・「おのれの身が裂かれても、人類のために身をささげられた主の愛に倣う」菊地大司教の聖木曜日・主の晩餐ミサ

(菊地大司教の日記 2022年4月15日 (金) 2022年聖木曜日主の晩餐@東京カテドラル

2022hth02 聖木曜日の主の晩餐のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行いました。例年、聖なる三日間の典礼は、関口教会と韓人教会の合同で行われていますので、昨晩のミサには韓人教会の主任である高神父様も参加、さらに昼間の聖香油ミサに引き続いて、大分教区の新しい司教である森山信三被選司教様も参加して祈りの時を共にしてくださいました。

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 感染対策中のため、残念ですが、今年も、洗足式を中止とし、さらにミサ後に御聖体を仮祭壇に運ぶ際も、会衆も共同司式司祭も、自席からお祈りしていただきました。来年こそは元に戻したいーそう思い、また願います。

 なおビデオを見ていただくと分かりますが、ミサでは第一奉献文を歌っています。あまり歌われることがありませんし、私自身が自分の名前を呼ぶ(「私たちの司教○○」のところです)ところをどうしたのかも、一度ご覧いただければと思います。

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 以下、主の晩餐のミサの説教原稿です。

【聖木曜日・主の晩餐 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年4月14日】

 この2年間、感染症の状況のただ中にあって、私たちは「孤立するのではなく、互いに連帯して助け合うこと」の重要性を、肌で感じ、同時に、命の危機に直面する時、人がどれほど容易に利己的になり、様々なレベルで連帯が実現しないか、その現実も目の当たりにしてきました。

 最たるものは、今年の四旬節を悲しみと恐れの影で覆い尽くしたウクライナにおける戦争です。そこには様々な政治的な理由があることでしょう。それをもって武力の行使を正当化しようとする立場もあることでしょう。

 しかし信仰に生きる私たちは、感染症によって世界中の命が既に危機にさらされている中で、今こそ必要なのは「共に命を生きるために連帯すること」であって、「命を奪うことではない」と改めて、しかも愚直に主張したいと思います。

 教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」で、現在の世界情勢を「散発的な第三次世界大戦」と指摘された上で、こう語られています。

 「私たちを一つに結びつける展望の欠如に気付くとしたら、それは驚くにあたりません。どの戦争でも、破壊されるのは『人類家族の召命に刻み込まれた兄弟関係そのもの』であり、そのため『脅威にさらされた状況は、ことごとく不信を助長し、自分の世界に引きこもるよう人々を仕向ける』からです(26)」

   命を守るために世界的な連帯が必要とされる今、世界はそれに逆行するかのように、互いの絆を断ち、利己的になり、互いに無関心になり、命をさらなる危機に追いやっています。

 感染症対策が私たちを孤立させ、可能な限り人間関係を希薄にさせ、教会に集まることすら困難にさせている中で、私たちは改めて教会の共同体性を考えさせられています。教会は、何をもって共同体なのでしょうか。2年前まで、日曜日に教会に集まることで、わたしたちは教会共同体であると思っていました。しかしそれが不可能となった時、「私たちを結びつけているのは、いったい何なのだろうか」と考える機会を与えられました。

 私はこの感染症の状況の中で、教会活動に様々な対策を講じる中で、福音に記された「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」という主イエスの言葉を、私たちを結びつける絆のしるしとして掲げてきました。

 私たちは、どのような状況に置かれていても、主ご自身が、世の終わりまで共にいてくださると言われた、その約束に信頼し、主ご自身を通じて共同体の絆に結び合わされています。私たちは”仲良しクラブの会員”ではありません。「仲が良いから集まっている」のではありません。私たちは、仲が良かろうと良くなかろうと、世の終わりまで共にいてくださる主が、私たちと共におられるから、この共同体に集められているのです。

 教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会に命を与える聖体」の冒頭で、主ご自身のこの約束の言葉に触れ、教会は様々な仕方で主の現存を味わうのだが、「聖なる聖体において、すなわちパンとぶどう酒が主のからだと血に変わることによって、教会はこのキリストの現存を特別な仕方で深く味わうのです(1)」と語られます。

 そのうえで教皇は、「教会は聖体に生かされています。この『命のパン』に教会は養われています。すべての人に向かって、絶えず新たに、このことを体験しなさい、と言わずにいられるでしょうか(7)」と述べておられます。

 私たちイエスによって集められている者は、主ご自身の現存である聖体の秘跡によって、力強く主と結び合わされ、その主を通じて互いに信仰の絆で結び合わされています。私たちは、御聖体の秘跡があるからこそ、共同体であり、その絆のうちに一致しているのです。

 主における一致へと招かれている私たちに、聖体において現存されている主イエスは、「私の記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、後に残していく弟子たちに対する切々たる思いを、秘跡のうちに刻み込まれました。

 このイエスの切々たる思いは、聖体祭儀が繰り返される度ごとに繰り返され、「時代は変わっても、聖体が過越の三日間におけるものと『時を超えて同一である』という神秘を実現」させました(「教会に命を与える聖体」5項)。私たちは、聖体祭儀に与るたびごとに、あの最後の晩餐にあずかった弟子たちと一致して、弟子たちが主から受け継いだ思いを、同じように受け継ぎます。

 パウロは「コリントの教会への手紙」で最後の晩餐における聖体の秘跡制定の出来事を記す中で、「私の記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉に続けて、「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」と呼びかけています。この呼びかけは、いま聖体祭儀にあずかる私たち一人ひとりへの呼びかけです。

 イエスは、裂かれたパンこそが、「私の体である」と宣言します。ぶどうは、踏みつぶされてぶどう酒になっていきます。裂かれ、踏みつぶされるところ、そこに主はおられます。

 だからこそ、ヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、「イエスご自身が弟子の足を洗った」という出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

 「ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

 パンが裂かれ、ぶどうが踏みつぶされるように、互いに自分を主張するのではなく、相手を思いやり支え合い、そのために自らの身を犠牲とするところ、そこに主はおられます。

 私たちは聖体祭儀に与る度ごとに、自らの身が裂かれ、踏みつぶされて、それでも愛する人類のために身をささげられた主の愛に思いを馳せ、それを心に刻み、その思いを自分のものとし、そして同じように実践していこうと決意します。主の愛を自分のものとして具体的に生きるとき、そこに主はおられます。

 教会は今、「共に歩む教会のために–交わり、参加、そして宣教」というテーマを掲げて、共にシノドスの道を歩んでいます。3月19日に世界中の司祭に向けて、聖職者省長官とシノドス事務局長が連名で書簡を出されました。そこに教会の新たな姿を求めるこの旅路について、こう呼びかけが記されています。

 「私たちは、神の民全体と共に聖霊に耳を傾け、信仰を新たにし、兄弟姉妹と福音を分かち合うために新たな手段と言語を見出す必要があります。教皇フランシスコが私たちに提案しているシノドスの歩みは、まさにこのことを目的としています。つまり、相互に耳を傾け、アイデアやプロジェクトを共有しながら、教会の本当の顔を示すために、共に歩み出すのです。その教会とは、主が住まわれ、友愛に満ちた関係性によって励まされる、扉の開け放たれた、もてなしのあふれる『家』です」

 聖体の秘跡を制定された主イエスの切なる思いを心に刻み、聖体に現存される主に生かされて、その主を多くの人に告げ知らせるために、主のおられる教会共同体となりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2022年4月15日