4月の日本の教会の祈りは、ご案内の通り、「日本の司教団アド・リミナ」だった。そこでは「日本の司教団がペトロの後継者との絆をさらに深め、よい牧者として日本の教会を導いていくことができますように」と祈るよう求めていた。
そして、アド・リミナ終了後のカトリック中央協議会ホームページでは「今年は、Covid-19の影響もあって、2015年以来の訪問でした。司教たちは、この機会を利用して、関係する教皇庁各省庁にも訪問し、日本での宣教司牧のため、情報交換などを行いました。 このアド・リミナが豊かな実りをもたらすよう、皆さん共にお祈りください」とあった。
9年ぶりのアド・リミナ。このように、繰り返し、信徒たちに祈りを求めているにもかかわらず、司教たちが教皇と、教皇庁各省庁の責任者と、どのような意見のやり取りがあり、どのような受け止めがされ、どのような成果を持ち帰ることが出来たのか、それをこれからの教会活動にどのように生かしていこうとしているのか。私たちの知りたいことは何一つ報告されていない。
これで、「豊かな祈りをもたらす」ように、共に祈ることができるのだろうか。
下世話な話かも知れないが、補佐司教も入れて17人もの司教団が、遠路ローマまで往復し、5泊滞在するのには相当額の経費がかかっただろうし、その全額は日本の信徒たちの献金からまかなわれたであろう。昨今の急激な円安でさらに経費は膨らんだであろう。全国の信徒たちに、繰り返し祈るよう求め、そのうえ経費まで負担させ… それだけ考えても、社会の一般常識では、その恩恵を受けた方々は、説明責任を果たす必要があると考えるが、教会ではそれが通用しない、いや、通用しなくて当然、と考えておられるのだろうか。
菊地・カトリック司教協議会会長の「週間大司教」や、中央協議会ホームページ、そしてバチカン放送日本語版の形ばかりの報道は「カトリック・あい」でも転載したが、閲覧件数を見ても、かなりの読者が関心をもって見ていた。しかし、肝心の中身は、音声なしの動画も含めて、皆無と言っていいほど。そして、いまだにそうだ。
菊地会長の「週間大司教」には、教皇からは「公式なスピーチはいらないから、じっくりと話を聞かせてください」と言われ、「それから1時間以上をかけて、日本の教会の様々な出来事について、司教たちが順番に教皇様に報告し、教皇様からもいくつかの質問があり、非常にリラックスした雰囲気の中で、共に分かち合う時間をとることができたと思います」とあり、「内容について記すことはできませんが」と念を押したうえで、「教皇様は日本の教会について、詳しく情報を事前に把握されており、具体的な質問がいくつもありました。あれだけ激務の中で、どうやって準備をされているのか、教皇様のその配慮に感銘いたしました」とある。
「内容について記すことはできません」というのは、教皇から、かん口令を出されたのだろうか。そうでないなら、一字一句でなくとも、教皇と司教たちとのやり取りの概要、あるいはポイントの説明がなければ、その場にいない信徒・聖職者は「感銘」のしようもないではないか。
シノドスの歩みも満足にリードできず、聖職者による男女信徒への性的虐待が相次いで訴えられていても適切に対処できないばかりか、無視あるいは隠蔽さえも耳に入り、長崎、仙台のように裁判所に訴えられて、損害賠償の命令まで受け、司祭の減少、高齢化の中で本来なら療養させるべき司祭に複数の教会を担当させざるを得ず、魅力を失った教会に若者の姿は減り、司祭志願者もなかなか出て来ない…という現状を率直に報告したのだろうか。
そのような報告がなされない限り、教皇やバチカンの幹部たちから適切な助言を得られるはずもないが。それとも、教皇は「日本の教会について、詳しく情報を事前に把握されていた」というから、そのような問題をわざわざ司教団側から説明する必要がなかったのか。いずれにしても、教皇からどのような示唆、助言があったのか、今後の教会のためにも、日本の全信徒、全聖職者と共有する必要があるだろう。
