・「私たちには賜物である命を例外なく守り抜く務めがある」-菊地大司教、年間第12主日に

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 週刊大司教も130回目となりました。毎回ご視聴いただいている皆様には、心から感謝申し上げます。以前から申し上げているとおり、視聴回数が1000回を下回る事が続いた場合は、プログラムの継続に関して判断させていただきたいのですが、今のところ、毎回、おかげさまで1000回を上回るご視聴をいただいています。福音に基づく黙想と祈りの機会をともにしてくださる皆様に、感謝します。少しでも皆様の霊的な糧の一つになっているのであれば、それは幸いです。

 6月24日午後に、イグナチオ教会で、幼きイエス会(ニコラ・バレ)の来日150周年感謝ミサが捧げられました。来日はキリシタン禁制の高札が撤去される一年前の1872年です。その後、女子教育に力を注ぎ、雙葉学園を中心に活動されておられます。幼きイエス会では150年にあたる昨年から各地で記念の行事を行い、今回のミサが、記念行事の締めくくりと伺っています。会員の皆様の150年の献身的な活動に心から感謝申し上げるとともに、修道会の志を受け継いで、現在も学校教育に携わってくださる多くの方々に、心から感謝申し上げます。

 以下、6月25日午後6時配信の週刊大司教第130回、年間第12主日のメッセージ原稿です。

【年間第12主日A 2023年6月25日】

 人間の知恵とか、力とかを、はるかに超えたところに、父なる神はおられます。私たちは人間の身勝手な思いではなく、この世界を創造し、この命を賜物として与えてくださった神の思いを実現するために、恐れることなく努めていきたいと思います。私たちには、神がその愛と慈しみの結実として創造され、神の似姿としての尊厳を持って与えられた賜物である命を、その始まりから終わりまで、例外なく守り抜く務めがあります。

 しかしながら、コロナ禍にさいなまれた世界は、無関心のグローバル化によって利己的になり、自己保身は暴力的な行動を生み出し、今や世界は暴力と排除によって支配されているかの様相を呈しています。とりわけ社会にあって弱い立場に追いやられている人たちを守ることは、教会の尊い務めであるにもかかわらず、神の思いに心を向けることなく、その命の尊厳を守ることよりも危機に追いやるような傾きを、肯定する声が大きくなることは残念なことです。

 教皇フランシスコは、難民や移住者への配慮は命の尊厳に基づいて強調されなければならない、と繰り返して来られました。それぞれの国家の法律の枠内では保護の対象とならなかったり、時には犯罪者のように扱われたり、さらには社会にあって異質な存在として必ずしも歓迎されないどころか、しばしば排除されたりす人たちが、世界には多く存在します。教皇は、危機に直面する命の現実を目前にして、キリストに従うものがそれを無視することは出来ない、と強調されます。法律的議論も大事ではあるけれど、まず優先するべきは、命をいかにして護るのか、であることを指摘してやみません。

 教皇就任直後に、アフリカからの難民が押し寄せる地中海に浮かぶランペドゥーザ島を司牧訪問されたことが、教皇の姿勢を象徴しています。母国を離れようとする人には、他人が推し量ることなどできない、様々な事情と決断があったことでしょう。それがいかなる理由であったにしろ、危機に直面する命に、いったい誰が手を差し伸べたのか。その境遇に、その死に、誰が涙を流したのか。誰が一緒になって彼らと苦しんだのか。教皇は、力強くそう問いかけられました。

 教会は、移住者の法律的な立場ではなく、人間としての尊厳を優先しなければならない、と長年にわたって主張してきました。教皇ヨハネパウロ二世の1996年の言葉です。

 「違法な状態にあるからといって、移住者の尊厳をおろそかにすることは許されません」(1996年の世界移住の日メッセージ)」

 神が与えてくださった賜物である命を最優先とする道に、神の愛と慈しみは私たちを導いています。

(菊地功=きくち・いさお=東京教区大司教、カトリック司教協議会会長)

2023年6月24日

・「すべてのキリスト者に、各々の場、才能で、神の国の完成に働くことが求められている」ー菊地大司教、年間第11主日に

2023年6月17日 (土) 週刊大司教第129回:年間第11主日A

 6月16日はイエスの聖心(みこころ)の祭日でした。6月は聖心の月とされています。2023_06_14_0004

 イエスの聖心は、私たちへのあふれんばかりの神の愛そのものです。十字架上で刺し貫かれたイエスの脇腹からは、血と水が流れ出たと記されています。血は、イエスの聖心からあふれ出て、人類の罪をあがなう血です。また水が、命の泉であり、新しい命を与える聖霊でもあります。キリストの聖体の主日後の金曜日に、毎年「イエスの聖心」の祭日が設けられています。

