・映画がカトリックを広める ③モーセの「十戒」、「サウンドオブ・ミュージック」、そして「天使にラブソングを」

 映画「十戒」といえば、名優チャールトン・ヘストンがモーセ役を演じている1956年版が有名である。映画では、旧約聖書の7つの物語、アダムとイブ、ソドムとゴモラ、ノアの箱舟、モーセの出エジプトなどの物語を、聖書の記述通りに正確に再現されている。中でも、エジプトを出たモーセとイスラエルの民を追いかけるエジプト軍の前に出現した、真っ二つに割れた海。そこを歩いて渡りきった彼らの前で、後を追うエジプト軍が、もとに戻った海に巻き込まれて全滅するシーンが、ことのほか有名である。

  ところで、このような物語は単なる作り話なのだろうか。「単なる作り話ではない」と言うのは、大学受験で有名な故竹内均氏である。著書「地球物理学者竹内均の旧約聖書」(同文書院、1988年)では、紀元前1400年頃の地中海で起こったサントリニ島の火山大爆発による島の陥没、カルデラの生成などにより、実際に海が真っ二つに割れた事件が、モーセの出エジプトに記されている、と主張しておられる。

 その他の物語も、実際に起こった事件が旧約聖書の物語に反映されている、という。日本の神話も、単なる物語ではなく、実際に起こった国誕生の事件が神話に反映している、というのが、もはや定説のようになっている。それはともかく、「十戒」を見れば、西洋人が話題にする聖書の物語が一通り理解できるので、教養として鑑賞してはどうだろう。

 

 聖書物語などキリスト教そのものを表現した作品ではないが、カトリック精神が充満している映画としては、「サウンドオブ・ミュージック」をお勧めしたい。

 ジュリー・アンドリュース扮する修道女が、見渡す限りの山の草原で歌い上げる、まさに、今でいえばドローンで撮ったような雄大な冒頭のシーンが有名だ。実は彼女は、毎回祈りの時間に遅れ、院長から「あなたは修道女に向いていない」と諭されていた。歌っているところではなかったのだ。

 そうして7人の子供を持つ大佐一家に家庭教師として赴任する中での、恋あり、一家を捕らえようとするナチからの逃走劇ありの、実話に基づいた映画である。楽しい映画で、見たことがない人は是非鑑賞を勧めたい。実はこの映画の続編があって、ナチの追跡から辛うじてアメリカに逃れたトラップ一家がいかにしてアメリカで有名な家庭コーラスになっていくかが演じられている。

  「天使にラブソングを」もいい。ギャングに追われた女性主人公の逃亡先の修道院の、あまりにも音程の酷いコーラスを立派に育て上げていく物語で、大ヒットし、続編が何編か作られている。

 

(横浜教区信徒 森川海守 ホームページ:https://www.morikawa12.com

2024年7月31日

・神様からの贈り物 ⑬神様の子どもである喜びを、ろうそくの火を分けるように広げたい

  今から10年ほど前、初めての本を出版した。私は嬉しくて舞い上がっていた。著名な方々も含め、たくさんの人たちに献本として拙著を送付してしまった。ある日、受け取らなかった旨のスタンプが押されて返送されたものがあり、はっとした。相手方に、献本を受けているかを確認しなかった、と気づいた。対応は温かいものが多く、とても嬉しかったが、献本を辞退されたのは残念、というのも正直な気持ちだった。

 そんな中、出版社から私のもとにメールである連絡が入った。「三品さんにお手紙が届いています。教会関係の方でしょうか」と言われ、不思議に思った。「誰だろう?知っている人なら、直接私に言ってくるはずだし…」と考えたからだった。

  後日、自宅に転送された葉書の送り主を見て驚いた。『置かれた場所で咲きなさい』の著者であるシスター渡辺和子からだった。「たしかに受けとりました」という言葉とともに、学生たちのために必ず役立てること、そして神のご加護がありますように、というメッセージが自筆で書かれていた。会ったこともない私に、このようなお返事をくださるとは、夢にも思っていなかったので、とても驚いた。感動と嬉しさで胸がいっぱいになった。

 もう一人、私の献本に丁寧なお返事をくださった方がいる。そのH神父は、感想も添えてくれた。私がいちばん伝えたかった「病気は神様からのお恵みだったと気づいた」という一文に注目してくださり、心が喜びで満ちあふれた。「どうぞミサにいらしてください」と、目の前にいる人に語りかけるような言葉に感動した。だが、ミサへ行く勇気が出ず、そのままにしていたら、H神父が他教会に異動されたことを知った。

 このような方々にとって、私は無名の一般人だ。突然の献本に驚いただろう。この経験を通して、一人ひとりを神様の子どもとして大切にしてもらう喜びを感じた。これからも、この喜びを、ろうそくの火を分けるように、たくさんの人に広げたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年7月31日

・“シノドスの道”に思う⑭ドイツの視点から・8「バチカンに抗して一般信徒を巻き込み真剣に前進しようとしているが、日本の教会は?

 前回、ドイツの「カトリックの日」は信徒主催・主体の祭典であること、ドイツという国が民主主義国になるために、カトリック市民が大きく貢献したことを述べました。「民主主義とキリスト者であることは一緒にやっていける」というZdK議長の言葉も紹介しました

 ところで教皇フランシスコの言葉「今日の民主主義は不健全です。キリスト者はもっと政治に参加して健全化に寄与すべき」(カトリック新聞7月28日付)。教会の健全化のためにも、信徒がもっと教会運営に参加できるよう、バチカンも民主化に向けて努力すべきでは、と筆者は思います。今回紹介することもそれに関係します。以下、4月頃からのドイツの司教協議会と信徒団体、そしてバチカンとのやり取りを紹介します。

 

 

*司教協議会常任委員会と信徒団体の間の信頼関係は・・

 4月末にドイツ司教協議会(DBK)の常任委員会と一般信徒団体である聖ゲオルグ・スカウト協会の間でトラブルが発生しました。スカウト協会は、規定としてDBKの承認を得た補助司祭(霊的指導のため)が必要なのですが、DBKがその候補者を拒否してしまったため、司教たちと諸信徒団体の信頼関係が損ないかねない事態となり、シノドス委員会にも影響を与えることになったようです。

 シノドス委員会は、ドイツ・カトリック者中央委員会(ZdK)と司教たちが共同でドイツのカトリック教会の今後のことを共に協議し決めていこうとするものです。しかし、今回の司教たちの「拒否」は、諸信徒団体の批判的な行動に対するリアクションだという判断を、ZdKは下しているのです。

 

 

*ZdKの司教たちに向けた疑問と批判

 上記の事態に直面して、ZdKは次のように批判しています。

 ①上記のような決定をDBKの常任委員会がしたことは、シノドス委員会における建設的で信頼関係の中でなされるべき協働に著しく異議を唱えるものである。カトリック教会やその組織、その指導者たちと教えのレベルに向けられる批判的疑問は、シノドス委員会で議論の対象となるべきである。教会信徒団体の批判的行動を通してのみ、カトリック教会は自らを根本的に改革しようとするのだから、このような議論を恐れてはならない。

 ②常任委員会が先の決定をしたことで、司教たちは「シノドスの道」が決定したことをどれだけ尊重しているのだろうか。それらを自分たちに課せられたものとして受け止めているのだろう
か、疑わしい。それら決定事項を司教たちが具体的な行動に限られた範囲でのみ実行するのではないか、あるいは実行の妨害すらするのではないかと危惧される。

 ③それゆえ、DBKは信徒の間で失った信頼の回復をする責任がある。

 以上に加え、幾つかの質問を二回目のシノドス委員会で真っ先に司教たちに付きつけました―スカウト協会の補助司祭の候補者を司教たちが拒否したことに見られる透明性と説明責任を欠いたやり方を続けるつもりなら、どうして「シノドスの道」で信頼関係の中で共働できるのか? 司教たちは「シノドスの道」の諸決定をどのように、またいつ自分たちの教区で実行するつもりなのか?司教たちはシノドス委員会にどのように貢献してくれるのか? 司教たちはバチカンの保留や反対にどう対処するつもりなのか?―などです。このように、透明性と説明責任を求めて信徒団体が司教たちに発言できるのは素晴らしい、と思います。日本の教会ではどうでしょう?

