトリス・コルデ」)。

 特に、自らを開き、養子縁組という道を通して命を受け入れるすべての人たちのことを思う。ヨセフは、このような形の絆が決して二次的なもの、妥協的なものではないことを教えてくれます。こうした選択は、最も気高い愛や父性・母性の形の一つなのです。

 いったい世界でどれだけの子どもたちが、誰かが自分の世話をしてくれるのを待っているでしょう。そして、いったいどれだけの夫婦が、父親や母親になりたくても、生物学的理由でそれができないでいることでしょう。あるいは、どれだけの夫婦が、すでに子はいても、家族の愛を経験できない子たちと、家族の愛を分かち合いたく思っていることでしょう。養子縁組の道を選び、受け入れの「リスク」を負うことを恐れてはなりません。

 誰一人、父の愛の絆の欠如を感じることがないように。聖ヨセフが孤児たちを守り、助けてくれますように。そして、子を持つことを望む夫婦のために取り次いでくれますように。

 聖ヨセフよ、
あなたはイエスを父の愛で愛しました。
お父さん、お母さんを求める、
身寄りのない多くの子どもたちのそばにいてください。
子を持ちたくても持てない夫婦たちを支えてください。
これらの夫婦たちがこの苦しみをとおして、
より大きな計画を見出せるよう助けてください。
誰もが家と絆と気にかけてくれる人を持つことができますように。
いのちに自分を閉ざす人たちが、愛に心を開けるよう、
彼らをエゴイズムから癒やしてください。
アーメン。

 (編集「カトリック・あい」)

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2022年1月5日