 聖心の信心は、初金曜日の信心につながっています。それは17世紀後半の聖マルガリータ・マリア・アラコクの出来事にもとづく伝統であります。聖体の前で祈る聖女に対して主イエスが出現され、自らの心臓を指し示して、その満ちあふれる愛をないがしろにする人々への悲しみを表明され、人々への回心を呼びかけた出来事があり、主はご自分の心に倣うようにと呼びかけられました。

 そして聖心の信心を行うものには恵みが与えられると告げ、その一つが、9か月の間、初金曜日のミサにあずかり、聖体拝領を受ける人には特別な恵みがある、とされています。イエスは聖女に、「罪の償いのために、9か月間続けて、毎月の最初の金曜日に、ミサにあずかり聖体拝領をすれば、罪の中に死ぬことはなく、イエスの聖心に受け入れられるであろう」と告げたと言われます。(イエスの聖心への信心に関連して、次のリンクに、教皇ベネディクト16世が2006年にイエズス会総長にあてた書簡の訳が掲載されています。)

 今年は、祭日の前の日の木曜日、その名も「聖心女子大学」で、イエスの聖心のミサを捧げる機会に恵まれました。毎週木曜日の昼休みに、学生のためのミサを続けておられますが、その一つを毎年、担当させていただいてきました。今年は大学の聖堂に150名ほどの学生さんとスタッフが集まり、ミサに参加してくださいました。イエスの聖心がそうであるように、大学も社会にあって、安らぎをもたらし、希望を生み出す存在でありますように。

 以下、17日午後6時配信、週刊大司教第129回、年間第11主日のメッセージ原稿です。

年間第11主日A 2023年6月18日 「収穫は多いが、働き手が少ない」

 豊かに実っているにもかかわらず、それを収穫する人が足りない。だから働き手をさらに必要なのだ。そのように理解すると、例えば、日本での福音宣教の厳しい現実を目の当たりにして、一体どこにその豊かな実りがあるのだろうか、と問いかけてしまいます。

 この言葉は、それよりももっと根本のところを問いかけています。つまり神の国の完成のためには、「神が求められるこの地上でするべきこと、しなければならないことは山積しており、それに取り組むための働き手がもっと必要なのだ」という意味でしょう。加えて、この言葉は単に、司祭の召命の必要性だけを説いているものでもありません。もちろん司祭は必要です。しかし同時に、神の国の完成のために働くのは、一人司祭だけではありません。すべてのキリスト者には、それぞれの場で、それぞれに与えられた才能に従って、「働き手」となることが求められています。

 主御自身が「働き手」として最初に選ばれた12人の弟子たちも、決して皆が同じような人だったのではなく、様々な性格、様々な才能、様々な思いを持った異なった人たちでありました。まさしく多様性のうちにある人々です。その多様性ある共同体は、「天の国は近づいた」と告知する使命によって一致していました。それぞれが、それぞれに与えられた才能を生かし、異なる方法で、しかし同じ務めを果たすことで、多様性における一致が、弟子たちの共同体に実現し、証しされていきました。同じように、現代社会に生きる教会共同体は、一つの体を形作る一人一人が、それぞれに与えられた才能を生かし、それぞれに異なる方法で、しかしキリストの福音を告げ知らせるのだという同じ思いによって結ばれるとき、多様性における一致が実現します。

 教皇フランシスコは回勅「兄弟のみなさん」に、こう記しておられます。

 「命があるのは、絆、交わり、兄弟愛のあるところです。・・・それとは逆に、『自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだ』とうぬぼれるなら、そこに命はありません(87項)」

 私たちの目の前には、神の国の完成のためにしなければならないことが広がっています。働き手は私たちです。私たちは共同体の一致の絆のうちに、その務めを果たしていきます。なぜなら、キリストの体である共同体にこそ、命があるからです。共同体の絆、交わり、兄弟愛に、私たちを生かす源である命があります。一人では「働き手」の務めを果たすことはできません。共に助け合いながら、互いの絆を深め、それぞれに与えられた才能に基づいて、社会の中で「働き手」として、収穫の業、すなわち福音の証しに努めて参りましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年6月17日

