☩「地雷は戦争の冷酷な悲劇と罪なき人々の犠牲を思い起こさせる」対人地雷禁止条約発効25年を前に

 

 同条約は、対人地雷の使用・開発・生産・貯蔵・保有・移譲等の禁止と地雷の廃棄等を定めたもので、1997年9月にオスロで起草され、同年12月オタワで署名、1999年3月1日に発効した。

 教皇は「対人地雷が、今でも子供たちをはじめ罪のない人々の犠牲を出し続け、紛争当事国の敵対状態が終わり何年も経ってからも人々に被害を与えている現実」を指摘。「人を欺く爆発装置」の無数の被害者に精神的な寄り添いを示され、「地雷は戦争の冷酷な悲劇と、一般市民が払う犠牲を思い起させます」と語られた。

 そして、地雷被害者への支援と地雷除去に貢献するすべての人々に感謝され、「これらの人々の仕事は、私たちの兄弟姉妹をいたわりつつ、平和のために働く者としての、普遍的召命に具体的に応えるもの」と称えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月28日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑨「神の力は弱さの中で完全に現れる」(コリントの信徒への手紙2・12章9節)

(2024.2.28 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは28日、水曜恒例の一般謁見で、ここ数日の軽いインフルエンザ症状のため、代読の形で「悪徳と美徳」をテーマにした連続講話を続けられ、「妬みと虚栄の罪」に焦点を当て、妬みや虚栄は危険な悪徳だが、対抗するための治療法がある、自分自身を中心に置かず、弱さを受け入れ、 神が私たちの生活の中で働いてくださるようにすることだ、と説かれた。

 講話の要旨は次の通り。

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 今日は、霊的伝統が遺した悪徳のリストの中から、「嫉妬」と「虚栄」の二つを取り上げたいと思います。

 まず、「嫉妬」から始めましょう。聖書では、「嫉妬」は最も古い悪徳の一つとして登場します(創世記4章参照)。カインがアベルに対する憎しみを爆発させたのは、弟の献げ物に神が目を留められたことを知った時でした。カインは、アダムとエバの長子であり、父の遺産を十分に受け取っていましたが、弟アベルが小さな手柄を立てただけで動揺します。抑えることのできない嫉妬は、相手への憎しみを生み、アベルを殺してしまいました。弟の幸福に耐えられなかったからです。

 嫉妬の根底には、愛と憎しみの関係が存在します。相手の不幸を望む反面、「相手のようになりたい」とひそかに願います。相手の存在は、「自分がなりたいが、実際にはなれないもの」の現れです。相手の幸運は、あってはならないことに思われる。「自分の方が当然、その成功や幸運にふさわしい」と考えるからです。

 嫉妬の根元には、神に対する誤った考えがあります。嫉妬する者は、神が私たちとは異なる、独自の数学を持っておられることを認めることができません。たとえば、イエスの「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ福音書20章)でも、早朝から働いていた者は、最後にやって来た者よりも多額の賃金がもらえる、と信じていました。しかし、主人はすべての労働者を同じ扱いにし、「自分の物を自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさを妬むのか」(同20章15節)と言ったのです。

 私たちは神に自分たちの利己的な論理を押し付けようとする。それに対し、神の論理は「愛」です。神が私たちに与えられる善は、分かち合うために作られています。ですから、聖パウロはキリスト者たちに、このように勧めています―「兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し…霊に燃えて、主に仕えなさい」(ローマの信徒への手紙12章10節)。これこそが、嫉妬への特効薬なのです。

 次に、「虚栄」について考えでみましょう。虚栄は嫉妬の悪魔と腕を組んで行きます。この二つの悪徳は、野心家で、自分を世界の中心と思い、すべての物と人、あらゆる賞賛と愛を利用することをためらわない人のものです。

 虚栄は、根拠なくふくらんだ自信。虚栄に満ちた人は、邪魔になるほど自我が大きく、共感に欠け、世界には彼以外の人が存在することに気づきません。人間関係はいつも道具的で、他者に対して横暴です。彼という人物、その手柄、成功は皆に見せびらかされなくてはならない。彼は永遠に自分への関心を乞い続ける。彼の才能が認められない時は、激怒する。彼にとって、間違っているのは相手であり、理解のレベルに達していないのだ、と考えます。

 霊性の大家たちは、虚栄の治療について、あまり助言していません。虚栄の治療法は、虚栄の人自身の中にあるからです。虚栄の人が世間から得ようと望んでいた称賛は、いつか彼から背を向けるからです。虚栄を克服するための最も素晴らしい教えは、聖パウロの証しの中に見ることができます。使徒パウロは、どうしても克服できない自身の一つの欠点に対し、常に決着をつけようとしていました(以下、コリントの信徒への手紙2・12章8‐9節参照)。パウロは「(サタンから送られた使いについて)離れ去らせてくださるように」と三度、主に願いました。ところが、主はこう答えられます―「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」。そして、パウロは虚栄から解放されたのです。パウロの体験の結末は、私たちのものにもなるべきです。「キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。

