☩「神の愛の”火”をすべての人にもたらすように」 ‎教皇、叙任式で新枢機卿たちに‎

(2022.8.27  Vatican News staff reporter)

   教皇フランシスコは27日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた枢機卿叙任式での説教で、20人の新枢機卿たちに使徒的熱意を持ち、神の無限の愛を証しするよう強く求められた。また、叙任式に出席するためローマに到着後の26日に急病で入院を余儀なくされたガーナのリチャード・クウイア・バーウォブル新枢機卿のために祈るよう願われた。‎

 説教の冒頭、教皇は、‎ルカの福音書に書かれたイエスの言葉ー「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃えていたらと、どんなに名がっていることか」(12章49節)ーを取り上げ、「万物を清め、再生し、変容させる情熱的な愛」を反映した火のイメージ、「神の御霊の強力な炎」に焦点を当てられた。‎

‎*「神の限りない愛の火‎」、そして「静かで穏やかに燃える炭火」

 そして、新枢機卿たちに向かって、「このイエスの言葉は、あたかもイエスが火のついた松明を私たちに手渡し、私たちに言っているかのようですー『父が私を遣わされたように、私は今、あなたがたを遣わす』と。このようにして、主は私たちに、御自身の『使徒としての勇気』、『すべての人を例外なく救おうとする熱意』をくだるのです」と説かれた。

 さらに、‎「イエスは御自分の寛大で、限りない、無条件の愛を、私たちと分かち合いたいと望んでおられます。それは、御自分の心が御父の憐れみによって燃えているからです」とされ、‎この火は、神の民に忠実に手を差し伸べよ、という主が与えられた使命の「神秘的な緊張」とともに、「すべての民、世界の地平、まだ知られていない周辺地域」に向けられたものだ、と語られた。‎

‎ また、この「火」は、イエスが語られているように「地上に投じる」ための火、聖霊が、自分に倣うすべての人の心と手足に焚きつける火だが、「この「火」には、『神の愛の燃える火』と、ヨハネ福音書に書かれた、イエスが岸辺で弟子たちのために魚を焼くのに用意された『静かで穏やかな炭火』(21章9節参照)の二つの意味が込められています」と指摘。

 「炭火」は、イエスの「柔和さ、忠実さ、親密さ、優しさ」と、「私たちの中で生きておられるイエスを味わう」方法を示している、とされ、‎「炭火のように、主の臨在は私たちの日々の暮らしを温め、養ってくれるのです」と‎説かれた。

 さらに、聖シャルル・ド・フーコーの人生を振り返り、「彼は、何年もの間、非キリスト教的な環境、砂漠の孤独の中で暮らし、すべてを、『存在』ー生けるイエスの存在、御言葉と御聖体、そして彼自身の存在、兄弟愛、平和、慈しみーに賭けました」。また、無私の心でつつましい聖職を忍耐強く務める司祭、修道者、謙遜な奉仕と子育てを通して神の愛の炎を生かし続ける夫婦の存在にも言及。高齢者が、家族や地域社会と共有した記憶と経験を通して証しし、世代を超えて人々を結びつけ、前に進める「火」についても語られた。‎

*「”二つの火”をどのように経験してきたか熟考し、使徒としての熱意を傾けよ」

 教皇はまた、新枢機卿20人に対して、このようなイエスの二つの火が「自分の人生でどのように経験されているか」について深く考え、「使徒としての熱意のある者が、どのようにして、聖霊の火によって、勇敢に、大小の事柄に関わるよう促されるか」を知るように、勧められた。‎

‎ そして、二人の生きざまを思い起こされた。一人はイタリアのアゴスティーノ・カサローリ枢機卿(1998年帰天)で、東西冷戦の終結で欧州に生まれた新たな希望に応えるために先見の明のある対話の促進に努めたことで知られるが、それだけでなく、刑務所を定期的に訪問し、受刑者の司牧にも地道な努力をした。

 もう一人は‎ベトナムのヴァン・トゥアン枢機卿。(17世紀後半からたび重なる迫害の歴史をくぐり抜けてきたキリスト教徒の家に生まれたが、サイゴン(現ホーチミン)大司教になった1975年に、サイゴン陥落、共産政権によって逮捕、13年間にわたる刑務所生活の中でも、パンくずとぶどう酒数滴でミサを捧げ、わずかな紙きれに信仰の書を執筆。釈放後に渡欧してバチカンの正義と平和評議会議長に。2001年に枢機卿に叙任されたが、病いを得、闘病生活の中でも司牧に努め、翌年帰天した。)

 教皇は説教の終わりに、すべての人に対して、「イエスについて深く考えるように。謙遜な壮大さ、高ぶらない力、普遍的なビジョン示してくださるイエスについて熟考するように」と勧められた。

 そして、「神の火の神秘は、空を輝かせ、貧しい家族、移民・難民、ホームレスの人々たちの食べ物をゆっくりと調理するのです」と比喩的に語られ、次のように締めくくられた。

 「今日も、イエスは地上に火をもたらしたい、と望んでおられます。私たちの日々の暮らしに新たな火を点けたい、と望んでおられます。イエスは私たちを名前で呼ばれます。私たちの目を見て、こうお尋ねになります―『あなたを頼りにできますか?』と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年8月28日