 

 

*シノドス委員会を昨年11月、今年6月に開催

 シノドス委員会の初会合は昨年11月にエッセンで開かれましたが、マインツでの二回目の会合は64名の参加者で開かれれました。「『シノダル(共働的)な教会』であるとは、どういう意味か?」という問いがテーマとなり、最終的に3つのコミッション(委員会)を作ることが決まりました。

 一つ目の委員会は、「構造的原理としてのシノダリティとは何か」を深めること、そしてシノドス評議会のあり得る規律・規則を議論すること、が仕事です。

 二つ目の委員会は、これまでのドイツの教会の「シノドスの道」での諸決定が実行されているかの評価と監視。

 三つ目の第三委員会は、ドイツの教会の「シノドスの道」を今後発展させるためにどう導いていくか、を考えるのが仕事です。

 DBKのベッティングは「具体的な変化を見えるようにすることが重要だ。現地の教会の行動が変化していることを人々は見ることができなければならない」と。ZdK議長も「我々の教会における構造的な変化への責任を我々は持たなければならない」と前向きです。

 

 

*6月に開かれた司教たちとバチカンの担当者との会談の中身は

 教皇フランシスコの意向に従って、ドイツ司教団の代表とバチカンの代表それぞれ6名が、丸一日の会議をしました。以下、聖座とドイツ司教協議会の共同声明を紹介します。

 両者の会談は2022年11月のアドリミナの時に始まり、2023年7月に意見交換がなされ、2024年3月22日になされたことの続きとして、前もって予定されていたことでした。日本のカトリック新聞(7月21日付)が書いている「ドイツ司教団の代表はバチカンに呼び出され」ではありません。この会談は先回の合意(取り決め)に基づいてなされ、ドイツの教会におけるシノダリティの実践を具体的にどう形作っていくかについて、第二バチカン公会議の教会論と教会法の規定と世界シノドスの成果と一致させながら考えるという内容でした。具体的には以下の通りです。

 【ドイツのシノドス委員会についての報告】

 この会議ではまず、6月15日のシノドス委員会での協議内容がドイツ側から報告されました。全国的なシノダルな団体を法的にも可能なものとして設立するための神学的基盤と可能性について、
また司教職の行使と全信徒の共同責任の促進との関係について、シノダリティをどう具体化できるかという観点から議論されたことをバチカン側に伝えました。効果的な福音化に向けてシノダリティの実践へ向けて進んでいることを分かち合ったのです。

 【バチカンの介入】

 次に、シノドス委員会Ausschussによって設立される委員会Kommissionはシノダリティをどう考えるかという問題と、「シノドス審議会Gremiun)」の仕組みをどうするか、という問題に取り組むことになりました。そしてこの「シノドス審議会」の構想については、先の委員会が「権限を持つバチカン省庁の代表者によって構成される委員会Kommission」とコンタクトを取りながら、なされることになりました。つまり、ドイツ側の委員会とバチカン側の委員会が共同で「シノドス審議会」を考えていく、というのです。

 ここで振り返ってみますと、シノドス委員会とは、2026年までにシノドス評議会Ratを設立するための一時的な作業集団でした。シノドス評議会とは司教協議会と信徒団体ZdKから選ばれた人たちがドイツの教会の全国的な方向・運営を考えていくものとして構想されていました。司教と信徒団体の共同統治を目指していたのです。

 ところが、今回のバチカンとの会談後の共同声明では、明言はしていませんが、明らかにバチカン側の要求でしょう、今後のドイツのあり方に「バチカン側の委員会Kommissionも一緒になって協議していく」ということです。従って、これまでドイツ側が構想していたシノドス評議会Ratと、今後進められていくシノドス審議会Gremiumとは、違ったものになると思われます。

 【バチカンは2つの変更を求めてきた】

 バチカンは2つの変更を求めてきました。一つは名称の変更です。先ほど述べたように、シノドス評議会Ratはシノドス審議会Gremiumに変更されました。ただし、正式名称はまだ決まってはいません。もう一つはこのシノドス審議会の地位は、「司教協議会の上でも同等でもない」ということです。シノダリティ(共働性)は、司教たちの下で構想・実践されていくということでしょう。「信徒と司教の共同統治は許さない」という形。しかも上述したようにドイツ側の委員会とバチカン側の委員会の二つが「共同で協議し、構想していく」ということです。

 特に名称変更は実質の大きな変更です。恐らく、ドイツ側の委員会に司教と信徒たち、すなわちZdKの代表やシノドス集会から選ばれた人がメンバーとなるだろうと思われます。ドイツの「シノドスの道」は大きな転換を迫られることになった、と言えるでしょう。

*似たようなことはフランスでも起きている

 実は、バチカンはこれに近いことをフランスの司教団にも要求したようです。カトリックメディア「ザ・ピラー」3月23日付けによると、フランスの司教協議会が昨年11月、バチカンに新しい司教協議会の規約を提出し承認するよう求めたところ、「司教協議会の新規の仕組みにおいては、司教の団体的責任をもっと明白に強調するように」と指示された、ということです。そして、「バチカンはドイツが司教と信徒の共同の審議団体を作ろうとしている計画を念頭に置いて、このような要求をしてきた。バチカンは司教の責任性が曖昧にされるのを恐れている」と解説しています。

 

 

*バチカンに送られたドイツ司教団の報告書と日本の司教団の報告書との違いは

 このコラム「シノドスの道に思う➉」で申し上げたように、世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会・第一会期の総括文書がバチカンの事務局から出された後、ドイツ司教協議会は、国内の各司教区とカトリック諸団体に3月末日までに「省察報告書」を提出するよう求め、それを要約した文書をバチカンのシノドス事務局に5月22日付で送りました。

 それによると、各教区が具体的に信徒を巻き込んでシノダル(共働的)な動き、つまり全員参加を求めて対話をし、互いの意見を聞き、シノダルな仕組みや委員会の設置などが進んだ。そうした中で「神は教会に何をするように求めているのか」という問いを草の根レベルで意識するようになった、としています。

 またこのコラム「シノドスの道に思う⑨」で紹介したビュルツブルク共同シノドス(多くの信徒や修道者も参加して、共同責任で審議していこうとした画期的な教会会議)の精神を思い出しながら、皆が参加する構造を作る努力や、場合によっては共同審議だけでなく決定も共同でするなど、具体的な取り組みを進めています。

 ある司教区では「教区協議会は(司教、司祭、修道者、一般信徒)全員が意見を出せるように民主的でオープンかつ公平な雰囲気」でなされ。「聖霊における会話」という手法も使いながら、教区の中の困難な問題をどう解決していくかについて、具体的な話し合いを進めている、ということです。また、別の教区では「いわゆる同意メソッド」で、一つの解決策だけを取り上げるのではなく「反対するのも自由」のやり方で、深刻な意見対立も最終的に一致をみるような努力をしている、といいます。

 それに対して、日本の教会はどうでしょう。報告書「シノドス的教会を目指して日本のカトリック教会の挑戦」が出されましたが、具体的な”実績”と言えるのは、”シノドスの道”を歩む方法にすぎない「霊における会話」を一部の人が”実践”したことだけのように読み取れます。定義もはっきりしない「霊における対話」のほかは、どうなっているのでしょうか。「透明性」も「説明責任」を果たすことから程遠く、「挑戦」という言葉だけが空しく響きます。

*ドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de 聖ゲオルグ・スカウト協会 https://dpsg.de/en/die-dpsg  カトリック系メディア The pillar
(西方の一司祭)

2024年7月31日

(読者投稿)「さっぱりの日本のシノドスの道」に同感、教皇が提唱する「互いに耳を傾け、理解し、共に働く」共同体を取り戻そう

 読者投稿の「さっぱりの日本のシノドスの道」に同感です。第二バチカン公会議の「世界に開かれた、共に歩む教会」の精神を受けて、約30年前に日本の教会が取り組んだ「NICE(福音宣教推進全国会議)」の事も、教会で聞いた覚えがありません。今回のシノドスの歩みも同じような道を辿りそうな予感が致します。

 私の教区でも数か月前、司教と司祭たちによる「霊における対話」の試みがなされた、と教区報に大きく取り上げられていましたが、では、それを今後どのように進めていくのか。知らされていません。「霊における対話」を振り返っての感想に、果たして、そのような対話ができるのか、という不安の声があった、と聞きました。

 司教と司祭のみの集まりでさえ不安を覚えるのですから、信徒と共にとなると不安しかない、ということかも知れません。いずれにせよ、「霊における対話」を教区が小教区レベルまで進めるためには、準備にかなりのエネルギーが必要とされるに違いありません。

 私は自分の小教区共同体でも、10年前と比べて「シノダリティ(共働性)」が低下している、と感じています。戦争を体験した世代には、シノダリティを、ごく自然に、空気のように小教区に創り出していた司祭や信徒達が多くいた気がするのですが、世代交代が進むうちに、それまでの共通認識が薄らぎ、あるいは喪失している、と思う事が増えました。コロナ禍で分断を当たり前として、もしくは心地よく受け入れてしまい、問題を自分事とする力が衰えた気もします。今年の信者総会に集まった人の大半が後期高齢者、そのような現状です。

 教区の号令を待っていては、いつになるか分かりません。「地区委員」が主催していた、小教区の地区ごとに集まる茶話会「地区のつどい」を、「シノドスの歩み」という意識をもって活用することなど、司祭、信徒が小教区レベルから具体的な取り組みをすることが必要な時期に来ていると思います。。

 テーマをしっかり決めて逸脱しないようにし、誰かの批判にならないような配慮も求められますが、それでも、うまくいかないかもしれません。しかし、教皇の提唱される”シノドスの道”の歩みには、教会を構成する聖職者、信徒が互い声に耳を傾け、理解し、福音宣教に共に働く、そうした教会文化を創り出す、という狙いがあるはずです。

 森司教の「信徒の霊性」を読んでおらず、手探り状態ではありますが、参加型プロセスによって教会に属する実感が強まり、風通しのよい、より良い共同体になれば良い、と強く希望しています。

(2024.7.5 東の教区の信徒、匿名希望)

2024年7月6日

・Chris Kyogetuの宗教と文学⑮ 洗礼を受ける前、私は夢で「10人のおとめ」の1人になった 

 

 2014年の8月に私は洗礼を受けたが、その前にある夢を見た。

 眠る前に、新約聖書のマタイによる福音書の25章にある「10人のおとめ」のたとえを読んでいた。その時は、集中力がなかったのか、表面だけをなぞったようで、おそらく話の内容を把握できなかった。登場人物ですらどうだったのか、眠気もあったので頭に入っていないなと思ったし、そういうことは誰にでもあるとは思う。ただ何気なく読んで、本を閉じた。おそらくこれが現代文のテストであったのなら致命的だったかもしれない。それぐらい分かっていなかった。明日、読み直そうとも思わなかった。特にそんなことも考えず、ポストイットに「マタイの25章」と最後に読んだ箇所だけを書き残して机に貼って、そのまま本を閉じて眠りについた。