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 教皇は、ここ数日、「軽いインフルエンザの症状」を訴えられ、2月28日の一般謁見終了後、ローマ市内のジェメッリ・イゾラ病院を診断のために訪問、再びバチカンに戻られた。 教皇は、先週24日と26日、軽いインフルエンザの症状のため予定されていた謁見を中止されていた。

(編集「カトリック・あい」・聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

2024年2月28日

☩「人生で出会う人々の中にイエスの光を見出そうとしているだろうか」四旬節第二主日の正午の祈りで

教皇フランシスコ 2024年2月25日のお告げの祈り教皇フランシスコ 2024年2月25日の正午の祈り  (ANSA)

(2024.2.27 バチカン放送)

 教皇フランシスコは25日、四旬節第二主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書の「イエスの変容」( 9章2-10節)を観想された。

 説教の要旨は次のとおり。

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 イエスは、弟子たちにご自分の受難を予告された後、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られ、そこで光輝く姿をお見せになりました。そうして、イエスは弟子たちにその時までご自分と共に過ごしたことの意味を明らかにされたのです。

 神の御国の説教、罪の赦し、多くの癒し、様々なしるしは、「イエス」という最も大きな光の閃きでした。間もなく訪れる受難をはじめ、様々な試練の中で、弟子たちはこの光からもう決して目を離すことはできないでしょう。

 「イエスの光から決して目を離してはならない」-これが今日の福音のメッセージです。それは、昔、農夫たちが畑を耕しながら、畝をまっすぐにするために、自らの前方に一点を見つめていたのに似ています。イエスの光輝く御顔を常に目の前に見つめ、決してイエスから目をそらさない―キリスト者はそのように人生を歩むように召されているのです。

 イエスの光に目を開きましょう。イエスは愛、永遠の命です。時には険しさもある人生の中で、慈しみと忠実と希望にあふれるイエスの御顔を求めましょう。祈り、御言葉に耳を傾け、秘跡に与ることが、それを助けてくれます。

 開かれた眼差しを育て、祈りの中に、人々の中に、イエスの光を探すこと、これを四旬節の目標にしましょう。

 皆さん。自分にこう問いかけましょう―「私の人生で歩みを共にしてくださるキリストを、しっかり見つめているだろうか」「そのために、沈黙と祈りと礼拝に時間を割いているだろうか」「自分の内側を照らすイエスの光、出会うあらゆる兄弟姉妹の中で輝くイエスの光を、見出そうとしているだろうか」。

 神の光に輝く方、マリアよ、私たちが眼差しをイエスにしっかりと据え、互いを信頼と愛をもって見つめることができるようにお助けください。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月28日

・教皇、ブルキナファソでの教会、モスク襲撃、虐殺に深い悲しみ表明

File photo of internally displaced people  - fleeing jihadist violence in northern Burkina FasoFile photo of internally displaced people – fleeing jihadist violence in northern Burkina Faso  (AFP or licensors)
2024年2月27日

☩教皇「永続的平和を目指し外交的解決に努めて」ーロシアのウクライナ侵攻2年

(2024.2.25 Vatican News   Christopher Wells)  ロシアのウクライナ侵攻2周年

 ロシアによるウクライナ侵攻開始から24日で2年を迎えたが、教皇フランシスコは25日の正午の祈りで、前日24日でまる2年を迎えたロシアによるウクライナ軍事侵攻に言及し、「公正かつ永続的な平和」を目指した外交的解決を改めて訴えた。

 教皇は過去2年間にわたるロシアの一方的なウクライナ侵攻がもたらしている多くの人々の「死、負傷、破壊、苦悩、涙」を悼み、「この悲劇は恐ろしく長く続いており、終わりはまだ見えていません」と嘆かれた。

教皇「永続的平和を目指し外交的解決に努めて」ーロシアのウクライナ侵攻2年

(6行目)「公正かつ公正な解決永続的な平和を求めて外交的解決の条件を作り出すことを可能にするほんのわずかな人間性の回復」

 そして、ロシアのウクライナ侵攻による戦闘長期化は、「欧州全域に被害を及ぼしているだけでなく、恐怖と憎しみの世界的な波を引き起こしています」と述べ、「苦悩するウクライナ国民」への「痛切な同情」と祈りを新たにしながら、「公正かつ永続的な外交的解決の条件」を作り出すことを可能にする「ほんのわずかな人間性の回復」を懇願された。

 教皇はまた、パレスチナとイスラエルはじめ「世界中の戦争や紛争でで引き裂かれた多くの人々のために祈ることを忘れないように」と、世界のすべての人々に呼びかけ、苦しむ人々、特に「怪我を負った罪のない子供たち」に具体的な支援を行うように求められた。

