Pope Francis starts the General Audience with the sign of the cross (Vatican Media)
(2022.9.7 Vatican News Benedict Mayaki, SJ)
教皇フランシスコは7日の水曜恒例一般謁見で、先週始められた「識別について」の講話をお続けになった。
今回は、イエズス会の創立者で『霊操』の著者としても知られるロヨラの聖イグナチオを取り上げ、「神が、私たちが予期しない出来事や事故を通して、どのように働かれるか」を考察された。
*ロヨラの聖イグナチオ
講話の中で教皇はまず、ロヨラの聖イグナチオが神の道に入る前に彼が経験したことを振り返られた。
(スペイン北部バスクのロヨラで生まれ、 騎士になるための養成を受けた後、軍人として各地を転戦していた彼は、パンプローナの戦いで砲弾が足に当たって負傷し、父の城で療養生活を送ることになった。暇をもてあました彼は、騎士道物語を読もうとしたが、そのような本がなかったので、仕方がなくキリストの生涯の物語や聖人伝を読みはじめた。そして、彼らのように自己犠牲的な生き方をしたいという望みが生まれ、特にアッシジの聖フランシスコと聖ドミニコの生き方に倣いたいと熱望するようになった。)
聖イグナチオは自分の中で、思考が交互に揺れ動くのを感じ、その違いに気づき始めた。彼は自伝の中で、「この世のことを考えたとき、多くの喜びを感じたが、その後に、乾きと寂しさを感じた」と語り、「裸足でエルサレムに行き、緊縮生活を実践しようと考えた時、そのことを思うだけでなく、これまでの生活をやめたときに、喜びを知った」としている。)
*『時』と思考の落ち着くところ
教皇は、聖イグナチオの経験から、識別の2つの側面がはっきり見て取れる、とされ、その一つは『時』で、「この世を思うことは、当初は魅力的に感じられるが、『時』とともに輝きを失い、むなしく感じ、不満を残します… それとは反対に、神を思うことは、当初、抵抗を感じるが、喜びをもって受け入れたとき、『時』を超えた計り知れない平和をもたらすのです」と説かれた。
そして、私たちの識別力は時とともに向上し、「抽象的な漠然とした仕方によらず、人生の旅路をたどる中で、自分にとって何が良いのかが、分かるようになる」と教皇は語られ、「聖イグナチオは識別のルールの中で、重要な前提を提示していますー『死すべき罪から死すべき罪へと歩む人々の中で、敵は、あからさまな快楽ー彼らをもっとしっかりとつかみ、悪徳と罪の中で成長させるために官能的な喜びと快楽を想像させることーを提供するために、普通に使われる。このような人々の中で、善なる霊は、それとは反対の方法を用い、理性を通して、彼らに痛みを与え、良心に食い込む』」。そして次のように述べられた。
「識別をする人に先立つ歴史があります。知るために欠かすことのできない歴史です。識別は、どちらか二つの可能性に賭けるような、神託や宿命論のたぐいのものではないからです」。
さらに教皇は「実際、私たちが人生で一筋の道を旅するとき、大きな疑問が生じます。そして、自分が探しているものが何かを知るために、その旅に戻らねばなりません… 聖イグナチオは、戦いで怪我をした時、神のことを考えませんでした。神を初めて経験したのは、自分自身の心に聴くことで、それまでの価値観が反転した時でしたー 一見、魅力的であるように思われたものに幻滅し、それほどまぶしさ感じなかったものに、永遠の平和を見い出したのです」と強調された。
*神は計画されていない出来事の中に働かれる
識別のもう一つの側面について、教皇は、「人生で起きることの明らかな不規則性」を指摘された。
聖イグナチオが傷を癒した期間には、彼の周りに、当初読みたいと思っていた、騎士物語の本はなく、聖人の人生についての本だけがあった。「それは、” 起こりうる転機”を内包した、彼にとって予想外の出来事でした。そのことにしばらくした気づいた彼は、聖人たちに倣うことに全力を傾けました」と述べた教皇は、「神は私たちが予期しない出来事を通して、また災難においても働かれます」とされ、マタイの福音書の箇所を示された。
そこでは、他人の畑の中に埋まっていた宝を見つける農夫のたとえ話が語られている。彼は、これを自分の人生でこれまで考えもしなかった授かりもの、と喜び、持ち物すべてを金に換えて、その畑を手に入れた…
講話の最後に教皇は、「識別とは、戦場での足の怪我が、結果として聖イグナチオにとっての宝ををもたらしたように、予期しないような、不愉快な状況さえも、主が御自身を私たちに知らしめる信号を探知する助けとなり、人生を変える出会いが、そこから絶えることなく起きるのです」と信徒たちを励まされた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.9.6 Vatican News Christopher Wells)
教皇フランシスコは、現地時間5日夜放映されたCNNポルトガルとのインタビューで、聖職者による性的虐待から、”シノドスの道”の歩み、対話の重要性、世界青年の日など幅広い質問にお答えになった。
