(読者からの投稿)「カトリック・あい」のタイトルの意味を知って衝撃を受けた

 友人の司祭から届いた「カトリック・あい」を読んで衝撃を受けての感想です。まず、タイトルの意味を知って「なるほど!」と心が震えました。これが第一の衝撃でした。日本の教会でこんなにも誠実に思いを巡らす人がいたことに驚いたわけです。

 ボクにはこの数行を読んだだけで、飛んで行って語り合いたい衝動にかられました。あえて繰り返させてください。「先ず主体性を持った私がいて、」。司祭主導の現実を思うと極めて刺激的な言葉です。司祭主導が必ずしも正解とは思えない現実がいくつも思い浮かぶからです。こうした本質的な発想ができることに感動したわけです。

 「まわりに目を見開き」。「目を開き」と書いて本文に目をやって「見開き」となっていることに気が付いて慌てて修正しました。単に見るだけのだとぼんやり眺める雰囲気がありますが、「見開く」となると「ナンダコリャ!」と驚いて見つめる雰囲気です。「コラッ!」と肩をたたかれたようで思わずシャキッとなる感じです。

 「教会はイエス様が建てられた聖なるものだから、仰ぎ見ることこそ信者らしい」という雰囲気の中で育てられた自分としては、やはり刺激的です。ただ父親は、子供ほどの年の違う司祭たちへの辛口の評価を子どもたちの前でやっていたので、母親譲りの信仰の感性に浸された子供たちにしてみれば、「罪を犯している」感を免れませんでした。

 「神と人に出会い、」。そうなのだ、「やり手の司祭が、どれだけ信者を不幸にしているか」という嘆きの声は、あちこちで耳にしました。神様と出会っていれば当然、人とも出会えるはずなのに、と思います。そういう自分も大きい顔はできないのですが。乱暴な言い方でなんですが、あんまり祈っているようでもないのに、信者には大変評判がいい司祭は、たくさんいます。神様も「ワシが見えないのだから、まいいか」と片目をつぶって下さっているに違いない、と勝手に思っています。

 「愛でつながり、相ともに人生を歩む」。見事な結論!これに尽きるのだと思います。そのことなし、言葉で勝負しようと力を入れた従来の神学の正当性は揺るがないとしても、イエス様がお建てになった教会を堅固にすることが出来ないことは歴史が証明しています。

 飛躍しますが、かつて、「イエスはそんな教会を建てたのではない!」とルターが叫んだ時、「そうだな、少しやり過ぎたかも」と反省する声が教会側から上がっていたら、と悔やまれます。「いや、ワシらは間違っていない!」とばかりに対抗策を打ち出しことを、教会は検証する必要があるように思います。そうして、遅ればせながら、改めて和解の策を講じることが必要かと。

 そんな思いなのかどうか知る由もありませんが、教皇フランシスコの言動には、「教会は未熟でした。申し訳ありませんでした」と言葉にすることはなくても、そんな自戒の念を感じてなりません。

 随分前に「路傍の石が叫ぶ」という本の贈呈を受けたことがあります。「預言者の声だな」というのが率直な感想でした。今回の、「カトリック・あい」との出会いも同じ感想です。この度は「預言者集団」と言った方がいいかもしれません。神様は問題が起こると預言者を派遣されました。だから、ガタガタの教会を立て直すのに必要なのは、預言者の声に耳を傾けることだと思います。イエス様が建てたられた聖なる教会再建のために、頑張ってくださることを期待しています。

(pkenより)

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2024年5月3日