 気がつくと、身体が重たいような感覚があったが、夢の中で、眠っていたのを起こされていて、一人の男の人に日本語かどうか、どこの国かもわからない言語で、腕を掴まれながら「持っているか、持っていないか」と問われた。自分の持っていたランプが消え掛かっているので、持っていない気もしたけれども、ここに来る前に、家に油を取りに帰って持ってきた記憶があった。一緒にいた隣の女性はそれを笑ったが、だんだんと、私は持っていたような気がするとも思うようになっていて、「持っている」と答えた。

 そうしたら本当に、私は油を持っていて、ランプに灯りをつけた。その瞬間の麦畑のような、夜空の下で明かりが灯る瞬間だけ、今でも記憶している。もう10年も経った事なので、その記憶に補正がかかっているのかも知れないが、夜空が不気味なようで、でも、灯りがついた瞬間に「命拾いをした」という安堵感があった。

 「お前も入れ」と言われて、他の賢いおとめたちと、花婿と一緒に、私は祝宴の会場に入った。すると、後ろで油を分けてもらえなかった愚かなおとめたちが数人、門から入れずに「影」となった。それで、夢の中で思った。「あぁ、いつも油を持っていないと いざという時に助からないんだな」と。助かった高揚感と、そして残された「影」が気になって、胸が痛くなった。

 起きてみて、それが不思議な夢だったのだ、とは思ったものの、すぐに日常に溶けていった。そしてまた聖書を読む時間になり、ポストイットに書き残した箇所を見て、それが昨晩、寝る前に読んだ聖書の「10人のおとめ」のたとえだ、ということに気づいた。しかし、あの時、眠る前は、一切、話なんか分かっていなかったはずだった。でも、再度読んでみると、ほとんど、夢の通りだったのだ。理解がより深まったはずなのに、それから夢に出てくることはない。

 夢というものはその出てきた他者と繋がっているはずがない。たとえ、それが現実の記憶に沿っていて事実であったとしても、夢とは「他者と共に時間を過ごした」というわけではなく、私の「印象」だけが見せる物語だ。

 意識では把握できないもの、無意識は、本当にあるのか。それは心理学でも学派によって否定もされたりもするが、もしもこれが無意識でなければ、説明がつかないと思う。そして神秘体験はさらに深いところにある。一時期は、その経験から旧約聖書の創世記ではファラオの夢を解いたヨセフや、夢解きののダニエルが出てくるダニエル書があるのに、新約聖書には何故、イエスが来るようになって夢解きがいなくなったのか、という持論を純粋に語った時期もあった。

 しかし、思い返せば、共感はさほどされず、それすらも若さに思えるように、もっとそういった「不思議」だけでは生きられないのもまたキリスト教だと知った十年間だった。語ることすらも、馬鹿らしい日もあった。

 それでもこの夢の記憶が尾をひいていて、「神秘」の可能性だけは残していた。「奇跡」を体験した、それだけでは伝道にならないということを知っていく十年だった。私の喜びと、そして、そんな夢を見たのに「幸福」とも言えなかった時と、そして今だから、やはり「確かなものがある」と思えることがある。奇跡は、語れる機会も重要であって、この話は温存しておくとしている。

 重要なのは、日々の生活の中で取り組むべき実践は、イエスが人々の元へ渡り歩いた労苦であり、イエスの教えの実践である。「父と子はお互いを純粋に与え合い、純粋に引き渡し合う運動です。この運動において、両者は豊であり、その結実は両者の一致であり、それは完全に一つです」とベネディクト16世教皇が三位一体をそのように語り、「三位一体の神秘はこの世にあっては、十字架の神秘に翻訳されなければならない」とした。

 だが、この美しさは、苦しみもある、ということだ。豊さゆえに現れる聖霊というのは、人間の喜びだけではない、ということも常にある。神秘を語りたい、どこか聖書の話をできる人はいないか、と探す信者は多いと思うが、いたらいたで、楽しさだけでは成り立たないのは、相手に壁があるからではなく、三位一体そのものを共感することは非常に困難だからである。

 経験したことが各々の「夢」でしかないように、「他者」へと繋がりを持つことは、簡単な面もあるが、深くなることは容易ではない。宗教の語り合いについて、私は苦しみも引き渡し合うことだと思うので、最近はあまり求めなくなった。人の不幸を安易に聞くことは怖いことだ。

 信仰を理解し合うこと、それをどこまでできるのか、簡単にはできないことぐらい分かっている。それが正常な判断だと思う。生い立ちも、運命も違う人同士の中で、それらを語るのは苦しいこともある。自分の想像以上の不幸をいかに一致させられるのか、それは苦しいことではないだろうか。

 安易に、「言葉」一つで救えることはない。一つの姿勢が救う一歩になるのかもしれないが、常にそれらの可能性は不透明だ。イエスが人助けをすることについて、心地よさだけで語ることには「嘘」がある。自分の苦しさだけを語ることは驕りでもある。現実は、他人の奇跡なんかでは救われない。お互いの貧しさと貧しさの一致は、非常に苦しいものがある。しかし、各々は,「おとめ」のように眠っているようで、常に信仰は生きている。だからこそ、常に燃料がいる。名も知られていないおとめと花婿、一緒に祝宴に入れる(マタイ25章10節)のか、その日まで、分からない。

 あの夢を十年前は「良い夢だった」と言っていたが、今年同じく「良い夢だった」と思うことは抱いている心が違う。そしてまた十年後、「良い夢だった」と言ってる時には、どんな自分になっているのかは想像できない。

(Chris Kyogetu)

2024年7月1日

・愛ある船旅への幻想曲(41)”遺産”を大切にしないカトリック教会…そして正教会のミサで体験したこと

 私は今、戦前の教会聖堂についての情報を、信者でない方から頼まれて、集めている。そこで、驚いたことがあった。今の聖堂とは全く違う、繊細な作業が施された祭壇と壁画だ。

 教会創立100周年記念誌を準備作成した時にも、この写真は見ていない。私たちの小教区を担当してきた各宣教会に問い合わせたが、この写真はどこにも保管されていない。親が当時の信徒だったと思われる三組の家族にも問い合わせたが、期待した答えはなかった。「仕方ない」と諦めねばならないのか。

 過去の教会について、語り継ぐ作業ができてないこと、歴史を尊ぶ司祭が居なかった、ということか。「教会とは何か」、さらなる問題である。

 資料集めのために、聖ハリストス正教会を訪ねた。同級生のお父様がこの地での正教会設立に尽力されたこと、その時まで正教会の信者はカトリック教会で共にミサに与っていたこと、を聞いていたことから、「もしかしたら、、」と思ったからだ。

 また、彼女のご主人が、この丸いドームのビザンチン様式の聖堂を設計された、と聞いていたので、一度訪問したいと思っていた。せっかくならば、と日曜日のミサに与らせていただいた。以前、サンクトペテルブルクに留学していた長女の卒業式に出席した時、ロシア正教のミサも行われ、司祭方の祈祷する歌声はプロ級のテノール、バリトン、バスで構成された男性三部合唱となり、荘厳で美しいミサを今も覚えている。日本でのミサは、どのような流れなのかと興味津々であった。

 信徒は少なかったが、司祭はよく通る声で祈りを唱え続け、補佐する一人の青年との歌声は聖堂に響きわたり、終始立ったままの信徒も、答唱を続ける。有名画家のイコンとゆらゆら揺れる蝋燭の火が祈りを深めてくれる。私は、聖歌本やミサ祈祷小冊子のページの確認に必死であった。このようなテンポの速い、忙しい?ミサに与る信者方の忍耐、身に付いた祈りの姿勢、何よりも、司祭の前で跪き涙するロシア人女性の姿は、私に信仰の意味を改めて認識させた。彼女に終始、笑顔はない。

 いよいよ司祭の説教である。今までとは違い、穏やかな口調で始まった。気負いのない説教の中で「今日は、カトリック教会の方々も来て下さり…」と、共に祈る喜びを笑顔で述べられ、自然体でありながらも抑揚をつけた清々しい説教は、私にとって新鮮であった。日本人司祭の全く普通の感覚、正直な対応から「人間である司祭」を見た。そこに「人間イエス」を感じた。そして、初めてエキュメニズムの意味と必要性を私は受け入れたのである。身を持って経験せねば正しく理解する事も語る事もできないことを、神は私に教えてくださる… それを実感した。

 洗礼を受けていない中学一年生の男の子から「イエス・キリストって本当に生きていたの?」と聞かれた。即、「あなたにとってイエス・キリストはどんな人?」と聞き返した。彼は「“たまたま”預言が当たった人」と答えた。“たまたま”当たった預言を周りの人が“たまたま”広めたと言うのだ。実に面白い。彼にとって全て“たまたま”なのだ。

 社会の教科書で学ぶ各宗教への素直な疑問と感想を子供たちが持っていることを、私たちは知らねばならない。今の子供たちには、とんでもない知識があり、並大抵の知識では太刀打ちできない。一神教であるキリスト教にも教義の違う教派があること「なぜ?」と問う、小さな種をどう育てるのか。カナダ人の彼の母親は無宗教である。

