・「慈しみの業に励み、世界に希望を生み出そう」菊地大司教の四旬節第五主日のメッセージ

(2022年4月 2日 (土) 週刊大司教第71回:四旬節第5主日)

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 四旬節も終わりに近づいています。復活祭に向けて、良い準備はできているでしょうか。特に洗礼の準備をしておられる方々に心を向け、洗礼のその日まで力強く歩みを続けることができるように、聖霊の導きを祈りましょう。

   ウクライナにおけるロシアの武力侵攻は、両国の和平交渉に多少の希望が持てるようですが、先行きは不透明です。平和のために祈り続けたいと思います。

   先週3月25日の夕方6時半頃(ローマ時間)、教皇様は、全人類を、そして特にウクライナとロシアを、聖母の汚れなきみ心に奉献されました。日本では同じ時間は26日早朝深夜2時半頃でしたので、皆さんに集まっていただく典礼はできなかったものの、私自身は同じ時間にインターネットの中継に与りながら、教皇様と祈りをささげました。

  さらに東京教区全体がこの奉献に加わることを象徴できるように、この日(26日)に開催された教区宣教司牧評議会で、冒頭に評議員の皆さんと祈りをささげました。

   ご存じのように教区宣教司牧評議会は、東京教区のすべての宣教協力体から信徒の方が参加され、加えて司祭評議会の代表と、修道者の代表が参加している会議体であり、司祭評議会と並んで、教区全体を代表する重要な場です。その総会で祈りをささげることで、教区全体の参加を象徴できたのではないかと思います。

    個人的に祈りをささげて、教皇様の奉献に加わってくださった方々に感謝します。またすでに教皇様ご自身の奉献は終わりましたが、その後いつであっても、教皇様に心を一致させて祈ることは良いことです。祈りはここにリンクがありますから、全人類を、そして特にロシアとウクライナを聖母の汚れなき御心に委ね、今日にでも、また明日以降にでも、ひとりでも多くの人に祈りをささげ、参加していただければと思います。ウクライナにおける平和の実現を聖母の取り次ぎを通じて祈ることで、さらに世界の各地で起きている様々な対立が解消され、世界的な平和の実現へとつながるよう祈り続けましょう。またこの祈りだけでなく、ロザリオの祈りをささげることも、良いことです。聖母の取り次ぎの力に信頼し、祈りましょう。

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 以下、2日午後6時配信の、週刊大司教第71回のメッセージ原稿です。

( 四旬節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第71回 2022年4月3日) 

 イザヤの預言は、出エジプトの出来事を追憶しながら、「見よ、新しいことを私は行う」という主の言葉を記し、過去の常識に捕らわれずに神の新しい働きに身を委ねよ、と呼びかけます。

 パウロもフィリピの教会への手紙で、「キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と記して、過去に捕らわれることなく、キリストに身を委ねて前進を続けるようにと励ましを与えています。

 ヨハネ福音は、これもよく知られた「姦通の現場で捉えられた女」の話です。時代と文化の制約があるとはいえ、共犯者であるはずの男性は罪を追及されることがなく、女性だけが人々の前に連れ出され断罪されようとしています。

 イエスはその慈しみの心を持って、罪を水に流して忘れてしまうのではなく、一人責めを受け、命の尊厳を蹂躙されようとしている人を目の前にして、その尊厳を取り戻そうとされます。「あなたがたの中で罪を犯したことのないものが、まず、この女に石を投げなさい」。

 2016年の「慈しみの特別聖年」閉幕にあたって、教皇フランシスコは使徒的書簡「憐れみある方と哀れな女」を発表され、その中でこの物語を取り上げて、こう記しておられます。

 「(イエスの行いの)中心にあるのは、法律や法的正義ではなく、それぞれの人の心の中を読み取り、その奥に隠された願望を把握することのできる神の愛です。・・・赦しは、御父の愛のもっとも目に見えるしるしです。それをイエスは、その全生涯を懸けて表そうとしました。(同書簡1)」

 その上で教皇様は、「赦しの喜びは口で言い表し尽くすことはできませんが、赦しを体験するつど、私たちは周囲にそれを輝かします。その源には愛があり、それとともに神が私たちにまみえようとなさいます。私たちを取り囲む自己中心主義の壁を突き破りながら、今度は私たちを慈しみの道具となさいます」と記しておられます。

 罪を犯したと断罪のために連れてこられた女性に対するイエスの言葉と行いは、断罪による共同体の絆からの排除ではなく、御父との絆を回復するための回心への招きでした。御父に向かって、改めて歩むように、との招きです。過去に囚われることなく、新たにされて、キリストに身を委ね、前進を続けるように、との励ましです。

 教会の赦しの秘跡の緒言は、「ミサの奉献の中においてはキリストの受難が再現され、私たちのために渡されたからだと、罪の赦しのために流された血が、全世界の救いのために再び教会によってささげられる」と指摘し、聖体のうちに現存されるキリストを通じて、それにあずかる私たちは、聖霊によって「一つに結ばれる」と記しています。

 その上で、キリストご自身が弟子たちに罪をゆるす権能を授けたことを記し、「教会は水と涙、すなわち洗礼の水と回心の涙を持っている」ものとして、教会が、その存在を通じて、「神の愛しみに満ちあふれるもの」であろうとする事実を伝えます。

 具体的に慈しみを表す行動を呼びかける教皇様は、「ひとたび慈しみの本当の姿に触れるなら、後戻りすることはありません。・・・それは新しい心、精一杯、愛すること、より隠れた必要をも見分けるよう目を清めてくれる、本物の新たな創造です」と励ましておられます(同上書簡16)。主は慈しみで常に私たちを包み込み、過ちを徹底的に赦し、命の尊厳を回復してくださいます。私たちは慈しみの業に励み、世界に希望を生み出しましょう。

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記に統一し、書き言葉として読みやすく、意味が分かりやすくしています)

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2022年4月2日