☩「病者、弱っている人、貧しい人は教会の中心だ」教皇、「世界病者の日」にメッセージ

(2024.2.10 カトリック・あい)
教皇フランシスコは、11日の「世界病者の日」に向けたメッセージを出された。全文以下の通り。翻訳はカトリック中央協議会、編集は「カトリック・あい」。
「世界病者の日」教皇メッセージ 「人が独りでいるのはよくない」関係性を癒すことで、病者を癒す

 「人が独りでいるのはよくない」(創世記2章18節)。世の初めから、愛である神は人間を交わりのために創造され、その本性に関係性という次元を刻み込まれました。ですから、三位の神の像に似せて形づくられた私たちの生は、人とのつながり、友情、相互愛の躍動の中で十全に実現されるべく招かれているのです。

 私たちは独りでいるためにではなく、共にいるために創造されたのです。そして、この交わりの計画が人間の心の奥底に刻まれているからこそ、捨て置かれる経験、孤独になる経験を恐れるのであり、それを辛く、非人間的とすら思うのです。重い病によって気弱になり、先の見えない不安な時期には、その傾向はいっそう強くなります。

 たとえば、新型コロナの世界的な大感染で、無残にも孤独を味わった人たちが思い浮かびます。面会もままならなかった患者たち、そしてさらには、誰もが過重な仕事を負い、隔離された病棟に缶詰めになっていた看護師、医師、サポートスタッフたちです。もちろん、医療従事者には見守られてはいても、家族に看取られることなく、死を迎えなければならなかった大勢の人たちをも忘れてはいません。

 そしてまた、戦争とその悲惨な影響で、支援も救護も得られずにいる人々の苦しみと孤独にも、私は心を痛めています。戦争は最も恐ろしい社会の病であり、一番の弱者が、もっとも高い代償を払わされるのです。

 ですが平和を享受し、資源に恵まれている国であっても、老いたり病になると、往々にして孤独を味わうことになり、見捨てられることすらある、と強調しておかなければなりません。この悲しい現実は、何より個人主義の文化がもたらした結果です。

 いかなる犠牲を払っても成果を上げることを称揚し、効率主義神話を助長し、スピードに付いていけなくなった人は無視し、冷酷に扱うことさえいとわない文化です。そうしてそれは使い捨て文化に化します。そこでは「人間をもはや、尊重され守られるべき最重要の価値としてみなさないということです。

 特に、貧しい人や障害者の場合、出生前の胎児のように『まだ役に立たない』場合、あるいは老人のように『もう役に立たない』場合にそうなのです」(回勅『兄弟の皆さん』18項)。

 残念ながらこの論理は政治的選択にも浸透しており、人間の尊厳と必要とが中心に据えられず、健康に対する基本的権利と医療へのアクセスをすべての人に保障するのに必要な政策や財源を絶対優先事項としないのです。さらに、医師、患者、その親族での「治療同盟」が丁寧に結ばれないまま、ケアが医療サービスだけに還元されることで、弱い立場の人が見捨てられる状態や、その孤独が深刻化しています。

 聖書の言葉に、もう一度、耳を傾けるとよいでしょう。「人が独りでいるのはよくない」。神は創造の初めにこう口になさり、人類に対するご計画の深い意味を明かしておられます。また、罪という致命的な傷は、猜疑心、不和、分断、そしてその結果としての孤立によってもたらされることも明かされています。

 その傷は、あらゆる関係において、その人に影響を及ぼします。神との、自分自身との、他者との、被造物との関係においてです。こうして孤立することによって、存在の意味を見失い、愛の喜びを奪われ、人生のあらゆる難局で、押しつぶされそうな孤独を味わうことになるのです。

 兄弟姉妹の皆さん。病気のときにまず必要とされるケアは、慈しみと優しさに満ちた寄り添いです。それゆえ病者のケアとは、何よりその人の関係性、つまり神との関わり、他者―家族、友人、医療従事者―との関わり、被造物との関わり、自分自身との関わり、そうしたすべての関係をケアすることなのです。

 それは可能でしょうか。もちろん可能です。そうなるために懸命に働くよう、私たち皆が求められているのです。よいサマリア人(ルカ福音書10章25−37節参照)の姿に、歩調を緩めて寄り添えた彼の力、苦しむ兄弟の傷を手当てする優しさに、目を向けましょう。

 私たちの生の中心にある真理を思い起こしましょう。私たちがこの世に生を受けたのは、誰かが迎えてくださったからであり、私たちは愛のために造られ、交わりと友愛へと呼ばれている、ということをです。私たちの本性のこうした部分は、とりわけ病の時や弱っている時に私たちを支えるものであり、この社会の病を癒すため、皆で取り入れるべき第一の治療法です。

 一過性のものであれ慢性的なものであれ、病にある皆さんに申し上げたいのは、「寄り添いや優しさを求める気持ちを恥じないでほしい」ということです。隠さないでいいのです。「人の負担になっている」などと思わないでください。病にある状況というのは、慌ただしい生活のペースを緩め、自分自身を見つめ直すよう、誰をも招くのです。

 私たちの生きるこの変転の激しい時代において、キリスト者こそ、イエスの慈しみ深い眼差しを自分のものとするよう求められています。隅に追いやられたり見捨てられたりもする、苦しみ孤独にある人に心を配りましょう。

 祈りの中で、とりわけ感謝の祭儀の中で、主イエスが与えてくださる相互愛をもって、孤独と孤立の傷を癒しましょう。こうして協力して、個人主義の文化、無関心の文化、使い捨て文化に抗い、優しさの文化と憐みの文化を広げていきましょう。

 病者、弱っている人、貧しい人は教会の中心であり、私たちが人間らしい関心を注ぎ、司牧的配慮を払う第一の相手でなければなりません。それを忘れてはなりません。そして、病者のなぐさめである聖マリアの助けを願いましょう。私たちを執り成し、兄弟としての寄り添いと関わりを生み出す職人となれるよう、支えてくださいますように。

 

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2024年2月10日