・「主イエスの苦しみに心を合わせ、神の秩序の実現へ具体的に行動する人生を」聖金曜日・主の受難の菊地大司教メッセージ

2022年4月16日 (土)2022年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

2022gf06 聖金曜日の主の受難の典礼です。

 今年もまた、感染対策のため、通常通りの典礼ができていません。残念です。特に十字架の崇敬を、本来はお一人お一人にしていただきたいのですが、全員で一緒に崇敬という形にさせていただきました。来年こそは、元に戻すことができるのを願っています。また盛式共同祈願では、教区司教の定めとして、ウクライナの平和とミャンマーの平和のため、また感染症の終息のため、教区典礼委員会が準備した祈願文二つを使いました。

2022gf05

以下、聖金曜日主の受難の典礼の説教原稿です。

【聖金曜日・主の受難 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月15日】

 この日、私たちは、愛する弟子たちによって裏切られ、人々からはあざけりを受け、独り見捨てられ孤独のうちに、さらには十字架上での死に至るまでの受難という、心と身体の痛みと苦しみに耐え抜かれた主イエスの苦しみに心を馳せ、祈ります。

 今日の典礼は、十字架の傍らに聖母が佇まれ、その苦しみに心を合わせおられたことを、私たちに思い起こさせます。人類の罪を背負い、その贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母は、キリストと一致した生き方を通じて、教会に霊的生活の模範を示されています。

 教皇パウロ六世は、「(聖母の)礼拝が人の生活を神に対する奉献とさせる点」において、また「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉に生きたことによって、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるように、との教訓であり、模範である」と指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

 人生において私たちは、様々な困難に直面します。人間の知恵と知識を持って乗り越えることのできる困難もあれば、時には大災害のように、人間の力ではどうしようもない苦しみも存在します。この数年間、私たちは日本において、例えば東北の大震災のような大きな自然災害によって、人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。そして2020年、新型コロナウィルスによって、あらためて人間の知恵と知識の限界を思い知らされました。

 そして今度は戦争の危機に直面することになりました。今年の四旬節は、ロシアによるウクライナへの武力侵攻とともにある四旬節でした。核戦争の可能性さえ感じさせるこの事態は、しかし、自然災害ではありません。まさしく教皇ヨハネパウロ二世が1981年に広島から世界に呼びかけたように、「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」。

 第二次世界大戦という悲劇を経験した人類は、それを繰り返さないために、戦後、さまざまな国際的規約を定め、国際機関を設立し、平和を確立しようとしました。東西対立が深まり核戦争の危機が現実となった時代に、教皇ヨハネ23世は「地上の平和」を著され、「武力に頼るのではなく、理性の光によって、換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(62)」、国家間の諸課題を解決せよと呼びかけました。その上で、「その解決を、命を危機に直面させ、さらには人間の尊厳を奪う、武力行使に委ねることはできない」と主張されました。

  今回のウクライナでの事態にあたり、教会は教皇フランシスコの度重なる祈りの呼びかけに応え、平和のための祈りをささげてきました。しかしながら平和は自然現象ではありません。戦争が人間のしわざであるように、平和も人間の業によって生み出されなくてはなりません。

 平和は、教皇ヨハネ23世によれば、「単に戦争のない状態ではなくて、神の秩序が完成している状態」です。平和は神から恵みとしてもたらされるものではなくて、私たちがそのために力を尽くして確立するものであり、神は共通善に向けた私たちの行動を、聖霊を持って祝福し導いてくださいます。神の導きに応えて行動するのは、私たちです。

 「地上の平和」にこう記されています。
「一人ひとりの中に平和がなければ、換言すれば、一人ひとりが自分自身の中に神が望む秩序を植え付けなければ、人々の間に平和は成立しえません。(88)」

2022gf08

   教皇フランシスコは、3月25日、「全人類と、特にロシアとウクライナを、聖母の汚れなき御心に奉献する」ことを宣言され、全世界の教会に、教皇様と一致して祈りをささげるようにと招かれました。その原点は、ファティマで出現された聖母が、ルチアに伝えた第一、第二の秘密に記されています

 聖母への奉献という行為は、聖母を通じてイエスに奉献するという行為です。教皇ヨハネパウロ二世は、1982年5月13日、ファティマでのミサにおいて、こう述べておられます。

 「マリアに私たちを奉献するという意味は、私たちと全人類を聖なる方、つまり完全に聖なる方にささげるために、聖母の助けを求めるということです。それは、十字架のもとですべての人類への愛、全世界への愛に開かれたマリアの母なる御心に助けを求め、世界を、人類一人ひとりを、人類全体を、そしてすべての国を完全に聖なる方にささげるためです」

 私たちは完全に聖なる方に、私たちを「委ね」て、それで終わりとするのではなく、委ねることで完全に聖なる方が、私たちを聖なるものとしてくださるようにと、行動を決意をするのです。

 つまり、ただ恵みを受けるだけの受動態ではなくて、私たちが能動的に聖なるものとなるために行動することが不可欠です。ですから、「奉献の祈りをしたから、あとは自動的に聖母が平和を与えてくださるのを待つ」のではなく、奉献の祈りをしたからこそ、完全に聖なる方に一致するための行動を起こすことが必要です。平和を求めて、全人類を聖母の汚れなき御心に奉献した私たちの、具体的な行動が問われています。

 命の与え主である神が人間を愛しているその愛のために、イエスは苦しみ抜かれ、ご自分を贖いの生け贄として十字架上で御父にささげられました。聖母マリアは、イエスとともに歩む時の終わりである、イエスの十字架上の苦しみに寄り添いました。聖母の人生は、完全に聖なる方にその身を委ねる人生でした。その身を委ねて、それに具体的に生きる前向きな人生でした。

 苦しみの中で命の危機に直面していた主は、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。まさしくこの時から、教会は聖母マリアとともに主の十字架の傍らに立ち続けているのです。

 その全生涯を通じて、イエスの耐え忍ばれた苦しみに寄り添い、イエスとともにその苦しみを耐え忍ばれたことによって、「完全な者」として神に認められた聖母マリアの生涯を象徴するのは、十字架の傍らに立ち続ける姿です。

 十字架上のイエスは私たちの救いの源であり、傍らに立ち続ける聖母マリアはその希望のしるしです。私たちも、同じように、「完全な者」となることを求めて、聖母マリアとともに十字架の傍らに立ち続けたいと思います。聖母マリアに倣い、主イエスの苦しみに心をあわせ、神の秩序の実現のために、具体的に行動する人生を生きたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2022年4月16日