・「私たちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みつつ前進を続ける、挑戦に満ちあふれた旅路」菊地大司教の復活徹夜祭

2022年復活徹夜祭@東京カテドラル

2022evg05 主の復活おめでとうございます。

 聖土曜日はいわゆる固有の典礼のない日です。静かに主の墓の前に佇みその受難と死を黙想する日です。 そしてその日の夕刻、日が沈んで、聖書的には翌日が始まる土曜日の夜、主の復活の徹夜祭が行われます。

 その中心にあるのは、復活された主イエスが、暗闇に輝く希望の光であることを明確に示す光の祭儀、そして出エジプトの物語を中心とした旧約聖書の朗読を通じた救いの歴史の黙想、そして感謝の祭儀です。通常この復活徹夜祭が新しい命のよみがえりを祝うのですから、古い自分に死んでキリストのうちに新しい後を生きる洗礼が行われます。

2022evg09 東京カテドラル聖マリア大聖堂では、この晩、12名の方が洗礼を受け、3名の方が転会し、さらに10名が加わって堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

 以下、復活徹夜祭の説教原稿です。なお、洗礼式で個人名が読み上げられることもあり、ビデオは添付いたしません

【復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月16日】

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

 私たちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、私たちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

 この二年間、私たちは様々な危機に直面し、あたかも暗中模索を続けているようです。どこへどう進んでいったら良いか分からず、立ち止まってしまったとしても、時の流れはとどまることを知りませんから、私たちの人生はそれでも前進を続けています。

 私たちの信仰の旅路も、とどまることなく前進を続けています。週の初めの日の明け方早く、墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたその時で、止まってしまったのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。

 そこに天使が出現し、「イエスは生きている」と告げます。途方に暮れた婦人たちに、天使は進むべき方向性を思い起こさせます。それはすでに与えられているのです。

 ガリラヤはイエスに従う人々がイエスと初めて出会った地です。「信仰に生きる」とはどういうことか、イエスが言葉と行いをもって教えられた地です。それは単に過去の記憶として留めておくべきものではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える指針であります。

 弟子たちも、「十字架上での主の死」という喪失にとらわれ、途方に暮れて立ち止まっていたことを福音は記します。実際にイエスの体がそこには無いことを目で見たペトロが、ただただ、「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。

 ペトロは家に帰ったのであって、前に進もうとはしません。イエスご自身が現れるまで、前に進まないのです。主は立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。信仰は旅路です。やみくもに歩いているのではなく、主ご自身が示された方向性の指針に基づいて、歩みを続ける旅路です。

 出エジプト記において、救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野をさまよいます。「安定した過去へ戻ろう」と神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進するように命じます。その旅路は過酷であり、あたかも、さまよっているようにしか見えませんが、しかし神の救いの計画、すなわち、進むべき方向性の指針は、すでに明確に示されていました。

 私たちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

 イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって、罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、「完成」ではなく、「旅路への出発点」に過ぎません。

 今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。

 とはいえ、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からない時も、しばしばでしょう。ですから私たちは共にこの道を歩みます。教会は共同体であり、私たちは信仰の旅路を、共同体として共に歩みます。「一人、孤独のうちに歩む」のではなく、互いに助け合いながら歩み続けます。

2022evg04 ちょうど今、教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。

 東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し公開していますが、ご覧になったことはありますか。一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容について分かち合い、理解を深めていただければと思います。

 このシノドスは、何か決議文を生み出すのではなく、互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い支え合いながら、信仰の旅路をともに歩み続けることが目的です。

 東京教区では、折しも宣教司牧方針を、教区の多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切できずにおりました。

 今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。

 シノドスの歩みを共にすることで、私たちは「今の東京教区の現実の中で、『神の民』であるとは、どういう意味があるのか」を理解し、深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」「交わりの共同体」「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

 復活された主は、私たちの信仰の旅路に常に寄り添ってくださいます。共に歩んでくださるのは、主ご自身です。互いに支え合い、共に歩む教会共同体を生み出していきましょう。

2022年4月17日

・「喜びと希望を生みだす教会共同体に」菊地大司教、復活の主日メッセージ

2022年4月17日 (日)2022年復活の主日@東京カテドラル

 2022esun01皆様、主の復活おめでとうございます。

 この数日は肌寒い雨模様が続きましたが、復活の主日の今日は、少しばかりの曇り空ですが晴れ上がり、暖かな春の日となりました。復活祭ということもあり大勢の信徒の方がミサに参加されました。聖マリア大聖堂は、堂内の人数制限をしているため、今日は正面扉を開放して、その外にも、ミサにあずかる方が互いの距離を取りながら、祈りをささげておられました。

2022esun04 今日のミサで、これから異動となる神父様方も多数おられると思います。関口教会でも、助任のホルヘ神父様が、来週から高幡教会で働かれることになります。

 ミサの最後に、関口教会からお祝いとホルヘ神父様の趣味でもある盆栽が贈られました。新しい任地で、新しい責務を負われるホルヘ神父様に、聖霊の導きを祈ります。

 新しい主任司祭や助任司祭を迎える教会共同体にあっては、どうか司祭のためにお祈りください。新しい任地へ向かう司祭のため、そして新たに皆さんの共同体に赴任される司祭のため、どうか祈りをお願いします。

 私たちは、祈りの力を信じています。祈りを忘れたとき、人間の力に頼らざるを得なくなり、それが生み出す結果は神様の望まれる道とは異なる方向を向いてしまう可能性すらあります。

 洗礼を受けられた皆さん、おめでとうございます。これからキリストの身体の一部分として、共同体の大切なメンバーとして、ともに歩んで参りましょう。

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以下、本日午前10時の、関口教会でのミサの説教原稿です。

【復活の主日 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月17日】

 主の復活おめでとうございます。

 昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

 洗礼を受けられたことで、皆さんはキリストの身体を構成する一部分となりました。そのことを目に見える形で象徴するように、共同体の一員としても迎え入れられることになります。

 教会は共同体です。お一人お一人にそれぞれの人生の歩みがあることでしょうから、共同体への関わりの道も様々です。具体的な活動に加わることもできますし、祈りのうちに結ばれることもできます。重要なのは、信仰はパートタイムではなくてフルタイムであって、どこにいても常に、私たちキリスト者は霊的な絆で共同体に、そしてキリストの身体に結ばれていることを心に留めておくことだと思います。

 私たちから神に背を向けて離れていくことはいくらでもできますが、神は自分の身体の一部である私たちを離しません。洗礼の恵みによって、さらには聖体と堅信の恵みによって、私たちは霊的にキリストに結び合わされ、その結びつきを私たちが切り離すことはできません。どうか、これからもご自分の信仰生活を深められ、できる範囲で構いませんので、教会共同体の大切な一員として、それぞれに可能な範囲で貢献していただくことを期待しています。

 主の復活を祝うこの日は、私たちの信仰の中心にある喜びの日です。十字架の苦しみと死に打ち勝って、新たないのちへと復活されたイエスの勝利がなければ、今日の使徒言行録に記されているようなペトロの力強い宣言はなかったのです。ヨハネ福音に記されたペトロと、使徒言行録に記されたペトロは、同じ人物ですが、そこには大きな違いがあります。

 あの晩、三度にわたって「イエスを知らない」と宣言し、恐れのあまり逃げ隠れしていたペトロは、主の復活を理解できません。ヨハネ福音には復活された主は登場してきません。語られているのは、空になった墓であり、その事実を見てもまだ理解できずにまだまだ困惑しているペトロや弟子たちの姿です。

 しかしそのペトロは、使徒言行録で、「力強くイエスについて宣言するペトロ」になりました。その異なるペトロの姿の間には、復活された主ご自身との出会いがあります。

 教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」にこう記しておられます。

 「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです(1)」

 こう記した教皇は、繰り返し、私たちの信仰は、イエスとの個人的な出会いの体験によって生み出されると強調されました。イエスとの出会いは、ペトロやパウロがそうであったように、命を生きる希望を生み出します。

 その上で教皇ベネディクト16世は、「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。・・・希望を持つ人は、生き方が変わります(回勅「希望による救い」2)」とも指摘されています。

 洗礼によって、私たちは、古い自分に死に、新しい自分として生まれ変わりました。その間には、復活された主との個人的な出会いがあります。主との出会いは命を生きる希望を生み出します。その希望を心に受けた者は、それを力強く証しする人生を歩み始めます。なぜなら、私たちが受けた福音は、単なる知識や情報ではなくて、何かを引き起こし、生活を変えるような力を持っているはずだからであります。

2022esun06 今、たぶん、私は理想を述べています。現実はそう簡単にはいかないことを、私たちはこの四旬節の間、目の当たりにしてきました。

 そもそもこの二年間以上、感染症の影響で、希望のない暗闇の中をさまよってきました。さまよい続けているにもかかわらず、多くの人が暴力的に命を奪われうるような戦争状態が発生し、世界中が希望を見失ってしまいました。喜びの季節であるはずなのに、心のどこかに不安が根を張っています。

 教会は霊的な絆に結び合わされた共同体であるにもかかわらず、実際に集まることができない状態が長く続く中で、その状態にとどまり続けるのは、容易なことではありません。どこからか甘い言葉がささやかれると、思わず飛びつきたくなる心持ちです。でも甘い言葉には、真理と平和はありません。

 なんと私たちの信仰の弱いことか、と思い知らされ続ける二年間でありました。これまで「当たり前だ」と思っていた、日曜日に教会へ行ってミサに与ること、それが難しくなった時、初めて私たちは、集まること自体が、喜びを生み出していたことを、心で感じました。

 「私たち」と言って、皆さんのことを私が判断することはできませんから、少なくとも、私自身は、人間の心の弱さを、この二年間、つくづく思い知らされています。そして他者の命を暴力的に奪ってでも、政治的野望を成し遂げようとする、人間の心の醜さを目の当たりにして、ただただ、「主よ助けてください」と叫び続けるしかありません。

 このような時代に生きているからこそ、私たちは福音の基本に立ち返り、現実社会の中で教会がどうあるべきか、私たちがどのように生きるべきかを、思い起こしたいと思います。

 私たちの信仰を支える教会共同体には、三つの本質的務めがあると、教皇ベネディクト16世は指摘されていました。

 回勅「神は愛」で、「教会の本質はその三つの務めによって表されます。すなわち、神の言葉を告げ知らせること(宣教と証し)、秘跡を祝うこと(典礼)、そして愛の奉仕を行うこと(奉仕)です。これらの三つの務めは、それぞれが互いの前提となり、また互いに切り離すことのできないものです(25)」と記されています。

