・「世界こども助け合いの日」に子供たちの幸せを願うー菊地大司教の年間第4主日メッセージ

2023年1月28日 (土)週刊大司教第111回:年間第4主日

2023_01_26_rca_0026 1月の最後の日曜日、姉妹教区であるケルンでは、「東京デー」が祝われています。通常、日曜日が4回の1月であれば東京におけるケルンデートケルンにおける東京デーは同じ日に重なるのですが、今年は5回の日曜があるため、ずれてしまいました。

 今年のケルンにおける東京デーには、東京とケルンで支援するミャンマーから、マンダレー教区のマルコ大司教様が招待されており、東京からは担当のレオ神父様(築地教会)が、ケルンへ出掛けております。29日の日曜に、ケルンの方々が東京のために祈ってくださっていることを、どうか心に留めてくださいますように。

 なお1月の最終日曜日は、世界こども助け合いの日となっています。こちらのリンクから、担当の教皇庁宣教事業担当者である門間直輝神父様のメッセージをご覧ください。

 以下、28日午後6時配信、週刊大司教第111回、年間第四主日のメッセージ原稿です。

【年間第4主日A 2023年1月29日】

 マタイによる福音は、山上の説教の冒頭部分に記されたいわゆる「真福八端」を伝えています。イエスが指摘する幸福の八つの状態、すなわち「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」、「憐み深い人」、「心の清い人」、「平和を実現する人」、「義のために迫害される人」の八つのタイプの幸福は、そうだ、と納得できるものもあれば、社会の常識から言えば決してそうとも言えない状態もあります。

 それと同時に、よく考えてみるとこの八つの真の幸福を体現されているのは、主イエスご自身であることに気がつかさせられます。つまりここに掲げられているのは、イエスが示す生き方に倣い、私たちも生きることが、神の定めらた幸福の道なのであり、それは人間の常識が考える幸福とは異なっていることを、このイエスの言葉が教えています。

 「心の貧しさ」という言葉は、特に日本語では否定的な意味にも取られがちなので困惑するのですが、聖書のこの箇所が伝えたいのは、「霊的な貧しさ」であると同時に、「物質的な執着からも解放されている、私利私欲にとらわれていない状態」を示しています。

 イエスの生きた姿に学ぶならば、人類の救いのための「償いのいけにえ」として、ご自分をささげられた主ご自身は、まさしく他者のために仕える者となったという意味で、徹底的に「心の貧しさ」を生きた模範です。私たちそれぞれは、どのような生き方をしているでしょうか。常に道からそれる私たちに、主は御言葉を通じて、すべてを神に委ねる生き方をするように、繰り返し招いてくださいます。

 1月の最後の日曜日は「世界こども助け合いの日」と定められています。この日は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。まさしく、イエスご自身の生きる姿勢に子どもたちがあずかり、「心の貧しい人」として生きる道を身につけることを目指している日です。そこで、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく、世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげることの大切さ、を学ぶ日なのです。

 現在、日本の教会のこの活動の担当責任者は教皇庁宣教事業の日本における責任者、東京教区の門間神父様です。この日の献金は、全世界からローマの福音宣教省に集められ、世界各地の子どもたちのための活動を支援しています。献金も大切ですが、一番大切なのは、私利私欲に生きるのではなく、他者を支えることに真の幸福の道が隠されていることを、子どもたちに伝えること、であろうと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記を当用漢字表記に統一しました)

2023年1月28日

・「神の呼び掛けに応え、役割を果たす」-菊地大司教の「神の言葉の主日」メッセージ

2023年1月21日 (土)週刊大司教第110回

Cologne1801 年間第三主日です。メッセージでも触れていますが、神の言葉の主日であり、また東京教区にとってはケルンデーでもあります。さらに1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間にもなっています。

 それぞれ背景には様々な歴史の積み重ねがある特別な日です。心に留めていただければと思います。特にケルンデーにあたっては、ケルン教区のこれまでの支援に感謝し、ケルンにおける司祭・修道者の召命のために祈りをささげることにしております。どうか主日のミサの中で、ケルン教区の皆さんのためにお祈りください。

 さらには、この姉妹関係を通じて、今度はミャンマーの教会への支援に繋がりました。ケルンデーには、同時にミャンマーの教会のためにもお祈りください。

 またキリスト教一致祈祷週間の東京における合同の祈祷集会は、今年も感染症対策のためオンライン配信となりました。私が説教を担当させていただいております。こちらは、このリンクで合同祈祷会の模様をご覧いただけます。

 以下、本日午後6時配信の、週間大司教第110回のメッセージ原稿です。

【年間第3主日A(神のことばの主日)2023年1月22日】

 今年の年間第三主日である1月22日は、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。加えて教会は、1月18日から,パウロの回心の記念日である1月25日まで、キリスト教諸教派とともに,キリスト教一致祈祷週間と定めています。

 今年のキリスト教一致祈祷週間は、そのテーマを「善を行い、正義を追い求めなさい」というイザヤ書の言葉が採用され、一人ひとりの命の尊厳が守られる社会の確立のために、神の正義と平和を確立する道を共に見い出すことを呼びかけています。

 第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」は、「主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである」と宣言します。しかし現状はそうではないことを指摘しながら、同教令は「このような分裂は真に明らかにキリストの意思に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音を宣べ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなている(1)」と厳しく指摘しています。その上で、真摯な対話を通じて互いの心の回心に至り、祈りの内に一致し、信仰の宣言の上でも社会での愛の証しにおいても協力する道を模索するように、呼び掛けています。

 マタイによる福音は、イエスの公生活の始まりを描写しています。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と伝えるイエスの活動は、それを支え、ともに歩む弟子たちを召し出すことから始まりました。ガリラヤ湖畔でイエスは漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけます。さらにはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけられます。

 二人ずつ四人を召し出すこの物語は、イエスの福音宣教の業が、常に共同体の業として遂行されることを象徴しています。今もなお、イエスは「私に付いて来なさい。人間を捕る漁師にしよう」を多くの人に声をかけ続けておられます。ただ、司祭になることだけが、この呼び掛けに応える道ではありません。教会にはカテキスタなど信徒の方にも果たしていただける福音宣教の業が多くあります。

 第二バチカン公会議の啓示憲章には、こう記されています。

 「教会は、主の御体そのものと同じように、聖書を常にあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神の言葉の食卓から命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21項)。

 そう考えると、ミサの時の聖書朗読の奉仕も、単に役目を果たしているだけでなく、現存される神の言葉を語る者としての重要性が理解されると思います。主の呼び掛けに応えて、それぞれの役割を果たして行きましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年1月21日

・「必要なのは『現代社会の洗礼者ヨハネ』であること」-菊地大司教の年間第二主日メッセージ

2023年1月14日 (土) 週刊大司教第109回

 降誕祭も終わり、次は灰の水曜日から始まる四旬節までのつかの間、「年間」と呼ばれる時期が始まります。主の洗礼直後の週が年間第一週ですので、今年は1月15日が年間第二主日となります。

 司祭の養成は神学院に入る前から始まり、神学院での予科の時間を過ごして、哲学を学び、神学を学び、その上で助祭に叙階され、司祭へと至ります。しかし司祭になってそれで養成が終わりではなく、実は、ここから人生の終わりまで、司祭としての生涯を通じた養成は継続します。この考えそれ自体はまだ新しいもので、数年前から、各国の司教団は、司祭の生涯養成についての計画を練ってきました。