 アフリカのコンゴ民主共和国で暴力が激化していることにも言及し、同国の司教たちの平和への祈りの呼びかけに加わり、衝突の終結と「誠実で建設的な対話」への期待を表明された。 ナイジェリアにおいて、頻度が増している誘拐の頻度が増していることにも懸念を示され、「こうした事件の蔓延を可能な限り抑制する努力が払われることを願う」と語られた。

 世界的な異常気象をもたらしている気候変動も取り上げ、深刻な人道的危機をもたらす極度の寒波に襲われているモンゴル国民にも思いやりを示され、 「気候変動がもたらす危機は、世界的な社会問題をも引き起こしており、多くの兄弟姉妹、特に最も弱い立場にある人々の生活に深刻な影響を与えています」とされ、「被造物への配慮に貢献するために、賢明で勇気ある選択ができるように祈りましょう」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年2月25日

☩「紛争や暴力が続くスーダン、モザンビークに平和が戻るように」正午の祈りで

武力衝突から避難するためバスを待つ人々 2023年4月 スーダン・ハルツーム武力衝突から避難するためバスを待つ人々 2023年4月 スーダン・ハルツーム  (AFP or licensors)

(2024.2.17  バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日の正午の祈りに続いて、スーダンで10か月も続く軍事衝突、モザンビークのカボ・デルガード州で広がる暴力に言及され、これらの地の平和を祈られた。

 スーダンでは、昨年4月、スーダン国軍と準軍事組織による衝突が勃発し、首都を含む各地に戦闘地域が拡大する中、多数の市民が国内外で避難民となっている。

 教皇は、深刻な人道状況を生み、市民を苦しめ、国の未来に悪影響を与えているこの紛争の当事者たちに、戦闘の停止を改めてアピールされ、「スーダンが平和への道を見出し、未来を築くことができるように」祈るよう呼びかけられた。

 また教皇はモザンビークの北東部カボ・デルガード州で広がる武装集団による暴力にも憂慮され、何の罪もない民衆に対する暴力、社会基盤の破壊、治安の不安定化が見られる同州で、数日前にマゼゼのカトリック系施設が放火されたことに言及。「暴力に引き裂かれたカボ・デルガード同州に平和が戻るように」と祈られた。

 さらに、教皇は、アフリカの他の地域で起きている流血の紛争や、パレスチナ、ウクライナにおける戦争などを忘れないように、と信者たちに願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月20日

☩「四旬節を通して神の声を聴く旅をしよう」ー四旬節第一主日の正午の祈り

(2024.2.18  Vatican News  Linda Bordoni)

    四旬節第1主日の18日、教皇フランシスコは正午の祈りに先立つ説教で、荒れ野でサタンの試みを受けるイエスを描いたマルコの福音書(第1節12‐15節)を取り上げ、「荒れ野」が象徴することの重要性を指摘され、「荒れ野―沈黙、内なる世界―に入り、心の声に耳を傾け、真実に触れるように」と信者たちに呼びかけられた。

 そして、教皇は、「荒れ野で、キリストは野獣たちと共におられ、天使たちはキリストに仕えていた。 野獣と天使は彼の仲間でしたが、それは象徴的な意味でです。私たちも”内なる荒れ野”に入ると、野獣や天使に出会うことがあります」とされ、「霊的な生活において、野獣とは、私たちの心を分裂させ、奪おうとする、乱れた情熱と考えることができます。彼らは魅惑的で、注意しないと、私たちは彼らに引き裂かれる危険があります」と注意された。

 さらにそのような”魂の野獣”は「私たちを黙認と不満の中に閉じ込める『富への欲望』、落ち着きのなさと孤独に陥らせる『虚栄心』、『名声への渇望』」であり、私たちの心に不安を生じさせ、自分が認められたい、目立ちたい、という継続的な欲求を引き起こすのです」と警告された。

 そして、「このような”野生の獣”に対しては、戦わねばなりません。 さもないと、彼らは私たちの自由をむさぼり食ってしまう。彼らの存在に気づき、彼らと向き合うために、私たちは荒れ野に行く必要があります」と説かれた。

  次に教皇は、荒れ野での天使の存在に注目され、「天使は神の使者であり、私たちを助け、私たちに良いことをしてくれます。彼らの特徴は、『奉仕』にあり、無秩序な情熱とは正反対の立場にある」と指摘。

 「誘惑が私たちを引き裂こうとする一方で、善良な神からの霊感によって私たちを調和させ、団結させます。心を潤し、キリストの”味”、つまり”天国の味”を注いでくれます」とされ、「神からの霊感による考えや感情を私たちが理解するには、沈黙と祈りが必要であり、四旬節がまさに、それを行う時なのです」と強調された。