 教会は、福音を証しする存在です。教会は祈りを深め、神を礼拝する存在です。教会は愛の奉仕を行う存在です。どれかが大切なのではなくて、この三つの務めは互いを前提としているので、それぞれのが十分になされていなければなりません。

 これに基づいて東京教区では、全体の方向性を示す「宣教司牧方針」を定めています。宣教司牧方針の柱は三つあり、①宣教する共同体、②交わりの共同体、③すべての命を大切にする共同体を育てていくことを目指しています。それによって先ほどの三つの本質的務めを十全に果たしていく共同体になりたいと思います。

 三つの務めや三つの柱は、共同体の効率化だとか、そういったことを求めて定めてあるのではありません。それは、教会共同体が主ご自身との個人的な出会いを生み出す場となるためであり、主との出会いによる喜びに満たされている場となるためであり、社会に対してその喜びを宣言し希望を生み出すものとなるためであります。

 皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」「交わりの共同体」「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。喜びと希望を生み出す、教会共同体でありましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年4月17日

・「主イエスの苦しみに心を合わせ、神の秩序の実現へ具体的に行動する人生を」聖金曜日・主の受難の菊地大司教メッセージ

2022年4月16日 (土)2022年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

2022gf06 聖金曜日の主の受難の典礼です。

 今年もまた、感染対策のため、通常通りの典礼ができていません。残念です。特に十字架の崇敬を、本来はお一人お一人にしていただきたいのですが、全員で一緒に崇敬という形にさせていただきました。来年こそは、元に戻すことができるのを願っています。また盛式共同祈願では、教区司教の定めとして、ウクライナの平和とミャンマーの平和のため、また感染症の終息のため、教区典礼委員会が準備した祈願文二つを使いました。

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以下、聖金曜日主の受難の典礼の説教原稿です。

【聖金曜日・主の受難 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月15日】

 この日、私たちは、愛する弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの受難という、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスの苦しみに心を馳せ、祈ります。

 今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心を合わせおられたことを、私たちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、教会に霊的生活の模範を示されています。

 教皇パウロ六世は、「(聖母の)礼拝が人の生活を神に対する奉献とさせる点」において、また「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉に生きたことによって、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるように、との教訓であり、模範である」と指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

 人生において私たちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には大災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。この数年間、私たちは日本において、例えば東北の大震災のような大きな自然災害によって、人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。そして2020年、新型コロナウィルスによって、あらためて人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。

 そして今度は戦争の危機に直面することになりました。今年の四旬節は、ロシアによるウクライナへの武力侵攻とともにある四旬節でした。核戦争の可能性さえ感じさせるこの事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。

 第二次世界大戦という悲劇を経験した人類は、それを繰り返さないために、戦後、さまざまな国際的規約を定め、国際機関を設立し、平和を確立しようとしました。東西対立が深まり核戦争の危機が現実となった時代に、教皇ヨハネ23世は「地上の平和」を著され、「武力に頼るのではなく、理性の光によって、換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(62)」、国家間の諸課題を解決せよと呼びかけました。その上で、「その解決を、命を危機に直面させ、さらには人間の尊厳を奪う、武力行使に委ねることはできない」と主張されました。

  今回のウクライナでの事態にあたり、教会は教皇フランシスコの度重なる祈りの呼びかけに応え、平和のための祈りをささげてきました。しかしながら平和は自然現象ではありません。戦争が人間のしわざであるように、平和も人間の業によって生み出されなくてはなりません。

 平和は、教皇ヨハネ23世によれば、「単に戦争のない状態ではなくて、神の秩序が完成している状態」です。平和は神から恵みとしてもたらされるものではなくて、私たちがそのために力を尽くして確立するものであり、神は共通善に向けた私たちの行動を、聖霊を持って祝福し導いてくださいます。神の導きに応えて行動するのは、私たちです。

 「地上の平和」にこう記されています。
「一人ひとりの中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植え付けなければ、人々の間に平和は成立しえません。(88)」

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   教皇フランシスコは、3月25日、「全人類と、特にロシアとウクライナを、聖母の汚れなき御心に奉献する」ことを宣言され、全世界の教会に、教皇様と一致して祈りをささげるようにと招かれました。その原点は、ファティマで出現された聖母が、ルチアに伝えた第一、第二の秘密に記されています

 聖母への奉献という行為は、聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。教皇ヨハネパウロ二世は、1982年5月13日、ファティマでのミサにおいて、こう述べておられます。

 「マリアに私たちを奉献するという意味は、私たちと全人類を聖なる方、つまり完全に聖なる方にささげるために、聖母の助けを求めるということです。それは、十字架のもとですべての人類への愛、全世界への愛に開かれたマリアの母なる御心に助けを求め、世界を、人類一人ひとりを、人類全体を、そしてすべての国を完全に聖なる方にささげるためです」

 私たちは完全に聖なる方に、私たちを「委ね」て、それで終わりとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方が、私たちを聖なるものとしてくださるようにと、行動を決意をするのです。

 つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、私たちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、「奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つ」のではなく、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。平和を求めて、全人類を聖母の汚れなき御心に奉献した私たちの、具体的な行動が問われています。

 命の与え主である神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。

 苦しみの中で命の危機に直面していた主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこの時から、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

 その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。

 十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い、主イエスの苦しみに心をあわせ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年4月16日

・「おのれの身が裂かれても、人類のために身をささげられた主の愛に倣う」菊地大司教の聖木曜日・主の晩餐ミサ

(菊地大司教の日記 2022年4月15日 (金) 2022年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

2022hth02 聖木曜日の主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行いました。例年、聖なる三日間の典礼は、関口教会と韓人教会の合同で行われていますので、昨晩のミサには韓人教会の主任である高神父様も参加、さらに昼間の聖香油ミサに引き続いて、大分教区の新しい司教である森山信三被選司教様も参加して祈りの時を共にしてくださいました。

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 感染対策中のため、残念ですが、今年も、洗足式を中止とし、さらにミサ後に御聖体を仮祭壇に運ぶ際も、会衆も共同司式司祭も、自席からお祈りしていただきました。来年こそは元に戻したいーそう思い、また願います。

 なおビデオを見ていただくと分かりますが、ミサでは第一奉献文を歌っています。あまり歌われることがありませんし、私自身が自分の名前を呼ぶ(「私たちの司教○○」のところです)ところをどうしたのかも、一度ご覧いただければと思います。

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 以下、主の晩餐のミサの説教原稿です。

【聖木曜日・主の晩餐 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月14日】

 この2年間、感染症の状況のただ中にあって、私たちは「孤立するのではなく、互いに連帯して助け合うこと」の重要性を、肌で感じ、同時に、命の危機に直面する時、人がどれほど容易に利己的になり、様々なレベルで連帯が実現しないか、その現実も目の当たりにしてきました。

 最たるものは、今年の四旬節を悲しみと恐れの影で覆い尽くしたウクライナにおける戦争です。そこには様々な政治的な理由があることでしょう。それをもって武力の行使を正当化しようとする立場もあることでしょう。

 しかし信仰に生きる私たちは、感染症によって世界中の命が既に危機にさらされている中で、今こそ必要なのは「共に命を生きるために連帯すること」であって、「命を奪うことではない」と改めて、しかも愚直に主張したいと思います。

 教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」で、現在の世界情勢を「散発的な第三次世界大戦」と指摘された上で、こう語られています。

 「私たちを一つに結びつける展望の欠如に気付くとしたら、それは驚くにあたりません。どの戦争でも、破壊されるのは『人類家族の召命に刻み込まれた兄弟関係そのもの』であり、そのため『脅威にさらされた状況は、ことごとく不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向ける』からです(26)」

   命を守るために世界的な連帯が必要とされる今、世界はそれに逆行するかのように、互いの絆を断ち、利己的になり、互いに無関心になり、命をさらなる危機に追いやっています。

 感染症対策が私たちを孤立させ、可能な限り人間関係を希薄にさせ、教会に集まることすら困難にさせている中で、私たちは改めて教会の共同体性を考えさせられています。教会は、何をもって共同体なのでしょうか。2年前まで、日曜日に教会に集まることで、わたしたちは教会共同体であると思っていました。しかしそれが不可能となった時、「私たちを結びつけているのは、いったい何なのだろうか」と考える機会を与えられました。

 私はこの感染症の状況の中で、教会活動に様々な対策を講じる中で、福音に記された「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という主イエスの言葉を、私たちを結びつける絆のしるしとして掲げてきました。

 私たちは、どのような状況に置かれていても、主ご自身が、世の終わりまで共にいてくださると言われた、その約束に信頼し、主ご自身を通じて共同体の絆に結び合わされています。私たちは”仲良しクラブの会員”ではありません。「仲が良いから集まっている」のではありません。私たちは、仲が良かろうと良くなかろうと、世の終わりまで共にいてくださる主が、私たちと共におられるから、この共同体に集められているのです。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会に命を与える聖体」の冒頭で、主ご自身のこの約束の言葉に触れ、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだが、「聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と語られます。

 そのうえで教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『命のパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、絶えず新たに、このことを体験しなさい、と言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

 私たちイエスによって集められている者は、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結び合わされています。私たちは、御聖体の秘跡があるからこそ、共同体であり、その絆のうちに一致しているのです。

 主における一致へと招かれている私たちに、聖体において現存されている主イエスは、「私の記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、後に残していく弟子たちに対する切々たる思いを、秘跡のうちに刻み込まれました。

 このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が繰り返される度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会に命を与える聖体」5項)。私たちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐にあずかった弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ思いを、同じように受け継ぎます。

 パウロは「コリントの教会への手紙」で最後の晩餐における聖体の秘跡制定の出来事を記す中で、「私の記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉に続けて、「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」と呼びかけています。この呼びかけは、いま聖体祭儀にあずかる私たち一人ひとりへの呼びかけです。

 イエスは、裂かれたパンこそが、「私の体である」と宣言します。ぶどうは、踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

 だからこそ、ヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、「イエスご自身が弟子の足を洗った」という出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

 「ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

 パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、互いに自分を主張するのではなく、相手を思いやり支え合い、そのために自らの身を犠牲とするところ、そこに主はおられます。

 私たちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身が裂かれ、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。主の愛を自分のものとして具体的に生きるとき、そこに主はおられます。