・「聖体のいけにえは、キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」ー菊地大司教の「キリストの聖体の主日」

2023年6月10日 (土)週刊大司教第128回:キリストの聖体

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 キリストの聖体の主日です。

 昔ガーナにいた頃は、キリストの聖体の主日には、聖体行列をして村の中を回りました。村の方の半分ほどが信徒だからこそ意味がありました。村の四カ所にステーションを設け、祈りを捧げ、その地域にご聖体を持って祝福をして回りました。もちろん聖歌隊と多くの方が、一緒に行列を作って回りました。

 ご聖体における主の現存を確信し、その愛と慈しみに感謝するとともに、一つの体へと集められた一致の秘跡の絆のうちに、互いに信仰者が結ばれていることを確認し、確信するためにも、そういった村での聖体行列には大きな意味がありました。

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 私たちも、ご聖体のうちに現存される主が、教会共同体とともに歩んでくださることを、この日、再確認したいと思います。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第128回、キリストの聖体のメッセージ原稿です。

【キリストの聖体の主日A 2023年6月11日】

 ご聖体のいけにえは、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえと共に自分自身もささげる」と教会憲章は記しています(11項)。キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、私たちと共に常におられます。

 ご聖体の秘跡は、「私と主との交わり」という意味で極めて個人的な秘跡でもありますが、同時にそれは共同体の秘跡でもあります。そもそもミサそれ自体が、個人の信心ではなくて、共同体の交わりの祭儀です。私たちは常に、共同体の交わりのうちにご聖体をいただきます。

 ですからたとえ司祭がひとりでミサを捧げたとしても、それは司祭の個人的信心のためではなく、共同体の交わりのうちにあって、司祭はミサを捧げます。

 教皇ヨハネパウロ二世の「教会に命を与える聖体」には、次のように記されています。

 「(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら『たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです』」(31項)

 パウロはコリントの教会への手紙で、「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、私たちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。

 私たちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「私たちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。

 私たちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。私たちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、命を分かち合い、愛を共有するという「交わり」の中で、生きている信仰です。

 ご聖体をいただく私たちは、一つのキリストの体に与り、キリストの体をともに形作るものとして、キリストにおける一致を証しするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、主御自身がご聖体のうちに現存され、共にいてくださることをたたえるのみならず、ご聖体をいただく私たちが交わりのうちに一致していることを積極的に証しする決意を新たにする時でもあります。

(菊地功=きくち・いさお=日本カトリック司教協議会会長、東京大司教)

(編集「カトリック・あい」)

2023年6月10日

・「キリストの恵み、御父の愛、聖霊の導きで、一致のうちにある教会に」菊地大司教の三位一体の主日

2023年6月 3日 (土) 週刊大司教第127回:三位一体の主日A

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   三位一体の主日となりました。また6月はイエスの御心の月でもあります。

    聖霊降臨からのこの一週間、月曜日には東京教区で働く司祭の毎月の集まりが行われました。教区司祭も修道会や宣教会の司祭も、小教区司牧で働くすべての司祭が、毎月一度カテドラルに集まり、まず大聖堂で昼の祈りをともにしてから、ケルンホールで研修などを行っています。なかなか全員がそろうことはないのですが、それでも多くの司祭が参加してくださっています。

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    今月の集まりでは、先般叙階された新司祭の中から、東京で働いている5名が来てくださり、それぞれの抱負などについて分かち合った後、小グループに分かれて、先輩の司祭たちと、司牧の課題やこれからの展望について分かち合いのひとときを持ちました。

   教区、修道会と、それぞれ働く場所や役割は異なりますが、日本における、また特に東京における福音宣教のために働くというところでは一致しています。これからの活躍に期待したいと思います。

 今は小教区の兼任も増えており、心身ともに多くのストレスに直面する司祭も少なくありません。どうか、どうか、司祭のためにお祈りくださいますように、お願いいたします。

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   火曜日と水曜日は、大阪まで出かけ、梅田にある大阪梅田教会(東京の梅田教会と区別するためこう呼ばれますが、一般には大阪の梅田教会)を会場に開催されていた、日本の男子修道会管区長会と女子修道会総長・管区長会の合同の総会で、お話をさせていただきました。