差し迫った課題として、司祭による性的虐待への対応がある。菊地・東京大司教、成井・新潟司教を輩出している修道会「神言会」に対して、原告被害者が損害賠償を求める裁判は、5月8日の午後2時から東京地裁第606法廷で第3回口頭弁論が行われる。被告側はこれまで代理人弁護士のみで、神言会の代表者は出廷していない。提訴されたことに不服があるなら、出廷して、堂々と反論をすればいいではないか。いや出廷は義務ではないか。
「カトリック・あい」には、ほかにも東京教区の複数の修道会がらみの聖職者による性的暴行被害の相談が2件、寄せられている。これまでのように、被害の訴えにまともに対応せず、無視、あるいは隠蔽の動きさえも聞こえる状態を放置しておけば、ドイツの教会で起きているような、まともな信徒の教会離れを加速する恐れもなしとしない。
9年ぶりのアド・リミナで司教たちは何を学び取ったのか、そして、それをもとに、このような問題も含め、これからの教会のために何をなそうと”決意”したのか。是非とも聞かせていただきたい。読者諸兄姉のご意見もお待ちしています。
*追記(5月25日加筆)*
以上を執筆後、西日本の友人司祭から、5月1日付けのカトリック大分教区報「こだま」534号のトップで、教区長の森山信三司教が「9年ぶりのアド・リミナ」というタイトルの記事を載せられたことを教えられた。部分的ではあるが、ご本人がどのように今回の訪問を受け止めたか、教皇やバチカン幹部の印象に残った言葉などが率直に報告されている。福岡教区も6月号の教区報で報告がされると聞いている。森山司教の報告は、「カトリック・あい」の「特集」欄に、大分教区の了解を得たうえで転載した。
本来であれば、司教協議会として、単なる”日程報告”ではなく、公式な報告として、日本の信者が目を通すことのできるような形で、具体的なやり取りをまとめ、参加した17司教の、森山司教のような報告も併せて、全国の司祭、信徒が”成果”を共有できるようにするのが、当然だろう。その司教協議会会長で、アドリミナの司教団団長を務めた菊地・東京大司教も、若干遅れて、インターネットのホーム・ページ「週間大司教」で「アドリミナを振り返って」の不定期連載を始め、5月25日現在、第六回まで続いている。5月25日から「カトリック・あい」では、シノドスの項目にまとめて掲載している。
内容はともかく、伝えよう、と言う誠意は見られるものの、見出しもなく、極めて読みにくい。しかも、「週間大司教」という、半ば非公式なページでの掲載であり、どれほどの信者が掲載に気が付いているのか、加えて、特に高齢の信徒は、インターネットのホームページを開くことも多くない。大司教がご自分でなく、アドリミナの広報担当を決めて、受け手の読者、信者に幅広く、分かりやすく共有する努力を司教団としてすべきではないだろうか。このままではせっかくの9年ぶり、多額の人的、物的負担のもとになされたアドリミナの成果を共有するには程遠い。
(「カトリック・あい」代表・南條俊二)
【読者から】
+5月号巻頭言、読ませていただきました。司教団、アドリミナ、本当に無駄ですね。彼らは自分たちが信徒をバカにしていることがわかっているのか?
+巻頭言を拝読しました。全く同感です。説明責任を果たそうとしない点については予想通りという気もして
「従順」の名の下に、司教には誰も意見を言わない(言えない)風潮が教区全体に蔓延しています。
+私は、毎月の巻頭言を楽しみにしている一人です。 9年ぶりのアド・
タイ国での宣教の任務を終え、東京・乃木坂の修道院に帰りました
今回の巡礼では、平戸・生月には16の教会(うち8つが巡回教会)のうち、6つを回り、そのような興味深い歴史の現場を体験して回った。
木ケ津教会は小さい聖堂に、永井博士自筆の十字架の道行きが掛けられている。長崎の浦上教会に信徒が出向いた際、譲ってもらったもの、と言うが、痛みが激しく、黄色だった十字架は脱色している。浦上教会は返還を求めているが、応じていない、という。貴重な作品なので、博物館に寄贈して保存措置をしてもらい、レプリカを掛けるようにしたらいい、との声もあるようだ。(写真右が、永井博士の描かれた十字架の道行き)