 教会は今、「共に歩む教会のために–交わり、参加、そして宣教」というテーマを掲げて、共にシノドスの道を歩んでいます。3月19日に世界中の司祭に向けて、聖職者省長官とシノドス事務局長が連名で書簡を出されました。そこに教会の新たな姿を求めるこの旅路について、こう呼びかけが記されています。

 「私たちは、神の民全体と共に聖霊に耳を傾け、信仰を新たにし、兄弟姉妹と福音を分かち合うために新たな手段と言語を見出す必要があります。教皇フランシスコが私たちに提案しているシノドスの歩みは、まさにこのことを目的としています。つまり、相互に耳を傾け、アイデアやプロジェクトを共有しながら、教会の本当の顔を示すために、共に歩み出すのです。その教会とは、主が住まわれ、友愛に満ちた関係性によって励まされる、扉の開け放たれた、もてなしのあふれる『家』です」

 聖体の秘跡を制定された主イエスの切なる思いを心に刻み、聖体に現存される主に生かされて、その主を多くの人に告げ知らせるために、主のおられる教会共同体となりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年4月15日

・「困難な時期に教会が”シノドスの道”を歩むため、司祭が果たすべき役割は」菊地大司教の聖木曜日・聖香油ミサ

菊池大司教の日記 2022年4月14日 (木)2022年聖香油ミサ@東京カテドラル

 今年は聖香油ミサを、例年通りに聖木曜日の午前中に執り行うことができました。残念ながら、感染対策の制限のため、信徒の方々にはご一緒いただけませんでしたが、オンラインで配信いたしました。

 ミサの冒頭で、田町神学生の司祭助祭叙階候補者としての認定式と、熊坂、冨田神学生の、祭壇奉仕者選任式を行いました。なおミサには、教皇大使レオ・ボッカルディ大司教様と、先日大分の司教に任命されたばかりの森山信三被選司教様も参加してくださいました。2022chrism01

 ミサ中には司祭の約束の更新、そして聖なる油の祝福を行いました。特に洗礼式、堅信、叙階式、献堂式などに使う聖香油の聖別は重要です。純粋なオリーブオイルに香料としてバルサムを混ぜ、象徴的に司式司教は口を近づけて息を吹きかけた後、祈りを唱えます。祈りの後半では同席するすべての司祭が右手を差し伸べて祈りに加わります

 また、配信には入っていませんが、ミサの終了後には、今年度の人事異動ですでに新しく来られた神父様や、東京を離れる方の紹介もありました。どうか皆さん、霊的に満たされ祝福された聖なる三日間をお過ごしになり、喜びのうちに復活祭を迎えられますように。

 以下、聖香油ミサの説教原稿です。(なお当初用意した原稿の最後の部分を飛ばしましたので、配信担当者には事前に用意された字幕と異なることになり、通知していなかったので混乱を招いてしまいした。申し訳ありません。読み飛ばした部分は、ミサ冒頭の選任式で読み上げられた式文とほぼ同じ内容でした)

【聖香油ミサ 2022年4月14日 東京カテドラル聖マリア大聖堂】

 改めて繰り返すまでもなく、私たちは2020年2月頃から、新型コロナ感染症に起因する困難な状況の中で、社会生活を営んでいます。「もうすぐ収まるのではないか」という期待を持ったところに、今度はまた変異株などが出現してみたり、「普通の風邪と同じレベルだ」という声が聞こえたかと思うと、今度はまた、「慎重さを失ってはならない。命が危機に直面している」という声を耳にする、ということの繰り返しです。先が見通せないことほど、私たちに不安をかき立てることはありません。

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 改めて亡くなられた方々の永遠の安息を祈るとともに、今も病床にある方々の回復を祈り、さらには命を守るために最前線で働いておられる多くの医療関係者の方々の健康が守られるように、祈り続けたいと思います。

 感染症の困難のただ中で、教皇様は、しばしば世界的な連帯の必要性を強調されてきました。2020年9月2日の一般謁見では、この危機的状況から、以前より良い状態で抜け出すためには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠であると指摘されました。

 しかしながらこの四旬節の間、私たちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でありました。

 世界的な感染症による困難という命の危機に直面する中で、戦争などしている暇はないだろうと思うのですが、政治の指導者たちの考えは、私たちの考えとは異なるようです。

 ウクライナを巡るロシアの武力侵攻は、これまで積み重ねてきた国際社会の努力を踏みにじる大国の暴力的行動として世界に大きな衝撃を与えており、命を守り平和を希求する多くの人たちの願いを顧みることなく、事態は展開してきました。3月25日、教皇様が、全人類、特にロシアとウクライナを聖母の汚れ無き御心に奉献し、世界の多くの教会がそれに賛同して祈りをささげましたが、聖母の取り次ぎによって神の平和が確立する道が開かれるように、祈り続けたいと思います。

 ちょうどこの困難な時期のただ中で、教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「共に歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

 私たちは今その道程を、全世界の教会をあげて共に歩もうとしています。共に旅を続ける神の民にあって、私たち一人ひとりには固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりがその役割を十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音を証しする存在となり得ます。

 現代社会において、真摯に福音宣教に取り組もうとするなら、それは何らかのテクニックを考えることではなく、教会共同体を福音を証しする共同体へと成長させるところからはじまらなくてはなりません。言葉と行いによる証し以上に力強い福音宣教はありません。それは一人のカリスマのある人物の出現に頼っているのではなく、教会共同体が全体として、社会の中における福音の証しの発信源とならなくてはなりません。

 そういう現実の中で、福音を証しする教会共同体を育てて行くために、牧者である司祭の役割は重要です。ですから、今日のこのミサで、教区で働く司祭団が見守る中で、認定式と祭壇奉仕者選任式が行われることには、「福音宣教の後継者の誕生につながる」という大切な意味があります。

 司祭へと養成されていくことは、決して「共同体の中で序列が上がり、偉くなっていくこと」ではなく、反対に、出会う多くの人に「命を生きる希望を見い出す道」を示し、「互いの絆を生み出し、深めていくための模範」を示していくことです。

 司祭養成の道を歩むことは、徐々に力強いものとなっていくのではなく、「自分の弱さ、足りなさを自覚していく道」です。自分の弱さを自覚するからこそ、神の力が自分のうちで働くのです。力不足を自覚するからこそ、支えてくださる多くの方々の祈りの力を感じることができるのです。どうか、常に「謙遜な奉仕者」であってください。

 同時に、司祭の養成には、信仰共同体の愛に満ちた関わりも不可欠です。今日、ここに集まっている司祭、修道者、信徒の方々は、ある意味で東京教区全体を代表しておられます。司祭の養成は誰かの責任ではなく、教区共同体全体がそれに責任を負っていることを、どうぞ今一度、思い起こしてください。教区や神学院の養成担当者だけの責任ではなく、私たち皆が責任を分かち合い、祈りを通じて、養成を受ける神学生と歩みを共にしていただければと思います。

 司祭への養成を受ける道を、一人で孤独のうちに歩むことはできません。歩みを進める中で、しばしば困難に直面します。人生の岐路に立たされます。そのようなとき、ふさわしい選択をするためには、多くの人の祈りによる支えが大切です。私たちの召命も、信仰における連帯によって生かされます。どうぞ、神学生のために、そしてこれからの新たな召命のために、お祈りを続けてください。

 今回のシノドスの道にあたり、3月19日に、教皇庁シノドス事務局長マリオ・グレッグ枢機卿と、聖職者省長官ユ・フンシク大司教は、世界の司祭に向けて書簡を出されました。

 シノドスを、「ただでさえ忙しいのに、また加わった重荷」と考えずに、「観想的な視線で皆さんが共同体を見つめ、そこに既に根付いている参加と分かち合いの多くの事例を見出す」ように、と語りかけるこの書簡に、三つの勧めが記されています。

 第一に「今回の旅が神の言葉に耳を傾け、それを生きることに基礎を置く」ために、あらゆることを行うこと。

 第二に「私たちの旅が、互いに耳を傾け合い、受け入れ合うことによって特徴づけられる」ように、努力すること。

 第三に「今回の旅が、内省に向かうように私たちを導くのではなく、すべての人に会いに出かけて行くように私たちを刺激する」ように、気をつけること。

 この困難な状況の中にいるからこそ、私たちは、暗闇の中で福音の希望の光を高く掲げ、より多くの人が福音に出会い、命の希望を見出すような、教会共同体を育んで参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年4月15日

・「”十字架の道”はミャンマーの現状そのものだ」とボ枢機卿

Pope Francis meets Cardinal Bo in Myanmar in 2017Pope Francis meets Cardinal Bo in Myanmar in 2017 

(2022.4.14 カトリック・あい)

 ロシアの軍事侵攻でウクライナが悲惨な状態になり、中国の新疆ウイグル自治区などでイスラム系少数民族などが深刻な虐待に遭うなど、世界中に、教皇フランシスコが強く非難される「力の論理」が横暴を振るう事態が広がっている。

 そして、ミャンマーでも、軍事政権による民衆弾圧、国軍と反政府武装勢力の戦闘に、未だに終結の展望が見られない。そうした中で、ミャンマーのカトリックの指導者であり、アジアの司教協議会連盟の会長でもあるチャールズ・マウン・ボ枢機卿(ヤンゴン大司教)が、Vatican Newsのインタビューに応じ、先日の反政府武装勢力によるマンダレー大聖堂襲撃を始めとする同国の危機的状況、聖週間におけるカトリック教会の対応などについて語った。

(2022.4.13 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 ボ枢機卿は、国軍支配下で暴力が激しさを増し、避難民も増加を続けるなど危機的な状況な難民危機に直面しているミャンマーは、まさに、イエスが歩まれた「十字架の道」を歩み続けている、と語る。そうした中で、キリスト教徒に対する迫害も激しさを増しており、改めて、物心両面の人道支援の必要を訴えている。枢機卿との一問一答は以下の通り。

 

VN: ミャンマーの民主主義への道を突然停止させた2021年2月1日の軍事クーデターから一年後の今年2月、あなたは、ミャンマーの現状について「長く引き伸ばされた十字架の道」と形容されました。そのような事態は現在も続いていますが、カトリック教会は、復活祭に向けて聖週間をどのように過ごされますか?

