☩「神は、私たちのただ中に住まうことを強く望まれる」年初の主日、正午の祈りで 

(2022.1.2 Vatican News  Devin Watkins)   新年の最初の主日、主の公現の祭日となった2日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、「神は私たちの間に住むことを強く願われています。ですから、イエスを、私たちの生活、特に私たちが苦労している困難な場所にお招きするように」と信徒たちに促された。

*相反するものがイエスにおいて和解する

 説教で教皇はまず、主の降誕の意味を私たちに明らかにする、正午の祈りでいつも唱えている箇所「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った」(ヨハネ福音書1章14節)を取り上げ、「この言葉には逆説が含まれています。永遠の『言葉』と人間の『肉』は、神が人となられる以前には、正反対のことを意味しました」とされた。

 そして、「『言葉』は、イエスが父の永遠の言葉であり、すべての被造物の前に、いつまでも存在する無限の言葉であることを示し、『肉』は、私たちが作り上げる現実、壊れやすく、限りがあり、死を免れないものを示しています」と説かれ、「天と地」「無限と有限」「精神と物質」「光と闇」は、本来、明らかに相反するもの、とされた。

 にもかかわらず、「イエスにおいて、これらの正反対のすべてが一緒になり、神の子の受肉で和解しているのです」とされ、「イエスは、世の闇に入った神の光。神は光です。神には不透明性さはありません。私たちには暗闇がたくさんありますが、イエスと共に、光と闇ー神聖と罪、恵みと罪ーがであうのです」と強調された。

 

*神は私たちのただ中に住まわれる

 さらに、教皇は、「福音書は、神の驚嘆すべき、なさり方を表すために、こうした相反の極にあるものを使っています」とされたうえで、「神が、私たちの弱さに直面したとき、身を引き、永遠の無限の光の中に戻られることはありません。神はそのようなことをなさらないばかりか、暗闇に降り、ご自分にとって異質な場所に住まわれるのです」とし、次のように語られた。

 「私たちの間に来られる-それが神の働きです。私たちが、自分自身を『価値がない者』と考えても、神は、そのままにはしておかれない。私たちが、神を拒絶しても、神は、私たちを懸命にお探しになる。私たちが、神を受け入れる準備ができておらず、進んで受け入れようとしなくても、神は、私たちのところにおいでになることを強く望まれます」

*私たちの貧しさの中に入って来られる

 また教皇は、「自分自身の価値を疑うので、私たちは、しばしば神から離れたところに立ちます。そうした中で、降誕節は、私たちを、神の視点から物事を見るように誘います… 神は、人間の姿で地上に来ることを望まれます。ですから、イエスの側に行くことで、恐れを克服するように」と信徒たちを強く促された。

 「ベツレヘムの馬小屋を考えてみてください。イエスはその貧しさの中でお生まれになりました。それは、あなたの心を訪ねること、貧しい所に住むことを厭わないこと、を私たちにお告げになるためです」とされ、「福音書が使っている『住む』は、親密さと『完全な分かち合い』を表しているのです」と説かれた。

*「我らの内なる馬小屋」にに住まわれる神

 そうして、「罪深い状態のあるなしに関係なく、私たちの心の中にイエスのための場を作り、降誕節のメッセージを喜びを持って受け入れるようにしましょう… 馬小屋の前にしばしたたずむことで、私たちはイエスを歓迎することができるのです」と信徒たちに呼びかけられた。

 説教の最後に、教皇は、「飼い葉桶に寝かされた幼子の姿は、私たちの現実の、普通の暮らしーすべてがうまくいっているわけではなく、問題だらけの暮らしーの中に住まわれるために来られたイエスを象徴しています… 神は、私たちの日々の暮らしのあらゆる場面のただ中においでになり、私たちがそうした暮らしの様々な問題を、ご自分に話してくれるのを待っておられます」と語られ、次のように締めくくられた。

「私たちの日々の暮らしに、神を公けにお招きしましょうーとくに暗くて湿った所…私たちの『内なる馬小屋』に。そして、神に話しましょうー恐れずに、今起きている社会の、教会の問題について、私たちの抱える個人的な、困難な問題についても。神は、私たちの中に住まわれることを強く望んでおられるのです」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年1月3日