 日本の司教団でも、司祭叙階後五年目の教区司祭を対象に、養成コースをはじめることになり、現在、初の叙階五年後の教区司祭向けの養成コースを開講しています。その模様はまた別途報告しますが、司祭のためにお祈りくださるようにお願いいたします。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第109回、年間第二主日メッセージ原稿です。

【年間第2主日A 2023年1月15日】

 つい数日前に主の降誕を喜び祝っていたかと思うのですが、典礼の暦は先に歩みを進め、先日の月曜日は主の洗礼の祝日でした。そこで朗読されたマタイの福音は、イエスが洗礼者ヨハネから水の洗礼を受けた様を描写するものでありました。

 「罪の赦しを得させるために悔い改めの」水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、「その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾」であり(「カトリック教会のカテキズム」536項)、罪人である人類に加わることで、水を通じて私たちをその贖いの業にあずかる道を開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

 今日朗読されるのは、同じ出来事について触れているヨハネ福音です。そこにおいて洗礼者ヨハネは、自分が水の洗礼を授けた方が誰であるのかを宣言しています。

 まず第一にイエスは「世の罪を取り除く神の小羊」であり、そして「神の子」であると洗礼者ヨハネは証言します。それによってヨハネはイエスの誕生の理由が、罪にまみれた人類の救いのためであることを明確にします。

 さらに加えて洗礼者ヨハネは、自分の立場を今一度明確にします。つまりイエスは、「私よりも先におられた」方であり、自らが水の洗礼を授ける理由は、「この方がイスラエルに現れるため」であったのです。しかも洗礼者ヨハネがイエスを神の子と証しをした理由は、自分がそう思ったからではなく、自らの派遣の使命を識別し確実に認識していたからだ、とも証言しています。

 今、私たち教会に必要なのは、「現代社会にある洗礼者ヨハネ」であることです。私たちは「自分の思いを伝えている」のではありません。「自分が褒めたたえられるために行動する」のではありません。すべては洗礼を通じてイエスの神性にあずかった私たちに与えられている福音を告げ知らせるという使命を果たすためであり、洗礼者ヨハネと同じく、私たちの言葉と行いを通じて、イエスが現代社会に表されるようになるためです。私たちは、社会の中にあって、自らの言葉と行いが一体何を証ししているのか、今一度振り返ってみたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記の乱れを、当用漢字表記で統一してあります。また「技」とあるは「業」に修正してあります)

2023年1月14日

・「私たちが戻るべきはヘロデの所ではない」-菊地大司教の「主の公現」の主日メッセージ

2023年1月 7日 (土)週刊大司教第108回:主の公現の主日

Img_20230105_143533982_mf_portrait

 降誕節も終わりに近づきました。降誕節を締めくくるのは、主の公現の主日です。

 東方の三博士の来訪で有名ですが、博士は占星術の専門家だったようです。この三博士には名前がある、と言われています。

 この時期に見かけられた「C.M.B.」という表記に見覚えがある方が、おられるのではないでしょうか。「主の公現」の主日と切っても切れない関係にある略語です。

 日本でも、海外から来られた宣教師が働いていた地方では、必ず行われていたことだと思います。私も子供の頃、スイス人の宣教師が働いていた岩手県の教会でしたので、目にしていましたし、ドイツ人が中心だった神言会の修道院でも行われていました。それぞれの家の玄関などの戸口の上に、白いチョークで「C.M.B.」と記され、十字架とその年の年号が記されているのをご覧になったことありませんか。

 かつては主の公現の主日の頃に、家の祝別が行われていました。そしてこの「C.M.B.」とは、三人の博士ーカスパー、メルキオール、バルタザールーの頭文字です。

 私個人としては、年の初めのこの頃、司祭を家に招いて家の祝福の祈りをしてもらう、という習慣は、一年の始まりに悪いものではないように思います。もっとも家族全員が信徒でないと難しいかも知れません。家庭が教会の基礎となる共同体である、という考えからすれば、家庭ミサをお願いするとか、家を祝福してもらうとかいうことは、守るべき大事なことであるように思います。

 以下、7日午後6時配信の、主の公現の主日、週刊大司教第108回目のメッセージ原稿です。

【主の公現 2023年1月8日】

 新年、明けましておめでとうございます。新しい年の初めにあたり、この一年、皆様の上に神の祝福が豊かにあるようお祈りいたします。

 マタイ福音は、東の方からエルサレムに来た占星術の学者たちの言葉を耳にした時、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られた、と記しています。自らの立場を脅かす存在が現実にいるのだ、と占星術の学者が告げているからに他なりません。

 本来であれば、救い主の誕生の告知は喜びを持って迎えられる一大ニュースです。しかし現実に権力を行使して人々を支配しているヘロデは、その知らせを喜ぶことはできなかった。自分をこの世の支配者だとする者は、神の支配の実現を前にして、喜びではなく、不安しか感じることができません。神の前では、自らの不遜さが暴かれてしまうからです。神の栄光の証しとしての光ではなく、自分勝手な光を輝かせていることが露呈されるからです。

 心のうちの不安は、ヘロデを命に対する暴力へと誘います。「私も行って拝もう」と言うヘロデの言葉に、真実はありません。その本意は、自らの権威を守るために神を抹殺することであり、その後の幼子殉教者の出来事へと続いていきます。

 不安は利己的な心の姿勢を強め、時として他者の命に対する暴力へと発展します。そこに、命を生きる希望は生まれません。新しい年となっても、ウクライナをはじめとして各地で起こっている不安定な状況は改善せず、多くの人が不安のうちに生きています。不安が生み出す疑心暗鬼は、さらに対立を深め、命に対する暴力は続いています。私たち人類は、一体何を守ろうとして神に逆らっているのでしょうか。

 占星術の学者たちがそうであったように、私たちの戻るべき場所はヘロデの所ではありません。真の希望の光に触れた私たちは、人間の身勝手さの光を輝かせるのではなく、全く異なる道を選び、神の光を輝かせるものでなければなりません。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

(編集「カトリック・あい」=表記を、主要新聞など一般に使われ、読み慣れている当用漢字表記にさせていただきました。なお、漢字の「命」は表意文字で、文字そのものに「祈りを捧げる人に天から与えられた、たいせつなもの」という深い意味が込められています。ひらがな表記では表せない、今では立派な日本語です。カトリック教会こそ使うべき表記と考えます)

2023年1月7日

・「心を落ち着け、神の道を見極めようと祈り、黙想する姿に倣おう」菊地東京大司教の「神の母聖マリア主日」のメッセージ

 週刊大司教第107回 2023年1月1日 菊地東京大司教の「神の母聖マリア主日」のメッセージ

 新しい年、2023年が始まります。この3年間、わたしたちは感染症という大きな不安のうちに取り残され、まるで暗闇の中を手探りで歩いているかのような状況でした。加えて、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデターやその後の混乱、ロシアによるウクライナ侵攻とその後の戦争状態、さらには日本を含め世界各地での暴力的な蛮行の頻発。神が賜物として与えてくださった命に対する暴力が止むことはなく、あまつさえ暴力に対抗するためには暴力が必要だという機運まで高まってしまいました。暴力の結末は死であり、命の創造主である神への挑戦であることを、一年の初めに改めて強調したいと思います。

 主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身がその憐みと慈しみに基づいて自ら人となる、という積極的な行動を取られたことに感謝を捧げる私たちは、暦において新しい一年の始まりのこの日を、人となられた御言葉の母である聖母に捧げ、神の母聖マリアを記念します。