ボ枢機卿: ミャンマーの人々は今も、十字架の道を歩み、ゴルゴタの丘にいます。先週の金曜日の夕方、マンダレーの大聖堂で信徒たちが十字架の道行きをしている最中に、(注:反政府武装勢力の)兵士たちがは銃を持って神聖な祈りの場に踏み込み、信徒たちを恐怖にさらしました。キリストの苦しみは、戦争の犠牲者、避難民、夫を亡くした女性、そして父親なしで放り出された子供たち、ジャングルで命を落とした青年たちによって、現実のものとなっています。私たちは、自分自身の力で、数々の悲劇を生んでいる紛争を解決することができないでいること、私たちの平和への努力が今まで無駄になっていることを、心から嘆きます。神はご自分の民と共に苦しんでおられます。イエスが亡くなる前の数時間の苦痛は、ウクライナと同じように、ミャンマーで息子と夫を亡くした母、妻の目と心に映し出されています。彼らは今、十字架の道にいるのです。

 イエスでさえも、「できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください」と父に祈られました。そして、十字架の上で亡くなる直前に、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。それでも、イエスは、ご自分が定められた道を最後まで歩み続けられたのです。私たちは、イエスほど強くはないでしょう。私たちは「なぜ私たちの国を滅ぼそうとしている悪を許し、ミャンマーの人々が終わりなく苦しむことを放置しているのですか」と父なる神に向かって叫びます。それでも、私たちは、「十字架の道」が、神が悪を克服し、平和をもたらす方法だ、と信じます。この聖週間においてミャンマーの信徒たちは心からの祈りを捧げます。神が苦しんでいる人たちに耳を貸さない、ということを、私は信じることができません。

*キリスト教徒の祈りの場で行われた暴力

VN:ミャンマーにおけるカトリック教会の現在の状況をどうご覧になっていますか?

枢機卿: ミャンマーの仏教徒、イスラム教徒、そしてキリスト教徒の誰もが、極度のストレスの時代を生きています。武力紛争は、この国の東、北、北西、そして中心部の少なくとも4通の地域で激しさを増しています。そして、殺害の恐怖に置かれたり、自宅や地域社会を破壊されたりしていない人たちも、日常生活をするうえでの基本的な公共サービスを受けられなくなっている。人口の半分以上が貧困に陥り、食料価格が高騰しています。しかし、人々、特に若者にとって最大の問題は、自分たちの未来がら奪われている、ということです。あってはならないことが起きているのです。

 プロテスタントを含むキリスト教徒の人口が最も多い地域社会が、軍そして対抗勢力の戦いで最も大きな被害に遭っており、司祭や信徒たちが最も苦しんでいる。この地域ではすでに15以上の教会や修道院が破壊され、聖具などの備品が略奪されたりしています。国軍は、反政府武装勢力の力を弱めるために、地域社会の基盤を破壊することに重点を置いています。教会は国軍、反政府勢力のいずれの武力も支持しません。一貫して和解を求めてきました。若者たちが、教会の姿勢に失望していることは理解していますが、指導者や戦略がない複数の武装集団について強く懸念しています。組織化されていない人民防衛軍(PDF)が明確な目的なしに活動している地域では、軍による残忍な報復的攻撃で数千人の市民が犠牲になっています。

 

VN: ミャンマーのこのような現状の中で、復活祭のアピールを出すことが必要とお考えですか?

枢機卿: イエスがろばに乗ってエルサレムに入られた時、弟子たちが大歓声をあげたのを見たファリサイ派の人々から、彼らを黙らせるように求められたのに対して、イエスは「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう」と言われました。おっしゃる通り、アピールはあります。しかし、ウクライナにおける戦争が世界中の耳目を集めている時に、ミャンマーで同じ犯罪が行われ、同じ破壊のためのロシア製の武器が使われているとしても、私たちのアピールを世界の人々が聴いてくれる人がいるでしょうか。

 私たちのアピールの第一は、平和の実現です。そして、もう沢山だ!と言うことです。殺害と非道な残虐行為をやめよ!と。それ以上に、食糧、避難所、医療を切実に必要としている人々への助けを求めています。主要な人道援助機関はミャンマーにありますが、支援を必要とする人々へのアクセスが確保されていません。 世界食糧基金、国際赤十字、国連人権高等弁務官事務所は、援助を必要とする人々の所に行くのを妨げられています。少なくとも、人道支援が行われる道の確保が必要です。私たちカトリック教会は、私たち自身の人的・物的資源を使って、困窮した人たちを助けようとしています。

 ただ、カトリックの国際人道援助機関、カリタス・インターナショナルがウクライナに最大の関心を払うことで、他の地域の紛争の犠牲になっている人たちを助けることができなくなるのを心配しています。

 

VN: ミャンマーの政治危機は、大きな避難民の波をもたらしています。政治指導者たちにどのようなメッセージを伝えられますか?

枢機卿: メッセージを出すのは、本来、彼らの方です。私たちが耳を傾けねばならない人たちは政権を追われました。十字架の道を引かれていく途中、イエスは、ご自分に付いて来るエルサレムの女性たちに振り向いて、話しかけられました。私たちは、女性たちと同じことをせねばなりません。世界中が聞くべき、イエスのメッセージを聴くことです。最新の国連の報告によると、すでに故郷を追われた37万人に加えて、新たに52万人が避難民となっている、ということです。彼らは世界の指導者たちへのメッセージを持っています。先日、私は避難民の話を聞くためにカヤ州に行きました。治安や時間の制限があり、直接会えたのは、わずか数人でしたが、彼らに伝えたい私のメッセージは、彼らから話を聴き、苦しみを理解し、彼らに何が起こったのかについて説明を受けたい、ということです。

*ミャンマーの教会、一人ではない

Q:あらゆる困難にもかかわらず、あなたに希望を与えるものはありますか?

枢機卿: 私たちが現実的であるなら、希望の兆候を見つけるのは簡単ではありません。国軍の力と断固たる姿勢を考えれば、速やかで、容易な解決策や救済策はありません。でも、ミャンマーの人々は過去70年もの間、国軍の支配の下で、生き抜き、生き残っています。年配の人々は、現在起きていることが以前に経験したどれよりも酷いものであるにもかかわらず、何が起こっているかを認識しています。人々は嘘にだまされません。私の希望の1つの源は、人々の回復力と常識です。生き残るために、人々は零細事業に目を向け、廃品のプラスチックや金属を集めて商売する人もいれば、小さな屋台を出して生き残り必要な稼ぎを得る人もいます。

 キリスト教徒として、私たちは十字架の愚かさの深い神秘に希望を見い出します。すべての人々は、「自分を救ってみよ」とイエスを嘲りましたー自分で十字架から降りろ、というのです。そうした中で、イエスと共にはりつけにされた犯罪人のうちの1人だけが、イエスが別の救いをもたらされることを見分けました。私たちは、この犯罪人の信仰を分かち合うよう招かれています。イエスの弟子であることは、私たちに死を免れさせるのではなく、私たちに日々、死ぬことを求めています。私たちにとって、迫害と不正義は、あまりにも現実的すぎる現実です。

VN:アジア司教協議会連盟(FABC)の会長として、アジア地域全体の困難な状況をご覧になって、前向きな兆候があるとすれば何でしょうか?

枢機卿: 独裁政権下にある、あるいは自由が制限されているのは、アジア地域で、ミャンマー教会だけではありません。イエスは弟子たちに、社会のパン種となり、社会の中で生き、自分たちの人生と教えによって、影響を与えるように、求められました。イエスの弟子たちは、自由が制限されているアジア地域の状況の中でも、それを続けています。フィリピンと東ティモールを除くFABC加盟国の大半は、教会は少数派です。それでも、教会はその数以上に重要であり、特に信徒たちが職員が教育、医療、社会福祉に従事することができる場合には重要です。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年4月14日

・「多くの人が犠牲になる中で”無関心な傍観者”であってはならない」菊地大司教の受難の日メッセージ


2022年4月 9日 (土) 週刊大司教第七十二回:受難の主日

2022_04_05img_0143 聖週間が始まります。4月10日の主日は、受難の主日(枝の主日)であります。

 聖週間は、関口教会で、受難の主日午前10時、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日(復活徹夜祭)の三日間のミサと典礼が午後7時、そして復活の主日は午前10時が、大司教司式の典礼です。すべてのミサが、関口教会のYouTubeチャンネルから配信されます。

 また聖木曜日午前10時半からは、聖香油ミサが行われ、その中で神学生の認定式や祭壇奉仕者選任式が行われますが、現在の状況に鑑み、残念ですが非公開で行います

 なお4月16日の聖土曜日は、午後7時から復活徹夜祭が配信されますので、「週刊大司教」は一回分お休みとさせていただき、4月23日午後6時が次回となります。

 すでに旧聞となりましたが、4月6日、教皇様は、浜口司教様が帰天されてから空位が続いていた大分教区の新しい司教として、中央協議会の事務局長である福岡教区のスルピス森山信三師を任命されました。

 森山被選司教様は1959年1月生まれですから、いわゆる学年的には私と一緒です。スルピスという霊名は、私のタルチシオ以上に、あまり耳にしない聖人名です。これについて、森山被選司教様ご自身が、インタビューに答えておられる映像が、中央協議会から公開されていますので、一度ご覧ください。

 森山被選司教様、大分教区の皆様、本当におめでとうございます。新しい牧者とともに、祝福されたさらなる一歩を踏み出されますように。

 特段の事情がない限り、司教叙階式は任命から3か月以内に行うことと定められていますので、程なく日程は決まることでしょう。司教団としては、新年度が始まったばかりですし、各教区の司祭人事も変わったばかりですので、森山師の後任の中央協議会事務局長選任が容易ではないと感じています。

 とはいえ業務は遂行しなくてはなりませんから、4月7日の法人役員会で、現在、中央協の法人事務部長などを務めてくださっている東京教区の川口薫神父様に、当分の間、事務局長代行をお願いすることにいたしました。またこの4月から、任期満了で離任したイグナシオ神父様に代わり、広島教区の原田豊己神父様が社会福音化推進部部長として赴任されました。川口神父様、原田神父様、よろしくお願いします。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第72回、受難の主日のメッセージ原稿です。

【受難の主日=C年=ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第72回 2022年4月10日)

 愛する家族の1人目の前で命の危機に直面しているならば、多くの人は平然としてはおられず、どうにかして助けたい、と思うのではないでしょうか。

 世界が今、平和な解決を祈るウクライナへのロシアによる武力侵攻や、東京教区が姉妹教会として平和を祈り続けているミャンマー。そのただ中で命の危機に直面する一人ひとりは、すべからく神ご自身が賜物として命を与えられた、神が愛する存在です。命の与え主である神が平然としておられるはずがありません。私たちに、命を守るために祈り行動するように、と神は求めておられると確信します。

