・Chris Kyogetuの宗教と文学 ⑬エドガー・アラン・ポーの「アナベル・リー」と教会の「主の祈り」

It was many and many a year ago,

   In a kingdom by the sea,

That a maiden there lived whom you may know

   By the name of Annabel Lee;

And this maiden she lived with no other thought

  Than to love and be loved by me.

それはそれは昔のこと

 海際の王国に、

一人の乙女が住んでいた。

 その名はアナベル・リー。

彼女は、他に思いを馳せずに生きていた。

 私に愛し愛されるために。

(エドガー・アラン・ポー「アナベル・リー」より)

 この詩に出会ったのは幼い頃だったが、当時は意味は分かっていなかったのかもしれない。けれども、この「アナベル・リー」という響きが何故か好きだった。言語の壁は、経験と理解がなければ越えられないのかもしれないが、「音」は超えてくる。例えば、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」のジャバウオッキーは、作者の造語(かばん語)で作られているので、支離滅裂な詩ではあるが、音の音程でイメージがつくことと、主人公アリスは、「しかし、誰かが何かを殺した」とだけ、その無意味な詩からこれだけのことが見分けられることを示した。

 アナベル・リーで印象に残る言葉は、「美しい」、「海際の王国」、「天使」、「悪魔」、 「私の美しいアナベル・リー」。それが日本語であっても、単語一つ一つには「共感覚」があるので、それだけでも充分だったが、英語がわかるようになると、この詩は誰か男性の視点で、美しいアナベル・リーという少女が死んでしまったことが伝わるようになる。そして、もっと文学に傾倒するようになると、この詩情の背景を知るようになる。これは、作者のポーの最初の妻、ヴァージニアへの愛だと知ったのだ。

 それを聞くと、夭折したドイツの作家で詩人であったノヴァーリスを連想する。彼も、若くて最愛の女性を失ってしまったが、この世を生きるために死と和解をし、死者より生きている人を優先して生きるという、彼はフロイトのいう「悲哀の仕事」(Trauerarbeit)を行えなかった。私はずっとこのアナベル・リーはそういう詩だと疑わなかった。しかし、更に時が進み、知らずに済めばよかったのだが、この詩が作られた年には、他の女性に求婚して婚約し、不審死で生涯をポーは終えていたを知ると、単純に、ノヴァーリス的ではないと思ってしまって、心の整合性が取れなくなって、私の中では、あまり重要な詩ではなくなっていった。 ある雨の中に、私は、いつもの英語ミサに行った。傘をさして行ったのに、服も濡れて髪も濡れてしまった。ミサが始まる前に、ロザリオの祈りがあるが、水滴が髪を伝っていくので気を取られてしまったのか、「水」というものに無意識に誘われたのか、Kingdomというところで、「Kingdom by the sea」と口を滑らせて間違えてしまった。Kingdom by the sea-これはポーの詩だったのだ。でもこの偶然になる間違えで、私は気づくことができた。あの詩のkingdomとは、キリスト教のもので間違いないんだな、と気づいた。

 「thy kingdom come」-thyとは、youの古い言い方ではあるが、ラテン語では、adveniat regnum tuum.と、adveniatとは接続詞で「私」でも「あなた」でもなく、「一つ」の何かがやってくることの願望を表している。regumとは、dominion、sovereignty、に該当する「支配」や「主権」を意味する。これは、日本語の価値観に合わせて「無難」に言い表すとするのなら、私たちの住む世界を、主によって行き届くことを祈る箇所である。

 死後は、私たちはこの世から消えて、天の国(heaven)に行くイメージがあるが、生きている人にとっては、「come」と神がこちらに向くように祈るのである。ポーの詩のkingdom とは、海際の墓地のことであり、神の視線を求めた場所だということがわかったのである。

 エドガー・アランポーのアナベル・リーの詩には、他にもこの詩にインスピレーションを与えたアメリカの実話があるようで、その関連性については、ポーの死後、二日後に新聞社によって発表されている。それはどんな話だったのか「身分違いの恋をした、船乗りとお嬢さんは周りの反対から逃れるために、こっそり墓場で会っていた。