 説教の最後に教皇は、2つの重要な問いかけをなさった。 「私の心を揺さぶる、乱れた情念、『野獣』とは何なのか?」 「神の声が私の心に語りかけられるようにし、それを良い状態に保つために、私は、しばし『荒れ野』に退くこと、つまり、考察のために場を捧げることを考えているだろうか?」

 そして、「御言葉を守り、邪悪な者の誘惑にさらされることのなかった聖母マリアが、この四旬節の間、私たちを助けてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年2月19日

☩「キリストと聖霊において、私たちは罪の灰から新しい命に生まれ変わる」ー灰の水曜日ミサ

(2024.2.15 バチカン放送)

 カトリック教会の典礼暦は14日、「灰の水曜日」を記念するととも復活祭前の準備期間「四旬節」に入り、教皇フランシスコは、ローマの聖サビーナ教会でミサを捧げ、この中で「灰の式」を行われた。

 「四旬節」は、キリストが公生活を始める前に、荒れ野で40日間の断食を行ったことを思い起こすもので、この四旬節の間、信者は、悔い改め、祈り、断食や節制、施しや愛徳の行為を通し、復活祭によりふさわしい形で与るための準備を行う。その初日となる「灰の水曜日」は、死と痛悔の象徴である灰を頭に受ける「灰の式」が行われる。

 14日午後、教皇はローマ市内アベンティーノ地区に向かわれた。アベンティーノはローマの「7つの丘」の一つで、競技場遺跡チルコ・マッシモをはさんでパラティーノの丘と向かい合っている。周囲には豊富な古代遺跡群、丘の上には中世紀を起源とする教会群がある。

 「灰の水曜日」の一連の儀式は、同地区にある聖アンセルモ教会での導入の祈りから始まり、ここから宗教行列が出発した。行列は諸聖人の連祷を唱えながら、聖サビーナ教会へ向かい、同教会で教皇によるミサが捧げられた。

 ミサの説教で教皇は、「施しをする時、祈る時、断食する時、人目につかないように隠れて行うように」と教えられるイエスの言葉(マタイ福音書6章 1-6. 16-18 節)を取り上げ、「『隠れて行う』『隠れたところに入るように』とのイエスの勧めは、ヨエル書の『今こそ、心から私に立ち帰れ』という主の呼びかけ(2章 12節)同様、私たちを『外側から内側への旅』に導くもの」とされ、「四旬節は、自分の虚飾を脱ぎ捨て、ありのままの姿に戻り、『自分が何者なのか』を自覚して、神の御前に心から立ち返る時なのです」と説かれた。

 そして、「『私たちは塵にすぎず、人間は息にも似た、はかないものだ』ということを思い起すために、祈りと謙遜の精神のうちに、頭に灰を受けましょう」と呼びかけられるとともに、「私たちは『神から愛された塵』です。神の恵みによって、私たちは、イエス・キリストと聖霊において、罪の灰から新しい命へと生まれ変わることができます」と強調された。

 教皇の説教に続き、灰を聖水で祝別し、信者の頭に灰を与える儀式が行われ、「灰の式」で教皇は、バチカンの裁判所の一つ、内赦院の院長マウロ・ピアチェンツァ枢機卿から最初に自らの頭に灰を受けられた。そして、教皇もまた、ピアチェンツァ枢機卿の頭に灰を置かれた。参加者たちが灰を受けた後、感謝の典礼が行われ、四旬節の到来を象徴する儀式は終了した。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月16日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑧「怠惰の試練に遭っても、信仰は価値を失わない」

Pope Francis holds his weekly General Audience

(2024.2.14 バチカン放送)

 教皇フランシスコは14日、バチカンのパウロ6世ホールでの水曜日恒例の一般謁見で、「悪徳と美徳」についての連続講話を続けられ、今回は「怠惰」をテーマに取り上げられた。

 講話の要旨は次のとおり。

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 「悪徳」の中でも、あまり語られずに見過ごされているものがあります。それは「怠惰」です。悪徳のリストにある「怠惰」は、しばしば「怠ること、怠けること」という意味にとられていますが、「怠り」は原因であるより、むしろ結果です。砂漠の教父たちは、その怠りの根底にあるものを「無気力」としています。

 「無気力」という意味での怠惰は、非常に危険な誘惑です。それに陥ると、あたかも死の願望に押しつぶされるかのようになり、すべてに嫌気がさし、神との関係さえも面倒になります。そうなるまでは心を温めていた聖なる行為も、すべて無駄に思えてしまうのです。

 「怠惰」は「白昼の悪魔」とも呼ばれます。それは私たちを真昼に捕えます。疲れが頂点に達している時、その先の時間は、変化のない、生きることが困難なものに見えてきます。