    初日の火曜日には午後から教皇大使の講話と、開会ミサがあり、私は二日目の聖母の訪問の祝日のミサを司式し、そのあとに一時間程度のお話を午前と午後の二回させていただきました。テーマは、もちろん、シノドスです。私は講話が終わってすぐ、木曜日に東京で会議があるため大阪を離れましたが、総会は、火曜日から金曜日までの日程で行われ、修道者・奉献生活者の担当である山野内司教様が、すべての日程に参加されました。

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   木曜日はいつものように常任司教委員会と、東京カトリック神学院の常任会議。金曜日は午前中に司祭生涯養成委員会の会議と、その後に銀座で聖書協会の財務委員会…   会議が続いた一週間でした。

 なおこの間に、6月1日付で東京教区ニュースが発行されています。その一面には、今回私が国際カリタスの総裁に選出されたことに関するインタビュー記事が掲載されています。ご一読いただければ幸いです。

   また様々な教区の働きや、ケルンとミャンマーとの関係、さらにはシノドスについての記事、坂倉神父様の訃報なども掲載されていますが、もうひとつ、カトリック美術展の記事が掲載されています。毎年この時期に、カトリック美術協会が主催して、有楽町のマリオンにあるギャラリーで開催しています。今回で67回目です。こちらの記事もご一読いただけると幸いです。来年の開催も決まっています。2024年は5月17日から22日です。

   以下、本日午後6時配信、週刊大司教第127回、三位一体の主日のメッセージ原稿です。

(  三位一体の主日A   2023年6月4日)

    ミサを捧げるとき、司祭は十字架の印の後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさんとともに」と呼びかけます。

    この言葉は、パウロが、コリントの教会に宛てた書簡を締めくくった言葉です。コリントの共同体への様々な忠告や教えに満ちあふれた書簡を、パウロのこの祝福の言葉で締めくくります。

    そして今を生きる私たち教会は、その締めくくりの言葉から、感謝の祭儀を始めます。すなわち、現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるたびごとに、パウロが締めくくった地点から、常に新たなスタートを切っています。

 教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされていきます。自ら創造された賜物である命を生きる人間を、一人たりとも滅びの道に捨て置くことはありません。神の愛における決意は、この三位一体の神を表す言葉に満ちあふれています。三位一体の神秘とは、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして愛を降り注ぐ、神の愛の迫力を感じさせる神秘であります。

 私たちを共同体の交わりへと導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。私たちは、過去に戻りません。

 教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう書いておられました。

 「宣教を中心にした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません。皆さんぜひ、自分の共同体の目標や構造、宣教の様式や方法を見直すというこの課題に対して、大胆かつ創造的であってください。」(33)

 私たちは、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」によって、繋がれています。ですから、私たちはどこにいても、常に、「教会」です。

 「兄弟たち、喜びなさい」とコリントの教会に呼びかけたパウロは、「思いを一つにしなさい」と諭しています。私たちが語るキリストの体における一致は、同じことを同じように考えて、同じように行動する、一緒とは違います。聖霊は私たち一人ひとりに異なる賜物を与えられた。その聖霊の賜物を忠実に生かし、聖霊の交わりの中に生きるとき、私たちは異なる場で異なることをしていても、同じ聖霊に満たされ導かれることで一致しています。

 主キリストの恵みに満たされ、御父の愛に包まれ、聖霊の導きにともに身を委ねることで、一致のうちにある教会でありましょう。

2023年6月3日

・「聖霊の働きに身を委ねる勇気を持とう」ー菊地大司教の聖霊降臨の主日の言葉

2023年5月27日 (土) 週刊大司教第126回:聖霊降臨

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   28日は聖霊聖霊降臨の主日です。

   教会の誕生日とも言うべきこの日、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、午後から教区合同堅信式を執り行います。昨年までは、様々な制限を設けたり、開催できなかったりのことが続きましたが、今年は新型コロナ大感染前と同様に、教区内のいくつかの小教区からの受堅者を迎えて行いたいと思います。合計で何名になるのかは、また後ほど報告します。

 堅信を受けるために準備されてきた皆さん、おめでとうございます。また堅信のための学びを導かれた皆さんにも、感謝いたします。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第126回、聖霊降臨の主日のメッセージ原稿です。

【聖霊降臨の主日A 2023年5月28日】

 「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、私たちを照らしてください」

 聖霊降臨の主日に、私たちはこの言葉で聖霊の続唱を歌い始めます。続唱には、この聖霊の光が、「恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光」であると記され、その光は「苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め」である、と記しています。