 ルカ福音は、「聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と簡潔に述べることで、驚くべき出来事に遭遇し、その意味を理解できずに翻弄され戸惑う人々の姿を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。

 しかし福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とも記します。神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きに思いを巡らせ、識別に努められた、観想を深めるおとめであります。あふれる情報に振り回されながら現代社会に生きている私たちにとって、常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り、黙想する聖母の姿は、倣うべき模範であります。

 教皇様は、世界平和の日にあたりメッセージを発表されています。コロナ後の世界の歩むべき道を見据えながら、連帯のうちに支え合って歩み続けることの必要性を説いておられます。私たちは、この新しい一年を、改めて連帯を深め、互いに耳を傾けあい、支えながら、聖霊の導く先を探し求めながら歩むときにしたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年1月1日

・菊地東京大司教の新年メッセージ「希望の光を暗闇に掲げて」

 2023年1月 1日 (日) 皆様、新年明けましておめでとうございます。

Aw22i

   この一年が、祝福に満ちた豊かで希望ある年になりますように、お祈りいたします。

  3年間にわたるこの感染症による危機が過ぎ去り、戦争が終結し、賜物である命の尊厳が守られる世界となるように、心から祈ります。

  以下、東京教区ニュース新年1月号に掲載した年頭のご挨拶の文章を、こちらにも再掲します。

     東京教区のみなさん、主の降誕と新年のお喜びを申し上げます。

   主の受肉の神秘を祝う降誕祭は、生命の尊さを私たちに教えています。全能の神は小さな幼子の生命として、私たちのうちにおいでになりました。両親からの保護を必要とするその小さな生命は、しかし、暗闇に輝く希望の光でありました。暗闇が深ければ深いほど、小さな光であっても輝きを放つことができます。神から私たちに与えられた生命は「希望の光」として暗闇に輝く光です。

 残念なことに、世界はその生命を最優先とすることなく、暴力が支配する様相を呈しています。生命への攻撃は、私たちをさらに暗闇へと引きずり込み、希望を奪います。希望を奪われた私たちは、さらなる不安に駆られ、そのために利己的な守りの姿勢を強め、暴力に抗うために暴力を肯定する誘惑に駆られています。

 この三年におよぶ感染症の状況は、よい方向に向かっている、とは言え、私たちを取り巻く暗闇を深めました。その暗闇がもたらす不安は、私たちの姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデター後の不安定な状況や、ウクライナにおけるロシアの侵攻がもたらす戦争状態によって、さらに深められています。暗闇は世界から希望を奪っています。だからこそ、私たちキリスト者は、主ご自身が幼子としてもたらしてくださった生命の希望の光を、暗闇の中で高く掲げる存在でありたいと思います。

 教皇様は新年の世界平和の日にあたりメッセージを発表されていますが、そのテーマも、コロナ禍のあとの世界を見据え、ともに連帯しながら新しい平和への道を見いだす歩みを続けることを呼びかけておられます。いまほど、連帯のうちに支え合い、互いに耳を傾けあう姿勢が、教会だけでなく世界にとって必要なときはありません。

 この三年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。いろいろなお考えがあることは十分承知していますが、多くの人が集まる教会であるからこそ、自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない隣人愛の行動を選択し続けたいと思います。

 一年の初めにあたり、是非とも司祭・修道者の召命についてお考えいただきたいと思います。まだ最終確定ではありませんが、今年の春には二名の神学生が、東京教区司祭として叙階されるべく準備を進めています。この二人のあとには、現時点では神学課程に一名、哲学課程に一名の二人しか、東京教区神学生はおりません。常々皆様にも申しあげていることですが、一人の方が司祭を志したとして、実際に叙階されるまでには、最低でも七年という時間が養成のために必要です。

 司祭養成は、それほど慎重に行われるものですし、そもそも「召命」と言われるとおりで、神様からの呼びかけであって、人間が生み出すものではありません。実際には呼びかけられている方は大勢おられるのだと思います。ですから究極的に言えば、無理をして神学生を増やすのではなく、神様からの呼びかけを待てばよいのですが、同時に、自分が呼ばれていることに気がつかない人も大勢おられます。

 識別するためには皆様の祈りが必要です。呼ばれている人が、自分の召命に気がつくように、どうかお祈りください。これは一人司祭ばかりではなく、修道者への召命も同じです。お祈りと、励ましをお願いいたします。

 すでに日本の他の教区では普通のことになっていますが、今後は東京教区においても、「すべての小教区に必ず司祭がいる」という状況を続けていくことは、困難になります。すでに数名の教区司祭には、主任司祭の兼任をお願いしているところですが、今後は引退される司祭も増加することが必然であり、同時に新しい司祭の誕生は限定的ですので、何らかの対応が必要です。

 司祭の兼任は様々な側面から、司祭自身にとっても、また教会共同体にとっても負担となります。その意味で、現在検討を続けている宣教協力体の見直しを含め、どういった形で既存の教会共同体が協力していくことができるのか、具体的な検討を続けていきたいと考えています。

 将来にわたる経済的な負担などを考慮して、教会共同体が自ら他の共同体との合併などを求められる場合は別ですが、基本的には現在の小教区を変更することは考えていません。

 2022年の待降節から典礼式文の翻訳が変更となりました。すでに新しい翻訳でのミサに参加されておられると思います。

 第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。「(信者は)キリスト教的生活全体の源泉であり頂点である聖体のいけにえに参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる。・・・さらに聖体の集会においてキリストの体によって養われた者は、この最も神聖な神秘が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を具体的に表す(11)」

 私たちにとってミサは、キリストの贖いの業としての犠牲とそれに続く復活を、秘跡の形で再現するものとして、キリストが今ここに現存し、また現存し続ける、と言う意味でも、最も重要な位置を占めています。

 新しい翻訳には賛否両論あろうかと思いますが、異なる言葉への翻訳における様々な困難を乗り越え、普遍教会全体の一致を具体的にあかしするための、大きな一歩であると思います。私たちを霊的な絆で結びつけるために最も大切なこの聖体祭儀について、今回の改訂が、学びを深める契機となることを期待しています。

 今、私たちの国では宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのか、という個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

 そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(「カトリック教会のカテキズム」要約373項参照)。

 宗教は、命を生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、命を奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、命の希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

 私たちはどうでしょう。私たち教会はすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、命を生かす希望の光を掲げる存在であり続けたい、と思います。対立や排除や暴力の象徴ではなく、一致と連帯と支え合いをあかしする共同体でありたいと思います。

 教会のシノドスの歩みは続いています。今年の初めには各大陸別のシノドスが開催され、アジア・シノドスも2月末にタイで開催されます。その後、今年の10月と、来年2024年10月の二会期に渡ってローマでの会議が開かれ、その結果を受けて教会は2025年の聖年を迎えます。聖霊が教会をどこへと導こうとしているのか、共同体の識別の道はこれからも続けられます。

 東京教区にあっても、今後も小グループによる分かち合いを通じた聖霊の導きへの識別を深め、互いに耳を傾けあい支え合うことが当たり前である教会共同体へと変貌していきたいと思います。

 2023年12月4日には、江戸の殉教の400周年を迎えます。高輪教会においては例年通り、江戸の殉教を顕彰する行事が行われますが、それに向けて、教区内でも殉教について学ぶ機運が生まれることを期待しています。

 新しい年の初めにあたり、皆様の上に、全能の御父の豊かな祝福がありますように、お祈りいたします。

(編集「カトリック・あい」)

