・イエスは私たちに「いかに生きるか」を問われるー菊地大司教の年間第6主日メッセージ

2023年2月11日 (土)週刊大司教第113回:年間第6主日

2023_02_05_003 2月11日は「世界病者の日」です。毎年、この日には、午前中にボーイスカウトなどカトリックのスカウト東京連盟のBP祭のミサが東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、午後には世界病者の日のミサが、同じくカテドラルで捧げられました。病者の日のミサの説教は、別途掲載します。

 来週は月曜日から定例の司教総会が行われます。全国の司教が集まります。司教たちのためにお祈りをお願いいたします。

 安次嶺神父様の葬儀ミサについても別途掲載します。また東京教区から公示されていますが、フィリピンで引退生活を営んでおられた東京教区の司祭ヨハネ満留功次神父様が帰天されました。現地で火葬され葬儀ミサがすでに執り行われました。後日、ご遺骨は東京で引き取り、府中墓地に埋葬するのに合わせて追悼ミサを行います。

 以下、11日午後6時配信の週刊大司教第113回、年間第6主日のメッセージ原稿です。

【年間第6主日A 2023年2月12日】

 マタイ福音は、イエスご自身の存在と律法や預言者、すなわち旧約聖書との関係を語ります。イエスは旧約の掟や預言と無関係ではなく、イエスがもたらす神の国は旧約に記されていることを完成すると、イエスご自身が述べておられます。

 律法は「殺すな」と定めています。しかし、イエスはさらにその根本にまで立ち入り、「腹を立てるものは誰でも裁きを受ける」と指摘します。すなわち、掟は様々な枠を定めることで、その枠と、どのように折り合いをつけて生きるのかという、いわば処世術と表裏一体の関係を生み出すのですが、イエスはそもそも根本にある「私たちは、いかに生きるか」という、生きる姿勢を問いかけます。

 つまり掟は、「どこまでなら許されるか」の枠組み基準ではなく、「いかに生きるか」を生み出す基礎となるべきものです。問題は、「掟をすべて守り、完全な者となるか」ではなく、「いかに生きるのか」であることは、福音の他の箇所、例えば金持ちの善なる青年へのイエスの言葉などにも表されています。

 2月11日は世界病者の日と定められています。

 2月11日は1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、湧き出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かに湧き出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

 ルルドという聖地は、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっています。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、希望を失った人の心に希望を回復し、互いへの思いやりの心を思い起こさせる力があります。私たちすべての教会共同体が、その霊的な安らぎの雰囲気に倣い、それを生み出すものでありたいと思います。

 教皇様は今年の世界病者の日のメッセージで、「働ける人だけに価値があるのではなく、生産性のある人だけが大切なのでもありません。病者は神の民の中心であり、神の民は、人類の預言である彼らと共に前進するのです。一人ひとりに尊い価値があり、誰も切り捨ててはならないという預言です」と述べています。

 改めて、イエスに従う私たちは、いかに生きるべき存在であるのか、自らのあり方を振り返ってみましょう。

(編集「カトリック・あい」)

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2023年2月11日