 多くの人が犠牲になる戦争のような事態であっても、それが遙か彼方で発生すると、どういうわけか、あれやこれやと理屈を並べて、まるで他人事のように眺めてしまいます。その傍観者のような態度、すなわち無関心は、命を奪います。神の1人子を十字架につけて殺した、あの大勢の群衆のような、傍観者としての「無関心」であります。

 歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。起こっている出来事を傍観者として無責任に眺める群衆は、そのときの感情に支配され、周囲の雰囲気に流されていきます。

 イザヤは、絶望的とでもいう状況の中で苦しみとともに生き抜こうとされるイエスの姿を、苦難の僕の姿として預言書に書き記しています。

 主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「私は逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの御父に対する従順と不退転の決意を、イザヤはそう記します。

 パウロは、イエスがそのように、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

 神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、命を生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

 加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身の言葉であります。

 人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、「イエスを十字架の死へと追いやった傍観者」である群衆を扇動し、無関心で他人事のような言葉をもって、命を危機に追いやり、命を奪います。神の言葉に耳を傾け、それを心に刻み、不退転の決意をもってそれに従い、それを語り、それに生きる主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす命を生かす言葉そのものであります。苦しみのただ中から語られる命の言葉です。

 傍観者としての無関心が支配する現代社会にあって、私たちはイエスご自身に倣い、希望に満ちた命の言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。無責任に放言するものではなく、苦しみのただ中にいる命に心をあわせ、命を守る言葉を語る者でありたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教・日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=話しておられる意味を書き言葉で分かりやすくする表現するために、表記を原則として当用漢字表記に統一しました。特に「命」は言葉そのものに「願い求め、頂くもの」という深い意味があり、ひらがな表記ではそれが伝わらないので、新聞などで一般的に使われている漢字表記にしています)

2022年4月9日

・「慈しみの業に励み、世界に希望を生み出そう」菊地大司教の四旬節第五主日のメッセージ

(2022年4月 2日 (土) 週刊大司教第71回:四旬節第5主日)

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 四旬節も終わりに近づいています。復活祭に向けて、良い準備はできているでしょうか。特に洗礼の準備をしておられる方々に心を向け、洗礼のその日まで力強く歩みを続けることができるように、聖霊の導きを祈りましょう。

   ウクライナにおけるロシアの武力侵攻は、両国の和平交渉に多少の希望が持てるようですが、先行きは不透明です。平和のために祈り続けたいと思います。

   先週3月25日の夕方6時半頃(ローマ時間)、教皇様は、全人類を、そして特にウクライナとロシアを、聖母の汚れなきみ心に奉献されました。日本では同じ時間は26日早朝深夜2時半頃でしたので、皆さんに集まっていただく典礼はできなかったものの、私自身は同じ時間にインターネットの中継に与りながら、教皇様と祈りをささげました。

  さらに東京教区全体がこの奉献に加わることを象徴できるように、この日(26日)に開催された教区宣教司牧評議会で、冒頭に評議員の皆さんと祈りをささげました。

   ご存じのように教区宣教司牧評議会は、東京教区のすべての宣教協力体から信徒の方が参加され、加えて司祭評議会の代表と、修道者の代表が参加している会議体であり、司祭評議会と並んで、教区全体を代表する重要な場です。その総会で祈りをささげることで、教区全体の参加を象徴できたのではないかと思います。

    個人的に祈りをささげて、教皇様の奉献に加わってくださった方々に感謝します。またすでに教皇様ご自身の奉献は終わりましたが、その後いつであっても、教皇様に心を一致させて祈ることは良いことです。祈りはここにリンクがありますから、全人類を、そして特にロシアとウクライナを聖母の汚れなき御心に委ね、今日にでも、また明日以降にでも、ひとりでも多くの人に祈りをささげ、参加していただければと思います。ウクライナにおける平和の実現を聖母の取り次ぎを通じて祈ることで、さらに世界の各地で起きている様々な対立が解消され、世界的な平和の実現へとつながるよう祈り続けましょう。またこの祈りだけでなく、ロザリオの祈りをささげることも、良いことです。聖母の取り次ぎの力に信頼し、祈りましょう。

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 以下、2日午後6時配信の、週刊大司教第71回のメッセージ原稿です。

( 四旬節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第71回 2022年4月3日) 

 イザヤの預言は、出エジプトの出来事を追憶しながら、「見よ、新しいことを私は行う」という主の言葉を記し、過去の常識に捕らわれずに神の新しい働きに身を委ねよ、と呼びかけます。

 パウロもフィリピの教会への手紙で、「キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と記して、過去に捕らわれることなく、キリストに身を委ねて前進を続けるようにと励ましを与えています。

 ヨハネ福音は、これもよく知られた「姦通の現場で捉えられた女」の話です。時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。

 イエスはその慈しみの心を持って、罪を水に流して忘れてしまうのではなく、一人責めを受け、命の尊厳を蹂躙されようとしている人を目の前にして、その尊厳を取り戻そうとされます。「あなたがたの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」。

 2016年の「慈しみの特別聖年」閉幕にあたって、教皇フランシスコは使徒的書簡「憐れみある方と哀れな女」を発表され、その中でこの物語を取り上げて、こう記しておられます。

 「(イエスの行いの)中心にあるのは、法律や法的正義ではなく、それぞれの人の心の中を読み取り、その奥に隠された願望を把握することのできる神の愛です。・・・赦しは、御父の愛のもっとも目に見えるしるしです。それをイエスは、その全生涯を懸けて表そうとしました。(同書簡1)」

 その上で教皇様は、「赦しの喜びは口で言い表し尽くすことはできませんが、赦しを体験するつど、私たちは周囲にそれを輝かします。その源には愛があり、それとともに神が私たちにまみえようとなさいます。私たちを取り囲む自己中心主義の壁を突き破りながら、今度は私たちを慈しみの道具となさいます」と記しておられます。

 罪を犯したと断罪のために連れてこられた女性に対するイエスの言葉と行いは、断罪による共同体の絆からの排除ではなく、御父との絆を回復するための回心への招きでした。御父に向かって、改めて歩むように、との招きです。過去に囚われることなく、新たにされて、キリストに身を委ね、前進を続けるように、との励ましです。

 教会の赦しの秘跡の緒言は、「ミサの奉献の中においてはキリストの受難が再現され、私たちのために渡されたからだと、罪の赦しのために流された血が、全世界の救いのために再び教会によってささげられる」と指摘し、聖体のうちに現存されるキリストを通じて、それにあずかる私たちは、聖霊によって「一つに結ばれる」と記しています。

 その上で、キリストご自身が弟子たちに罪をゆるす権能を授けたことを記し、「教会は水と涙、すなわち洗礼の水と回心の涙を持っている」ものとして、教会が、その存在を通じて、「神の愛しみに満ちあふれるもの」であろうとする事実を伝えます。

 具体的に慈しみを表す行動を呼びかける教皇様は、「ひとたび慈しみの本当の姿に触れるなら、後戻りすることはありません。・・・それは新しい心、精一杯、愛すること、より隠れた必要をも見分けるよう目を清めてくれる、本物の新たな創造です」と励ましておられます(同上書簡16)。主は慈しみで常に私たちを包み込み、過ちを徹底的に赦し、命の尊厳を回復してくださいます。私たちは慈しみの業に励み、世界に希望を生み出しましょう。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記に統一し、書き言葉として読みやすく、意味が分かりやすくしています)

2022年4月2日

・「連帯の絆に結ばれてこそ、人は命を十全に生きることができる」菊地大司教の四旬節第4主日の説教

2022年3月26日 (土)「週刊大司教第70回」より

Sanktp2013a-2 四旬節も第四主日となりました。

 復活節に洗礼を受けられる準備をされている皆さんには、あと三週間ほどの準備期間です。特に成人洗礼の皆さんには、洗礼と初聖体と堅信を一度に受けられることが通常ですので、そうなると、この受洗の機会のあとに、学びを深めたり、祈りを深めることから離れてしまうこともあり得ます。

 実際、毎年に洗礼を受けたすべての人が日曜日に教会に来ていたとしたら、教会はあっという間に、人であふれてしまうはずなのですが、実際にはそうなっていない。もちろん同じような課題は幼児洗礼の方々や、長年信徒である方々にも、何らかのきっかけで教会から足が遠のいてしまうことはあります。そういったことも含めて、私たちキリスト信者のすべてには、洗礼後の継続した信仰養成が、重要な意味をもっています。

 私たちは洗礼を受けた後も、生涯をかけてキリストについて学び続けたいと思いますし、神との祈りにおける対話を続け深めたいと思います。また「二人三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである(マタイ福音書18章20節)と約束された主に信頼し、教会共同体における交わりを深め続けたいと思います。(写真はエルミタージュ美術館のレンブラントの放蕩息子の帰還)

 教皇様のロシアとウクライナの聖母の汚れなきみこころへの奉献に合わせて、この3月25日または26日に祈りをささげてくださった皆様に感謝いたします。まだ状況は不確実です。聖母の取り次ぎによって神の平和が確立されますように、これからもお祈りをお願いいたします。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第70回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第70回 2022年3月27日】

 ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

 2016年の「慈しみの特別聖年」のあいだ、教皇フランシスコはしばしば父である神の憐れみ深さを語り、その慈しみの姿勢に倣うように、と勧められました。その年の5月11日の一般謁見で、この物語に触れこう語っています。

 「父親の慈しみは満ちあふれるほど豊かで無条件です。その優しさは、息子が話す前に示されています。・・・(弟が自らの過ちを認める)ことばは、父親の赦しの前に崩れ去ります。父親の抱擁と接吻により、彼は何があっても常に自分は息子だと思われていた、と悟ります」

 その上で教皇は、「父親の論理は慈しみの論理です。弟は自分の罪のために罰を受けて当然だと思っていました。兄は、自分の奉仕の報いを期待していました。二人は互いに話し合うこともなく、異なる生き方をしていましたが、両者ともイエスとは違う論理のもとに考えています」

 「傷を癒やし、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求める教皇フランシスコは、しばしば神の慈しみの深さとそれに倣うことを私たちに説いておられます。

 同時に教皇フランシスコは、特に現在の新型コロナの世界的大感染の状況になってからそれが顕著ですが、私たちが世界的規模で「連帯」することの必要性を強調されます。「放蕩息子」のたとえ話も、単に父親の限りない優しさを記しているだけではなく、その優しさが、実のところ「連帯」に基づいていることを明示しています。

 弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。弟は何に死んでいたのでしょうか。

 弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、父は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げています。

 すなわち、ここで家族として描かれている「共同体」の絆から離れていることは、命を生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人は命を十全に生きることができるのです。父親の優しさは、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心に基づいています。

 「連帯」の意味についてしばしば語られた教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「真の開発とは」にこう記しています。

 「(連帯とは)、至る所に存在する無数の人々の不幸、災いに対するあいまいな同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、・・・共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです(「真の開発とは」38)」

 四旬節にあたって、私たちは「愛の業」に生きるようにと招かれます。その一助として、カリタスジャパンなどを通じた援助事業に資するための献金をするように、と勧められます。そういった行動は、私たちがキリスト者として優しい人だからそうするのではありません。それは、あの父親に倣い、連帯を実現しようとする、一人ひとりの信仰における決断に基づく行動です。

 

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記にそろえました。平仮名だけが日本語の伝統を作ってきたわけではなく、漢字もそうです。漢字には、その言葉自体に深い意味が含まれている場合があり、「命」「慈しみ」「癒し」「私」などは特にそうです。平仮名は、それ自体には漢字のような意味を持ちません。伝達手段としての日本語を大切にする意味でも、活字で表す場合、漢字と適切に使うことが必要、と「カトリック・あい」では考えています)

2022年3月26日

・「私たち司教、司祭が人の命をないがしろにする罪を繰り返さないよう、決意を新たにする」菊地大司教の四旬節第三主日説教

2022年3月19日 (土)週刊大司教第六十九回:四旬節第三主日

  四旬節第三主日です。

 3月16日深夜に、東北地方を襲った地震の被害を受けられた方々に、お見舞い申しあげます。

 ちょうど本日19日が仙台教区のガクタン司教様の司教叙階式にあたり、昨日18日には東京から仙台へ移動しなくてはなりませんでした。結局、自分で運転して移動することにしました。東京から仙台への車での移動ですと、新潟へ向かう距離とそれほど変わりません。

 ガクタン司教様の叙階式については、別途掲載します。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第69回、四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第69回 2022年3月20日)       

 出エジプト記は、モーセの選びの物語を記します。神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗り、神の救いの計画を形作る時間の流れが、人間の常識をはるかに超えて連綿と続き、その一つ一つの時代の中での関わりが、すべからく結び合わされて一つの流れを形作っていることを明確にされます。

 神の救いの計画を形作る時の流れは、今も連綿と続いており、私たちの理解をはるかに超えたところで、神はご自分の計画を成し遂げて行かれます。

 パウロもこの雄大な時間の流れに触れ、神の救いの計画の中にあって、すべてが結び合わされていることを明確にし、今を生きている私たちも、その流れの中で結びあわされていることを示します。パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と記すことで、私たちが自力ではなく、実は神の計らいの中で生かされている存在であることを示唆します。

 ルカ福音は、神が、その怒りを私たちに向けないのは、忍耐強く待っておられるからであり、私たちはそのあわれみの中で生かされているものであり、何気なく毎日を過ごしてはいけない、ということを示唆するイエスの言葉を記します。私たちは、常なる回心へと招かれています。四旬節は、私たちを包み込む神の憐れみの中で、私たちが神によって生かされていることを悟り、回心へと導かれるときでもあります。

 四旬節の第二金曜日、先日3月18日が、日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でありました。多くの教会で、本日四旬節第三主日に、この意向でミサが捧げられます。

 命を賜物として与えてくださった神を信じる私たちには、命の尊厳を守る務めがあります。したがって教会の聖職者には、その務めを率先して果たすことが求められます。

 残念ながら模範であるはずの聖職者が、命の尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為に及んだ事例が、世界各地で多数報告されています。なかでも「保護を必要とする未成年者に対する性虐待」という卑劣な行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

 加えて司教をはじめとした教会の責任者が、聖職者のこうした加害行為を隠蔽した事例が、世界各地で報告されています。

 今、シノドスの道を共に歩んでいる教会は、互いに耳を傾け合い、支え合いながら、連帯の絆に結ばれた共同体であることを目指しているはずです。互いの絆の中で、同じ尊厳ある命を与えられたものとして、共に神によって生かされている共通理解を持とうとしているはずです。賜物である命とその尊厳を守ることが、教会の一人ひとりの務めであり、そして共同体の努めであることを認めようとしているはずです。

 日本の教会が、命の尊厳を守り抜くための努力を怠らない教会共同体となることを、私たち司教をはじめ聖職者が妨げている事例があることを、大変申し訳なく思っています。

 世界中の教会に多くの被害者がおられます。教会は、しばしば無関心や隠蔽も含め、被害を受けられた方々に大きな罪を犯してきました。申し訳ありません。私たち司教や聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、私たちを生かしてくださる神の慈しみによりすがり、愛のうちに祈り、行動したいと思います。

2022年3月19日

・「民主主義の命運が、我々の行動にかかっている」ー岸田首相が言論NPO「東京会議2022(ウクライナ侵攻をどう見、対応するか)」へメッセージ

 (2022.3..14 言論NPOニュース)

 言論NPO主催「東京会議2022」が14日、世界10か国の代表的シンクタンク代表が参加して「ロシアのウクライナ侵攻と不安定化する国際秩序の再生」をテーマに開かれ、岸田首相がビデオメッセージを寄せた。

 メッセージの全文は以下の通り。

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 言論NPO主催の御出席の皆様、第1回会議以来度々出席させて頂きました東京会議に、本日このような形で再び参加し、世界を代表するシンクタンクの皆様を前にお話する機会を頂きましたことに感謝します。

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*ロシアのウクライナ侵略で、国際秩序の根幹が脅かされている

 世界は、今、歴史的分岐点に立っています。国際社会が、長きにわたる懸命な努力と多くの犠牲の上に築き上げてきた国際秩序の根幹が、ロシアのウクライナ侵略により、脅かされています。この力による一方的な現状変更の試みは、欧州のみならず、アジアを含む国際社会の秩序を根底から揺るがす暴挙です。

 国際社会が、結束し、毅然と行動することにより、この危機を乗り越え、国際秩序の根幹を守り抜くことができるのか。これが今、問われています。

 本日のテーマである民主主義と多国間主義の命運も、我々が、ロシアによるウクライナ侵略にどう対応するか、これにかかっていると言っても過言ではありません。
自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値を共有する国々の集まりであるG7は、この危機に強く結束して毅然と対応しています。私も2月24日のG7首脳テレビ会議に出席し、G7外相会合もこの2週間で4回開催されました。G7は、緊密な連携の下で、国際社会を主導しています。

*国連総会で、圧倒的多数でロシア非難決議

国連総会では、ロシアのクリミア「併合」時をはるかに上回る141票の圧倒的多数によりロシア非難決議が採択されました。ロシアへの制裁も、ロシア中央銀行の資産凍結やSWIFTからのロシア銀行の排除など前例のない強いものとなっています。国際的な制裁への参加に慎重なスイスも、東南アジアからはシンガポールも制裁に参加しています。

 ロシアによるウクライナ侵略に対する強い危機感の下、各国のウクライナ支援も、これまでにほぼ類例を見ないほど強いものとなっています。
EUは、加盟国によるウクライナへの武器供与に対し、財政支援を行うという措置を取りました。EU域外国に対するこうした軍事支援は初めてのことです。ドイツも、ウクライナに地対空ミサイルや対戦車砲を供与することを決定しました。

*日本含むG7も国際社会と連携して経済制裁

 日本も、G7をはじめとする国際社会と緊密に連携し、ロシアに対する厳しい制裁措置をとっています。プーチン大統領を含むロシアの政府指導者、財閥オリガルヒに対する資産凍結等、ロシア中央銀行の資産凍結やSWIFTによるロシア銀行排除への参加、半導体などの輸出管理といった措置をとり、欧米諸国と足並みを揃えました。

 さらに、ウクライナへの支援についても、ウクライナ国内及び周辺国において困難に直面するウクライナの人々に対する1億ドルの緊急人道支援に加え、各国による前例のない支援も踏まえ、日本として、防弾チョッキ、ヘルメットなどの自衛隊の装備品を提供することとし、自衛隊機によりポーランドに輸送しました。ウクライナから第三国に避難された方々の、日本への受け入れも開始しました。

 ロシアによるウクライナ侵略は、このように既に国際社会の様相を大きく変貌させつつあります。ポスト冷戦期の次の時代が始まりつつあるのかもしれません。ロシアによるウクライナ侵略に国際社会が毅然と対応し、国際秩序の根幹を守り抜けるのかが、ポスト冷戦期の次の時代を占う試金石です。

*インド太平洋地域、東アジアでも国際連帯はいっそう必要に

 国際社会からの強い圧力、ウクライナへの各国の多大なる支援と連帯、そしてウクライナ側の勇敢で、懸命な防戦にもかかわらず、ロシアは、ウクライナ各地でじわじわと勢力を拡大しています。ロシア軍は住宅、学校、病院などを攻撃し、多数の民間人が犠牲になっています。G7をはじめとする国際社会は、この厳しい状況に結束して対応していかなければなりません。

 今回のような力による一方的な現状変更を、インド太平洋地域、とりわけ東アジアにおいても許してはなりません。この点は、今後の日本の外交・安全保障の観点からも極めて重要です。

 米中競争の最前線にある東アジアでは、中国による東シナ海・南シナ海における一方的な現状変更の試み、軍事バランスの差が拡大し続ける両岸関係、北朝鮮による度重なるミサイル発射など、安全保障環境は急速に厳しさを増しています。

*力による一方的現状変更を許さぬために必要な諸対策

 今回のような力による一方的な現状変更を東アジア地域で許さないためには、どうすればよいか。我が国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していること、そして、力を背景にこの地域の現状変更を企図する様々な動向を直視し、国民の生命と財産を守るためにはどうすれば良いのか。

 ロシアによるウクライナ侵略も踏まえながら、あくまで現実的に検討した上で、国家安全保障戦略等を改定し、日本自身の防衛力を抜本的に強化しなければなりません。

 また、日本の外交・安全保障の基軸であり、インド太平洋地域の平和と繁栄の礎でもある日米同盟の抑止力・対処力を一層強化する必要があります。

 そして、こうした深刻な危機の最中にある今こそ、我々は、「民主主義」をはじめとする普遍的価値、多国間主義という、先人たちが長年の努力により培ってきた人類の叡智を守り、強化していくべきです。本日は、時間の関係から詳しく申し上げませんが、私の進める「新しい資本主義」は、健全な民主主義の基盤となる中間層をどう守っていくかという問題に正面から向き合う取組であることは申し上げたいと思います。