2023年1月1日

・「希望の光を掲げ、連帯して命を守り抜く」菊地大司教の「主の降誕」夜半ミサ

2022年12月24日 (土)2022年主の降誕(夜半のミサ)

Rca_0007 主の御降誕、おめでとうございます。

 今年は、雪の中でのクリスマスを迎えておられる地域も多いのではないでしょうか。東京は晴れていますが、風がとても冷たいクリスマスとなりました。

 東京カテドラル聖マリア大聖堂では、主の降誕夜半のミサとして午後5時、7時、9時の三回のミサが捧げられ、私は9時のミサを司式させていただきました。

 例年ですと、大勢の方で聖堂は一杯になります。今年はなんとか定員近い人が入れるように、感染対策を緩和しましたが、それでもまだまだ以前とは異なります。それでも大勢の方に参加していただいて感謝いたします。

 25日は日中のミサ、東京カテドラル聖マリア大聖堂は午前8時と10時で、私は10時のミサを司式いたします。今夜のミサと明日のミサとも、関口教会のYoutubeチャンネルでご覧いただくことができます。

 以下、24日午後9時の主の降誕夜半のミサの説教の原稿です。

【主の降誕(夜半ミサ)2022年12月24日午後9時 東京カテドラル聖マリア大聖堂】

 皆様、主の降誕、おめでとうございます。

 栄光の輝きの中で誕生した小さな命は、暗闇を打ち破り、喜びと希望を生み出す源である、神ご自身でした。栄光に輝く神は、ご自分が賜物として人類に与えた命が、どれほど尊いものであるのかを証しするために、自らがその命を生きるものとなられました。神が望まれる平和の支配は、命を守ることによってのみ成し遂げられることを、神の受肉の神秘は私たちに示しています。私たちの間に来られ、私たちと共にいてくださる神は、「平和の君」であります。

 今年の11月の第6回「貧しい人のための世界祈願日」に発表された教皇フランシスコのメッセージには、「愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。

 どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています」と、今の世界の有り様を悲しむ言葉が記されています。

 この3年間、私たちは感染症と対峙する中で、生命の危機の暗闇を生き抜いてきました。まだ多少の不安は残されているものの、2020年の初め頃に比べれば、どのように行動するべきなのか経験を積み重ね、専門家の知見も深まっています。いわゆる”パンデミック”による暗闇は、徐々に明けつつあります。

 しかしその間に、今度は暴力を直接行使する命の危機が始まってしまいました。すでに2021年2月には、ミャンマーでクーデターが起こり、自由を求める多くの人への暴力的圧迫が今でも続いています。世界に様々な暴力的な出来事がある中で、しばしばミャンマーに触れるのは、東京のカトリック教会とミャンマーのカトリック教会が、長年の姉妹関係にあるからに他なりません。私たちは、命の危機に直面する兄弟姉妹を目前にして、沈黙しているわけにはいきません。

 すでにそういう状況であったのに、今度は2022年2月に、ロシアという大国によるウクライナ侵攻が始まり、今でも戦争状態が続いています。平和的解決を求める声が国際社会に響き渡っているものの、今の時点でそれが実現する見込みはなく、それどころか欧州における戦火の拡大すら懸念されています。

 先日、ウクライナの平和を願いながら祈りを捧げた教皇様は、祈っても呼びかけても平和が実現せず、多くの人が生命の危機に直面している現実を目の当たりにしながら、涙されました。

 2000年前、自ら人となり私たちと共におられることを具体的に証しされた神ご自身も、まさしく同じ思いであったのだ、と思います。

 旧約の歴史を通じて、預言者や様々な人の言葉と行いを通じて、神はご自分の平和を確立するために働きかけてこられた。にもかかわらず、人類はその呼びかけに耳を傾けず、私利私欲を追求し、暴力に明け暮れ、命を奪い合い、対立しあっている。その愚かさに業を煮やされた神は、ご自分が直接行動し、歴史に介入する道をお選びになりました。

 教皇様は,先ほどの「貧しい人のための世界祈願日」のメッセージの中で、互いに助け合うことの重要さを説いた後でこう述べておられます。

 「使徒パウロはキリスト者に愛のわざを強いているわけではないことです。・・・むしろ、彼らの貧しい人への配慮と気遣いに、その愛の『純粋さを確かめ』ようとしています。パウロが求めることの根底にあるのは、もちろん具体的な援助の要請ですが、しかしながら使徒の意図はそれ以上のものです… 貧しい人に寛大であることへの最大の動機づけは、ご自分を貧しくなさろうとした神の御子の選びにあるのです(6)」。

 目の前で展開するあまりにも愚かな人類の行動が、尊い賜物である命を危機に陥れ、平和の確立を遠い夢物語にしている。その現実を目の当たりにしながら、神は、全てをあきらめてしまうのではなく、自ら行動して人類と共にいるという選択をされました。私たちが語る連帯の根本は、この神ご自身の選択にあります。私たちは、命を与えてくださった神ご自身が、そう選択され行動されたのだからこそ、それに倣って連帯のうちに支え合うのです。

 業を煮やして私たちのもとに来られた神ご自身が、両親の助けがなければ生き抜くことができないであろう幼子の命のうちに宿られたからこそ、命の尊さを繰り返し強調するのです。

 この3年間、大げさに聞こえるのかもしれませんが、私たちは「命の危機の暗闇」で生きてきました。暗闇に生きるものは,先行きが見えない不安から、なんとしてでも光を手にしようと、もがきます。不安の継続する時間が長くなればなるほど、少しでも光のようなものが目に入れば、中身を良く吟味することなく飛びついてしまう誘惑に駆られます。加えて、この暗闇の中で、今度は暴力的な戦争や事件が続いて起こり、その状態はさらに深まる様相を呈しています。ますます持って、私たちは命を守ろうとして、心は消極的になっていきます。

 そのような心理状態の中で、いつしか、「暴力に対抗するためには暴力が必要だ」といざなう光を手にしたとしても,その光の存在に疑問を抱かなくなってしまいます。暴力を押さえ込むためには多少の暴力はかまわない。命を守るためには多少の犠牲はかまわない。

 歴史の中で,私たちは同じような選択を繰り返してきたのでしょう。そのたびごとに、愚かな選択を重ねる私たち人類を目前にして、命を賜物として与えられた神ご自身も涙されたやもしれません。歴史は私たちに教えています。暴力の行き着く先は死です。暴力は命の与え主である神への挑戦です。

 教会が今歩んでいるシノドスの道は、私たちに教会が現代社会のただ中にあって、どのような存在であるべきなのかを,改めて見つめ直すように,私たちを招いています。

 その中心になるのは「連帯すること」です。連帯するためには、互いの声に耳を傾け合う姿勢が必要であり、互いの存在への思いやりの心が不可欠であり、それは全て、お互いのうちに宿っている神からの賜物である命への尊敬に基礎づけられています。

 私たちはこの暗闇の中で、繰り返し響き渡る悲嘆の声に耳を傾け、互いの命への尊重の内に思いやり、心を遣い、互いに助け合いながら、共にいてくださる主御自身が与えてくださる命の希望の光を、高く掲げるものでありましょう。

 私たちの努めは、幼子として誕生した主イエスがもたらしてくださった神の栄光の光を受け継いで、それを一人でも多くの人の前で輝かせることであり、互いに連帯し助け合い支え合いながら、命を守り抜くことであります。