*聖職者の性的虐待には”例外なしの厳しい措置”で対応確認
性的虐待問題について、教皇は「このことははっきりさせたいと思います。教会の男女による虐待、権威の乱用、権力の乱用と性的虐待は、醜悪です。教会の男女は、司祭であろうと、男女の修道者であろうと、男女の一般信徒であろうと、皆、奉仕し、一致し、成長するよう求められています。だが、虐待はそれを破壊してしまうからです」と言明。
続けて、「虐待は、いつの世でも悲劇なものですが、今日も実際に起きている。そのほとんどは家庭の中で、近隣で、スポーツの場で、クラブの施設で、そして学校で起きています。教会内部で起きている虐待は、虐待全体に占める割合はわずかですが、虐待が一件でも、”醜悪”です」、教会関係者の中に、この問題を軽視したり、隠ぺいしたりする傾向がいまだに続いていることを暗に批判。
さらに、現代社会は、虐待の現実をしっかりと認識する必要があり、例えばそれが家庭内で起きたことでも、隠ぺいすることのないようにせねばならず、「教会で起きたことは、正面から取り組む責任が、教会にある」と指摘。「司祭が性的虐待を犯したら、その人間は司祭であり続けることはできません。絶対にです」と述べ、教会が性的虐待に対して”zero tolerance(例外なく厳しい措置を取る)”で対応することを改めて強調された。
*来年の世界青年の日には「”教皇”が参加する」
来年8月にポルトガルのリスボンで開催が予定されている「世界青年の日」については、「聖ヨハネ パウロ 2 世教皇が、世界中の若者を集め、彼らを強め、支援するために始められたもの」とされたうえで、「若者の創造力は、現在に根ざし、未来を見据えたもの… 自分自身を見つけ、未来に向かって進む力」であり、「世界青年の日」は、その力を養い、育てる機会になる、と期待を示された。
そして、その催しに「教皇が参加します… ”フランシスコ”が参加するか、”ヨハネ24世”が参加するか」と語り、催しが開かれる時点で、教皇が交替している可能性を示唆しながら、「それでも、教皇は出かけます」と念を押された。
また教皇は、若者たちに「若者文化に由来する彼らの言葉」で語りかけることが必要、とされ、「そのようにして、彼らが物事をどう解釈するのかを知り、彼らが理解できるやり方で、彼らの日々の生活の経験に従って、対応することができるのです」と指摘。
*祈るときに気が散っても、神が慰めてくださる
ご自身がどのように祈りの生活を送っておられるか尋ねられた教皇は、「毎日、聖務日課を唱え、そしてロザリオの祈りをし、聖書をもとに黙想しています… 要するに、いろいろなやり方で祈ります」とされたうえで、 「神の前に身を置くとき、気が散ってしまうこともありますが、神は気を散らされず、私を慰めてくださいます… 誰もが、聖霊が力づけてくれるように、祈らなればなりません」と説かれた。
そして、「聖霊が私たちに語りかけていることを、どのようにして知ることができるか」について話され、「聖霊はすべての言語で語りますが、違いの中に調和をもたらす方法を知っています…『調和』は教会の感覚であり、宗教的な感覚を持っていても聖霊の働きを欠いている人には、欠けている感覚です」と語られた。
*”シノドス”に調和をもたらすのは聖霊
教皇はまた、来秋の世界代表司教会議(シノドス)を目指して進められている”シノドスの道”の歩みも、「聖霊によって生み出される調和が基調になっている」とされた。
そして、「『sinodシノドス』のルーツは、『ラテン教会は(注:本来キリストの教会が持っていた) synodal(共働的な)特質を失っている』というパウロ6世教皇の現状認識にあります… 今なされている”シノドスの道”は、 synodality(共働性)についての教理を締めくくることを意図しているのです」と説かれ、「シノドスは、誰もが自分の言いたいことを言う”議会”ではありません。シノドスでは、すべての人が聖霊によってもたらされる調和を求められます。シノドスでは、人々が多様な発言をしますが、調和を生み出すのは御霊です」と強調された。
*膝の問題が再発、キエフ、モスクワ訪問可能か定かでない
ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナ問題では、「このような事態になる前に、ロシア、ウクライナ両国の大統領がバチカンを訪問され、私はそれぞれ対話をしました… 対話は常に、進歩につながると信じています」とする一方で、「対話は、しばしば困難です」とも語られた。
そして、かねてから希望を表明されているご自身の両国訪問については、先日のカナダ訪問の後、膝の問題が再発するなど健康上の問題があるため、「キエフ、あるいはモスクワを訪問できるか、定かではありません」とされ、それでも、「私は、自分ができることをしています。皆さんもできることをしてください… 私たちは力を合わせて、何かができる。私は、痛みと祈りをもって、状況を見守ります」とされた。
*「世界青年の日」に向けてー窓を開けて!
