・「私たちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みつつ前進を続ける、挑戦に満ちあふれた旅路」菊地大司教の復活徹夜祭

2022年復活徹夜祭@東京カテドラル

2022evg05 主の復活おめでとうございます。

 聖土曜日はいわゆる固有の典礼のない日です。静かに主の墓の前に佇みその受難と死を黙想する日です。 そしてその日の夕刻、日が沈んで、聖書的には翌日が始まる土曜日の夜、主の復活の徹夜祭が行われます。

 その中心にあるのは、復活された主イエスが、暗闇に輝く希望の光であることを明確に示す光の祭儀、そして出エジプトの物語を中心とした旧約聖書の朗読を通じた救いの歴史の黙想、そして感謝の祭儀です。通常この復活徹夜祭が新しい命のよみがえりを祝うのですから、古い自分に死んでキリストのうちに新しい後を生きる洗礼が行われます。

2022evg09 東京カテドラル聖マリア大聖堂では、この晩、12名の方が洗礼を受け、3名の方が転会し、さらに10名が加わって堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

 以下、復活徹夜祭の説教原稿です。なお、洗礼式で個人名が読み上げられることもあり、ビデオは添付いたしません

【復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月16日】

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

 私たちの人生は旅路であり、それは時の流れのうちにある旅路です。時は立ち止まることなく常に前進を続けていきますから、私たちの人生の旅路も、立ち止まることはありません。

 この二年間、私たちは様々な危機に直面し、あたかも暗中模索を続けているようです。どこへどう進んでいったら良いか分からず、立ち止まってしまったとしても、時の流れはとどまることを知りませんから、私たちの人生はそれでも前進を続けています。

 私たちの信仰の旅路も、とどまることなく前進を続けています。週の初めの日の明け方早く、墓へ出かけていった婦人たちの心は、主であるイエスが十字架の上で無残に殺害されたその時で、止まってしまったのかも知れません。ですから、肝心のイエスの遺体が見つからないときに、婦人たちはどうするべきなのか分からず、「途方に暮れた」と福音は記します。

 そこに天使が出現し、「イエスは生きている」と告げます。途方に暮れた婦人たちに、天使は進むべき方向性を思い起こさせます。それはすでに与えられているのです。

 ガリラヤはイエスに従う人々がイエスと初めて出会った地です。「信仰に生きる」とはどういうことか、イエスが言葉と行いをもって教えられた地です。それは単に過去の記憶として留めておくべきものではなく、これからを生きる人生の旅路に、明確な方向性を与える指針であります。

 弟子たちも、「十字架上での主の死」という喪失にとらわれ、途方に暮れて立ち止まっていたことを福音は記します。実際にイエスの体がそこには無いことを目で見たペトロが、ただただ、「驚いて」家に帰ったと福音は記しています。

 ペトロは家に帰ったのであって、前に進もうとはしません。イエスご自身が現れるまで、前に進まないのです。主は立ち止まることではなく、常に前進し続けることを求めます。信仰は旅路です。やみくもに歩いているのではなく、主ご自身が示された方向性の指針に基づいて、歩みを続ける旅路です。

 出エジプト記において、救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野をさまよいます。「安定した過去へ戻ろう」と神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進するように命じます。その旅路は過酷であり、あたかも、さまよっているようにしか見えませんが、しかし神の救いの計画、すなわち、進むべき方向性の指針は、すでに明確に示されていました。

 私たちの信仰生活は、神の定めた方向性を心に刻みながら、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定めた方向性の指針、つまり神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

 イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって、罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。洗礼は、私たちの信仰生活にとって、「完成」ではなく、「旅路への出発点」に過ぎません。

 今日、洗礼を受けられる方々は、信仰の旅路を始められます。洗礼の準備をされている間に、様々な機会を通じて、主ご自身がその言葉と行いで示された進むべき方向性の指針を心に刻まれたことだと思います。それを忘れることなく、さまよい歩くのではなく、神の定めた秩序が実現されるように、この旅路の挑戦を続けていきましょう。

 とはいえ、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からない時も、しばしばでしょう。ですから私たちは共にこの道を歩みます。教会は共同体であり、私たちは信仰の旅路を、共同体として共に歩みます。「一人、孤独のうちに歩む」のではなく、互いに助け合いながら歩み続けます。

2022evg04 ちょうど今、教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。

 東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し公開していますが、ご覧になったことはありますか。一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容について分かち合い、理解を深めていただければと思います。

 このシノドスは、何か決議文を生み出すのではなく、互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い支え合いながら、信仰の旅路をともに歩み続けることが目的です。

 東京教区では、折しも宣教司牧方針を、教区の多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切できずにおりました。

 今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。

 シノドスの歩みを共にすることで、私たちは「今の東京教区の現実の中で、『神の民』であるとは、どういう意味があるのか」を理解し、深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」「交わりの共同体」「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

 復活された主は、私たちの信仰の旅路に常に寄り添ってくださいます。共に歩んでくださるのは、主ご自身です。互いに支え合い、共に歩む教会共同体を生み出していきましょう。

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2022年4月17日