2022年12月24日

・「主への信頼のうちに希望の光を共に掲げ、歩み続けよう」菊地大司教の待降節第四主日メッセージ

2022年12月17日 (土)週刊大司教第106回:待降節第4主日

Img_0054

 待降節も第四週となりました。今年は暦の関係で、降誕祭が日曜日となりますから、待降節第四週も7日間あります。例年ですと第四週は付け加えのように「数日」と言うこともありますが、今年は、降誕祭への霊的な準備の時間が7日間も残されています。この時間を有効に活用して、霊的準備を深めましょう。

T2017_12_16_056

 2017年12月16日に、東京大司教として着座し、故岡田武夫大司教様から引き継いで、5年が経ちました。あまりたいしたことを成し遂げることのできない5年間でした。多くの方に祈りを持って支えていただいていることに、心から感謝申しあげます。

 特に、日々のミサを始め様々な機会にお祈りいただいている東京教区の皆様には、心から感謝申しあげるとともに、今後とも私が司教職をふさわしく果たすことができるように、お祈りをお願いいたします。また今でも続けてお祈りくださっている新潟教区の多くの方にも、感謝いたします。

 降誕祭に先立つ9日間は、伝統的にノベナの祈り(9日間の祈り)がささげられてきました。その期間は、例えばミサのアレルヤ唱でも壮大な内容が語られますが、同じ内容は晩の祈りの聖母讃歌にも使われます。またフィリピンでは、ノベナのミサが早朝にささげられる伝統があり、「シンバン・ガビ・ミサ」と呼ばれています。

 東京教区内の各地でもこのミサが捧げられていますが、諸事情から早朝ではなく、その前の晩に捧げられることが多いかと思い2022_12_15_011ます。公式な統計でも東京教区内だけで4万人近いフィリピン出身の方がおられます。目黒教会で行われる晩のシンバン・ガビ・ミサを、東京に来た当初から、その一日を担当させていただいています。

 今年も、12月15日夜7時から、目黒教会での英語ミサを司式しました。コロナ禍での制限がまだあるため、聖堂は一杯とは行きませんが、大勢が参加されていました。また着任されたばかりだと言う新しい駐日フィリピン大使もミサに参加されました。フィリピンと日本ではキリスト教の文化への浸透の度合いは異なりますが、こういった信心の業に目を向けて、どういった霊的準備ができるのか、この国での可能性を考え深めることができればと思います。

 以下、本日午後6時配信、週刊大司教第106回、待降節第四主日のメッセージ原稿です。

【待降節第四主日A 2022年12月18日】

「天よ、露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ開いて救い主を生み出せ」

 イザヤ書45章のこの言葉を入祭唱とする待降節第四主日は、私たちが最も待ち望んでいること、すなわち救い主の誕生について、やっと直接に触れています。主の降誕を待ち望んでいる私たちは、雲が露をこの地上にしたたらせるように、神の恵みがわたしたちを包み込み、その私たちの間から救い主が誕生するのだ、ということを明確にします。すなわち、「神はわれわれとともにおられる」のです。

 マタイ福音は、イエス・キリストの誕生の次第を記しています。救い主の母となることを天使に告げられた聖母マリアが、その事実を冷静に受け止め、謙遜のうちに、しかし力強く他者を助ける行動をとり続けたように、夫であるヨセフも、天使によって告げられた神の思いを受け止め、それに信頼し、謙遜のうちに行動します。この二人の謙遜さ、勇気、そして神への信頼における行動があったからこそ、救い主の誕生が実現します。

 天から露のように降り注ぐ神の恵みは、それを受けた人の謙遜さ、勇気、信頼を通じた行動によって、実を結びます。私たちは、神が降り注がれている恵みを無駄にしてはいないでしょうか。

 この3年近くにおよぶ感染症の暗闇の中で、私たちに歩み続ける勇気を与えてくださったのは、「神がともにおられる」という確信でした。神はご自分が創造された命を見捨てることがない。常に私たちと共に歩んでくださる。旅する神の民の真ん中に、御聖体とみ言葉を通じて、主は現存される。なぜならば、神は「インマヌエル」だからです。「共におられる神」だからです。

 間もなく降誕祭を迎えます。主が私たちと共にいてくださる事実を、降誕祭の喜びのうちに再認識を、主への信頼のうちに、その希望の光を暗闇の中でともに掲げて歩み続けましょう。

2022年12月17日

・「悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げ知らせる」菊地大司教の待降節第三主日

2022年12月10日 (土) 週刊大司教第105回:待降節第三主日

 待降節の第三主日は、喜びの主日です。

 12月8日、無原罪の聖母の祝日に、イエスのカリタス会で3名のシスターの初誓願と3名のシスターの終生誓願宣立式が行われ、サレジオ会の浜口管区長様と共に司式させていただきました。関係する20名近い司祭も参加し、まあ誓願者の6名のうち5名がベトナム出身ということもあり、ベトナムからの家族に加え、ちょうど訪日中であったベトナムのステファン・ティエン司教様も参加して、お祝いしてくださいました。おめでとうございます。

Img_20221208_122344930_mf_portrait

 以下、10日午後6時配信の週刊大司教第105回、待降節第三主日のメッセージ原稿です。

【待降節第三主日(A年) 週刊大司教第105回 2022年12月11日】

 待降節は後半に入り、主の降誕を待ち望む喜びに、焦点が当てられます。特に第三主日は喜びの主日とも呼ばれ、ミサの入祭唱には、フィリピ書4章から、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」と記されています。典礼ではバラ色の祭服が使われることもあります。降誕祭を間近に控えて、主とともに歩む喜びを心に刻む主日です。

 先週に続いて、マタイ福音は洗礼者ヨハネについての話を記しています。先週はヨハネが「来られるであろう救い主」について、また「自分と救い主との関係」について語っていましたが、今日の福音では、イエスがご自分が示される栄光と救いの業におけるヨハネの役割について語っています。

 ヨハネが預言者として人々に伝えたことは、イエスご自身の業によって証しされました。イエスはそのことを「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に指示することで、洗礼者ヨハネが果たした役割の偉大さを改めて確認します。

 教会は洗礼者ヨハネに倣い、現代世界の中で預言者としての役割を果たし続けています。教会が語るこの預言の言葉は、具体的に教会共同体の業を通じて証しされます。教会は、社会の現実の中にあって、イエスの福音の喜びを証しする存在でありたい、と思います。様々な困難に直面する人たちと共に歩む教会でありたい、と思います。神が与えられたこの尊い命が、例外なく大切にされ、その尊厳が守られる社会を生み出す原動力でありたい、と思います。

 私たちは、主イエスの福音を具体的に生きるとき、喜びに満たされます。イエスとの個人的出会いが心に喜びをもたらすこと、そしてその喜びを多くの人、特に様々な困難を抱えている人と分かち合うことが、さらなる喜びをもたらすこと。教皇フランシスコは使徒的勧告「福音の喜び」で、そのことを繰り返し指摘されました。

 悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げ知らせるものであり続けましょう。

2022年12月10日

・「預言者としての豊かな召命が与えられるよう祈ろう」菊地大司教、待降節第2主日「宣教地召命促進の日」に

2022年12月 3日 (土) 週刊大司教第104 回:待降節第2主日(A年)

 2022_11_20_0039待降節第2主日です。12月の最初の主日は、「宣教地召命促進の日」と定められています。

 中央協議会のホームページには、こう記されています。

 この日、私たちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます。

 またこういった活動を管轄する司教協議会の部署「教皇庁宣教事業」が、ホームページを開設していますので、ご覧ください。日本の「教皇庁宣教事業」の担当責任者は東京教区の門間直輝神父様です。このホームページに、教皇庁宣教事業の活動の詳細な解説が掲載されていますので、ご一読ください。