*日米同盟基軸に、自由、民主主義、人権、法の支配を守る国際連帯を進める

 5年前、私が「東京会議」で講演をさせていただいた際にも、不透明な時代の中で、外交政策における羅針盤が必要であり、それは、自由、民主主義をはじめとした基本的な価値観であると申し上げました。国際秩序が根幹から崩されるかもしれない、その瀬戸際にある今、私はその確信をさらに強めています。

 日本は、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値をより一層重視し、こうした普遍的価値を共有するパートナーとの結束を強めてまいります。

 普遍的価値に基づく多国間主義を重視し、力による一方的な現状変更の試みに対抗する国際社会の取り組みを主導してまいります。

 特に、インド太平洋地域においては、米国をはじめ、豪州、インド、ASEAN、欧州などの同盟国・同志国・パートナーと連携を深め、今後数か月のうちに、私がここ東京で首脳会合を主催する日米豪印なども活用しながら、「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて戦略的に取り組んでまいります。

 今の我々の選択と行動が、今後の国際秩序の趨勢を決定づけます。そうした大きな時代の転換点を迎える中、我々は一致して、力による一方的な現状変更に毅然と対抗していかなければなりません。

 最後に、日本政府および日本国民を代表し、国難に直面する中でも、主権と領土、そして祖国と家族を守ろうと、懸命に行動するウクライナの国民の方々への強い連帯を改めて表明し、私の挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

2022年3月14日

・「それぞれの信仰の原点を見つめ直す機会に」菊地大司教の四旬節第二主日の説教

2022年3月12日 (土)週刊大司教第六十八回:四旬節第二主日

Michinoseibo22 四旬節は第二週に入ります。復活祭に向けて、洗礼の最終的な準備をされている方々のために、この四旬節の間は特に祈りましょう。また洗礼志願者の方々とともに、私たち自身も信仰の歩みを振り返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどう生きるのか、改めて見つめ直してみましょう。(写真は本所教会の「みちの光なる聖母」の像)

 この一週間は、年に二度ほど開催される定例のFABC(アジア司教協議会連盟)の中央委員会会議の週でした。FABC中央委員会は、アジア各地の司教協議会会長で構成されています。今回私は、日本の司教協議会会長として、またFABCの事務局長(SG)として参加しました。

 会議はボンベイ(ムンバイ)で開催の予定でしたが、このような世界の状況ですので実際に集まることは難しく、オンラインを併用したハイブリッド会議です。最初の二日間は、FABCの各部局の責任者も入れての会議で、特に、今年の秋10月に予定されているFABC50年を記念する総会の準備についてが主要議題でした。

 FABC50年は2020年でしたが、当然この状況で2年間延期され、今回の秋の総会もハイブリッドになる模様です。開催地はバンコクが予定されています。もっともオンライン会議に対する否定的な意見も多くあり、できる限りタイに集まることが勧められる模様ですが、広いアジアですから、それぞれの地域の状況も異なり、実際にこの秋にどうなっているのかは分かりません。

 ただ逆にそれは準備をするバンコク教区に、非常に大きな負担を強いることになります。あと半年ほどしかないのに、具体的にどうなるのかが分からないのですから、準備のしようがありません。

 いずれにしろ、FABC自体がアジアの各地の教会でよく知られているわけでもありませんし、創立から50年経って、日本の教会でも、FABCの活動がそれほど知られていないのも事実です。

 また、実際に関わっている司教たちには、アジアの教会のこれからの方針の策定という思いがありますが、アジアの教会全体で見れば、FABCが司教さんたちの内輪の団体と見なされている嫌いもあります。10月に予定されている総会が、これまでの歴史を振り返り、しっかりと評価を行い、今の時代に何ができるのか、見つめ直す機会になればと思います。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第68回、四旬節第二主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第68回 2022年3月13日】

 四旬節は、私たちが信仰の原点に立ち返るときです。その原点は、一体どこにあるのでしょうか。

 創世記は、まだアブラムと呼ばれていたアブラハムを神が選び、契約を結ばれた出来事を記しています。暗闇の中で天を仰ぎ、「星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と告げられたアブラハムの驚きを想像します。

 現代の東京の夜空であれば、もしかしたらすべての星を数えてしまえるのかも知れませんから、それでは何とも情けない話ですが、創世記の時代の夜空ですから、まさしく満天の星であったことだろうと思います。逆に言えば、そのこと自体が、「人間が築き上げた繁栄が、結局は、神の存在を見えないものとしてしまっていること」を象徴しているのかも知れません。アブラハムの信仰の原点は、暗闇に満天の星を眺め、未来に向けた想像を超えた約束を与えられ神と契約を結んだ、その時の驚きであったと思います。

 パウロはフィリピの教会への手紙で、「キリストの十字架にこそ、私たちの信仰の原点があること」を強調し、信仰における旅路は、私たちを、この世での繁栄ではなく、”本国”である「天の国」へと導いていることを指摘します。

 ルカ福音は、イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブの眼前で栄光を示された御変容の出来事を記します。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を三つ建てることを提案した、と福音は伝えます。

 ペトロはその栄光の中にとどまりたかったのでしょうが、イエスは困難に向けて前進を続けます。福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。律法と預言書、すなわち旧約聖書は、神とイスラエルの民との契約であり、信仰と生活の規範でありました。そこに神の声が響いて、「これは私の愛する子。これに聞け」と告げたと記されています。イエスこそが旧約を凌駕する新しい契約であること、すなわちイエスに従う者にとっての信仰の原点であることを、神ご自身が明確にされました。

 私たちの信仰の原点は「イエスの言葉と行い」にあります。教皇ベネディクト16世は、それについて、「信仰とは、何よりもまず、イエスとの深く個人的な出会いです。そして、イエスの近さ、友愛、愛を体験することです(2009年10月21日の一般謁見)」と述べています。

 四旬節は、信仰の原点、すなわち「イエスとの個人的出会い」に立ち返るために、御父の慈しみに生きるように、と勧めます。慈しみの具体的な行動の中で、私たちは人と交わり、そこに慈しみそのものである主がおられるからに他なりません。私たちは自らの憐れみ深い行動を通じて、また他者からの憐れみの業によって、そこにおられる主と出会います。私たちの信仰の原点の一つは、「慈しみの業」「愛の業」であります。

 3月11日で、東日本大震災から11年となりました。教会は、災害の前から地元に根付いて共に生きてきた存在として、これからも東北の地元の方々と共に歩み続ける存在です。

 教会の東北におけるこの11年間の歩みは、どこからかやって来て、去って行く一時的な救援活動に留まらず、東北のそれぞれの地で、地域共同体の皆さんと将来にわたって歩みを共にする中で、命の希望の光を生み出すことを目指して来ました。そこに主イエスがおられます。連帯と支え合いの交わりの中に、主イエスがおられます。具体的な人と人との交わりの中で、私たちは主と個人的に出会います。それぞれの信仰の原点を、見つめ直しましょう。

2022年3月12日

・「信仰の原点に立ち返り、良い種を蒔く機会に」菊地大司教の四旬節第一主日のメッセージ

2022年3月 5日 (土)週刊大司教第67回:四旬節第1主日

2022_03_05_02 四旬節第1主日です。

 四旬節について全体像を一つにまとめて解説している記事が、中央協議会のホームページにあります。こちらのリンクです。良くまとめられているので、是非ご参照ください。

特にその記事の冒頭の典礼憲章の引用で、四旬節の持つ二重の性格が次のように強調されています。

 「四旬節の二重の性格が、典礼においても典礼に関する信仰教育においても、いっそう明らかにされなければならない。すなわち、とくに洗礼の記念または準備を通して、そして悔い改めを通して、信者は神の言葉をいっそう熱心に聞き、祈りに励んで、過越の神秘を祝うために備えるのである」

 人数に違いはあれど、多くの小教区で、復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方がおられることと思います。四旬節は、私たち自身の信仰を見つめ直す回心の時であると同時に、新しく信仰の道を歩もうとして準備の最終段階に入った人たちと共に歩んでいく時でもあります。洗礼志願者の方々のために祈りましょう。四旬節第一主日には洗礼志願式が行われる教会もあることと思います。

 ウクライナの状況は変わりません。世界中で平和のための祈りが捧げ続けられています。世界の進む方向を大きく変えてしまう可能性すらある大国の行動です。灰の水曜日だけでなく、ウクライナの平和のために、また政治の指導者が聖霊の導きによって、共通善の実現のためのふさわしい道を見い出すことができるように、祈り続けたいと思います。

 以下、5日午後6時配信の週刊大司教第67回、四旬節第1主日のメッセージ原稿です。

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【四旬節第1主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第67回 2022年3月6日】

 3月2日の灰の水曜日から、四旬節が始まりました。今日は四旬節第一主日です。

 四旬節は、私たちの信仰を見つめ直し、その原点に立ち返るときです。また御父の慈しみを自らのものとし、それを多くの人に具体的に示す、証しの時でもあります。

 教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すように、私たちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも、呼びかけます。この献金は、犠牲として捧げる心をもって行う具体的な愛の業に他なりません。

 またその犠牲を通じて私たちは、助けを必要としている多くの人たちに思いをはせ、「傍観者」ではなく、「共に歩む者」になることを心掛けます。互いに支え合う連帯の絆のうちに、命を生きる希望を回復する道を歩みましょう。

 申命記は、イスラエルの民に原点に立ち返ることを説いています。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神の慈しみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。

 パウロはローマの教会への手紙に、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と記しています。申命記は、共同体の記憶に基づいたイスラエルの民に限定的な救いを記しますが、パウロはここで、神の救いがすべての人に向けられていることを明確にします。

 パウロは、復活された主イエスとの具体的な体験こそが、新約の民の共同体における共通の記憶であることを記します。私たちが立ち返る信仰の原点は、ここにあります。

 ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、命を生きるには極限の状態である荒れ野で悪魔のさまざまな誘惑を受けます。それは空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することでありました。

 すべてはこの世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。信仰共同体に生きている私たち一人ひとりは、立ち返るべき信仰の原点を共有しているでしょうか。