 実際、無気力にとらわれた人にとって、人生は意味ないもの、祈りは面倒なものになり、あらゆる闘いは無意味に感じられます。若い時に育んだ情熱も、今や不条理で、自分を幸福にし得なかった夢のように見えてきます。そうして、すべては放置され、「何も考えないこと」が唯一の出口に思われ、頭は空になってしまう。

 この危険な怠惰に対し、霊性の師たちは、様々な対策を考えていました。最も重要と思われるのは、「信仰の忍耐」ともいえる態度です。怠惰に打ちのめされている時、人の心はそこになく、現実から逃避するようになりますが、そのようにせず、自分の「今この時、この場所」に留まり、「ありのままの状況の中に、神の現存を迎え入れる勇気」を持つことが大切です。

 修道士たちは、「自分の修室こそが人生の最良の師だ」と言います。なぜなら、そこは具体的かつ日常的に、主との愛の物語を語る場所だからです。怠惰の悪魔は、「今ここにある素朴な喜び、現実に対する感謝に満ちた驚き」を壊そうと企んでいる。そして、「すべては虚しく、無意味だ」と私たちに思い込ませようとします。

 無気力にとらわれ、漠然とした不安に動かされて、これまでたどってきた善の道を、愚かにも放棄してしまう人たちがどれだけいることでしょう!怠惰との闘いは、肝要な戦いであり、何が何でも勝たなくてはなりません。

 怠惰との闘いを、聖人たちでさえも免れることはできませんでした。多くの聖人たちの日記には、すべてが「闇」に見える、信仰の夜の恐ろしい体験が書かれています。彼らは「信仰の貧しさ」を受け入れながら、忍耐のうちに、夜の闇を乗り越えることを私たちに教えています。

 聖人たちは、無気力に苦しめられている時、「なすべきことの量を少なく保ち、到達が容易な目標を設定」し、「誘惑に遭っても決して自分を見捨てることのないイエスに寄り頼み、無気力に抵抗し、耐え抜くように」と勧めています。

 怠惰の試練に苦しめられても、信仰が価値を失うことはありません。真の信仰、とても人間的な信仰を持つ人は、たとえ闇の中で視界を失っても、謙遜な心で、信じ続けるのです。

(編集「カトリック・あい」)

 

2024年2月15日

☩「あなたは生ける殉教者だ」教皇、30年間投獄された枢機卿を讃える

Pope Francis with Cardinal Simoni after the General AudiencePope Francis with Cardinal Simoni after the General Audience  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年2月14日

☩「苦しむ人に、言葉でなく行動を持って応えよう」ー年間第6主日・正午の祈りで

FILE PHOTO: Pope Francis leads the Angelus prayer at the Vatican

(2024.2.11 Vatican News   Lisa Zengarini)

    第32回世界病者の日の11日、教皇フランシスコは正午の祈りで、苦しむ人々の声に耳を傾け、手を差し伸べるよう、信者たちに呼びかけ、この日のミサで読まれたマルコ福音書の思い皮膚病を患っている人をイエスが癒される箇所(1章40-45節)を取り上げて、「イエスのなさり方は、言葉を少なく、具体的に行動することです」と説かれた。

 そして、「愛には、無償で提供される具体性、存在、出会い、時間、空間が必要」と強調された教皇は、「それは、素敵な言葉、スクリーン上の画像、一瞬の自撮り写真、あるいは性急なメッセージでは表すことはできません。便利な”道具”ですが、具体的な愛の行為に取って代わることはできない」と強調された。

  教皇はさらに、苦しむ人たちに対して、口数が少なく、すぐに行動を起こされるイエスのなさり方は、この日読まれた箇所だけでなく、体の麻痺した人(マルコ2章1‐12節)、耳が聞こえず舌の回らない人(同7章31‐37節)、悪霊にとりつかれた人(同5章1₋20節)など、たびたび語られていると指摘。

 そのうえで、「イエスはいつもこのようになさります。ほとんど話すことなく、すぐに言葉に従って行動されす。話したり、問いかけたりすることに長い時間をかけません。ましてや敬虔な態度や感傷に浸ることもない。できれば自分自身に注意が向かないように、相手の言葉に注意深く耳を傾け、速やかに行動する、繊細な謙虚さを示しています」と語られた。

 教皇は続けて、「私たちが人生で出会う人々の中にも、このような、素晴らしい愛し方を経験することがあります-言葉を控え大胆に行動する、自分のことを自慢せず人のために役に立つ準備がある、喜んで耳を傾けるので支援の効果がある-というような。 『助けてくれませんか?』と頼める友人たちです」とされ、そのような経験は、「 特に、人間関係が『つかの間の現実』であるような傾向が強まっている現代世界において、いっそう重要が増しているのです」と説かれた。

 説教の最後に教皇は信者たちに、「人々の話に耳を傾け、彼らの求めに応えられるようにしているか?」、それとも、「言い訳をし、抽象的で役に立たない言葉の後ろに隠れているのか?」を自問するよう勧められた。