 なお東京教区では宣教地召命促進の日に合わせて、聖体礼拝をライブ配信します。これはライブだけで、後刻ご覧いただくことはできません。12月4日(日)の午後7時から20分間です。こちらのリンクから、東京教区のホームページ (2022年 宣教地召命促進の日 聖体礼拝 | カトリック東京大司教区 ウェブサイト=(catholic.jp)をご覧ください。

 以下、3日午後6時配信の待降節第二主日のメッセージ原稿です。

【待降節第2主日(A年) 2022年12月4日】

 マタイによる福音は、主の来臨を告げる洗礼者ヨハネについて記しています。

 「荒れ野で叫ぶ声」は、ただむなしく響き渡る「夢物語」ではなく、人々の心に突き刺さる、力ある声でありました。その厳しさの故に、後に洗礼者ヨハネは捕らえられ、殉教の死を遂げることになります。洗礼者ヨハネが告げる言葉には神の力が宿っており、それを受け入れることのできない者は、「命に対する攻撃」という負の力を持って、神の言葉を否定しようとしました。

 教会は、その誕生の時から聖霊によって導かれ、聖霊によって力づけられながら、その時代における預言者としての務めを、果たそうとしてきました。

 教会憲章(12項)には、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、とくに信仰と愛の生活を通してキリストについて生きた証しを広め、賛美の供え物、すなわち神の名を讃える唇の果実を神に捧げることによって行われる」と記されています。

 私たちは現代社会を旅する神の民として、常に、恐れることなく神の言葉を証しする預言者でありたいと思います。

 待降節第二主日は「宣教地召命促進の日」とされています。

 宣教地において、すべての信徒が福音を証しする使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、私たちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲を捧げます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金として送られます。日本も宣教地の一つですから、この日には日本における召命促進のためにもお祈りください。

 教会が、神の民としてふさわしく預言者としての使命を果たしていくことができるように、豊かな召命が与えられるよう祈り続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年12月3日

・「時のしるしを識別できるよう、常に目覚めていよう」菊地大司教の待降節第一主日メッセージ

2022年11月26日 (土)週間大司教第百三回:待降節第一主日A

 待降節となり、降誕祭に向けての霊的な準備の時期が始まりました。2022_11_06_img_0016

 また日本の教会では、待降節第一主日から、ミサにおける式文の翻訳が新しくなります。

 今日のメッセージでも触れましたが、聖書週間中です。今年は11月20日から27日まで。今年のテーマは、「教皇様の回勅『兄弟の皆さん』より「あなたの隣人とは誰か」(ルカ福音書10章25-37節)とし、聖書の言葉は「行って、あなたも同じようにしなさい」(同10章37節参照)」と中央協議会のホームページに掲載されています。

 聖書週間は聖書に親しみ、聖書をより良く理解するために日本のカトリック教会で設けられました。現在私が副理事長を務めさせていただいている日本聖書協会でも、この聖書週間に合わせて活動への協力を呼びかけています。

 以下、本日午後6時配信の、週間大司教第103回目のメッセージ原稿です。

【待降節第一主日A 2022年11月27日】

 待降節となりました。今日から、降誕祭に向けての霊的な準備期間が始まります。待降節の前半は主に世の終わりに焦点を当て、後半では救い主の誕生に焦点を当てながら、その全期間を通じて、本日の福音に記されている「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉を心に留め、それに生きるように、と促しています。

 「待降節」という言葉自体が象徴するように、私たちは救い主の再臨を待ち望んでいます。当然ですが、「待つこと」には様々な態度が思い起こされます。「いつだろう」とそわそわしていることも待つことですが、「何もせずに眠りこけていた」としても、それは待っていることに変わりはありません。

 しかしイエスの指摘される「待つ」姿勢は、「目を覚まし」て「準備する」という、二つの行動を柱とする待つ姿勢です。私たちは時のしるしをよく識別できるように、常に目覚めたものでありたいと思います。

 より良い準備ができるように、主ご自身の模範に倣って、愛と慈しみに積極的に生き、行動する者、でありたいと思います。助けを必要とする人々の所へ出向いていこうとする、積極的な待つ姿勢の教会でありたいと思います。

 教会は11月の第三日曜から第四日曜までを「聖書週間」と定めています。今年は王であるキリストの主日から待降節第一主日までが、聖書週間です。聖書週間は、すべての人、とくに信徒が、聖書により強い関心をもち、親しみ、神の心に生きるように、様々な啓発活動を行う時、とされています。

 第二バチカン公会議の啓示憲章には、こう記されています。

 「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、絶えずキリストの体と同時に神の言葉の食卓から、命のパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである… 神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身の言葉を変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちの言葉のうちに聖霊の声を響かせているからである。(21項)」

 改めて聖書を紐解き、響き渡る聖霊の声に耳を傾けましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

2022年11月26日

・「出会いの中で分かち合い、奉仕する者に」菊地大司教の「王であるキリストの主日」メッセージ

2022年11月19日 (土)週刊大司教第百二回:王であるキリストの主日


2022_11_13_
 典礼暦では年間の最後の主日である「王であるキリストの主日」となりました。次の日曜日からは待降節となります。(写真は田園調布教会)

 今年の待降節から、ミサの式文の翻訳が変更となります。これについて少しだけ記しますが、「これまで使われてきたカトリック聖歌集や典礼聖歌集が廃止になるのでは」と言う噂が流れているようです。

 廃止にはなりません。歌唱する際には、これまで通りカトリック聖歌集や典礼聖歌集を使い続けてください。ミサ曲(キリエなど)に関しても、従来の歌詞のままで使い続けることができます。

 これは現行の典礼聖歌集にあっても、451番に高田三郎先生の「やまとのささげ歌」が収録されている事と同様の考えで、「やまとのささげ歌」は、カトリック聖歌集の51番に第一ミサとして掲載されていたものです。

 カトリック聖歌集は、1966年に神言会のローテル神父様や当時は南山大学教授であられた山本直忠先生、そしてその後典礼聖歌をリードされた高田三郎先生たちが中心となって公教聖歌集を改訂し、発行したものですが、ちょうどその作業中に第二バチカン公会議の典礼改革があり、それにあわせた曲作りは、その後に典礼聖歌として始まりました。典礼聖歌自体も現在のような一冊になるまでには長い時間を要しましたし、それとても完結しているわけではありません。そもそもいくつかの聖歌の番号が典礼聖歌集で欠番となっているのは、将来への布石のはずでした。せっかく作曲された作品ですから、頻度の問題はさておいて、歌い続けることには問題はありません。

 翻訳にしても作曲にしても、時間のかかる作業ですから、その作業の最中に、典礼それ自体が変更になったりすると、対応は大変です。今回の翻訳がそうでした。現行のミサ典書が発行された直後から、それは暫定訳で翻訳されていない箇所が多々あったこともあり、翻訳の見直し作業が進められていました。

 しかしそれが完成する前に、ローマ典礼の規範版そのものが2000年に第3版として改訂され、翻訳作業はそこからすべて見直しとなりました。新たに始められた現在の翻訳作業は、20年でよくここまで到達した、と思います。作業にあたってくださっている典礼委員会の関係者の皆さんに、心から敬意を表して、来週から使わさせていただきます。

 なお、王であるキリストの主日は、世界青年の日でもあります。第37回目となる今年の世界青年の日の教皇メッセージ。今年のテーマはルカ福音書から取られ、マリアは出掛けて、急いで……行った」 となっています。