このインタビューでは、ミサ典礼や教会における女性の役割、教皇の日課などについても、取り上げられたが、最後に、来年8月の「世界青年の日」に向けた開催国ポルトガルの教会へのメッセージについて問われた教皇は、次のようにお答えになった。
「窓を見てください。そして、自分に問いかけてみてくださいー『私の人生に窓は開いていますか?』と。そうでないなら、できるだけ早く、開いてください。どんな問題があっても、”鼻を壁につけないで”ください。私たちは未来に向かって歩いていること、そのための道があることを知ってください。道を見て… 窓を開けて!”鼻”の向こう、向こうを見て!見て、窓を開いて、地平線を見据え、心を広げてください」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.9.4 Vatican News Thaddeus Jones)
教皇フランシスコが4日、バチカンのサンピエトロ広場で行われたヨハネ・パウロ1世教皇の列福ミサを主宰された。
ミサには、ヨハネ・パウロ1世とゆかり深い、イタリア北部のベッルーノ=フェルトレ教区、ヴィットリオ・ヴェネト教区、ヴェネチア総大司教区をはじめ、世界各地からの巡礼者が参加、イタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領も参列した。
列福の儀式では、ベッルーノ=フェルトレ教区のレナート・マランゴーニ司教が、教皇ヨハネ・パウロ1世の列福を、
教皇フランシスコに願い出、続いて、列福申請代理人ベニアミーノ・ステッラ枢機卿がヨハネ・パウロ1世の略歴を読み上げ、その人となりを振り返った。これを
受けて、教皇フランシスコが、「尊者・神のしもべ、教皇ヨハネ・パウロ1世は、これより福者と呼ばれ、教会法に基づき、任意の場所で、毎年8月26日に記念される」と宣言された。
アレルヤが歌われる中
、聖ペトロ大聖堂の正面バルコニー下に掲げられた福者ヨハネ・パウロ1世の肖像が除幕され、聖遺物として、ヨハネ・パウロ1世が1956年頃「対神徳」について書き記した自筆紙片が祭壇の近くに置かれた。
ミサ中の説教で、教皇フランシスコは、「ヨハネ・パウロ1世の『ほほえみ』は、主のやさしさを伝えるものであった」ことを思い起こし、か彼に倣い、「すべての人を限りなく愛することを主から学ばれ、喜びに満ち、穏やかで、ほほえみを絶やさず、扉を閉ざすことのない教会」となるように、すべての信徒に促された。
またこのミサの最後に、教皇は、全世界に、とくに戦災に苦しむウクライナのために平和の賜物を主が下さるように、ヨハネ・パウロ1世の模範と聖性に満ちた生き方に私たちが習うことができるように、主の完璧な弟子である聖母マリアに執り成しを願われた。
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*イエスの挑戦的な言葉は、私たちへの忠告だ
25000人が参加した列福ミサの説教で、教皇はこの日読まれた福音書の箇所(14章26節以降)を取り上げ、イエスが群衆に投げかけられた「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば… 自分の十字架を負って、私に付いてくる者でなければ、私の弟子ではありえない」との挑戦的な言葉を、私たちはどのように受け止めるか、考察された。
教皇は、主のこの言葉は「私たちが世の中でよく目にする人々の姿ー教師や指導者の”カリスマ性”をもった言葉に騙され、感情のままに未来に希望を抱くが、実際は、社会の不安や願望に乗じて、自分の利益や名誉、権力を得ようとする者たちに利用される」ようにならないように、との私たちへの忠告、と指摘。

*群衆の抱く、世俗的な願望を満たすことは意図されない
そして、「神なさり方は、これとは違います。私たちの願望や弱さを利用したり、安易に約束をなさったり、恩恵をくださったりは、なさいません。主は群衆がたくさん集まるかどうかにも、彼らがご自分に賛同するかどうかにも、関心をお持ちではありません… それよりも、たやすく熱意を持って従うが、必要なことを十分理解していない人々を気にかけておられます」とされ、「(イエスは)ご自分が多くの人に人気があるかどうかなど気にかけず、一人一人に対して、ご自分に従う理由とそれに伴う結果を慎重に識別するように、求めておられるのです」と説かれた。
さらに、「この日のミサの福音書の箇所に登場する群衆の多くは、イエスが自分たちのリーダーとなり、敵から解放してくれることを望んでいました。『すべての問題は容易に解決することのできる人』に対して抱いた、名声と地位、権力を得ることなど、ひたすら世俗的な願望です」と語られ、「このようなことは、イエスのなさり方ではない… イエスの弟子たち、イエスの教会の仕方ではない。挑戦する必要があります」と強調された。
*主は私たちに、自分の十字架を負うことを求められる
また教皇は、「主は、弟子たちに、この愛以外のものすべて、彼らの最も深い愛情と最も素晴らしい宝さえも望まないように、求めておられます」とされ、「主に従うことは、法廷に出たり、凱旋行進に加わること、あるいは終身保険を得ることを意味しない。『自分の十字架を負う』(ルカ福音書 14章27節)ことを意味するのです。イエスがなさったように、自分自身と他の人の重荷を負い、私たちに対する主の寛大で慈しみ深い愛に倣って、自分の人生を賜物として捧げること。それは、私たちの人生全体に関わる決断です」と言明。
*ヨハネ・パウロ1世が語られたように「私たちは神の不滅の愛の対象」
さらに、「イエスの弟子として身を捧げる、ということは、自分自身よりも主に目を向け、十字架につけられた方から、愛する方法を学ぶことを意味します」され、「教皇ヨハネ・パウロ1世は、「私たちは神の不滅の愛の対象です」(1978 年 9 月 10 日の正午の祈り)と語っておられます。不滅の愛、それは私たちの人生の地平線の下に沈むことはありません。常に私たちを照らし、暗黒の闇に包まれた夜さえも、照らしてくれます」と語られた。