 日本人に(勘違いの)プライドだけのカトリック信者がおられることは重々承知している。問題のある教会の動きにも見て見ぬふりをし、とにかく自分の楽園を教会に求めるだけの信者生活…。このような信者を”育てた”ことについて、一番反省せねばならないのは聖職者だと私は思っているのだが。

 平日は、サラリーマンをしている(彼の言葉から)という正教会の司祭との出会いを、心から神に感謝した。私は、前任の司祭だった彼のお父様のことは存じていた。こちらのカトリック教会創立100周年の式典にも喜んで参加して下さった。「父が残した6箱の写真整理がまだできていなくて…」と現司祭は言う。そのダンボール箱が“宝箱”であって欲しい、と願う私である。

 

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年7月1日

・カトリック精神を広める⑧ 映画がカトリックを広める・その2「クォ・ヴァディス」

 映画「クォ・ヴァディス」。ポーランドのノーベル文学賞作家、ヘンリク・シェンキェヴィチの同名小説を、壮大なスケールで描いた、今から70年前、1951年初上映の映画だ。ロバート・テイラー、デボラ・カー、ピーター・ユスチノフなど当時のハリウッドの人気俳優が多数出演しており、年配の方の中には、ご覧になった方も少なくないだろう。

undefined

 「クォ・ヴァディス」はラテン語で「主よ!いずこに行き給うや」という意味だ。キリストがこの世を去り、残された弟子達が、当時の世界の中心であったローマにキリスト教を広めていく中で、暴君ネロにより迫害を被った。ネロが放った放火が、ローマの大火事となり、火事の責任をキリスト教徒に押し付けて、迫害されていく…。そのような中で、ローマの将軍とキリスト教徒の女性奴隷との恋愛をからめ、初期のキリスト教がどのようにして広まっていったのかが、この映画を通じて理解できる。

 地下の共同墓地(カタコンベと言い、ローマ観光旅行の定番見学地となっている)で、キリスト教徒の秘密の集会が行われた場面が出てきたり、ローマのコロッセオで、どう猛な野獣とキリスト教徒の戦いが、ローマ市民の見世物になっていたりと、ローマ時代の様子を直に視覚的に理解できる映画にもなっている。カタコンベでの集会では、新約聖書に出てくる聖ペトロによるキリストご受難についての有名な演説が見ものである。

 映画のタイトル「クォ・ヴァディス」は、大迫害の中、ペトロがローマから逃げていく途中で、キリストに出会う。その時、彼がキリストに発した言葉だ。この問いにキリストは、「おまえが行かないので、私は再度、十字架にかかりにローマに行く」と答え、それを聞いてペトロは、はっと我に返り、踵を返し、十字架の刑を受けにローマに赴く、というのが映画のストーリーになっている。いずれにしても、聖書には記述のない、シェンキェヴィチの創作ではあるが、私にとって、是非とも世の子供たちに見せたい映画の一つになっている。

 (この映画のブルーレイディスクは、JR四谷駅真向いの「サンパウロ」で購入できる。)

横浜教区信徒 森川海守(ホームページ:https://www.morikawa12.com

2024年6月29日

・神様からの贈り物⑫ 「広島での祈り」と「先生の母上のための祈り」-修学旅行で体験した2つの祈り

 

  京都、奈良、広島への修学旅行。高校での一大イベントで、準備の段階から楽しんでいた。私のグループでは、日本史の授業で習ったばかりの神社仏閣をめぐる計画を立て、教科書の写真と実物を見比べながら参拝したのが、とても楽しかった。

 修学旅行の行事として毎年、「広島での祈り」が必ず入っていた。原爆ドームを訪れ、平和祈念公園にて、クラスごとの『祈りの集い』をもち、その後に原爆の被爆者である語り部さんのお話を聞くのが恒例だった。私が修学旅行へ行ったのは、ちょうど、語り部さんたちが活動をやめてしまった年だったが、先生方が重ねてお願いをしてくださり、お話を聞くことができた。語りは冷静に淡々と進んだが、祈りは熱く強く、「決して繰り返さない」という思いで満ちていた。

  そして、もうひとつ忘れられない「祈り」がある。それは、旅行中に急遽、設けられた祈りの時間だ。旅行中、学年主任の先生の姿が見えず、私たち生徒は心配していた。夕食時、別の先生から説明があり、「学年主任の先生のお母様の体調が悪化し、今日は、ご実家へ帰られています」と。それに続けて「お母様のために、皆で祈りましょう」とおっしゃった。学年全員で沈黙の祈りを捧げた。未信者だった私は、正直なところどうしていいか、分からず、ただ、神様に話しかけるように「どうか守ってください。お願いします」と心の中で念じた。すると、生まれて初めて、日常生活とともに祈りがあることを感じ、胸に温かいものが広がった。

  翌日の夕食時、私たちが宿泊していたホテルに学年主任の先生が戻られた。「皆さんが、母のために祈ってくださったと聞きました。本当にありがとう」。そう言われた声の抑揚や、少し潤んだ瞳を、私は今でも覚えている。

   祈ることを、「生活から遠いもの」と勘違いしていた時期が長くあった。今の私は、身の回りの出来事を子どもが「ねえ、お父さん」と、話しかけるように祈る。朝起きると「寝ているあいだ、守っていただき、ありがとう!」と十字を切り、寝る前にも「今日もお恵みをありがとう!」と十字を切る。どうしても寝つけない夜は、ロザリオを一つひとつ数え、眠りが訪れるのを待つ。

  私には『敬虔な信者』から程遠い、という自覚があるが、それでも、神様に話しかけることをやめようとは思わない。今日も祈りを通して、神様と、世界中の皆とつながっていたい。

 

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年6月29日

(読者投稿)さっぱりの日本の”シノドスの道”-「霊による対話」を言う前に、故森司教の「信徒の霊性」を読んでほしい

 私の教区では、この2年間「シノドス」について広報活動を含めてほとんど取り組んできませんでした。ところが最近「霊における対話」という言葉がちらほら聞こえてきます。日本の他の教区での同様の動きがあると聞いていますが、残念ながら形式的なポーズに見えて仕方ありません。司教団は、バチカンが最近になって提案した「霊による対話」をそのまま、十分な説明も工夫もしないで日本の教会に適応させようとしているように思われます。

 

 日本では、全世界に向けて「開かれた教会」「共に歩む教会」となることを宣言した第二バチカン公会議の精神を受けて、約30年前に、全国福音宣教推進会議(NICE)という全国的な運動が進められ、教皇フランシスコが昌道される”シノドスの道”の原型ともいえる「共に喜びをもって歩む」分かち合いの実践が提唱されました。しかし、せっかく盛り上がりかけた運動は、その後の日本の教会、そのリーダーである司教団には、全く引き継がれず、運動を担った司祭、信徒も高齢化し、鬼籍に入られたりして、忘れ去られた状態のまま、現在に至っています。

 

 そうした中での、「霊による対話」。本来なら、”シノドスの道”を実践する有効な手段にもなり得るはずですし、教皇やバチカンの意向もそこにあるはずなのですが、日本の司教団はその意向を十分に理解しているとは思われず、教区レベル、小教区レベルの準備もないまま形だけの全国集会をもったりしてはいるものの、信徒一人ひとりに浸透させるような努力は全くされていないようです。

 

 なぜ、30年前の「共に喜びをもって歩む」NICEの運動が定着せず、消えてしまったのか。その反省もなく、教皇の意向を深く受け止め、末端の信徒一人ひとりに耳を傾け、心を開き、共に歩もうとする真剣な努力もなく、ただ、形だけ”シノドスの道”なのか。

 ここにこそ、日本の教会の抱える問題、危機があるはずですし、教会の指導者たちは気が付いているはずなのに、真正面から取り組もうとしていません。昨年の前駐日バチカン大使の司教団への講話「シノドスとシノダリティ」が良いヒントを提供していたのに、司教たちはスルー(無視)してしまいました。このような状態では、「霊による対話」も忘れ去られてしまうでしょう。

 

 NICEの推進役をされた故森司教は、著書「信徒の霊性」で、信仰の土台(根本)を分かりやすく説明されています。多くの司教や神学者に見られる、神学用語で煙に巻くやり方ではありません。今読んでも納得する箇所がたくさんあります。 その一つが

 「(祈りが)たった一瞬でもよい、魂が神に向けられているならば、それで十分なのである」。

 今の司教たちの中に、霊性を”冷静”に語る方がおられるのでしょうか。

 

(南のカトリック教会の信徒より)


2024年6月29日

・”シノドスの道”に思う⑬「ドイツの視点から考える」⑦「カトリケンターク(カトリック の日)」は平和を求める人々が共に歩む場

*カトリック新聞の記事「教皇、ドイツの信者に貧しい人を擁護する召命を説く」に違和感

 

 6月23日付けのこの記事は、「教皇がドイツの信者、特に若い信者に向けて貧しく阻害されている人を擁護するように」と説いたことになっています。それもドイツの「カトリケンターク(カトリックの日)」に向けてのメッセージでそのように語った、というのです。しかし、このメッセージ原文を読むと、この記事の書き方は違和感を禁じ得ないものでした。