 四旬節の初めにあたり、教皇様はメッセージを発表されています。今年のメッセージのテーマは、ガラテヤの信徒への手紙6章のパウロの言葉で「たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して… 善を行いましょう」とされています。(9 ー 10a節)

 その中で教皇様は、四旬節こそ、将来の豊かな刈り入れのために種を蒔く時である、として、「四旬節は私たちを回心へと、考え方を改めることへと招きます。それによって人生は、本来の真理と美しさを得るでしょう。所有するのではなく与えることが、蓄えるのではなくよい種を蒔いて分かち合うことが、できるようになるのです」と呼びかけます。

 その上で教皇様は、「他の人のためによい種を蒔くことは、個人の利益だけを考える狭量な論理から私たちを解放し、行動に無償性ゆえの悠然とした大らかさを与えてくれます。そうして私たちは、神の慈しみ深い計画の、すばらしい展望に加わるのです」と記されています。私たちもこの四旬節に信仰の原点に立ち返り、良い種を蒔く者となり、神の慈しみの計画に与る者となるよう、努めたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一、聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用しました)

2022年3月5日

・菊地大司教・灰の水曜日・ウクライナの平和のために祈る

2022年3月 2日 (水)2022年灰の水曜日・ウクライナの平和のために祈る

Aw22e 灰の水曜日の午前10時のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。教皇様の意向に従って、この日はウクライナの現状を心に留め、平和のために祈る日でもあります。

 このミサには日本にただ一人というウクライナ正教会のポール・コロルク司祭が、数名のウクライナ関係者とともに臨席してくださいました。正教会ですので一緒に共同司式はできないので、ミサ終了後、聖櫃の置かれたマリア祭壇に場所を移して、一緒に平和のための祈りをささげました。ビデオでは、一旦ミサが終了してから、1:18:30あたりから、平和のための祈りが始まります。

 ミサに参加された多くの方が残ってくださり、一緒に祈りをささげてくださいました。感謝。

Aw22f

以下、本日のミサの説教の原稿です。

灰の水曜日 2022年3月2日 東京カテドラル聖マリア大聖堂

灰の水曜日から四旬節が始まります。今年もまた、感染症の状況の中で、安心して集まることができないままで、この季節を迎えました。いのちの危機の不安を感じながら四旬節を迎えるのは、これでもう3回目となります。

加えて今年は、戦争の危機のただ中での灰の水曜日となりました。ウクライナを巡るロシアの武力侵攻は、大国の暴力的行動として世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを踏みにじる形で事態が展開しています。政治の指導者にあっては、国家の独立を脅かすだけでなく、共通善の実現を踏みにじるような無謀な行動を即座に止め、いのちを守り、希望を回復するために、対話のうちに平和へと向かう道を選択されることを切に願います。

1939年8月、第二次世界大戦の前夜、ナチスドイツによるポーランド侵攻の直前、教皇ピオ12世がラジオメッセージで述べられた言葉が、当時の状況を彷彿させるいま、心に突き刺さります。

「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」(教皇ピオ12世1939年8月24日のラジオメッセージ)

ヨハネ23世はこのピオ12世の言葉を引用しながら、回勅「地上の平和」にこう記しています。
「武力に頼るのではなく、理性の光によって--換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(ヨハネ23世「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきである。

国家間の紛争の解決を、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪うであろう武力に委ねることはできないと、教会はあらためて主張します。教皇様の呼びかけに応えて、本日の灰の水曜日、わたしたちはウクライナの平和のために祈りをささげます。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、広島から世界に向かって平和を力強く呼びかけられた教皇ヨハネパウロ二世は、2000年1月1日の世界平和の日のメッセージにこう記されました。

「平和は可能です、と断言します。平和は神からのたまものですが、同時に、神の助けを受けて正義と愛のために働くことによって日々築いていくべきものでもあります」

国家の間にはさまざまな課題があり、その解決は、実際に政治に関わらないわたしたちが思うほど単純なものではないことでしょう。一朝一夕に世界の平和が実現することは不可能だとしても、わたしたちは誠実に、日々、「正義と愛のために働くことのよって」、平和の実現を目指して歩んでいきたいと思います。

戦争のただ中にいる多くの人たち、特に幼い子どもたちを、いままさしく恐怖が襲っていることを悲しみとともに思いながら、その心に連帯して、平和のために祈りを捧げ続けたいと思います。

Aw22c

四旬節は、わたしたちの信仰を見つめ直し、その原点に立ち返るときです。

小さな目に見えないウイルスによって、先行きの見えない不安の暗闇に閉じ込められてしまったわたしたちは、人間の存在のはかなさを思い知らされています。人類の知恵と知識をもってしても、まだまだ分からないこと、コントロールできないことがわたしたちの眼前に立ちはだかっていることを思い知らされています。

まさしく、灰の水曜日に頭に灰を受け、「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」と言葉をかけられるときに、いのちを創造された神の前で、わたしたちは徹底的にへりくだって、謙遜に生きるしか道がないことを、神の御手に身を委ねる以外に道がないことを、認めざるを得ない心持ちになります。

神に身を委ね、その導きに心から従い、同じいのちを与えられたものとして互いに支え合い、連帯のうちに歩みをともにする決意を新たにしたいと思います。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べ、さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前で自分は誠実な僕であるのかどうかを振り返るときでもあります。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているでしょうか。

振り返るときに、心にとめておかなくてはならないことがあります。それは本日の第1朗読ヨエル書に記されている、「衣を裂くのではなく、おまえたちの心を引き裂け」という神の言葉であります。

わたしたちは、人間ですから、それぞれが心の中に承認欲求のような感情を抱えています。誰かに認められたい。ふさわしく評価されたい。自らの望みを実現したいという、自己実現への欲求もあります。当たり前のことです。

信仰者として生きていくときに、わたしたちは本来、「キリストの使者としての務め」に重心を置いていかなければならないはずなのですが、どうしてもわたしたちの弱さが、承認欲求や自己実現へとその重心を引きずり込もうといたします。その生き方をイエスは、「偽善者たち」と指摘します。偽善者とは、すなわち自分の欲求に重心を置いて生きている人、自分中心に世界を回そうとする人であります。

いのちの危機に直面する中で、先行きが見通せない不安はわたしたちを、自分のいのちを護ろうとばかり専心する利己的な存在にしています。利己的な心は、他者への思いやりの心を奪い、人間関係から、そして社会全体から、寛容さが消え失せます。

教皇様はしばしば、このパンデミックの状況から抜け出すために、いのちを生きる希望が必要であり、その希望は世界的な連帯からのみ生まれると指摘されます。しかし社会の不寛容さは、異質な存在を排除する力を生み出し、連帯を崩壊させ、いのちをさらに危機にさらしています。

わたしたちは「キリストの使者」として果たすべき、社会の現実にあって神のいつくしみを言葉と行いであかしし、その光を輝かせるという大切な働きを忘れ去り、周りの人々の心にまなざしを向けることなく、欲望の赴くままに道を踏み外してしまいます。

Aw22h

ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。

「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返し、道を踏み外し、自分中心に生きようとするわたしたちに、預言者は、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

私たち信仰者は、この四旬節にその生き方をあらためて見直し、踏み外した道から、愛と希望の道へと立ち返る努力をしなければなりません。互いに支え合う連帯の道を見いださなくてはなりません。いのちを守る道を見いださなくてはなりません。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。キリストの使者として生きる覚悟を、平和のために地道に働き続ける者である決意を、この四旬節に新たにいたしましょう。

2022年3月4日

・コロナ、ウクライナ…連帯の絆のうちに命を生きる希望を回復する道を歩もう」菊地大司教が四旬節メッセージ

(2022.3.2 カトリック・あい)

 菊地・東京大司教が2日、「四旬節の始りにあたって」と題するメッセージを発表した。全文以下の通り

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 四旬節の始まりにあたって

 カトリック東京大司教区の皆様

 灰の水曜日から四旬節が始まります。今年もまた、感染症の状況の中で、安心して集まることができないままで、この季節を迎えました。これからどうなるのか、確実なことは分かりません。この困難な状況が終わりを迎えるように、命の与え主である神に祈り続けたいと思います。

 また今年の四旬節は、大国による他国への武力行使という戦争の危機の中で始まりました。

 ウクライナとロシアの国境を挟んで高まっていた緊張は、国際社会の度重なる平和と対話の呼びかけにもかかわらず、ロシアによる軍事侵攻の開始決定という残念な道をたどっています。あらためて教会は、「武力に頼るのではなく、理性の光によって-換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(ヨハネ23世「地上の平和」62項)」、国家間の諸課題は解決されるべきであり、その解決を、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪う武力に委ねることはできないと主張します。

 教皇様は、四旬節の始まりである灰の水曜日に、「ウクライナの状況を念頭に置きながら、平和のために断食と祈りをささげるように」と呼びかけておられます。神の秩序が確立された平和な世界が実現するように、政治の指導者たちが聖霊によって照らしを受け導かれ、対話を通じて解決の道を模索することを、ともに祈りたいと思います。また武力紛争という恐怖の中で命の危機に直面する多くの方々、特に子どもたちに、神の護りの手が差し伸べられるように祈りましょう。

 四旬節は、私たちの信仰を見つめ直し、その原点に立ち返る時です。福音に根ざした生き方とは、御父の慈しみを自らのものとし、それを多くの人に具体的に示す、証しに生きることでもあり、四旬節はその証しの時でもあります。

 教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すように、私たちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも呼びかけます。この献金は、犠牲として捧げる心をもって行う具体的な愛の業に他なりません。またその犠牲を通じてわたしたちは、助けを必要としている多くの人たちに思いを馳せ、傍観者ではなくともに歩む者になることを心掛けます。互いに支え合う連帯の絆のうちに、命を生きる希望を回復する道を歩みましょう。

 小さな目に見えないウイルスの脅威は、人類の知恵と知識をもってしても、まだまだ分からないこと、コントロールできないことが、私たちの眼前に立ちはだかっていることを思い知らせました。まさしく、灰の水曜日に灰を受け、「あなたは塵であり、塵に帰っていくのです」と言葉をかけられる時に、命を創造された神の前で、私たちは徹底的にへりくだって、謙遜に生きるしか道がないことを、認めざるを得ません。神の憐れみに身を委ね、その導きに心から従い、同じ命を与えられた者として互いに支え合い、連帯のうちに歩みをともにする決意を、新たにしたいと思います。

            2022年3月2日 カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

(編集「カトリック・あい」)

2022年3月2日