 お嬢さんは病気で死んでしまったが、船乗りは墓の場所を教えてもらえなかった。船乗りは彼女の墓石を探すために、いつも待ち合わせの墓場に通い続けた」ポーはこの二人にも追悼の意があったと残っているようだ。そもそも愛する人から離れたくないというのはどう言う感覚なのだろう、「私は抱きつく魂がなくてはかなわないと思った」と日本の作家、倉田百三は「愛と認識との出発」でそう残している。倉田はこれを書いた時、まだ20代だったが、詩人の愛し方をよく表していると思う。

 しかし、愛は愛だけあっても仕方がない。愛を実践するにも「感覚」が必要であり、感受性がいるのだ。 私は、いつしか「感受性」と「賜物」を同列に考えるようになった。愛は、対象が必ずあるものだが、感受性は、手に取り合うことも、確かめることもできないものだ。ただ、ひたすら胸の内にあるもので、「世俗」か「賜物」とするか、という分岐点がある。勿論、二つは分裂できないものであるが、よく一般的に好まれる回答として、感受性とは「自分だけの神聖」と言ってしまうのであれば、それは多くの矛盾を孕む。何故なら、必ず、ポーの詩のように、感受性が生きると言うことは「他者」を必要とするからであり、もしも他者が見向きもしなければ、藻屑と化するだろう。

 キリスト教、特にカトリックではカテキズムや、バルタザール神学含め、信仰とは「個人」の感受性や経験のみではなく、教会及び、社会や共同体と根付いていくことを目的としている。そういうことを言われると、多くの人が勘違いすることかもしれないが、それは個人の感受性が奪われることとは、本来は違う。私が問うとするのなら、無宗教は本当に個人の感受性を保証しているのか、と言う壁があった。

 無宗教の利点として、「教会」に関わらなくて良いということが挙げられる。そして特に自分の「賜物」を神に返すことを考えなくて良い、という点では「自由」である。それでも、たとえイエスがいなかったとしても、他者からの評価が必要なこと、社会に貢献すること、どのみちどんな作家も社会に見せなければならないのだから、「収用」に関しては、何が違うのだろうか。世俗の基準で収用されるだけか、もしくは魂が結果を残して、神に返す(収用)-expropriationの違いは、信仰にとっては大きいのだ。

 ポーの詩の、終盤を見てほしい。

For the moon never beams, without bringing me dreams

 Of the beautiful ANNABEL LEE;

And the stars never rise, but I feel the bright eyes

 Of the beautiful ANNABEL LEE;

And so, all the night-tide, I lie down by the side

 Of my darling — my darling — my life and my bride,

In her sepulchre there by the sea,

 In her tomb by the sounding sea.

月の満ち欠けと共に、私は夢を見る。

 美しいアナベル・リーを星の輝きと共に私は思い出す

美しいアナベル・リーを夜が更けるまで私は横たわる

 私の愛しい人のそばに海際の墓地に眠る 渚の墓の中のアナベル・リー

 この詩の終盤に見られる文法的特徴は、主にリフレインと押韻(rhyme scheme)がある。リフレインは「Of the beautiful ANNABEL LEE;」と「Of my darling — my darling — my life and my bride,」のようなフレーズの繰り返しを指し、この繰り返しは詩のリズムや感情を強調し、詩の印象を深めている。押韻によって「dreams」と「Lee」、「rise」と「eyes」、「side」と「bride」、「sea」と「sea」のように協調した音のリズムが作られており、聴覚的な響きや詩の韻律を強調しています。これらの文法的特徴は、ポーの詩の特色であり、詩に独特の響きと韻律を与えている。

 そこには、この詩の語り手が「アナベル・リー」の墓地と共に「夜明けまで」横たわるとあるが、「海際の王国」と共に、「side」側に「bride」そして花嫁として詩の世界から海の満ち引きのように押し寄せては遠のいていく。何故、海際の墓は、「王国」だったのか。それこそ祈りの言葉のように、神が来てくれる「王国」であるとしたかったのではないか。この詩は悲しみであり、死と同じ音程のようだが、愛と幸福に満ちている。

 詩の中の少女も、語り手の存在も曖昧なのは、両者とも具体的に誰なのかわからない反面、それは一つの愛が忘却していくことも現実的に表している。「魂に抱きついている」状態では、このような詩は書けないのだと思う。明確にもっと、愛した彼女を書くだろう。これはIt was many and many a year ago(それはそれは昔のこと)と心的距離を置いてから始まるので、彼自身の薄らいでいる記憶を表していると思っている。