 その理由の第一は、「カトリケンターク」は「信者による信者のためのもの」であって、教皇の意向を実施することを目的とはしていない。「平和な人には未来がある」というテーマは主催者が考えたものであって、教皇が出してきたものではない、ということ。第二に、「カトリケンターク」の主催者は、このコラムでも触れてきた信徒団体「ドイツカトリック者中央委員会ZdK」であって、教皇や司教の指揮・指導でなされるものではないこと。第三に、「カトリケンターク」はカトリック信仰を中心とした祭典であり、内容は講演、対話集会、討議集会、ミサなどであって、単なる「代表者会議」ではないこと。そして第四に、この記事が、ドイツの信者がこの数日間で何をしようとしているのかを微塵も伝えていないことです。教皇メッセージは、カトリケンタークの参加者をねぎらう挨拶にすぎないのです。

*「カトリケンターク」ができた背景・・・民主主義の芽生え

 

 フランス革命とナポレオンの登場以後、ドイツは「ドイツ連邦」という多くの王国や公国そして自由都市(それらを「邦国」という)からなる連邦国家になりました。1848年3月、フランス・パリの二月革命の影響を受けて、ドイツ各地でも市民、都市下層民、農民の蜂起によって三月革命が起きます。自由主義、身分的特権の廃止、出版の自由、議会の設立など「下から」の要求がなされます。各邦国で選挙が行なわれ、5月に650名の議員がフランクフルトのパウロ教会に集まります。

 これがドイツ史上最初の国民議会でした。民主主義の始まりです。フランクフルト議会にはカトリック者の1142件の嘆願と27万3000名の署名が提出され、10月3日からの4日間、「カトリケンターク」の起源となるカトリック市民の諸団体の総集会がマインツで開催されました。 カトリック教会と政府の関係向上のために。「カトリケンターク」の誕生は、信徒によるものであり、ドイツにおける民主主義の始まりの一部なのです。

*信者の自主運営の「カトリケンターク」・・・民の声

先に述べたように、「カトリケンターク」は、もともと、カトリック信仰を持った人々の諸団体、「宗教的自由を求める敬虔な団体」という名称であったとも言われ、彼らによって組織されて始まったもので、従って175年の歴史があります。最初は一般信徒のみのイベントであり、司教たちは除外されていました。そしてこの団体が変遷しながら現在の「ドイツカトリック者中央委員会ZdK」となっていきました。

 当時ローマ教皇はピウス9世(在位1846~1878年)で反近代主義、科学の否定、そして第一バチカン公会議(1869~1870年)で教皇の無謬を宣言しました。これに反対する自由主義者も当然、いました。

 先述した革命後、ドイツ帝国となり、宰相ビスマルクは帝国の統一事業に批判的なカトリック勢力(南ドイツ・バイエルン州等)を弾圧します。「文化闘争」と呼ばれます。しかしカトリック市民は政治的には中央党を結成し、ローマ教皇とのつながりも保っていきます。「カトリケンターク」の中心にあるのは、信仰を生きる人間の自由、人間の権利、責任ある市民の自覚といった民主主義への傾きでした。その中には、カトリックの社会教説の父であるオズワルド・フォン・ネルブロイニング(1890~1991年、神学者、社会学者)もおり、共通善、団結と補完性などの原理を説き、後のピウス11世教皇の回勅「クアドラジェシモ・アンノ」の草稿を書いています。

*前回2022年のシュツットガルトでの「カトリケンターク」について

「カトリケンターク」は隔年で、いろんな都市が持ち回りで開催されています。前回は2022年、「命を分かち合う」というテーマで、5日間シュツットガルトで開かれました。主催者、組織者たちは2万人の参加者を想定していましたが、最後の大イベントには約8万人が参加。教会問題だけでなく社会や政治問題についても、専門家を交えて話し合ったり議論したり、また信仰と文化を共に祝ったりしました。現実のドイツ社会や世界の発展に対する時代の潮流やビジョン、そして課題などを、分かち合ったようです。1500のイベント、パネルディスカッション、ワークショップ、文化的活動などが自主的に準備され、実行されていきました。主にカトリックの市民社会からのものですが、エキュメニカルな友人たちや諸専門家、シンクタンク、政党からのものもありました。

*今回はエアフルトで、テーマは「平和な人には未来がある」

今回のテーマは「平和な人には未来がある」でした。極右政党が躍進しウクライナ危機を抱えているドイツにおいて、ZdKは信徒団体として、「戦時における平和倫理」という立場で防衛政策のガイドラインを発行しました。防衛の権利と非暴力の命令の間の緊張の中で、どう生きるか考えているのです。

 「国際法の枠内での自己防衛、最後の手段としての武力、グローバルな正義なしに平和はない」「自由のない平和はない」「多国間での平和秩序、手段としての宗教間対話」などのテーマで思考を重ね、「平和な世界は個人から、平和の人から始まること」「人間の尊厳、平和と自由と正義を訴えていくこと」。そういったところからZdKの総会で、このテーマが決まったようです。もちろん聖書を分かち合う集会もありました。

*エキュメニカルな方向へ

今回はこれまで以上に、ドイツにおけるエキュメニカルな現状を反映したものが多かったようです。ワークショップ、パネル、礼拝など150余りのイベントが主催されました。

 昔は「領主の宗教が、その地の宗教」という原則もあり、他宗派との結婚もそんなに多くはなかったのでしょうが、今はカトリックもプロテスタントも混在しており、彼らは婚姻によって一緒に生活しているので、エキュメニカルな視点なしにキリスト教を考えることはできなくなっています。開催地となったエアフルトは、”カトリックの街”である以上に”プロテスタントの街”であり、その意味でも共に祝い、教会と社会と民主主義の未来を共に考えようという意識が強く働いたのだと思います。

*1989年の平和革命:東西ドイツの統一

第二次世界大戦後の東西分割で、エアフルトは東ドイツ領内に入れられました。自由、民主主義、人権を求める人々が西ドイツに逃れていくのを阻止するため、1961年から東ドイツ政権によるベルリンの壁の建設が始まります。1978年からは軍事教育が始められ、これを機に、エアフルトのカトリックの聖ロレンツ教会、プロテスタントの説教者教会Predigerkircheで平和を求めるエキュメニカルな祈りが捧げられるようになったそうです。

 それ以来、祈りが木曜日毎になされるようになり、1989年9月、ライプツィヒのニコライ教会での平和の祈りが「月曜デモ」となり、それに呼応してエアフルトで「木曜デモ」が起き、11月にベルリンの壁の崩壊、1990年10月の東西ドイツ統一と進んでいきました。両教会の信者そして市民たちによって平和裏になされた「平和革命」が、その端緒となったのです。

*フランシスコ教皇のメッセージに戻ると・・・

教皇が「カトリケンターク」に向けて出されたメッセージに戻りましょう。その最後のほうの一節を抄訳します。

 「『カトリケンターク』はエキュメニカルで、共に歩んで宗教間対話をする場であることは、素晴らしいことであり、重要なことです。なぜなら『平和な未来を築こう』という善意を持ったすべての人と一緒に協働することが必要だからです。平和の人々が手に手にロウソクを持って平和革命を引き起こした1989年の体験は、共通するキリスト者の力強い証しでした。ここエアフルトで平和のための祈りが聖ロレンツ教会とプロテスタントの説教者教会で起こりました。人々の祈りによって引き起こされたこの平和に満ちた<変革の奇跡>は、祈りが何をもたらしてくれるのかを私たちに示しています。このことを記念することは、今日の私たちを励ましてくれます!」

教皇のこのメッセージはドイツの歴史を踏まえた内容で、ドイツ人の心に響いたと思います。教皇が本心でこのメッセージを送ったのなら、自由民主主義の意義も、そしてご自分で発言された「逆さピラミッド」型の教会になるべきことも、もっと強調されていいのではないでしょうか。

*民主主義とキリスト者であることは一緒にやっていける

 エアフルトでの5日間にわたる「カトリケンターク」は約2万3000人の参加がありました。終了後の6月2日に、主催者であるZdKの議長の感想の一部を紹介します。

 「民主主義の危機の中で「カトリケンターク」は立ち上がり、国際紛争において平和を選択し、教会改革への意志を強めました。<他者のための教会>になっていくこと。制度的な教会に属していない多くの人々のためにも、私たちは開かれていなければならない。彼らは私たちにとって福音であり、神は彼らを通して私たちに語っている、だから新しい方法で福音を理解しようと努めよう。エアフルトでのカトリケンタークはエキュメニカルな『カトリケンターク』であった。プロテスタントの兄弟姉妹、他の宗派の友人、ユダヤ教徒とイスラム教徒、神を信じる人、世俗の人。皆が共に生きる。民主主義と自由の公的空間は、キリスト者の空間でもある。民主主義とキリスト者であることは一緒にやっていけるのだ」

*「カトリケンターク」が示唆するものは・・・

 このように、「カトリケンターク」の始まりから今日に至るまで続いている精神は「民主主義への傾向」と言えます。2022年のドイツ・シノドスの基本文書に「民主主義は国家統治の形式であるだけでなく、生活の道である」とありました。ドイツのカトリック市民の175年間の歩みが、キリスト信仰と民主主義的方向に進んできたことは、今後の教会がどうならなければならないかを示唆しています。

・・・・・・・・・・・

 *2022年現在のエアフルト司教区のカトリック人口は13万7272人で全人口の5~9%程度。司祭数は33人。年間の受洗者は870人、初聖体は960人、堅信948人、結婚式は204件、葬儀1323件で、教会を離れた人は2413人に上っています。

 *今回の教皇メッセージは聖座のサイト、ドイツ司教協議会やドイツカトリック者中央委員会のホームページで見ることができます。ドイツ司教協議会www.dbk.de ドイツカトリック者中央委員会www.zdk.de

