・平戸・生月巡礼ー殉教、そして200年以上信仰を保ち続けた潜伏キリシタンの現場を見た

 4月9日から12日にかけて、大学の後輩であるE女史が企画した平戸・生月巡礼に、一昨年秋までローマの教皇庁立グレゴリアン大学で教会法学部長を務め、現在は上智大学神学部の教授をされている菅原裕二神父の同行を得て、夫婦で参加させていただいた。

 平戸・生月は、個人的には「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の中で巡礼をし残した唯一の地域で、以前から訪れたいと思っていたところだった。16世紀半ば、我が国にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルがこの地で布教を始めた当時の領主、松浦氏の親戚が受洗したこともあり、多くの領民がキリシタンとなった、

 だが、豊臣秀吉の宣教師追放令に呼応した松浦氏が弾圧政策に転じ、親戚で重臣のキリシタン、籠手田氏に一族がまとめて長崎に追放、信徒たちは支柱を失い、厳しい取り締まりで多くの信徒が殉教。1613年の慶長の禁教令で宣教師が全て国外追放となった後も、再び潜入して平戸・生月で布教したイエズス会士、カミロ・コンスタンツォ神父もその一人で、海峡を隔てて平戸城を望む火刑場跡が焼罪史跡公園として残されている。

 平戸での殉教は1645年をもって終わりを告げ、キリシタンたちは表向きは仏教徒に改宗し、隠れて信仰を守り続けるようになった。その形は、集落、地域ごとに少しづつ異なったものになっていったが、平戸独特なのが「納戸神信仰」。座敷には神棚や仏壇を置き、監視の目を欺きながら、目立たない奥の納戸に、キリストやマリア、聖人などを描いた掛け軸や聖具を飾り、200年にわたってひそかに信仰を守ったのだった。ただ、明治時代になって禁教令が解かれた後、集落や地域によって、カトリックに戻った「潜伏キリシタン」と、戻らずに、そのままの信仰様式を続けた「隠れキリシタン」に分かれたのも、平戸・生月に特徴的と思われる。

 今回の巡礼では、平戸・生月には16の教会(うち8つが巡回教会)のうち、6つを回り、そのような興味深い歴史の現場を体験して回った。

 4月9日発、長崎から小型バスで2時間半、宿舎の民宿・グラスハウスに。夜、菅原神父が、栄光学園中学校の入学式ミサを終えて大船から飛行機、電車を乗り継いで、合流。

 10日、平戸生まれ、平戸育ちの信徒の高田さんのガイドで、まず平戸ザビエル記念教会で信徒会長と信徒の奉仕のご婦人方。奉仕のシスターとともにミサ。ミサ後に、手作りの餡入り万頭とコーヒーをごちそうになる。

 平戸で最初の教会跡、ザビエルが逗留した松浦藩の重臣で信徒の木村氏の住まい跡(キリスト教受け至れたが後に弾圧側に回った藩主・松浦氏がすべてを打ちこわし、抹消)、イギリス人三浦按針終焉の地、再建されたオランダ商館などを経て、平戸城では二本植えられた平戸二段桜の一段目が満開、二段目もつぼみが開く直前。昼食後、明治に建てられた平戸で一番古い宝亀教会へ。(写真左上は、平戸ザビエル記念教会でミサを捧げる菅原神父、右は巡礼参加者たち)

 次いで、明治の長崎県を中心にした教会建築で名をはせた鉄川与助の最後のレンガ作り聖堂、田平教会、大正4年から3年の歳月をかけて、信者達の手によって建設されたロマネスク様式の荘厳な赤レンガ造り。色鮮やかなステンドグラスは、絵画を思わせる美しさ。フランス製で信徒の家にあったものという。教会の傍らには歴代の信者が眠る墓地がある。

 出迎えてくださった主任司祭の中村神父は、昨年着任し、老朽化した聖堂の抜本修繕か課題に。教会グッズの販売など、修繕費確保に努力されているが、教区が詐欺まがいの資金運用に手を出して失った2億5千万円の教会維持・補修の資金があれば‥と考えてしまう。韓国から毎週のように巡礼団が訪れており、この日も30人ほどがバスでやってきた。日本の30倍とされる韓国の信徒の信仰への熱意に圧倒されそうになる。

 このあと、平戸城と海峡を挟んで建てられた、キリシタン弾圧初期に火刑に処せられたイエズス会士、コンスタンチン神父を記念する焼罪の碑に。

 11日、平戸大橋を渡り、生月の山野教会。信徒11戸、23人の巡回教会。弾圧当時、近くに取り締まりの藩の番所があり、ザビエルから洗礼を受けた信徒もいたというが、厳しい取り締まりや村八分に遭った信徒は激減。明治になって最初にカトリックに復帰したが、小教区として独立したのは1917年。信徒が少ない中で司祭を出している。