そして、「私たちが十字架につけられた主を見上げる時、自分自身に向けた関心に打ち勝ち、神とすべてのところにいる人々、物の見方が自分と違う人、そして敵である人さえも愛するように、私たちは求められているのです」と述べられた。
*愛はリスクを冒し、妥協しないことを求める
続けて教皇は、「愛には、犠牲、沈黙、誤解、孤独、抵抗、迫害が伴うことがあります。愛は私たちに、リスクを冒すことを求め、決して妥協しないよう求めますー主の弟子になるために必要な、決定的な一歩を踏み出し、真に主に献身し、他の人を助けよ、と」。そして、ヨハネ・パウロ1世の言葉を再度する形で、「十字架につけられたイエスの接吻したいなら、『十字架の上にかがみ込み、主の頭の王冠のとげに刺されるようにすること』(1978 年 9 月 27 日の一般謁見で)です。とげも何もかも、最後まで耐え抜く愛、すべてを中途半端なままにしない、手抜きしない、困難から逃れない、ことです」と語られた。

*福音の喜びに生きたヨハネ パウロ 1 世は私たちの、教会の模範
また教皇は、ヨハネ パウロ 1 世が私たちに示された模範ー「妥協することなく、最後まで愛し抜き」、福音の喜びを生きたこと、自分の栄光を求めず、「柔和で謙虚な司牧者」として生きたこと、を改めて思い起こされた。
そして、「教皇は、ほほえみをもって、主の善(慈しみ)を伝えることができました。喜びに満ちた顔、穏やかな顔、ほほえみの顔をもつ教会は、何と美しいことでしょう。それは、決して扉を閉めず、いらだたない教会、不平不満を言わず、恨みを抱かず、怒らず、短気ではない教会、不愛想な姿を見せず、後戻り主義(indietrismo)に陥って過去へのノスタルジー(郷愁)に苦しむことのない教会…」と、現代の教会、司教や司祭、信徒たちが抱える問題を暗示しつつ、語られた。
最後に、私たちが主から「魂のほほえみ」をいただくのを助けてくださるよう、ヨハネ パウロ 1 世に願うこと、そして、次のような彼の言葉で祈るよう、全ての人に強く促されたー「主よ、欠点と短所のあるありのままの私を受け入れ、あなたがお望みになる私になるようにしてください」。
(2022.8.31 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは31日の水曜恒例一般謁見で、「識別について」と題する新たな連続講話を始められた。そして、「人生で何が最善かを選ぶには、神との深いつながりが必要です」と述べられた。
連続講話の初めに教皇は、「『識別する』とはどういうことでしょうか」と会衆に問いかけられ、「識別する力は、豊かな人生を送るために、誰もが身につけねばなりません」と指摘。「私たちは、人生で、何を食べるか、何を着るか、何を学習ぶか、何を仕事にするか、どのような人間関係をもつか、などを選択していきます… そして、これらの選択によって、人生の計画が実現し、神との関係も実現するのです」と説かれた。
そして、「イエスがしばしばなさったのは、良い魚や最高の真珠を選ぶときに、あるいは宝物を見つけたときに、何をすべきかなど、日々の暮らしの身近な例を取り上げて、識別について語ることでした」とされ、「識別する力は、好機をつかむための知性、技能、そして意志の行使として現れます。それらは、良い選択をするための条件です」と言明。
また、「一連の選択肢の中から最良のものを選ぶことには、私たちの感情も関係していいる。よくできた選択は私たちに大きな喜びをもたらすからです」と付け加えられた。
教皇はさらに、イエスが識別力を説明する際に日々の暮らしの身近な例を使われたのは、「神の王国が暮らしにおける通常の振る舞いの中に明示され、私たちに毅然とした態度をとることを求めるからです…. だからこそ、識別する能力が非常に重要なのです。そして、素晴らしい選択は、一見、大したことのないように見える、決定的な状況からなされることがあります」と語られた。
続けて教皇は、「識別には、知識、経験、感情、意志など、いくつかの要素が欠かせません。そして、識別には大変な努力が必要です。聖書によれば、私たちの人生はあらかじめ決まってはいない。神は私たちの意思を尊重され、自分で選ぶように促しておられます。神は私たちを自由な存在として創造され、自由を行使することを望まれます。だから、識別力が求められるのです」と強調。
そして、「私たちのほとんどに、良い選択だと思ったことが、後になって、間違っていたことに気が付いた経験があります… そして、真の善が何かを知っていても、選択しなかったことも多い」とされ、(そのようなことのないように)神は、聖書の最初のページでアダムに、幸せになるための具体的な識別について次のように教えています」と語られた。
「もしあなたが生きたいなら、幸せな人生を送りたいなら、自分が被造物であり、自分が善悪の基準ではないこと、そして自分が下す選択は、自分に、他の人に、そして世界に、結果について責任を取らねばならないことを忘れはならない(創世記2章16‐17節参照)」と。
教皇は、識別する力は「私たちが生きていくために欠かすことのできないものであり、その力によって、『今ここで、自分にとって何が良いことか」を知る必要がある、とも指摘され、「(識別には)何よりも神と私たちの”親子の関係”が求められます。神は父であり、私たちを(誤った識別をするのを)放っておくことはない。いつでも私たちに喜んで助言し、励まし、歓迎してくださいます。ただし、神はご自身の意思を私たちに押し付けることは、決してなさいません」と強調された。
講話の最後に、教皇は、「神は私たちがご自分を恐れるのではなく、愛することを望んでおられること」を改めて思い起こされ、「愛は自由の中でのみ、生きることができる… 生きることを学ぶには、愛することを学ばなければならず、そのためには識別が必要です」と念を押された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.8.31 バチカン放送)