 *参考文献=坂井栄八郎『ドイツ史10講』岩波書店、石田勇治編著『図説ドイツの歴史』河出書房新社

(西方の一司祭)

2024年6月29日

・Sr.阿部の「乃木坂の修道院から」②「カミリアンセンター」のHIV/AIDE 患者たちの笑顔を胸に、日本でも宣教に励みたい

  タイを去るひと月前、HIV/AIDE 患者をケアする「カミリアンセンター」(ラヨン県)を訪問。120余の子供から大人の明るく笑いと思いやりが漲る大患者家族で、3人の神父が父母役で元気な人が炊事や洗濯など家事を担当、子供たちは学校(以前は拒絶)に通っています。

 カミリアン病院修道会の神父、修道士さん方とは、同じイタリアの創立で自国語の次に親しめ、タイ滞在30年の歩みの中でありがたい摂理の道連れでした。

 エイズ患者との出会いは、タイ語学校でソーニャさん(イタリアからのボランティア)に出会い、ジョバンニ神父を紹介されたのが始りです。当時郊外の駆け込み宿舎で患者の世話をしながら一緒に生活していました。

 タイ国は観光産業の勢いでエイズ感染死者急増、家族からも受け入れられず都心で悲惨な生活をしている人々に心を痛めたジョバンニ神父は『命を賭けてもエイズ感染者を救う』、会の使命を具体的に取り組み始めたのです。

 特に見捨てられた末期患者の看取り、治療、感染を防ぐため工場やコミュニティーの人々を招き予防学習を頻繁に開くなど。国立の病院、仏教寺院、カトリックやその他の関係施設とも連帯し大惨事と取り組みました。

 その頃、日本から『カトリックの機関にエイズと取り組む窓口を作りたい、1週間の予定でタイのカトリック内外の施設見学ツアー』をと、カトリック中央協議会から問い合わせがありました。関係するNGOで働いていた友人と要望に応える濃密な予定を組み、末期エイズ患者との出会い、各界の施設に案内しました。

 タイに行って間もない私にとって、直に実情に触れ現実を知る貴重な体験でした。特に感染死者の多いパヤオ県でのエイズ患者との出会いは、当時生気無く心身滅入っていた私の息を吹き返してくれました。「主よ、私がタイでの宣教を続ける事を思し召しでしたらもう一度生きる力を…」と、脱力状態で主の海原に身を任せて浮かんでいた私に『今を真剣に生きる』気力が湧いてきたのです。

 温かい理解のある関わりが何よりもの免疫力となる治療薬、正しい清潔な生活、栄養を摂り菌に侵されない様HIV治療をする等最善を尽くされていますが、2020年統計によると年間のHIV新規感染者数は150万人、AIDE感染死者は65 万人。生活と密接な感染の現実は厳然としています。

 カミリアンの笑顔いっぱいの患者、特に子供達を胸に、苦しむ人々をいつも心に留めながら日本での宣教に励もうと思います。愛読者の皆さん、どんな状況にあっても、いただいた今日、今を精一杯生きて輝いていましょう。

(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)

2024年6月7日

・Chris Kyogetuの宗教と文学 ⑭夏目漱石の「こゝろ」からみる愛と義 

 「しかしそれは特色のない唯の(ただの)淡話だから、今ではまるで忘れてしまった」「先生はまるで世間に名前を知られていない人であった」(夏目漱石「こゝろ」より)

 あらすじ:『こころ』は「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の3部構成である。若い「私」は海で「先生」という人物と出会う。まだ大して人を愛したことのない「私」に、先生は恋愛の罪悪と神聖さを説こうとするが、当時の「私」には理解できなかった。先生は過去を話すことを約束する。「私」の父親が死の間際だというのに、先生の手紙を受け取ると、父の元を離れて東京行きの列車に乗り、そこで先生の遺書を読む。遺書には、先生と奥さんの過去、そして幼なじみのKを助けるために連れてきたことが書かれていた。しかし、愛する女性を巡って先生はKを裏切り、お嬢さんとの結婚を勝ち取る。Kの自殺がその結果として起こる。物語は、明治天皇の崩御と乃木大将の自決という新時代の混乱と期待の時代背景とともに描かれている。

1 はじめに

 日露戦争の勝利に胸を熱くする現代人は少ないだろう。しかし、明治天皇の崩御と乃木大将の自決が当時の日本人と文学に与えた影響は計り知れない。夏目漱石の『こゝろ』の先生もまた、乃木大将の死の後に、自ら命を絶った。
 語り手である若い書生だった「私」は、鎌倉の海の掛茶屋にいる西洋人を連れている男と出会う。その男を「私」は、「先生」と呼ぶことにした。もしも読者の貴方が、十代そこらで何も知らずにこの本を手にしたら、乃木大将のことなどはあまり考えないだろう。まずは、この「先生」と「私」という書生の饒舌な語り口調にとりあえず吸い込まれるのだと思う
 漱石は巧みに、序盤で「私は寂しい人間です」と先生に語らせ、孤独な十代の読者を浜辺から、少しづつ「死」への深海へと誘い込むのかもしれない。それは生命の終わりを単純に意味するだけではなく、忠誠ということは何か、義とはなんだったのか、自死への謎、死生観というもので、言葉がうまく回らずに藻掻かせ、喪というものは、生きている者でしかできないという事を覚え、一旦は読者を現実世界に戻すのかもしれない。きっと読後はそのような気持ちになるだろう。
 そこに、いつの時代でも、若くても「愛」の証を人は求める。だからこの話は巧妙なのだ。「先生」は恋愛をあまり知らない「私」にこう語る。「しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか?」と。「先生」のところに吸い寄せられるように来たのは、この若い青年が人を愛したいからであり、とっくに恋で動いているからであり、それの準備段階(恋に上る階段)なんだと先生は言った。そうすることによって「私」と読者は同じ立ち位置に来ることになるのだ。
 それで、手筈は揃った。ここから、読者は先生の「遺書」編へ下っていくだけなのだ。この小説は「先生と私」「両親と私」は若い書生の語りであり、「先生と遺書」の章で先生の若い頃に遡ることになる。先生は、両親が病気で亡くなり、叔父が横領し、人間不信となっていた。ここで先生は一つ、金が人を変えるということも言っている。その後に実家を処分し、両親の墓だけを残し、故郷には戻らないと決め、東京帝国大学へと進学し、若い頃に軍人の未亡人の家に下宿しに行った。その時のお嬢さんである「静」に対して、異性の香りがしたと記している。そこで奥さんと静さんに大事にされ、一番良い部屋を用意してもらっていた。
 疑い深かった彼は、そのうち彼女らの優しさに安定するようになり、静に対して、愛情を持つようになった。それは、性愛というよりも「信仰」に近いものだった。彼はお金に対しては疑いがあったが、「愛」に関しては希望を持ち疑わなかった。彼にはKという幼なじみがいた。お寺の息子だったが養子に出されて、医学部で医者になることを条件に大学に行かせてもらうことになっていたが、Kは「精進」という精神性と医学が噛み合わないと思っていたので、医学部ではない大学に進んでいたが、段々と嘘をつき続けることが辛くなり、養子先に本当のことを話した。
 当然ながら、Kは勘当される。学費も底を尽き、神経衰弱になっていくKを先生は同情し、自分の下宿先へと連れてきてしまう。Kは仏教徒の影響もあって、真面目で誠実な男だった。だからこそ、だんだんと静と仲良く話していることを疑うようになった。そして、Kはやはり静を好きになったと先生に告白をした。

 先生は、長年の幼なじみへの忠誠心や友情よりも、静が欲しかった。それで、彼は静に直接告白もせずに、彼女の母親にお嬢さんと結婚したいと申し出た。先生と、静の結婚が決まったが、彼はKには一向に言えなかった。しかし、とっくに彼女の母親がKに結婚の話をしていたのだった。Kはそれを知りながら、先生と話を普通にしていたのだ。

 そしてKは自殺した。

2 死と義

 「死」というものは、私達の意見を問わない。しかし、魂は私たちに語りかけては問いかける。Kのような取り消しえない一方的な「死」というものは、アドラー心理学でいうところの「復讐と告発」だったのか、それともプライドの高いハムレットが思い止まった「自殺」を遂行したのか、もしくはペレアスとメリザンドのメリザンドのように、小鳥でも死なない傷による死だったのか、Kは遺書を残して死んだ。
 先生は、サロメがヨカナーンの頭部を抱えるように、Kの死に顔を見ようとした。死を見つめるということは、ブッダの死を看取ったアーナンダがいたように、仏教にとっては重要なことだが、おそらくそういう意味で死に顔を見てはいないのだろう。終始、彼は義も礼も果たせなかったのである。先生にとっては残された遺書をKの本心だと思えなかった。遺書の内容から汲み取るだけなのなら、「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」というだけの内容だったが、先生は、Kの墨の余りで書き添えたらしく見える「もっと早く死ぬべきだったのに」という言葉を見つけてしまう。あたかも、遺書を通して、魂が「お前のせいだ」と、そう語っているかと思えば、敢えて書かれなかった事実によって、先生は自尊心が保てなかったのかもしれない。
 先生にしか聞こえなかった言語があったように、その死がずっと生きながらも首を絞めていた。乃木大将と重ねること自体が烏滸がましいことも分かっていて、違うからこそ、先生は自分の存在を無価値のように思いつづけていた。アーナンダはブッダの教えを後世に残したが、先生はKの死を、誰にも残せる術がなかった。ずっとそうだったが、迷い込んだように現れて、たった一人の書生に「遺書」として残すことにした。結婚した静でさえも、なぜ親友のKが死んだのか、その理由を知らなかった。その彼女の残された無垢な疎外感が、無常だったが、その中でも、たった一人だけの希望が残されていた。それこそ最後に列車に遺書を読んでいる若い書生の「私」なのかもしれない。そのことによって、漸く先生は、無名の存在から「師」となれたのかもしれない。

