・菊地大司教・灰の水曜日・ウクライナの平和のために祈る

2022年3月 2日 (水)2022年灰の水曜日・ウクライナの平和のために祈る

Aw22e 灰の水曜日の午前10時のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。教皇様の意向に従って、この日はウクライナの現状を心に留め、平和のために祈る日でもあります。

 このミサには日本にただ一人というウクライナ正教会のポール・コロルク司祭が、数名のウクライナ関係者とともに臨席してくださいました。正教会ですので一緒に共同司式はできないので、ミサ終了後、聖櫃の置かれたマリア祭壇に場所を移して、一緒に平和のための祈りをささげました。ビデオでは、一旦ミサが終了してから、1:18:30あたりから、平和のための祈りが始まります。

 ミサに参加された多くの方が残ってくださり、一緒に祈りをささげてくださいました。感謝。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

灰の水曜日 2022年3月2日 東京カテドラル聖マリア大聖堂

灰の水曜日から四旬節が始まります。今年もまた、感染症の状況の中で、安心して集まることができないままで、この季節を迎えました。いのちの危機の不安を感じながら四旬節を迎えるのは、これでもう3回目となります。

加えて今年は、戦争の危機のただ中での灰の水曜日となりました。ウクライナを巡るロシアの武力侵攻は、大国の暴力的行動として世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを踏みにじる形で事態が展開しています。政治の指導者にあっては、国家の独立を脅かすだけでなく、共通善の実現を踏みにじるような無謀な行動を即座に止め、いのちを守り、希望を回復するために、対話のうちに平和へと向かう道を選択されることを切に願います。

1939年8月、第二次世界大戦の前夜、ナチスドイツによるポーランド侵攻の直前、教皇ピオ12世がラジオメッセージで述べられた言葉が、当時の状況を彷彿させるいま、心に突き刺さります。

「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」(教皇ピオ12世1939年8月24日のラジオメッセージ)

ヨハネ23世はこのピオ12世の言葉を引用しながら、回勅「地上の平和」にこう記しています。
「武力に頼るのではなく、理性の光によって--換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(ヨハネ23世「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきである。

国家間の紛争の解決を、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪うであろう武力に委ねることはできないと、教会はあらためて主張します。教皇様の呼びかけに応えて、本日の灰の水曜日、わたしたちはウクライナの平和のために祈りをささげます。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、広島から世界に向かって平和を力強く呼びかけられた教皇ヨハネパウロ二世は、2000年1月1日の世界平和の日のメッセージにこう記されました。

「平和は可能です、と断言します。平和は神からのたまものですが、同時に、神の助けを受けて正義と愛のために働くことによって日々築いていくべきものでもあります」

国家の間にはさまざまな課題があり、その解決は、実際に政治に関わらないわたしたちが思うほど単純なものではないことでしょう。一朝一夕に世界の平和が実現することは不可能だとしても、わたしたちは誠実に、日々、「正義と愛のために働くことのよって」、平和の実現を目指して歩んでいきたいと思います。

戦争のただ中にいる多くの人たち、特に幼い子どもたちを、いままさしく恐怖が襲っていることを悲しみとともに思いながら、その心に連帯して、平和のために祈りを捧げ続けたいと思います。

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四旬節は、わたしたちの信仰を見つめ直し、その原点に立ち返るときです。

小さな目に見えないウイルスによって、先行きの見えない不安の暗闇に閉じ込められてしまったわたしたちは、人間の存在のはかなさを思い知らされています。人類の知恵と知識をもってしても、まだまだ分からないこと、コントロールできないことがわたしたちの眼前に立ちはだかっていることを思い知らされています。

まさしく、灰の水曜日に頭に灰を受け、「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」と言葉をかけられるときに、いのちを創造された神の前で、わたしたちは徹底的にへりくだって、謙遜に生きるしか道がないことを、神の御手に身を委ねる以外に道がないことを、認めざるを得ない心持ちになります。

神に身を委ね、その導きに心から従い、同じいのちを与えられたものとして互いに支え合い、連帯のうちに歩みをともにする決意を新たにしたいと思います。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べ、さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前で自分は誠実な僕であるのかどうかを振り返るときでもあります。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているでしょうか。

振り返るときに、心にとめておかなくてはならないことがあります。それは本日の第1朗読ヨエル書に記されている、「衣を裂くのではなく、おまえたちの心を引き裂け」という神の言葉であります。

わたしたちは、人間ですから、それぞれが心の中に承認欲求のような感情を抱えています。誰かに認められたい。ふさわしく評価されたい。自らの望みを実現したいという、自己実現への欲求もあります。当たり前のことです。

信仰者として生きていくときに、わたしたちは本来、「キリストの使者としての務め」に重心を置いていかなければならないはずなのですが、どうしてもわたしたちの弱さが、承認欲求や自己実現へとその重心を引きずり込もうといたします。その生き方をイエスは、「偽善者たち」と指摘します。偽善者とは、すなわち自分の欲求に重心を置いて生きている人、自分中心に世界を回そうとする人であります。

いのちの危機に直面する中で、先行きが見通せない不安はわたしたちを、自分のいのちを護ろうとばかり専心する利己的な存在にしています。利己的な心は、他者への思いやりの心を奪い、人間関係から、そして社会全体から、寛容さが消え失せます。

教皇様はしばしば、このパンデミックの状況から抜け出すために、いのちを生きる希望が必要であり、その希望は世界的な連帯からのみ生まれると指摘されます。しかし社会の不寛容さは、異質な存在を排除する力を生み出し、連帯を崩壊させ、いのちをさらに危機にさらしています。

わたしたちは「キリストの使者」として果たすべき、社会の現実にあって神のいつくしみを言葉と行いであかしし、その光を輝かせるという大切な働きを忘れ去り、周りの人々の心にまなざしを向けることなく、欲望の赴くままに道を踏み外してしまいます。

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ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。

「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返し、道を踏み外し、自分中心に生きようとするわたしたちに、預言者は、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

私たち信仰者は、この四旬節にその生き方をあらためて見直し、踏み外した道から、愛と希望の道へと立ち返る努力をしなければなりません。互いに支え合う連帯の道を見いださなくてはなりません。いのちを守る道を見いださなくてはなりません。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。キリストの使者として生きる覚悟を、平和のために地道に働き続ける者である決意を、この四旬節に新たにいたしましょう。

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2022年3月4日