☩教皇、ヨハネ・パウロ1世を列福、「私たちが『魂のほほえみ』を得るのを助けてください」

(2022.9.4 Vatican News   Thaddeus Jones)

  教皇フランシスコが4日、バチカンのサンピエトロ広場で行われたヨハネ・パウロ1世教皇の列福ミサを主宰された。

 ミサには、ヨハネ・パウロ1世とゆかり深い、イタリア北部のベッルーノ=フェルトレ教区、ヴィットリオ・ヴェネト教区、ヴェネチア総大司教区をはじめ、世界各地からの巡礼者が参加、イタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領も参列した。

 列福の儀式では、ベッルーノ=フェルトレ教区のレナート・マランゴーニ司教が、教皇ヨハネ・パウロ1世の列福を、

 

教皇フランシスコに願い出、続いて、列福申請代理人ベニアミーノ・ステッラ枢機卿がヨハネ・パウロ1世の略歴を読み上げ、その人となりを振り返った。これを

受けて、教皇フランシスコが、「尊者・神のしもべ、教皇ヨハネ・パウロ1世は、これより福者と呼ばれ、教会法に基づき、任意の場所で、毎年8月26日に記念される」と宣言された。

 アレルヤが歌われる中、聖ペトロ大聖堂の正面バルコニー下に掲げられた福者ヨハネ・パウロ1世の肖像が除幕され、聖遺物として、ヨハネ・パウロ1世が1956年頃「対神徳」について書き記した自筆紙片が祭壇の近くに置かれた。

 ミサ中の説教で、教皇フランシスコは、「ヨハネ・パウロ1世の『ほほえみ』は、主のやさしさを伝えるものであった」ことを思い起こし、か彼に倣い、「すべての人を限りなく愛することを主から学ばれ、喜びに満ち、穏やかで、ほほえみを絶やさず、扉を閉ざすことのない教会」となるように、すべての信徒に促された。

 またこのミサの最後に、教皇は、全世界に、とくに戦災に苦しむウクライナのために平和の賜物を主が下さるように、ヨハネ・パウロ1世の模範と聖性に満ちた生き方に私たちが習うことができるように、主の完璧な弟子である聖母マリアに執り成しを願われた。

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*イエスの挑戦的な言葉は、私たちへの忠告だ

 25000人が参加した列福ミサの説教で、教皇はこの日読まれた福音書の箇所(14章26節以降)を取り上げ、イエスが群衆に投げかけられた「父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば… 自分の十字架を負って、私に付いてくる者でなければ、私の弟子ではありえない」との挑戦的な言葉を、私たちはどのように受け止めるか、考察された。

 教皇は、主のこの言葉は「私たちが世の中でよく目にする人々の姿ー教師や指導者の”カリスマ性”をもった言葉に騙され、感情のままに未来に希望を抱くが、実際は、社会の不安や願望に乗じて、自分の利益や名誉、権力を得ようとする者たちに利用される」ようにならないように、との私たちへの忠告、と指摘。

 

*群衆の抱く、世俗的な願望を満たすことは意図されない

 そして、「神なさり方は、これとは違います。私たちの願望や弱さを利用したり、安易に約束をなさったり、恩恵をくださったりは、なさいません。主は群衆がたくさん集まるかどうかにも、彼らがご自分に賛同するかどうかにも、関心をお持ちではありません… それよりも、たやすく熱意を持って従うが、必要なことを十分理解していない人々を気にかけておられます」とされ、「(イエスは)ご自分が多くの人に人気があるかどうかなど気にかけず、一人一人に対して、ご自分に従う理由とそれに伴う結果を慎重に識別するように、求めておられるのです」と説かれた。