 「私が最後に、孤独な人や病気の人を訪ねたり、助けを求めている人に応えるために予定を変えたのはいつのことだったろうか?」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2024年2月12日

☩「ミャンマー、パレスチナ、イスラエル…苦しんでいる人々に寄り添うように」―「病者の日」に

A Palestinian doctorA Palestinian doctor 

    教皇フランシスコは11日「世界病者の日」の正午の祈りで、世界中で病いに苦しんでいる人々、特にパレスチナとミャンマーで治療を受けられないでいる人々のために祈られた。

 説教で教皇はまず、「今年は病いにおける人間関係の重要性に関心が集まっている」とされ、「病気の時、私たちが第一に必要とするのは、医療従事者や神だけでなく、『愛する人の親密さ』です。私たちは皆、苦しんでいる人たちに寄り添うよう求められます。特に、教会が全体として親密さを示す必要がある」と強調された。

  続けて教皇は、「手当てを受ける権利、ひいては生きる権利を否定されている人が非常に多くいるという現実に直面する今、私たちは黙っていることはできません… 私は極度の貧困の中で暮らしている人々のことを考えています。同時に、戦闘地域にいる人々についても考えています。そこでは基本的人権が日々、侵害されています。 耐えられないことです」と述べられた。

 教皇は、そうした状況に置かれているウクライナ、パレスチナ、イスラエルの人々のために祈った後、ミャンマーの人々のために改めて祈りを捧げられた。ミャンマーでは、依然として少数民族の人々などが極度の暴力と迫害にさらされている。

   (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年2月11日

☩「病者、弱っている人、貧しい人は教会の中心だ」教皇、「世界病者の日」にメッセージ

(2024.2.10 カトリック・あい)
教皇フランシスコは、11日の「世界病者の日」に向けたメッセージを出された。全文以下の通り。翻訳はカトリック中央協議会、編集は「カトリック・あい」。
「世界病者の日」教皇メッセージ 「人が独りでいるのはよくない」関係性を癒すことで、病者を癒す

 「人が独りでいるのはよくない」(創世記2章18節)。世の初めから、愛である神は人間を交わりのために創造され、その本性に関係性という次元を刻み込まれました。ですから、三位の神の像に似せて形づくられた私たちの生は、人とのつながり、友情、相互愛の躍動の中で十全に実現されるべく招かれているのです。

 私たちは独りでいるためにではなく、共にいるために創造されたのです。そして、この交わりの計画が人間の心の奥底に刻まれているからこそ、捨て置かれる経験、孤独になる経験を恐れるのであり、それを辛く、非人間的とすら思うのです。重い病によって気弱になり、先の見えない不安な時期には、その傾向はいっそう強くなります。

 たとえば、新型コロナの世界的な大感染で、無残にも孤独を味わった人たちが思い浮かびます。面会もままならなかった患者たち、そしてさらには、誰もが過重な仕事を負い、隔離された病棟に缶詰めになっていた看護師、医師、サポートスタッフたちです。もちろん、医療従事者には見守られてはいても、家族に看取られることなく、死を迎えなければならなかった大勢の人たちをも忘れてはいません。

 そしてまた、戦争とその悲惨な影響で、支援も救護も得られずにいる人々の苦しみと孤独にも、私は心を痛めています。戦争は最も恐ろしい社会の病であり、一番の弱者が、もっとも高い代償を払わされるのです。

 ですが平和を享受し、資源に恵まれている国であっても、老いたり病になると、往々にして孤独を味わうことになり、見捨てられることすらある、と強調しておかなければなりません。この悲しい現実は、何より個人主義の文化がもたらした結果です。

 いかなる犠牲を払っても成果を上げることを称揚し、効率主義神話を助長し、スピードに付いていけなくなった人は無視し、冷酷に扱うことさえいとわない文化です。そうしてそれは使い捨て文化に化します。そこでは「人間をもはや、尊重され守られるべき最重要の価値としてみなさないということです。

 特に、貧しい人や障害者の場合、出生前の胎児のように『まだ役に立たない』場合、あるいは老人のように『もう役に立たない』場合にそうなのです」(回勅『兄弟の皆さん』18項)。

 残念ながらこの論理は政治的選択にも浸透しており、人間の尊厳と必要とが中心に据えられず、健康に対する基本的権利と医療へのアクセスをすべての人に保障するのに必要な政策や財源を絶対優先事項としないのです。さらに、医師、患者、その親族での「治療同盟」が丁寧に結ばれないまま、ケアが医療サービスだけに還元されることで、弱い立場の人が見捨てられる状態や、その孤独が深刻化しています。

 聖書の言葉に、もう一度、耳を傾けるとよいでしょう。「人が独りでいるのはよくない」。神は創造の初めにこう口になさり、人類に対するご計画の深い意味を明かしておられます。また、罪という致命的な傷は、猜疑心、不和、分断、そしてその結果としての孤立によってもたらされることも明かされています。