 この三年間の暗闇の体験を振り返る時、まさしく私たちは、苦しみと憂いの中にたたずんでいました。世界を席巻した新型コロナの大感染にも、やっと終わりが見えてきました。新たに道を歩み始めようとする私たちの周りは、グローバル化した利己主義と暴力によって大きく変化してしまいました。新たな歩みを始める今だからこそ、私たちは光である聖霊の照らしを願いたいと思います。

 それは、続唱にあるとおり、「あなたの助けがなければ、全てははかなく消えてゆき、誰も清く生きてはゆけない」からに他なりません。今、聖霊の導きが必要です。

 教会は、”シノドスの道”の歩みを通じて、聖霊の導きを識別しようと努めています。

 第二バチカン公会議の「教会憲章」は、聖霊は「教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、種々の位階的たまものやカリスマ的たまものをもって教会を教え導き、霊の実りによって教会を飾る」と教えています。その上で、「聖霊は福音の力をもって教会を若返らせ、絶えず新たにし、その花婿との完全な一致へと導く」(4項)とも記し、教会は、「キリストを全世界の救いの源泉と定めた神の計画を実現するために協力するよう」聖霊から迫られている(17項)と記します。

 2021年9月に発表された今回の”シノドスの道”の準備文書も、共に旅を続けることを通じて福音を告げるためには、「聖霊に耳を傾ける必要がある」として、次のように記しています。

 「この問題に共に取り組むためには、聖霊に耳を傾けることが必要であり、その聖霊は、風のように『思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない』(ヨハネ福音書3章8節)のです。聖霊が途上で必ず用意してくださる驚きに心を開いていなければなりません。このようにして、ダイナミズムが活性化され、シノドスによる回心の実りの一部を収穫し始めることができ、それが徐々に成熟していくのです」(2)

 教会には聖霊がいつも働いています。あの五旬祭の日の出来事以来、今に至るまで、聖霊は教会に働き続けています。聖霊は常に既成概念を打ち破り、固定観念を打ち砕き、父である神の御旨のままに、様々な方向へと吹き続けています。その息吹に、身を委ねる勇気を持ち続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年5月27日

・主の「いつもあなたがたと共にいる」に、生きる希望を見出す―菊地大司教の「主の昇天」主日メッセージ

2023年5月20日 (土) 週刊大司教第125回:主の昇天の主日

2023_04_15    復活祭も終わりに近づき、「主の昇天」の主日となりました。本来は木曜日が「主の昇天」ですが、現在は多くの国でその直後の日曜日に移動されています。

 先週末はローマにいましたが、ローマでも、例えば国際カリタス本部のあるサンカリスト宮殿などの飛び地も含めて、バチカン市内では木曜日が「主の昇天」で休日ですが、ローマ教区を始めイタリアでは日曜日に移動されています。バチカン関係だけはローマでも先日の木曜日が休日となっていました。

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今年2月に相次いで二人の教区司祭が帰天されました。2月4日には茂原教会前主任司祭であったパウロ安次嶺晴実神父様が73歳で、そして翌2月5日には滞在先のフィリピンで、ヨハネ満留功次神父様が78歳で帰天されました。お二人の納骨式を、本日5月20日午前11時半から、カトリック府中墓地で行いました。

 また東京教区司祭のフランシスコ・ザビエル坂倉恵二神父が、5月17日午後2時54分、中咽頭癌のために、千葉寺教会内の居室にて帰天されました。71歳でした。坂倉神父様には、私が東京に赴任される以前から病魔と闘っておられました。坂倉神父様の葬儀は、5月22日月曜日の12時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われます。

 帰天された神父様方の永遠の安息をどうぞお祈りください。 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第125回、主の昇天の主日のメッセージ原稿です。

【主の昇天の主日A 2023年5月21日】

 使徒言行録は、新しい命へと復活された主イエスが、弟子たちとともに40日を過ごした後に天に上げられる時、弟子たちに対して、神の国について教え、「地の果てに至るまで、イエスの証し人となるように」と命じられた、と記しています。

 マタイの福音も、主イエスが残される弟子たちに、「あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい」と命じる言葉を記しています。 主の受難と死と復活に与り、新しい命へと招かれた私たちには、福音を告げ知らせる使命が与えられています。その使命を果たすことは、キリストに従う一人ひとりの責任です。同時に、パウロがエフェソの教会への手紙に記すように「教会はキリストの体」ですから、共に道を歩む教会共同体全体にとっての責任でもあります。