 さらに、「この日のミサの福音書の箇所に登場する群衆の多くは、イエスが自分たちのリーダーとなり、敵から解放してくれることを望んでいました。『すべての問題は容易に解決することのできる人』に対して抱いた、名声と地位、権力を得ることなど、ひたすら世俗的な願望です」と語られ、「このようなことは、イエスのなさり方ではない… イエスの弟子たち、イエスの教会の仕方ではない。挑戦する必要があります」と強調された。

*主は私たちに、自分の十字架を負うことを求められる

 また教皇は、「主は、弟子たちに、この愛以外のものすべて、彼らの最も深い愛情と最も素晴らしい宝さえも望まないように、求めておられます」とされ、「主に従うことは、法廷に出たり、凱旋行進に加わること、あるいは終身保険を得ることを意味しない。『自分の十字架を負う』(ルカ福音書 14章27節)ことを意味するのです。イエスがなさったように、自分自身と他の人の重荷を負い、私たちに対する主の寛大で慈しみ深い愛に倣って、自分の人生を賜物として捧げること。それは、私たちの人生全体に関わる決断です」と言明。

 

 

*ヨハネ・パウロ1世が語られたように「私たちは神の不滅の愛の対象」

 さらに、「イエスの弟子として身を捧げる、ということは、自分自身よりも主に目を向け、十字架につけられた方から、愛する方法を学ぶことを意味します」され、「教皇ヨハネ・パウロ1世は、「私たちは神の不滅の愛の対象です」(1978 年 9 月 10 日の正午の祈り)と語っておられます。不滅の愛、それは私たちの人生の地平線の下に沈むことはありません。常に私たちを照らし、暗黒の闇に包まれた夜さえも、照らしてくれます」と語られた。

 そして、「私たちが十字架につけられた主を見上げる時、自分自身に向けた関心に打ち勝ち、神とすべてのところにいる人々、物の見方が自分と違う人、そして敵である人さえも愛するように、私たちは求められているのです」と述べられた。

 

 

*愛はリスクを冒し、妥協しないことを求める

 続けて教皇は、「愛には、犠牲、沈黙、誤解、孤独、抵抗、迫害が伴うことがあります。愛は私たちに、リスクを冒すことを求め、決して妥協しないよう求めますー主の弟子になるために必要な、決定的な一歩を踏み出し、真に主に献身し、他の人を助けよ、と」。そして、ヨハネ・パウロ1世の言葉を再度する形で、「十字架につけられたイエスの接吻したいなら、『十字架の上にかがみ込み、主の頭の王冠のとげに刺されるようにすること』(1978 年 9 月 27 日の一般謁見で)です。とげも何もかも、最後まで耐え抜く愛、すべてを中途半端なままにしない、手抜きしない、困難から逃れない、ことです」と語られた。

 

 

*福音の喜びに生きたヨハネ パウロ 1 世は私たちの、教会の模範

 また教皇は、ヨハネ パウロ 1 世が私たちに示された模範ー「妥協することなく、最後まで愛し抜き」、福音の喜びを生きたこと、自分の栄光を求めず、「柔和で謙虚な司牧者」として生きたこと、を改めて思い起こされた。

 そして、「教皇は、ほほえみをもって、主の善(慈しみ)を伝えることができました。喜びに満ちた顔、穏やかな顔、ほほえみの顔をもつ教会は、何と美しいことでしょう。それは、決して扉を閉めず、いらだたない教会、不平不満を言わず、恨みを抱かず、怒らず、短気ではない教会、不愛想な姿を見せず、後戻り主義(indietrismo)に陥って過去へのノスタルジー(郷愁)に苦しむことのない教会…」と、現代の教会、司教や司祭、信徒たちが抱える問題を暗示しつつ、語られた。

 最後に、私たちが主から「魂のほほえみ」をいただくのを助けてくださるよう、ヨハネ パウロ 1 世に願うこと、そして、次のような彼の言葉で祈るよう、全ての人に強く促されたー「主よ、欠点と短所のあるありのままの私を受け入れ、あなたがお望みになる私になるようにしてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年9月4日