 日本語の「言葉」の語源は、神と共にあった(ヨハネによる福音書1章)のではなく、言=言の端であるという。日本の伝統にはキリスト教のような超越神は元々は存在しないことを意味している。それは闇の中から、絶対的な自立するような絶対者が存在しないということだ。
 それでも、西田幾多郎は日本の根底には、「形なきものの形を見、声なき者の声を聞く、といったようなものが潜んでいる」ともしたように、平家物語や曽根崎心中のように滅びゆくものや、移ろいゆくものを愛して美しいと思う文化がある。
 よって、夏目漱石を語る際は、このように現在あるものが知的に限定することのできない意義を持つことや、形なきもの、声なきものが意味することを踏まえて日本文学として捉えることが望ましいのかもしれない。
 確かに、目に見えないもの、声にならないもの、それを捉えようとするところはキリスト教と似ているところであるが、超越的な神を捉えようという点においては、表現のできない言語の壁があることは、キリスト教関連の翻訳をしていると常に感じていることである。しかし、それによって「違い」を「悪」としないことが、私は重要だと思っているし、海外が特段に優れているとも思っていない。(現に海外でも信仰心が薄まっているので)私たちは無いものを取り入れることであり、神に撒かれた種であり、それによってより日本人としての核を確認しなければならないと思う。
 むしろ、あちら側から見れば闇であるところの美を知っているということや、深淵をすでに私たちは知っているのかもしれない。私は、平家物語の八歳の安徳天皇と尼が後入水の悲哀の美しさを知っていることを誇りに思っている。その死は、何を伝えようとしているのか、時が忘却と共に過ぎ去っていくことを知らせている。大阪の曽根崎の神社に何度足を運んだが、心中した男女が何を思ったのか、その痕跡も残っていない。それは、その時に栄えた熱気は、どこにも残らないという現実を知らせている。それは美学と言える。
 死というものは、私達の意見や望みを考えずにやってくる不可避の出来事である。愛は個々人の感情や価値観によって多様な形をとり、時には罪悪感や葛藤をもたらせる。このように死は客観的に変わることでない存在である一方、愛は主観的に握られ、変化するものである。「こゝろ」には各々が背負った罪があり、Kにも医学部と偽ってきた罪や、そして自ら死を選んだというハムレット的な罪があった。先生がいつから罪を告白しようと思っていたのかどうかは、分からない。

 ここで、最後にルカによる福音書の18章9節から14節の話をして終わりにしようと思う。ファリサイ派は常に自分は正しいと思っていて、心の中でこのように祈った。「神様、私は他の人たちのように、奪い取るような者、不正な者、姦淫する者でもなく、また、この徴税人でもないことを感謝します… 」。それに対して、徴税人はこのように祈った。「神様、罪人の私を憐れんでください」。 イエスは、悔い改めた徴税人を「義」とした。

 先生の遺書の終盤は、明治天皇の崩御と、そして乃木大将の自殺について触れていた。彼は、乃木大将が生きながらに自殺を考えていた年げつを数えようとした。しかし、結局のところ先生は乃木大将の自殺する気持ちがわからなかった。そして自分自身の死を誰も理解できないだろうと遺書に残した。この一人称と三人称の死について、哲学者ジャンケレヴィッチは、死を一人称の死、二人称の死、そして三人称の死としたが、この話は、自殺を含め全ての死を描いている。
 二人称の死については、ユダヤ人の聖職者グロルマンは「私」の過去・現在・未来を奪うことがあるとしている。先生もまた、Kの死によって奪われてしまったのかもしれない。私たちにとっては、明治天皇の死も乃木大将の死も、三人称であり心的距離が遠い存在だが、それでも、漱石は「こゝろ」を通して、人間の内面の複雑さを映し出していた。先生の孤独や罪悪感、そして愛への希求は、時代背景が変わっても人間の本質は変わらないことを示している。明治時代という一つの時代そのものが、大きな変革期であり、人々の意識や価値観も大きく揺れ動いていた。
 その中で、嘗て武士道の道徳であった「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」を先生は何一つ果たせなかったようだ。結婚した手に入れたお嬢さんですら、彼は大切にはできなかった。現代の価値観で言えば、なんて身勝手なのだろうと思う。彼は働きもせず、資産だけ持っていて、奥さんに財産が残せると死んでしまった。
 彼は、この世で「無名」を生きているような存在だった。それが現代にとって、予言的にその「浮遊」した存在が遠い昔の人間のように思えない。なぜなら、存在意義や社会的責任がなんなのか今でも多くの人々にとって明確ではないからである。そして「恋は罪悪ですよ」という印象的な言葉は、明治天皇の崩御とともに自殺をした乃木大将に対し、恋ですらも義を果たせない「こゝろ」の在り方を表している。
 私はここで先生が徴税人のように、罪を自覚をして悔いあらためたと繋げるつもりはない。先生の「死」はそういったものではないのだ。Kへの義や、明治時代という終わりへの殉死ということを目指したようにも思えるが、明治天皇と乃木大将のようなものでもないことを充分に彼もわかっていた。妻にもKの話ができない彼は、一人迷い込んだような青年に自分の人生を書き残した。それは、跡形も残らない美学への最後の抗らいだったように私は思える。
 この抗らいこそが、最終的に美しいのだということを、この文学は伝えている。「恋は罪悪ですよ」と言いながらも、先生は青年に人を愛すことを諭したままだった。この話がよく表しているのは、謝罪したい対象が消えてしまうことである。
 よく多くのキリスト者が勘違いしている、「神に謝罪をすれば良い」ということなら、高みにいる気分になっているファリサイ派と同じなのである。あの箇所は、義を尽くせなかったものをイエスは望んでいない、と捉えるべきではないだろうか。先生は終始、卑怯だった。妻も残して自分のことばかりしか考えられない人だった。それでも、如実に表したのは、形あるものは全て消え去ってしまう、ということである。

3 現代の「こゝろ」とは

 現代のカトリック教会が抱える問題において重要なのは、「被害者の訴えに耳を傾けること」だが、たとえその被害が何十年前の出来事であっても、私たちはそれを軽視してはならない。謝罪を求める声は、共同体にとっては神と対話するためのものであり、優しさと理解を持って応じるべきだ。聖職者も、信者からの「批判」は回心の機会として受け入れるべきだろう。

 「こゝろ」の登場人物たちは、一人称から二人称、三人称へと愛と死が交差する中で描かれているが、本書と読者の関係にも第三者としての「共感」が重要だった。経験が伴う時もあれば、経験ではなく想像であったとしても、心を通わせなければならなかった。しかし、現実のインターネットではそういった第三者の言葉を共感するということが、必ずしも正しく受け取られない時代となった。

 かつて私は「私刑」を「mob justice」と訳したが、当時は誤訳とも思われたかもしれない。しかし、最近の事件や世論を見ると、これは間違いではなかったと実感している。日本ではカトリックに関心が薄いため、mobによる制裁は行われていないが、「学校の先生」が同様の行為をしていた場合、すでにmobによりネット上で身元や顔写真が明かされて「私刑」に遭っている。

 SNSの普及により、他者の死や痛みが身近に感じられる一方で、同情を装ったmobの暴力性が問題となっている。インターネットで仕事をしている人は、この暴力性を「トラフィック」という視点でしか見なくなっていき、将来的には、AIが不適切な投稿を制御する可能性があるが、誰か中心的な存在が、自制を求めることは不可能になっている。

 現代は、自分と他者を切り離して考える必要性が問われている。戦争や災害に関する情報もフェイクが混じるため、真偽を確認することが困難になった。被災者への同情の言葉が逆に傷つける場合もあり慎重さが求められ、誰かの「死」を知り、遺族に優しい言葉をかけたつもりが、誤解を招き誹謗中傷と捉えられた事例も存在する。このような中で、自制できる人は第三者と距離を置くことを学ぶようになるが、そうでない人はmobの一員として暴力を行使し続けていく。

 カトリック信者が困った末に、このようなmobの力に頼ることがないように、一同は過去の罪を認め、教義や教会法を見直し、自制と自戒を率先することが重要であると私は思う。この夏目漱石の「こゝろ」の先生が過去に苦しめられていたように、被害者の声を尊重し、過去の出来事を持ち出すことがいかに苦しいかを、理解していくこと、少なくとも私たちは、隠蔽に加担してはならない。

 先生を苦しめたKの影のように、私たちは良心を持ち続けることが大切なのだ。何故なら、心とは善悪の区別もつかない深淵があり、イエスが「義」ではないと指しているものがあるのだから。

 皆さま、自分の人生と大切な人への感謝を忘れないように。

*ハムレット的な死―ハムレットは父親の代わりに王位についた叔父とその妻になった母の不道徳に嫌気がさして自殺をしようと思うが、信仰があるが故にできない、というシーンがある。

