・「連帯の絆に結ばれてこそ、人は命を十全に生きることができる」菊地大司教の四旬節第4主日の説教

2022年3月26日 (土)「週刊大司教第70回」より

Sanktp2013a-2 四旬節も第四主日となりました。

 復活節に洗礼を受けられる準備をされている皆さんには、あと三週間ほどの準備期間です。特に成人洗礼の皆さんには、洗礼と初聖体と堅信を一度に受けられることが通常ですので、そうなると、この受洗の機会のあとに、学びを深めたり、祈りを深めることから離れてしまうこともあり得ます。

 実際、毎年に洗礼を受けたすべての人が日曜日に教会に来ていたとしたら、教会はあっという間に、人であふれてしまうはずなのですが、実際にはそうなっていない。もちろん同じような課題は幼児洗礼の方々や、長年信徒である方々にも、何らかのきっかけで教会から足が遠のいてしまうことはあります。そういったことも含めて、私たちキリスト信者のすべてには、洗礼後の継続した信仰養成が、重要な意味をもっています。

 私たちは洗礼を受けた後も、生涯をかけてキリストについて学び続けたいと思いますし、神との祈りにおける対話を続け深めたいと思います。また「二人三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである(マタイ福音書18章20節)と約束された主に信頼し、教会共同体における交わりを深め続けたいと思います。(写真はエルミタージュ美術館のレンブラントの放蕩息子の帰還)

 教皇様のロシアとウクライナの聖母の汚れなきみこころへの奉献に合わせて、この3月25日または26日に祈りをささげてくださった皆様に感謝いたします。まだ状況は不確実です。聖母の取り次ぎによって神の平和が確立されますように、これからもお祈りをお願いいたします。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第70回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。

【四旬節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第70回 2022年3月27日】

 ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

 2016年の「慈しみの特別聖年」のあいだ、教皇フランシスコはしばしば父である神の憐れみ深さを語り、その慈しみの姿勢に倣うように、と勧められました。その年の5月11日の一般謁見で、この物語に触れこう語っています。

 「父親の慈しみは満ちあふれるほど豊かで無条件です。その優しさは、息子が話す前に示されています。・・・(弟が自らの過ちを認める)ことばは、父親の赦しの前に崩れ去ります。父親の抱擁と接吻により、彼は何があっても常に自分は息子だと思われていた、と悟ります」

 その上で教皇は、「父親の論理は慈しみの論理です。弟は自分の罪のために罰を受けて当然だと思っていました。兄は、自分の奉仕の報いを期待していました。二人は互いに話し合うこともなく、異なる生き方をしていましたが、両者ともイエスとは違う論理のもとに考えています」

 「傷を癒やし、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求める教皇フランシスコは、しばしば神の慈しみの深さとそれに倣うことを私たちに説いておられます。

 同時に教皇フランシスコは、特に現在の新型コロナの世界的大感染の状況になってからそれが顕著ですが、私たちが世界的規模で「連帯」することの必要性を強調されます。「放蕩息子」のたとえ話も、単に父親の限りない優しさを記しているだけではなく、その優しさが、実のところ「連帯」に基づいていることを明示しています。

 弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。弟は何に死んでいたのでしょうか。

 弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、父は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げています。

 すなわち、ここで家族として描かれている「共同体」の絆から離れていることは、命を生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人は命を十全に生きることができるのです。父親の優しさは、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心に基づいています。

 「連帯」の意味についてしばしば語られた教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「真の開発とは」にこう記しています。

 「(連帯とは)、至る所に存在する無数の人々の不幸、災いに対するあいまいな同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、・・・共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです(「真の開発とは」38)」

 四旬節にあたって、私たちは「愛の業」に生きるようにと招かれます。その一助として、カリタスジャパンなどを通じた援助事業に資するための献金をするように、と勧められます。そういった行動は、私たちがキリスト者として優しい人だからそうするのではありません。それは、あの父親に倣い、連帯を実現しようとする、一人ひとりの信仰における決断に基づく行動です。

 

(編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記にそろえました。平仮名だけが日本語の伝統を作ってきたわけではなく、漢字もそうです。漢字には、その言葉自体に深い意味が含まれている場合があり、「命」「慈しみ」「癒し」「私」などは特にそうです。平仮名は、それ自体には漢字のような意味を持ちません。伝達手段としての日本語を大切にする意味でも、活字で表す場合、漢字と適切に使うことが必要、と「カトリック・あい」では考えています)

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2022年3月26日