 再び平戸に戻り、紐差教会は、町中にある昭和初期のコンクリート作りを代表する聖堂。明治になってキリスト教の布教が認められてから、和歌山から捕鯨のために移住してきた人たちが定住し、洗礼を受けた。ピーク時の信徒は1500人。今も信徒1000人の平戸で最多の信徒がいる。信徒たちは明るく、前向きなのが特徴という。小さいながらパイプオルガンもあるが、残念ながら防犯のために、聖堂の入り口までしか入れず。「昔は幼稚園もありミサ時間以外も訪問者に対応するシスターもいたが、今はいなくなって、本来なら信徒が主体的にそうした役割を担うべきだが、遠慮する風土変わらない」と現地の方の言葉。

 春日集落は、世界歴史遺産にもなっている。隠れキリシタンの家を一部移築して再現した資料館には、集会に使われた部屋、神棚と仏檀を並べて拝む形にしつつ、奥の納戸の中には、聖母の絵の賭け軸が飾ってある。隠れキリシタンたちが苦心して信仰を続けの様子が分かる。この地を布教したアルメイダ神父のイエズス会本部あて書簡には「小高い丘に教会が建っている」とあるが、後の調べで、教会ではなく、墓だったことが判明。残念ながら集落のキリシタンは、明治になってもカトリック信徒に戻らず、そのままの行事を続けてきたという。今でも信徒はこの集落にはおらず、隠れキリシタンも高齢化で跡を継ぐ人はいなくなっている、という。(写真左下は、潜伏キリシタンの部屋の様子。右に神棚と仏壇、左奥の納戸の壁に聖母マリアの絵の賭け軸が)

 木ケ津教会は小さい聖堂に、永井博士自筆の十字架の道行きが掛けられている。長崎の浦上教会に信徒が出向いた際、譲ってもらったもの、と言うが、痛みが激しく、黄色だった十字架は脱色している。浦上教会は返還を求めているが、応じていない、という。貴重な作品なので、博物館に寄贈して保存措置をしてもらい、レプリカを掛けるようにしたらいい、との声もあるようだ。(写真右が、永井博士の描かれた十字架の道行き)

 昼食後、生月大橋を渡り、生月島へ。島の館へ、隠れキリシタンの旧家を移築したもの。そして山田教会。宝亀教会に次いでこの地域で二番目に古い。大正元年に着工。潜伏キリシタンは明治になってカトリックに戻った。

 再び生月大橋を通り、平戸本島に戻り、生月の対岸にある山野教会。現在18世帯。文字通り山の上の開拓地の教会。長崎の外海から移ってきた人々。潜伏キリシタンになったが、明治に禁教令が解けた後、カトリックに戻った。(春日集落の隠れキリシタンとは対照的に)信徒たちは明るいのだという。

 12日、朝食後、四日間お世話になった宿を発ち、長崎空港へ。昼過ぎの便で東京への帰途に就いた。

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 現地での実質2日間という短い巡礼だったが、収穫はあった。その最大のものは、フランシスコ・ザビエルによってキリストの教えが伝えられた後、キリシタン弾圧の中で殉教の時期よりも長く、明治に入り禁教令が解かれるまで200年以上も、宣教師を欠いたまま、信徒たちだけで”面従腹背”で創造主への信仰を保ち続けた人々がいた、という、その現場を体験したことだ。

 その保ち方は集落や地域によって異なり、信徒たちだけで長い間受け継いでいくうちに”変質”を余儀なくされ、禁教令が解かれても、集落ごとカトリックに戻らない、いわゆる「隠れキリシタン」も少なくなかったこと。そして、今やそれを受け継ぐ人もわずかになり消え去ろうとしている現実も。その一方で、明治になって、和歌山から多くの鯨捕りの漁業者たちが移り住み、洗礼を受けた,禁教令時代の経験をもたない信徒が中心になってできた教会が、かえって今も活気がある多様性にも心がひかれた。

 またカトリック教会も、平戸最大の信徒をもつ教会が、平日に訪れる人を迎えていたシスターなど奉仕者が減って、祭具などの盗難の懸念から聖堂の入り口だけで中に入れないようにするのを余儀なくされている一方で、国内からよりも、韓国から毎週のように多くの巡礼団を受け入れながら、老朽し抜本的な改築の時を迎えているが、改築資金の確保に苦労する教会の姿も目の当たりにした。

 さらに、信徒、聖職者の高齢化、減少という日本の教会の問題が、キリスト教の歴史と伝統のあるこの地域でも深刻化しており、共通の課題となっていることも実感した。

 

(2024年4月18日「カトリック・あい」南條俊二記)

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2024年4月18日