 その傷は、あらゆる関係において、その人に影響を及ぼします。神との、自分自身との、他者との、被造物との関係においてです。こうして孤立することによって、存在の意味を見失い、愛の喜びを奪われ、人生のあらゆる難局で、押しつぶされそうな孤独を味わうことになるのです。

 兄弟姉妹の皆さん。病気のときにまず必要とされるケアは、慈しみと優しさに満ちた寄り添いです。それゆえ病者のケアとは、何よりその人の関係性、つまり神との関わり、他者―家族、友人、医療従事者―との関わり、被造物との関わり、自分自身との関わり、そうしたすべての関係をケアすることなのです。

 それは可能でしょうか。もちろん可能です。そうなるために懸命に働くよう、私たち皆が求められているのです。よいサマリア人(ルカ福音書10章25−37節参照)の姿に、歩調を緩めて寄り添えた彼の力、苦しむ兄弟の傷を手当てする優しさに、目を向けましょう。

 私たちの生の中心にある真理を思い起こしましょう。私たちがこの世に生を受けたのは、誰かが迎えてくださったからであり、私たちは愛のために造られ、交わりと友愛へと呼ばれている、ということをです。私たちの本性のこうした部分は、とりわけ病の時や弱っている時に私たちを支えるものであり、この社会の病を癒すため、皆で取り入れるべき第一の治療法です。

 一過性のものであれ慢性的なものであれ、病にある皆さんに申し上げたいのは、「寄り添いや優しさを求める気持ちを恥じないでほしい」ということです。隠さないでいいのです。「人の負担になっている」などと思わないでください。病にある状況というのは、慌ただしい生活のペースを緩め、自分自身を見つめ直すよう、誰をも招くのです。

 私たちの生きるこの変転の激しい時代において、キリスト者こそ、イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするよう求められています。隅に追いやられたり見捨てられたりもする、苦しみ孤独にある人に心を配りましょう。

 祈りの中で、とりわけ感謝の祭儀の中で、主イエスが与えてくださる相互愛をもって、孤独と孤立の傷を癒しましょう。こうして協力して、個人主義の文化、無関心の文化、使い捨て文化に抗い、優しさの文化と憐みの文化を広げていきましょう。

 病者、弱っている人、貧しい人は教会の中心であり、私たちが人間らしい関心を注ぎ、司牧的配慮を払う第一の相手でなければなりません。それを忘れてはなりません。そして、病者のなぐさめである聖マリアの助けを願いましょう。私たちを執り成し、兄弟としての寄り添いと関わりを生み出す職人となれるよう、支えてくださいますように。

 

2024年2月10日

☩ 「司祭職の恵みを生かす道は、福音の喜び、民への帰属、そして生み出す奉仕だ」生涯育成の国際会議参加者たちに

教皇フランシスコ、司祭の生涯育成をめぐる国際会議の参加者らと 2024年2月8日 バチカン・パウロ6世ホール  (Vatican Media)
 (2024.2.9 バチカン放送)
 教皇フランシスコは8日、バチカン聖職者省主催の「司祭の生涯育成に関する国際会議」の参加者たちとお会いになった。

 この会議は「『あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように』(テモテのへの手紙2・1章6節)今日、弟子であることの素晴らしさ。唯一の、統合的、共同体的、宣教的な育成 」をテーマに6日から10日までバチカンで開かれている。

 パウロ6世ホールで行われた集いで、教皇は「司祭職」という恵みを再び生かす道として、「福音の喜び」「民への帰属」「生み出す奉仕」の3つを示された。

 そして、まず、「神から愛されている」という自覚から生まれる「喜び」が、司祭たちを「師である前に、神の愛の証し人」にする、と語られ、「福音の喜びを受け入れ、それを大切に守ってこそ、私たちはこの『喜び』を他の人々にもたらすことができるのです」と説かれた。

 二つ目の「民への帰属」について、「キリストの弟子であることは、同時に宣教者でもあること。私たちは民の中に深く入り込み、自分もその同じ民に由来していることを自覚してこそ、司祭としてより良く生きることができます」とされた。そして、「民への帰属」は、「司祭を守り、その苦労を支え、司牧上の心配ごとに寄り添い、現実から離れて自分を万能と感じる危険を防いでくれるもの」と語られた。

  三つ目の「生み出す奉仕」については、「『奉仕』は、キリストの使命の本質である」と強調され、「イエスは、生涯を通して『奉仕の師』としての姿を示されましたが、それを象徴するのは、イエスが最後の晩餐で弟子たちの足を自ら洗った時のことでした」と述べられた。