カトリック教会では、毎年9月1日(日本の教会は9月の第一日曜日、今年は4日)を「被造物を大切にする世界祈願日」、同日からアッシジの聖フランシスコを記念する10月4日までを「被造物の季節」の月間としている。
これに先立つ8月31日、教皇フランシスコは水曜恒例の一般謁見の説教で、今年の「被造物の季節」のテーマ「被造物の声を聴きなさい」を紹介しつつ、、この月間が「私たちの共通の家」をいたわる具体的な取り組みを促すものとなるよう、願われた。
説教で教皇は、「私たちの行き過ぎた消費主義が広がる中で、姉妹なる大地はうめき、搾取と破壊を止めるように私たちに強く求めています」とされ、「被造物の季節」を機会に、国連の気候変動枠組条約第27回締約国会議(COP27)と生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)が「気候変動」と「生物多様性の減少」という二つの危機に決然と対応するため、人類家族の一致を祈るように、すべての人に求められた。
(編集「カトリック・あい」)
(2022.8.30 Vatican News Thaddeus Jones)
27日の新枢機卿の叙任式、それに続くバチカン改革の使徒憲章「Praedicate Evangelium」を主題とする枢機卿会議の締めくくりとして、教皇フランシスコが30 日夕、聖ペトロ大聖堂で枢機卿団と共にミサを捧げられ、説教の中で、「神の救いの計画の前で、驚きと感謝を新たにするように」と呼びかけられた。
*神は救いの計画への参加を呼びかけられる
続けて教皇は、「私たちは、神の救いの計画に驚嘆するだけでなく、神が私たちに、その計画に与るよう求めておられることに、さらに驚かされますー復活されたキリストが使徒たちに告げられた派遣の言葉ー「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい』(マタイ福音書28章19-20節)に」と強調された。
また、この派遣命令に続いて、イエスは「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節後半)と言われ、弟子たちを安心させたが、教皇は「この言葉と約束は今生きている私たちに与えられ、(イエスが弟子たちに語られてから)2000年後の私たちの心を奮い立たせます。世界に福音を宣べ伝えるといく神の決断が”落ちこぼれの弟子たちの集団”から実行に移されたことに、さらに驚かされます。そのことをまだおかしく思う人もいますが、私たちに希望をくれる言葉です」と述べられた。
そして、「このような驚きは、救いへの道なのです!神が私たちの心の中に驚きを生き続けさせ、『自分たちが物事を取り仕切ることができるのだ』と考える誘惑に囚われることのないようにしてくださいますように」と祈られ、「『今は、イエスが地上におられた当時とはすべてが異なっており、すべてが整ってい』というような誤った安心感を持たないように。さもないと、”虚偽の父(サタン)”によって、キリストに付き従うものを世俗にまみれさせ、(彼にとって)”無害”にされてしまう」と警告された。

Pope Francis greets a family at Mass in L’Aquila (Vatican Media)
(2022.8.28 Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコが28日、イタリア中部、ラクイラで、ケレスティヌス5世教皇(在位1294年7月5日 – 12月13日)にちなんだ「チェレスティーノ(ケレスティヌス)の赦し」の祝いのミサを捧げられ、説教で、教皇職を全うせずに退任したケレスティヌス5世のしばしば誤解されている「勇気ある証し」とともに「全てのことを成し遂げられる神の力」に注意を向けられた。
ミサは、2009年のラクイラ地震で壊滅的な被害を受け、2017年12月に復旧したコッレマッジョ聖マリア大聖堂前の広場で捧げられた。
ミサ中の説教で、教皇はまず、「聖人たち、ケレスティヌス 5 世教皇、そして私たちを解放し喜びをもたらされる神の憐れみ」に注意を向け、「聖徒たちの人生は、イエスが福音を宣べ伝えるために来られたという『良い便り』を私たちが垣間見ることの特別の視野を提供してくれます。神は私たちの父であり、私たち一人一人を愛してくださっているーこれが福音の核心であり、イエスはこの愛の証、神の化身、顔です」と語られた。
*教皇ケレスティヌス 5 世は誤解されている
そして、28日がラクイラにとって「特別な日」、「チェレスティーノの赦し」の日であり、1294年に教皇職を退いたケレスティヌス5世の遺物がこの地に保存されていること、そしてケレスティヌス5世が「自らを謙虚にし」、神の意に適う行為をしたことを強調され、「私たちは、ケレスティヌス5世を『はなはだしい拒絶をした人だ』と誤解しています。それはダンテが『神曲』でそう表現したからです。実際は、彼は『いいえ』ではなく、『はい』と言う人でした」と指摘。
さらに、「実際のところ、謙虚な人の力を使う以外に、神の意志を達成する方法はありません… 謙虚な人は、人々には弱く、敗者のように見えますが、本当は、彼らは征服者なのです。なぜなら、彼らは主に完全に信頼し、主の意志を知っているからです」とされ、「神がその奥義を明らかにされるのは、謙虚な人たちに対してであり、謙虚さによって神は称えられます」と語られた。そして、「”おごり高ぶり”に支配されることが多いこの世界で、神の御言葉は、謙虚に柔和になるよう、私たちに求めておられるのです」と強調された。
*神はすべてのことを成し遂げられる