 最初の妻、ヴァージニアは、知的障害があり幼い13歳だった。彼はカトリックへの賛歌も書いている。それだけの情報で信仰がどうだったのかは語ることはできないが、新しい女性を愛し、求婚した最中、自分がもうすぐ死ぬことを知っていたのか、知らなかったのか、彼は謎を多く残していくことになるが、それでも詩に残そうとしたことは、一つの神秘的な「収用」と言えるのかもしれない。

 何故、私たちは、人の愛を語るのだろうか、人の愛の詩を朗読するのだろうか、人の愛から、なぜ、連想するのだろうか。二人のことは二人で手を取り合うことが、愛の存在の一番の証明だろう。神の介入もなしに、二人だけの小世界で生きられることも確かに甘美に満ちている。けれども、肉体は永遠ではなく、「存在」というものや、心は意識によって薄らいで、消えていく。その現実に火を灯すのが、また感受性なのかもしれない。そしてそんな貴族でも貧しい人でも、愛した二人はいつしか「昔、昔の話」になる。もしも、消えていくことを実感する最中で、二人で「王国」で眠るとするのなら、それは神とともに永遠ではないだろうか。まるでそれが「少女」の願いだったようにさえ思える。

 文学という作り話の中には、小世界の魂がある。たとえカトリックであっても、私たちの祈りの言葉は繰り返しながら、残された魂の痕跡と共にするのだと思う。多くの人たちに、この詩は朗読されることによって、それは神のところへかえる祈りになったのかもしれない。

*注釈

*アナベル・リーは最初の妻、ヴァージニアがモデルという話もあるが、それが一番の有力候補ではあるが、ポーはいろんな女性を喪失する運命であったので、確かなことはわからないのだそうです。

*ロンドンでのコンテストのときに、船乗りと少女の話は新聞に掲載されたという話があったが、現在、確かな出典は見つかりませんでした。同じく、ヴァージニアに知的障害があったかどうかも聞いたが、確かな出典が見つかりませんでした。

*バルタザール神学は、キリストへの従順を「神の権威はイエスの主張の中に現れている」としている。 claim – poverty – expropriation – obedience of the cross 主張-清貧-「収用」-十字架への従順、というのが彼の神学の軸となっている。

*「タラントン」のたとえは、マタイ福音書25章14~29節に。

** エドガー・アラン・ポー作「アナベル・リー」の全文と、カトリック教会の「主の祈り」の旧英文は以下の通り。

【Annabel Lee】 by. Edger Allan Poe

It was many and many a year ago,

   In a kingdom by the sea,

That a maiden there lived whom you may know

   By the name of Annabel Lee;

And this maiden she lived with no other thought

   Than to love and be loved by me.

 I was a child and she was a child,

   In this kingdom by the sea,

But we loved with a love that was more than love—

   I and my Annabel Lee—

With a love that the wingèd seraphs of Heaven

   Coveted her and me.

And this was the reason that, long ago,

   In this kingdom by the sea,

A wind blew out of a cloud, chilling

   My beautiful Annabel Lee;

So that her highborn kinsmen came

   And bore her away from me,

To shut her up in a sepulchre

   In this kingdom by the sea.

The angels, not half so happy in Heaven,

   Went envying her and me—

Yes!—that was the reason (as all men know,

   In this kingdom by the sea)

That the wind came out of the cloud by night,

   Chilling and killing my Annabel Lee.

But our love it was stronger by far than the love

   Of those who were older than we—

   Of many far wiser than we—

And neither the angels in Heaven above

   Nor the demons down under the sea

Can ever dissever my soul from the soul

   Of the beautiful Annabel Lee;

For the moon never beams, without bringing me dreams

   Of the beautiful Annabel Lee;

And the stars never rise, but I feel the bright eyes

   Of the beautiful Annabel Lee;

And so, all the night-tide, I lie down by the side

   Of my darling—my darling—my life and my bride,

   In her sepulchre there by the sea—

   In her tomb by the sounding sea.

【Our father in heaven(カトリック教会の主の祈り)】

Our Father, who art in heaven, hallowed be thy name.

Thy kingdom come, thy will be done, on earth, as it is in heaven.

Give us this day our daily bread

 and forgive us our trespasses as we forgive those who trespass against us;

   and lead us not into temptation, but deliver us from evil.

(Chris Kyogetu)

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2024年4月30日