 そして、「司祭の育成を奉仕の視点から見つめる時、それは付け足し的なものでも、単なる教えの伝達でもありません。それは、他者を中心に置き、その人が内面に持つ素晴らしさや良いものを引き出し、その人の賜物や、また同時に傷や希望に光を当て、その道のりを励ます”技術”です」と指摘。

 「そのようにして育てられた司祭は、今度は自らが神の民に奉仕し、人々のそばに留まり、イエスが十字架上でそうされたように、すべての人々を自分の上に背負うのです」と説かれた。

 最後に教皇は、この十字架を学び舎として見つめ、「人々を最後の最後まで愛し抜き、その十字架から新しい民を生み出したイエス」を観想することで、「生み出す司牧」とは何なのかを深く考えるよう、司祭たちに求められた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年2月10日

☩「”シノドスの道”で、女性の声に十分耳を傾けていないことに気づいた」新刊本の序文で

(2024.2.6 Vatican News)
 教皇フランシスコが、このほど出版された「“’Smaschilizzare la Chiesa’? Confronto critico sui ‘Principi’ di H.U. Von Balthasar” (Making the Church Less Masculine? A critical evaluation of the ‘principles’ of Hans Urs von Balthasar)」に序文をお書きになった。この本は、2月5,6日の枢機卿顧問会議(C9)に招かれた神学者のシスター・リンダ・ポッチャーなどの共著。
 以下に、その序文を掲載する。
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教皇フランシスコより
 祈り、熟考、行動を通じて教会共同体の生活と成長に対する「女性の存在と貢献」が、常に教会を豊かにしてきたのは現実であり、教会のアイデンティティを構成しています。 しかし、特に、現在の”シノドスの道”の歩みで、私たちは教会において女性の声に十分に耳を傾けていないこと、そして教会が女性たちから学ぶべきことがまだたくさんあることに気づきました。
 教会を”smaschilizzare(脱男性化する)”ために、お互いの意見に耳を傾ける必要があります。なぜなら、教会は「男性と女性の交わり」だからです。 同じ信仰と同じ洗礼の尊厳を共有しています。 女性の意見に真剣に耳を傾けることで、男性は、現実を別の視点から見る他者の意見に耳を傾けることになり、自分の計画や優先順位を見直すようになるのです。
 時々、私たちは戸惑うことがあります。時々、私たちが聞いたことがあまりにも新しく、私たちの考え方や見方と大きく異なるため、馬鹿げているように思え、怖気づいてしまうことがあります。 しかし、この当惑は健全です。 それは私たちを成長させます。 お互いから本当に学び、違いは多いものの、共に歩む一つの神の民として前進するには、忍耐、相互尊重、傾聴、そして寛容さ、が必要です。
 まさにこれが、私が女性の神学者に、「教会における女性の存在と役割について考える道」を枢機卿顧問会議に提供してくださるように求めた理由です。
 この道の出発点は、教会におけるマリアとペトロの原則に関するハンス・ウルス・フォン・バルタサルの考察であり、この考察は、男性と女性の異なる教会的存在を理解し、評価しようとする最近の教皇職の教導職にインスピレーションを与えました。ただし、最終的な目的地は神の手の中にあります。
*注*ハンス・ウルス・フォン・バルタサル(Hans Urs von Balthasar, 1905年8月12日 ‐ 1988年6月26日)。教皇フランシスコと同じイエズス会士で、著名な神学者。スイスのルツェルンに生まれ、オーストリアのフェルトキルヒで神学を学び、ウィーンベルリンドイツ文学の博士号を取得。1929年イエズス会に入会し、司祭叙階、イエズス会士のカール・ラーナーや、プロテスタント神学者カール・バルトとの対話が注目を集めた。教皇ヨハネ・パウロ2世の時代に枢機卿に推薦されるが、実現しないままこの世を去った。
 私たちを啓発し、今日の女性と男性、教会と世界に関与するための効果的な言語と考え方を見つけ、互恵性の認識と実践ができるように助けてくださるように、聖霊に祈りましょう。 そうすることで、男女間の協力が増えるように。
 この出版物を通じて、共著者のルチア・ヴァンティーニ、ルカ・カスティリオーニ、リンダ・ポーチャー3人が枢機卿顧問会議に提供してくださった考察が、世界代表司教会議(シノドス)総会において、男性そして女性の参加者に提供されることをうれしく思います。
 私が、”シノドスの道”の歩みの今の時点で、強く希望していること、それは、共に歩むことにくたびれないことです。なぜなら、私たちは歩いている時だけ、本来のあるべき姿―恐れることなく、動き、前に進み、世界の街角で私たちの兄弟姉妹と出会う、復活された方の生ける体―になるからです。
 
  信仰の母マリアがこの旅に私たちと共にいてくださいますように!
(イタリア語原文からVatican Newsが英訳した文章を「カトリック・あい」が翻訳・編集)

 

 

2024年2月9日