続けて教皇は、「謙虚さは、自分自身を軽視することではなく、自分の可能性と惨めさを認識させる健全な現実主義にある」とされ、「自分の惨めさを認識するところから始まる謙虚さは、私たちの視線を自分自身から離し、神ーすべてのことがお出来になり、私たちが自分だけでは得られないものを私たちのために手に入れてくださる方ーに向けさせます。すべてのことは、信じる者のためになされるのです」と説かれた。
また、「謙虚な人の力は主、戦略や人間の手段ではない… その意味で、ケレスティヌス5世は、福音の勇気ある証人でした。それは、彼を投獄したり支配したりできる論理や力が存在しなかったからです。私たちは彼において、世俗的な論理に動かされず、憐みである神の名を完全に証しする教会を、称賛します… これがまさに福音の核心。憐みは、みじめな状態にある私たちが愛されていることを知るからです」と語られ、神の御子キリストとその憐れみに近づくように常に務めることを、すべての信徒に勧められた。
*セレスティヌス 5 世が残した賜物-慈しみ、赦し
さらに教皇は、「ラクイラは何世紀にもわたって、が残された賜物を生かし続けてきました… その賜物とは、慈しみさえあれば、すべての男性。すべての女性が喜びをもって人生を送ることができる、ということを思い起させてくれるもの。慈しみとは、喜びをもって受け入れられた、立ち直った、強められた、癒された、励まされた、と感じる体験をさせることものです。『赦される』とは、復活のすぐそばに来ているということを今、ここで体験すること。『赦し』とは、『死』から『生』へ、『苦悩と罪悪感』から『自由と喜び』へ移ることです」と強調。
そして、「私たちの教会が、いつも人々が和解することのできる場であり、私たちを立ち直らせ、もう一度チャンスを与えてくれる恵みを体験できる場でありますように。『年に一度』ではなく、『いつも』赦しの教会であるように」と祈られた。
*ラクイラが真に赦しと平和、和解の都となるように
教皇はまた、壊滅的な2009年の地震の後、ラクイラの人々がどれほど苦しんだかを振り返られ、別の種類の苦しみである「魂の地震」を警告され、「このような”地震”は、私たち自身の弱さ、限界、惨めさを痛感させますが、人生が私たちを苦しめるの受け入れ、あるいは柔和さを学ぶことができる」とする一方で、「あまりにも多くの場合、人々は自分の価値を、自分がこの世界で占めている場に置いている」とされた。
そして、「自分の人生が、世俗的な経歴を積むのではなく、『仕えられるのでなく仕えるために来られた』とご自身で言われたキリストのなされかたで経歴を積むことだ、とキリスト教徒は知っています」と言明。「『福音のもたらす革命』が、このような自由に含まれていることを理解しない限り、私たちは、戦争、暴力、不正を目の当たりにし続けるでしょう」と警告された。
最後に教皇は、「兄弟姉妹の皆さん、ラクイラが真に赦しと平和、和解の都となりますように!そして、聖母マリアの執り成しで、全世界に赦しと平和がもたらされますように」と祈られた。
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*「カトリック・あい」注:ケレスティヌス5世はベネディクト16世教皇以前に存命中に退任した数少ない教皇の一人。イタリアとカトリックのメディアの間は、85歳のフランシスコが先月に車椅子の使用を余儀なくされた歩行上の支障など身体的な問題が増えてきていることから、ベネディクト16世に倣うことを考えておられるのではないか、との憶測が流れていた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.8.24 バチカン放送)
教皇フランシスコは24日、水曜恒例の一般謁見で、「老年の意味と価値について」の18回にわたる講話を、聖母の被昇天についての考察で締めくくられた。
教皇の講話の要旨は次のとおり。
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「被造物全体が今に至るまで、共に呻(うめ)き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖(あがな)われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです」(ローマの信徒への手紙8章22-24節)。
私たちは、先日、イエスの御母の被昇天を祝いました。この神秘はマリアの運命を形づけた恵みの完成を照らしています。そして、これは私たちの行先をも照らし出すのです。この天にあげられた、おとめマリアの姿をもって、「老年の意味と価値について」の講話を締めくくりたいと思います。
西欧の教会では、私たちは「天に上げられ光に包まれた聖母」を観想します。東方教会では、「使徒たちに囲まれて眠りについた聖母」が描かれ、一方で「復活された主が小さな子どものように両手で彼女を抱きしめている姿」があります。
神学では、「聖母の被昇天」と死との関係を常に考察されてきました。聖母の被昇天の神秘と御子の復活との関係を研究することは、さらに重要でしょう。マリアを、復活したキリストと再び結び合わせる、この神の業において、それは、人間の死がもたらす通常的な体の腐敗の超越だけでなく、キリスト者の体の復活の先取りを意味しています。
それを、イエスは、ニコデモとの対話で「新たに生まれる」ことと説明(ヨハネ福音書3章3-8節参照)されます。最初の誕生が地上のものであるなら、二度目の誕生は天におけるもの。この神秘をめぐり、使徒聖パウロは「産みの苦しみ」( ローマの信徒への手紙8章22節)と表現しています。
母親の胎から出た私たちは、胎内にいた同じ私たちたちです。同じ様に、私たちが天国に生まれても、それは地上を歩んでいたのと同じ私たちなのです。イエスにおいても、復活したイエスは、同じイエスであり、その人性も、過去も、有体性も失われることはありません。なぜなら、これら無くしては、イエスはもう、イエスではないからです。