 さらに明日は、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーの方々のために祈り献金をささげる「ミャンマーデー」です。まだ不安定な状況が続いているミャンマーです。様々な理由、特に非常に政治的な理由から身柄を拘束されていた多くの人たちが、数日前に大量に釈放されましたが、全体としての状況は変わらず、軍事政権による圧政が続いています。ミャンマーの平和のためにお祈りください。東京教区のホームページもご覧ください。

 以下、19日午後6時配信の、週刊大司教第102回、王であるキリストの主日のメッセージ原稿です。

【王であるキリストの主日C 週刊大司教第102回 2022年11月20日】

 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

 このイエスをあざける議員たちの言葉こそが、「王であるキリストとはいったい何者」であるのかを,明確に示しています。

 全世界の王である神は、自分自身の誉れのために、自分自身の欲望を満たすために、皆に仕えられる存在ではなく、自らがいのちをあたえた全ての人を救うために、自分を犠牲にする王であることを、議員たちは図らずも証してしまっています。

 加えて、議員たちは、自らの願望を神に投影して、その願いを満たさないものを神と認めない、という本末転倒の過ちを犯してしまいます。神はご自分からその姿を示すものであって、人間の願望を満たすための存在ではありません。

 時として私たち自身も同じような思い違いをしてしまいます。自分が願っていることが適わないときに、神の存在を疑ってみたり、さらには神をののしってみたり、自分自身の願望をかなえるために、神を利用しようとしたりするのが、私たちです。時に自らの願望を神に投影しようとしたりします。いったい、神と私たちのどちらが「世界を支配する者」なのでしょうか。

 思い違いをしている私たちを目の前にしても,神は常にご自分のありのままであり続けられます。口を閉ざして、嘲りに耐え、命を賭してまで、仕えるものであろうとされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであろうとすることを求めておられます。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者の命を生かすために行動することを求めておられます。

 「王であるキリスト」の主日は,「世界青年の日」と定められています。教皇様は来年リスボンで開催される世界青年大会を視野に、青年たちに教会と共に歩み続けるよう、呼びかけられます。

 今年のメッセージのテーマは、ルカ福音書からとられた、「マリアは出かけて、急いで・・・行った」とされています。教皇様はメッセージで、「マリアが急いで出かけたように、神から特別の恵みを受けた人はそれを分かち合うために急いで出かけるのです。それは自分の必要よりも他者の必要を優先することができる人の急ぎです。…マリアは出会いと分かち合いと奉仕から生まれる純粋なつながりを見出すために出かけたのです」と述べておられます。

 私たちも、出会いの中で分かち合い助け合って共に歩み続ける者でありましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

2022年11月19日

・「『時のしるし』を、福音の光のもとに読み解こうとしているか」菊地大司教の年間第33主日メッセージ

2022年11月12日 (土)週刊大司教第101 回:年間第33主日2022_11_06_001

 典礼の暦も終わりに近づきました。年間第三十三主日は「貧しい人のための世界祈願日」と定められています。(写真は府中墓地で)

 本日から装いを新たにした「週刊大司教」の配信を始めました。今日が101回目となります。基本は主日の福音の朗読と、メッセージ、そして祝福です。メッセージを少し短くしました。

 時に大きく増減を繰り返していますが、徐々に感染症の状況も改善し、またこの状況とどのように適応していくのかが分かってきましたので、教会の活動も再開されつつあります。そこで新しい週刊大司教では、霊的聖体拝領の祈りを入れていません。

 しかし、様々な事情から出掛けることが困難な方は多く折られると思いますので、そのように事情があるときには、この「週刊大司教」とともに、それぞれご自分で霊的聖体拝領のお祈りを唱えるようにしていただければ、と思います。もちろんそれがミサの代わりというのではなく、それぞれの霊的成長に資するものですので、困難なご事情のある方にあっては、折を見て司祭に相談され、御司祭や聖体奉仕者が聖体を持って訪問されるようにされてください。

 以下、12日午後6時配信の、週刊大司教第101回目のメッセージ原稿です。

【年間第33主日C 2022年11月13日】

 典礼の暦は終わりに近づき、毎年この時期の福音は、世の終わりについて語り始めます。

 そうなると、一体のその終わりはいつ来るのかが気になってしかたがありません。例えば今回の感染症の世界的大流行の中で、二年ほども混乱が続き、命が危機に直面すると、「それこそが世の終わりのしるしだ」と考える人が出てきたり、世紀末のように区切れの良い時期が近づくと、「世の終わりが近い」と考える人も出現します。歴史はそれを繰り返してきました。

 しかしイエスは、そういった「諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないように」と忠告します。なぜなら、時の終わりは神の領域であって、人間の領域の出来事ではないからです。

 その代わりに、イエスは「しるし」を読み取ることを求めます。マタイ福音書16章には、もっとはっきりと、こう記されています。

 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時のしるしは見ることができないのか」(2‐3節)

 ヨハネ二十三世が、1961年の降誕祭に「フマーネ・サルティス」をもって第二バチカン公会議の開催を告示された時、そこには「時のしるし」を読み解くことの重要性が記されていました。そこで第二バチカン公会議は「時のしるし」を読み解き、行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、社会の現実の中で、真理をあかし、世を救い、キリストの業を続けるために、教会は「常に時のしるしについて吟味し、福音の光のもとに、それを解明する義務を課されている(4項)」と記しています。

 「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、私たちの務めです。

 教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。教皇様の今年のメッセージは「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」をテーマとし、特に感染症や戦争によって貧困が深まっている世界にあって、教会は義務だからではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きることの重要性を強調されています。

 私たちの心の目は、「時のしるし」を、福音の光のもとに読み解こうとしているでしょうか。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)

 

(編集「カトリック・あい」)=漢字表記は当用漢字表による。聖書の引用は「聖書協会・共同訳」に改めました)

2022年11月12日

・「ザアカイに対するイエスの慈しみの眼差しを私たちも」菊地大司教年間第31主日メッセージ

2022年10月29日 (土)週刊大司教第100回

 現在、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟FABCの総会に参加中です。FABCについては、次週月曜以降、帰国してから報告します。

 「週刊大司教」は、今回の配信で100回目となりました。これまで毎回、千を越えるアクセスを頂いています。多くの皆様のご視聴に、そして祈りの時を共にしてくださっていることに、心から感謝申しあげます。

 新型コロナ感染症の暗闇の中で、ミサの非公開が続いていた期間は、関口教会から会衆を入れない形でのミサの配信を行いました。その後、制限を設けての公開ミサ再開後にあっては、教会まで出かけることが困難な方も大勢おられることから、「週刊大司教」という形で主日のメッセージの配信を行い、同時に霊的聖体拝領の機会としてきました。「週刊大司教」の第1回目は、2020年11月7日土曜日、翌日の年間第32主日のメッセージから始まりました。

 いつまで続けるかは当初からの課題でしたが、視聴回数が1000回を切ったら中断することにしていましたが、ありがたいことに、これまで一度も1000回を切ったことがありません。

 完全ではありませんが、完全ではないですが、教会活動も以前のような形に徐々に戻りつつあります。そこで100回をもって全ての配信を終了することも考えましたが、高齢や病気などで教会においでになれない方々からの要望も多数いただき、今後は次のようにさせていただくことにしました。

 現在の形の「週刊大司教」は、今回をもって終了としますが、今後、形を変えて、もう少し短い形で、主日の福音とメッセージを続けていくことにいたします。名称は従来のまま「週刊大司教」としつつ、全体の構成を変えて配信いたします。