(Chris Kyogetu)
2024年6月6日

・愛ある船旅への幻想曲(40) 真面目に向き合う仕事の流儀は、信仰生活にも当てはまる

 私の仲良しに84歳の果樹専門の農学博士がいる。彼は未信者であるが、りんごの話になった時にアダムとイブの話も出た。私へのサービスか。勿論、“知恵の木”についての話だった。私が“知恵の木”について数々の説を伝えると「その果実は、その時代にはなかっただろう。だから受け入れ難い説だ」など、専門的な視点から丁寧な説明を受け納得できることに真の導きを知る。

 彼が今も果樹に対してどんな些細なことにも興味を示し、知識を深めようとする姿勢は、その力説から隠すことはできない。そして、最後に必ず言うのが、「こんなくだらんことを、私は一生懸命にやってきたのです」だ。この謙遜の内容にこそ、私たちが大事にせねばならないヒントが隠されているのではないか

 私が「後輩の研究者たちには、先生の研究は大事な資料となり、ありがたいでしょうね」と言うと、彼は遠くを見つめ、「自分は講座の為に一生懸命に資料作りをし、喋る喋るだけだった… 今の若い者たちが既存の考え、資料をどう扱かおうと、それはそれで仕方ない」。そして「知識は過去のものであり、考えることで未来へと繋がる」と力を入れた。このネイティブ・アメリカンの教えであろう言葉を久しぶりに聞けたことに「えっ」と、そして新鮮だった。

 何気ない話から自分の背筋が伸びた時、私の心はウキウキし、宣教もこうでなければならない、と改めて今の教会を憂うるのである。

 人間は、考え続けることで結果を出す。データ処理からしか結果を出すことのできないAIと、自分の研究にとんでもない時間をかけ、その経験から丁寧に整理された分析結果を発表する人間とでは、大きな違いがある。どの分野であれ、その道一筋の専門家は、私にとって虚心坦懐に話し合える「思わぬ出会いの友」であり、態度や話す内容に揺らぎがない「安心」の友である。

 これは、組織のトップとして生きてきた優しさと厳しさを併せ持つ人特有の、自然体での付き合い方かもしれない。そして、無駄と思われることは簡単に排除し、人付き合いも”八方美人”から程遠い性格からは気品を感じる。

 私は、彼と同い年の奥様との付き合いの方が長い。二人の馴れ初めも存じている。「今は叱られてばかり」と彼は私に言うが、仲良く若々しいTシャツを着て笑顔でおしゃべりしながら散歩する夫婦の姿からは、そうでないことが一目瞭然である。生きた愛のメッセージを己を極めた人たちから学ぶことは、真実の愛を実感する瞬間であり、これこそが愛の宣教だろう。

 生きている愛は、聖書の教えをスムーズに理解するためにも必要だ。愛は頭で考えるだけでは味気ない。真実の愛は、人と人とが葛藤しながらも互いに信頼できる関係が築けた時に、神が示してくださるのではないだろうか。

 何の職種であれ、真面目に向き合う仕事の流儀は、恋愛そして信仰生活に当てはまることを84歳の友から学んだ私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

2024年6月4日

・神様からの贈り物⑪「私は、私であっていい」ー障害者グループホームでの出会い

   3年ほど前、障害者グループホームで、生活訓練をしていた時期があった。そこで同じ神様を信じている人に出逢った。

  いつものように、共有室(入居者たちが集まって、団らんを過ごすスペース)で、紅茶を飲み終えたところだった。洗ったカップを棚に戻そうとした時、聖書の言葉が書かれたマグカップを見つけた。「もしかしたら、ここに同じ信仰を持つ誰かが入居しているのかも知れない」と思い、わくわくした。もちろん、ここは一般の福祉施設なので、宗教の話は持ち込めない。ただ、そのマグカップが誰のものなのか、どうしても知りたかった。

  翌週、あのマグカップの持ち主は、Yさんというスタッフだと分かった。私は、はやる気持ちを抑え、皆がいなくなった頃合いを見計らって、そっと尋ねた。「スタッフさんは、信者さんなのですか?」「そうなんです。プロテスタントの教会に通っています」。カトリック教会ではなかったことに、少しがっかりしたのが、正直な気持ちだった。

  半月後、再びYさんと話す機会があった。「先日は立ち入ったことを聞いて、すみませんでした。しかも、私はカトリックなのに…」すると、彼女は穏やかな笑顔を浮かべた。「いいえ、同じ神様を信じているのを教えてくださって、うれしかったですよ」そう言われて、はっとした。同時に、彼女の人間性と魅力に引き寄せられた。

  私たちは、グループホームという場で出会ったので、神さまについて、多くを語らなかった。でも、Yさんの温かな眼差しや優しい声、料理する時の手つきから、神様への信頼の強さと従順さが、手に取るように感じられた。

  私が、「いつか、リカバリー・ストーリー(精神疾患からどのように立ち直ったかという体験談)を、みんなの前で話したい」と希望を打ち明けたら「麻衣さんが発表する時は、必ず行きますよ」と約束してくれた。

  訓練を終えてから約1年後、私がリカバリー・ストーリーを語る機会が実現した。その会場には、Yさんもいた。無事に発表を終えると、Yさんとグループホームの仲間たちが、私を客席で待っていた。みんなで抱き合い、喜び合った。Yさんは「 もう、言葉にしてしまったら、薄っぺらくなってしまうのよ。もったいなくて何も言えないわ」と誉めてくださった。そのYさんの声を聞きながら、グループホームの訓練を卒業する直前のことを思い出していた。

  あの日、Yさんからメッセージを受け取り、私は涙が止まらなくなってしまったのだ。そこに書かれていたのは「私は、私であっていい」という言葉が冒頭に加えられた『世界にひとつだけの信仰宣言』だった。

  彼女に出会ったことで、「神様に『I love you』を伝える時、私はどんな言葉を選ぶだろう?」と考えるようになった。Yさんの「私は、私であっていい」という言葉は、神様の愛をとても理解しやすく表現していると感じる。私も、相手に伝わる言葉や形で、イエス様の思いを表現し続けたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

2024年5月31日

・カトリック精神を広める⑦「映画がカトリックを広める!」

 筆者は二十歳前後の頃、フランシスコ会の修道院があった瀬田教会に所属していた。その頃はどこも、「青年会」の活動が活発で、神父様を交えた黙想会や、キャンプ等の催しがあり、所属する教会内での青年たちの交流が盛んだった。この時の青年会の面々は、50年経っても年に1回は集まり、懇親会を開いている。皆それぞれ、所属する教会で、会長になったりして、重鎮となっている。

 しかし最近では物故者も増え、葬儀ミサなどの関係で彼らの子供たちの教会との関わりも明らかになったのだが、どの人の子供も、主日のミサに出ていない。すなわち、このことで判断する限り、自分の子供たちにカトリック精神を広めることができていない、ということである。中学1年の我が息子も例外ではない。日曜日に教会に行くことを嫌がるようになり、最近、教会に行っていない。

 宗教を強制しないことがカトリックの良いところではあるが、このままでは、教会がじり貧となることは必定。そこで、どうやってカトリック精神を広めるかを考えてみた。筆者は、身寄りのない子や育児放棄された子供を預かって教育するサレジオ学園で小学から中学まで9年間を過ごし、色々なカトリックの教育を受けたが、その中で、カトリック精神豊かな映画を見せられ、感動した経験を持つ。それが、今の子どもたちにカトリック精神を伝える方策を考える場合のヒントになるかも知れない、と思い、学園で見て感動した映画を紹介することにする―「ベン・ハー」だ。

 「男の中の男」と称えられる俳優チャ-ルトン・ヘストンが、エルサレムのユダヤ人豪商の息子、ユダ・ベン・ハーとしてイエス・キリストのご受難に合わせて物語が進行するこの映画は、私にとって今もって最高である。

 映画の大筋は、次のようなものだ。

 ベン・ハーは、ローマ軍の百人隊長のメッサラと幼なじみで、ある日、2階からローマ軍の馬の隊列を見学していたが、ふと触れた瓦が隊列の前に落ち、ローマ軍の一人が落馬するという事件が起きた。故意の事故ではないのに、幼なじみのメッサラが彼を助けず、家族全員が捕えられ、母と妹は牢屋に、ベン・ハーはガレー船の奴隷として、鎖につながれ、オールをこぐ奴隷になった。その戦いの中で、ベン・ハーが乗った船が火災に包まれ、船が沈没するという中で、ベン・ハーは、窮地に陥ったローマ軍の将軍を救ったことで、将軍の養子となり、奴隷から解放されることになった。

 そんな中、たまたま、戦車レースがあり、幼なじみのメッセラと対戦することになった。この2頭の馬を操って競争する戦車レースが、CGを使う今と違い、本物を使っており、手に汗握る見応えのあるシーンとなっている。

 戦いの後、ベン・ハーは、大けがを負った幼なじみのメッサラに会い、牢屋に入れられた母と妹が、重い皮膚病となって、人里離れたところに暮らしているのを聞き出した。密かに母と妹を連れ出したところ、途中で、キリストが十字架を背負ってゴルゴタの丘に行く受難に遭遇する。そうして、キリストが十字架上で亡くなる時、重い皮膚病を患った母と妹の体がどうなるのか。最後のシーンは感動ものであった。

 この映画は、ユダヤ人とローマ人の友情と争い、それがキリストのご受難と重なり、なかなか見事なカトリック精神を広める娯楽映画となっている。作者は神様の助けを得て、この物語を着想したと、証言している。

(横浜教区信徒・森川海守=ホームページ:https://www.morikawa12.com

 

2024年5月31日