イエスは復活後、40日にわたって弟子たちにお現れになりました。主は、受難の傷を弟子たちにお見せになりましたが、それはもはや彼らを意気消沈させる辛い傷ではなく、最後まで忠実な愛の消しがたい証しでした。復活されたイエスはその体と共に、神の三位一体の親密さを生きておられます。
イエスはご自分の友に約束されましたー「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ福音書14章3節)。
復活されたイエスは神の世界に生きておられ、そこには皆のために場所が用意されています。それは新しい地であり、人間の終の住まいである天の都市が築かれつつあるのです。私したちは自分の死すべき体のこの変容について想像することはできませんが、それぞれの顔を見分けることができ、神の天において人間として留まることができる、と確信しています。そこで私たちはこのうえない感動をもって、永遠の神の創造の業にあずかり、尽きることのない冒険を自ら体験するでしょう。
天の王国について語る福音書の言葉を真摯に受け止めることは、神の創造的な愛を味わう感受性を高め、私たちが種をまいている命の未知の行き先へ、心を合わせることを可能にしてくれます。
私たちの命全体は、花を咲かせ、実をつけるために埋められる種のようなものです。世のすべてのものと一緒に、それは生まれ出ます。生みの苦しみや苦痛は避けられなくても、それは生まれます( ヨハネ16章21-23節参照)。そして、復活した私たちの命は、この地上で与えられたものの百倍、千倍も生き生きしたものとなるでしょう(マルコ福音書10章28-31節参照)。
復活された主は、弟子たちを湖畔で待っている間に魚を焼かれ(ヨハネ福音書21章9節)、弟子たちにお与えになりました。この配慮に満ちた愛の行為は、私たちが”向こう岸”に渡った時に待っていてくれるものを直感させます。
兄弟姉妹の皆さん、特に高齢者の皆さん、人生の最も素晴らしいことが起こるのは、まだこれからです」
(編集「カトリック・あい」=引用された聖書の日本語訳は、原典に忠実で、現代日本語としてもすぐれている「聖書協会・共同訳」に替えてあります。表記は”ひらがな”の多用を避け、読みやすく、意味も取りやすい当用漢字表記に原則として直しました)
Refugees from Ukraine, now six months into war
(2022.8.24 Vatican News staff reporter)
ロシアによる軍事侵攻が始まって6か月となった24日、教皇フランシスコは水曜恒例の一般謁見の席で、「この半年の間、戦乱の恐怖に苦しみ続けているウクライナ国民に、主の平和がもたらされるように祈ってください」と世界の人々に呼びかけられた。
教皇はこの戦争を「狂気だ」とし、ウクライナ、ロシア双方の多くの孤児のことを思い起こすとともに、同じような苦しみを味わっているシリア、イエメン、ミャンマーなどの紛争犠牲者についても忘れることにないように、と世界の人々に求められた。
*「原発の大惨事を回避する具体的措置」をロシアなどに要請
また教皇はウクライナでいま最も差し迫った危険があるザポリージャ原子力発電所をめぐる状況を念頭に、「大惨事のリスクを回避するため」に具体的な措置をとるようロシアなど関係国の指導者たちに要請した。
さらに、世界のすべての戦争捕虜を思い起こされ、当事国指導者にすみやかな解放実現を求めた。
*増え続ける子供たちの犠牲、孤児の増加に憂慮
教皇は、ロシアの軍事侵攻で犠牲となった多くの子供たち、多くの心身に傷を負った人たち、難民となった人たちに思いをはせるとともに、親を失い孤児となった子供たちについて「国籍など関係ない。ロシア人であろうとウクライナ人であろうと、彼らは自分の親を失ったのです」とその数が増え続けていることに憂慮された。
続けて、「いかに多くの罪のない人々が、これほどの残酷な目に遭い、苦しんでいることでしょうか… これは狂気です。戦争は狂気です」と述べ、モスクワの近くで自動車爆破で殺された少女も思い起こされ、「戦争の狂気です。車の爆破で殺された哀れな少女… 罪のない人が戦争の代償を払わされている。罪のない人がです!このような現実について考え、互いに言い合いましょう―『戦争は狂気だ』と」と訴えられた。
さらに教皇は、武器取引から利益を得る人々を「人類を殺す犯罪者」と非難された。
*世界の数々の紛争に苦しむ人も忘れないように
最後に、教皇は、ウクライナの人々にとどまらず、10年以上にわたって内戦が続くシリア、極めて多くの子どもたちが餓死しかけているイエメン、不正義のために故郷を捨てるのを余儀なくされているミャンマーのロヒンギャの人々など、紛争で破滅状態に陥っている国々の人々の苦しみについても、忘れないように、世界の人々に呼びかけられた。
そして、教皇がマリアの汚れなき御心に奉献されたウクライナとロシアの二つの国に一日も早く平和がもたらされるように改めて願われた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
Nicaragua: Churches around the world express solidarity and prayer for the Catholic community in the country (AFP or licensors)
(2022.8.22 カトリック・あい)
南米ニカラグアで、独裁色を強めるオルテガ大統領の下で高まる政治・社会的な緊張を背景に、聖職者、カトリック系放送局の閉鎖、市民組織の活動停止、マザー・テレサ創設の女子修道会「神の愛の宣教者会」の国外追放など、オルテガ政権による教会弾圧が強まっている。
このような状況について国連を含む国際社会に批判の声が高まる中で、バチカンは”沈黙”を続けてきたが、教皇フランシスコは21日、年間第21主日の正午の祈りの中で初めてこの問題を取り上げ、強い悲しみと懸念を表明された。