 私自身の準備の負担や都合もありますが、ビデオを作成してくださっている教区本部広報職員の負担も大きいため、全体として短い内容となりますが、ご理解いただきますようお願いします。101回目以降は、「福音朗読とメッセージ」「主の祈りと祝福」という構成になります。

 すでにお知らせしているように、現在、アジア司教協議会連盟の総会で、私も10月末までタイのバンコクに滞在いたしますので、次の撮影と編集が次週、11月5日の配信までに間に合いません。このため、11月5日はお休みさせていただき、11月12日土曜日午後6時から、少しばかり装いを変えた「週刊大司教」を配信を再開いたします。

 今後も、祈りの時をご一緒いただけたら、幸いです。

 以下、29日午後6時配信の年間第31主日メッセージです。

【年間第31主日C(ビデオ配信メッセージ)2022年10月30日】

 ルカ福音はザアカイの話を記しています。先週に引き続き、徴税人が主役です。

 教皇様は2016年10月30日のお告げの祈りで、この話を取り上げ、次のように述べておられます。

 「人々はザアカイのことを、隣人のお金を使って金持ちになった悪党と見なしていました。もしイエスが『搾取者、裏切者、降りてきなさい。こちらに来て、話をつけよう』と言ったなら、人々は喝采したに違いありません」

 しかしイエスの言葉と行いは、罪人を糾弾するものではありませんでした。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの言葉は、罪人との積極的な関りを求め、周りの人を驚かせるに充分でした。そもそもザアカイ自身がその言葉に驚き、信じられなかったことだと思います。

 教皇様はそのイエスの言葉と行いを「神は過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据えます。イエスはあきらめて心を閉ざすのではなく、つねに心を開き、新しい生活空間を絶えず切り開いてくださいます… イエスは(ザアカイの)その傷ついた心を見て、そこに行かれます」と指摘されました。

 私たちは、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があるかのような勘違いをしながら、幾たび、人を裁いてきたことでしょう。とりわけこの二年以上、新型コロナ感染の暗闇の中で疑心暗鬼にとらわれた私たちは、不安のあまり、寛容さを失い、簡単に他者を裁いて自らの心の安定を取り戻そうとしています。

 他人を裁くときに、私たちの口からでる裁きの言葉は、私たちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。そのようなとき、私たちはイエスがザアカイにとった態度、すなわち断罪という「過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据え」た行動を自分のものとしたいと思います。「自分の計る量りで計り返される」のだということを、私たちは心に留めておかなくてはなりません。

 1987年に開催された第一回福音宣教推進全国会議(NICE1)の答申を受けた司教団の回答である「共に喜びをもって生きよう」には、「社会の中に存在する私たちの教会が、社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち合っていく共同体となる」ための一つの道として、「裁く共同体ではなく、特に弱い立場に置かれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したい」と記されています。あれから35年が経過した今、教会共同体はどう変化してきたでしょうか。

 教皇様は同じことを呼びかけるために、しばしば「連帯」という言葉を使われます。私たちの共同体には、連帯のうちに支え合う心があるでしょうか。それとも自分の立場を主張して、他者を裁き、排除する共同体でしょうか。

 昨年2月10日の一般謁見で、祈りについて教えた教皇様は、こう述べています。

 「祈りは、相手が過ちや罪を犯しても、その人を愛する助けとなります。どんな場合にも、人の行いより、その人自身の方がはるかに大切です。そしてイエスはこの世を裁くのではなく、救ってくださいました。・・・イエスはわたしたちを救うために来られました。心を開きましょう。人をゆるし、弁護し、理解しましょう。そうすれば、あなたもイエスのように人に近づき、憐み深く、優しくなることができます」。

 今、この社会にあっては、イエスの慈しみの眼差しを具体化することが必要です。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月29日

・年間第30主日の菊地大司教メッセージ「世界宣教の日にー私たちには、すべての人に福音を伝える使命がある」

2022年10月22日 (土)週刊大司教第99回

 今、バンコクにてアジア司教協議会連盟FABCの総会に出席中です。23日の主日は「世界宣教の日」です。教皇様のメッセージについて,今週の週刊大司教でも触れましたが、メッセージ「あなたがたは私の証人となる」の邦訳はこちらのリンクの中央協議会のサイトにあります。

 以下本日午後6時配信、週刊大司教第99回、年間第30主日メッセージ原稿です。

【年間第30主日C年(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第99回 2022年10月23日】

 本日読まれたルカ福音は、「神様、罪人の私を憐れんでください」と、「目を上げることもなく、胸を打った徴税人の方が、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人だ」とされた話を記しています。

 当時の徴税人は「様々な不正に手を染めていた」とも言われ、多くの人の目には「正しい人」とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの人から「正しい人」と見なされていたことでしょう。謙遜と傲慢。この二人の根本的な違いは何でしょうか。

 ファリサイ派の人の目は、自分に向けられています。「私が何をしたのか。私はどういう人間なのか…」。彼が語るのは、自分のことばかりで、自分の世界に閉じこもっている人です。それに対して徴税人は、その目を神に向けています。「自分がどういう人間なのか」というような判断をせず、すべて神に委ねています。つまり二人の違いは、「自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのか」にあります。

 パウロはテモテへの手紙に「私自身は、すでにいけにえとして献げられており」と記します。回心後のパウロは、人生の中でどれほど偉大なことを成し遂げたか分からないほどです。しかし彼にとっては、「自分のためではなく、すべてを神に委ねた結果」に過ぎません。

 すべてを神に委ねた者の祈りを神は聞き入れる、と、シラ書も記しています。神にすべてを委ねた人のことを「御旨に従って主に仕える人」とシラ書は記します。

 私たちには、単に「謙遜になること」だけを求められているのではありません。謙遜さは、神にすべてを委ねた結果です。求められているのは、神にすべてを委ねることであり、だからこそ御旨に従って主に従うことであり、自分自身をいけにえとして献げることであります。

 自分のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべての命に福音が届けられるように、神に身を委ね、すべてを尽くして福音を証しする者、となりたいと思います。

 教会は本日を「世界宣教の日」と定めています。

 教皇様は、世界宣教の日のメッセージのテーマを「あなたがたは私の証人となる」(使徒言行録1章8節)とされ、改めて、「キリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストを証しし、世界を福音化する以外の使命はありません。教会のアイデンティティは『福音を説く』ということなのです」と強調。そのうえで、「宣教は、個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく、共同で行うものです」とも記し、教会全体が福音宣教の使命を担っていることを思い起こさせておられます。

 さらに教皇様は「キリストの宣教者が遣わされるのは、自分のことを伝えるためでもなければ、己の説得力や管理の腕前を見せつけるためでもありません。この人たちは、最初の使徒たちのように、言葉と行いによってキリストを示し、喜びと率直さをもって、その福音をすべての人に告げるという、崇高な栄誉にあずかっているのです」とも記しておられます。

 教会には教皇庁宣教事業(Pontifical Mission Societies)があり、「ミッシオ」(Missio)とも呼ばれています。教皇様の管轄と調整の下で、全世界の宣教の促進に向けられたカトリック教会の世界的ネットワークであり、宣教地における活動を支援し続けています。世界宣教の日に当たり、自らの宣教者としての使命を思い起こし、教会共同体の宣教の業のためにも祈りましょう。

(編集「カトリック・あい」=文字として読みやすくするため、表記を一般に使われている当用漢字表記とし、句読点も付け直しました)

2022年10月22日