カトリック教会では先週にも、首都マナグアのアルバレス司教はじめ数人の司祭、神学生が、反政府の暴徒集団を組織した疑いで逮捕され、現在の自宅軟禁の状態に置かれ、司教館が多くの警察によって家宅捜査されるなどの事態となっている。
教皇はこのような事態について、「私は懸念と悲しみをもって、ニカラグアの状況を注視しています」とされ、オルテガ大統領を首班とする政権への批判を避けつつ、「開かれた、誠実な対話を通じて、尊重し合い、平和に共存するための基盤を見い出すことができるように」と願われ、「すべての人の心にそうすることへの確固たる意志を燃え立たせる」ように、無原罪の御宿りのマリア、ニカラグアの人々に大切にされている”Purisima”に、執り成しを祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
(2022.8.15 Vatican News Deborah Castellano Lubov)
教皇フランシスコは15日、聖母被昇天の祝日にあたっての正午の祈りの説教で、信徒たちに、聖母マリアが私たち一人一人の手を取ってくださっていることを思い起こし、その神への信頼、忠実、そして”徹底した”模範に従うことを喜びとするように促され、「私たちの母であるマリアは、私たちの手を取り、歩みを共にし、喜びに誘ってくださいます」と語られた。
説教で、教皇はこの日のミサで読まれたルカ福音書に書かれたマリアがエリサベトを訪ね、二人が交わした会話を思い起こされ、「私たちの人生のあらゆる瞬間におけるマリアの積極的な役割と存在を認識するように、と語っているのです」とされたうえで、マリアの模範から学び、私たちは神がそばにおられることを知り、力づけてくださるようにすることができるか、自問するように勧められた。
そして、「優しさと小ささを通して、偉大なことを成し遂げる神の業を、私は識別できるでしょうか?… この聖母被昇天の祝日に、マリアは希望を歌い、私たちの心に希望の火を再び灯してくださいます」と信徒たちを励まされた。
*私たちの手を取り、喜びに誘うマリア
また教皇は、「聖母は、全身全霊をかけて天国にゴールする勝利を収めた、最初の被造物」とされ、「私たちに教えてくれていますー罪に屈することなく、謙遜をもって神を讃え、灌漑さをもって他の人々に仕えるなら、天国は手の届くところにある、と。私たちの母マリアは、私たちの手を取り、栄光への道を共に歩み、天国について思いをはせる喜びに誘ってくださるのです」と強調。
*美しく親しみのこもった”’Hail Mary”の祈りを唱える力
さらに教皇は、マリアが、いとこのエリサベトの家を訪ね、彼女に挨拶したのに対して、エリサベトが「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています」と言ったこと、信仰と喜び、不思議に満ちたその言葉が、”Hail Mary”(「こんにちは、マリア」の意味。カトリック中央協議会は「アベマリア」という表現)の祈りの一部になったことを思い起こされ、「とても美しく親しみのこもったこの祈りを唱えるたびに、私たちはエリザベスがしたようにしますーマリアに挨拶し、彼女を祝福します。それは、彼女が私たちのところにイエスを連れてきてくださるから、です」と説かれた。
そして、「マリアは、エリサベトの祝福を受け入れただけでなく、それに応えるMagnificat(マリアの賛歌)で、歴史の中での神の業に思いをはせ、主が力ある者をその座から降ろし身分の低い者を高くあげられたこと、飢えた人々を良いもので満たし、金持ちを空にして放り出したことを強調しています」とされたうえで、「この賛歌の言葉を聞いて、私たちは『乙女マリアは大げさに言っているのではないか、存在しない世界について述べているのではないか。貧しく、飢えた人たちはいまだにいるし、金持ちは繁栄を続けているのに』と考えるかも知れませんね」と信徒たちに問いかけられた。
*聖母は根本的な変化を告げられる
教皇は続けて、「マリアの賛歌は、時間軸に従って語ることを意図していません。それよりももっと重要なことを私たちに伝えようとしている。特に、神が、彼女を通して、歴史的な転換を画され、物事の新しい秩序を確立されたということ、をです」と述べた。
さらに、「マリアは、小さく、謙虚な方として成長し、世の力ある者たちが空手のままでいることを運命づけられる一方で、私たちが今日、祝っているように、天国の栄光に導かれました。そのことは言い換えれば、徹底した変革、価値の転換を告げるのです… 彼女は、息子イエスが語るであろうことを予測し”預言”しますーイエスは、貧しく、謙虚な者を祝福し、金持ちと自分自身が満足することに価値を置いている者たちに警告を与えるであろう、と。彼女は、奉仕と謙遜、そして愛が、権力や世俗的成功、そして金に勝ることを、すでに理解していたのです」と語られた。
*マリアの預言的な声は天国への道を明らかにする
説教の最後に教皇は、「栄光に包まれたマリアを見て、私たちは、真の力は奉仕であり、統治することは愛することだと理解します。これが天国への道なのです。私たちは思案するかも知れませんー『マリアが告げたこの予言的な”逆転”は、自分の人生に影響を与えるのだろうか?愛することが支配することで、奉仕することが力だということを、自分は信じるのか?自分の人生の目的は天国、楽園なのか?それとも、世俗的、物質的なものだけに関心があるのだろうか?』と」と問いかけたうえで、「悲観論にとらわれないように。神を信頼するように」と信徒たちを励まされ、次のように締めくくられた。
「私たちの祈りでマリアを祝福し、この地上で天国を垣間見ることができる、預言的な視野をくださるように願いましょう」
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)