 福音を告げ知らせないキリスト者はいないのと同様、福音を告げ知らせない教会共同体もあり得ません。 主が取り去られてしまった弟子たちは希望を失い、大きな絶望を味わったことでしょう。茫然自失の状態で立ち尽くす弟子たちに、主御自身が希望の言葉を告げます。

 「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」

 困難な状況の中にある時こそ、未来への希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、利己心にがんじがらめにされた心を解放し、助けを必要としている他者に向けて心を向けさせます。 だからこそ、マタイの福音に記されたイエスご自身の言葉は私たちの生きる希望です。

 「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」

 様々な困難に直面し、人間という存在の弱さと小ささを自覚させられる時、それでも私たちは見捨てられることはない。いつまでも共にいてくださる主が、未来に向かって歩みを共にしてくださる。私たちは、この約束の言葉に、生きる希望を見い出します。

 主が共に歩んでくださるからこそ、私たちはその主を具体的に証しするように努めましょう。世界を支配するのは暴力であってはなりません。命の選別であってはなりません。弱者の排除であってはなりません。困難に直面する社会で真の希望を生み出すために、すべての人と真の連帯を強め、忍耐と謙遜の内に希望の福音を証しする者となりましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2023年5月20日

・「東京大司教の務めもおろそかにしない」国際カリタス総裁選任で菊地大司教がメッセージ

(2023.5.15 カトリック・あい)

 国際カリタス総裁にカトリック東京大教区長の菊地功・大司教が選任されたが、大司教から15日、東京大司教区の司祭、信徒への以下のメッセージが届いた。全文以下の通り。

カトリック東京大司教区の皆様へ

 主の平和

 国際カリタス総裁(会長)選出にあたって

 すでにお知らせや報道がありますが、現在ローマで開催されている国際カリタスの総会で、5月13日夕方、今年で二期8年の任期を満了したタグレ枢機卿の後任総裁(会長)を選出する選挙が行われました。その結果、2023年5月から2027年5月までの次期総裁(会長)として私が選出されましたので、東京教区の皆様にお知らせいたします。

 国際カリタスは世界各国・地域の司教協議会によって認められている「カリタス(愛)」の活動を行う団体による連盟組織で、国際社会では国際赤十字に次ぐ第二の規模を持つ人道支援組織と言われています。日本からは、司教協議会の委員会である「カリタスジャパン」が、国際カリタスの連盟に参加してきました。現時点では世界各地から160を超えるカリタスが連盟に参加し、教皇庁の総合人間開発省のもと、バチカンに本部事務局を置いています。

 4年に一度開催される総会では、連盟全体の活動計画や予算計画と共に、総裁(会長)、事務局長、会計が選出され、同時にその後4年間の役員会のメンバーも承認されます。

 事務局長はローマ本部で常勤となりますが、総裁(会長)と会計は非常勤です。したがって、今回わたしは総裁(会長)に選出されましたが、東京を離れるわけではなく、役員会など必要に応じてローマなどに出かけることになります。

 なおこの選挙は立候補制ではなく、連盟に加盟する団体からの推薦(ノミネート)を受けて内部の委員会が審査し、その後、国務省の審査を受けた上で候補者と認定されます。今回、総裁候補者には、私以外に4名の方がおられました。

 事前の情報では私が選出される可能性はほとんどありませんでしたが、どういういきさつなのか3回目の上位2名の決選投票までもつれ込み、最終的に一票の差で私が選出されることになりました。選出されるとは全く思ってもいませんでしたので、何もそのための準備をしていませんでした。

 国際カリタスは、普遍教会の本質的な役割の一つである愛の業を率先して実行し、神の愛を目に見える形で証しする存在として、教会全体の福音宣教と存在そのものにとって大きな意味を持つ活動です。今回多くの加盟団体の支持をいただいて総裁(会長)に選出されましたので、教皇様の意向に従い、教会の愛の業を深めていくために力を尽くしたいと思います。

 教区の皆様には、現状、補佐司教も任命されていない中、今回の選出に関連して、今後の予定の変更や調整など大きな迷惑をおかけすることになります。当然、私の第一の務めは東京の大司教ですので、それ務めをおろそかにしないように全力を尽くします。

 教区の皆様のご理解とお祈りを、心よりお願い申し上げます。

カトリック東京大司教区 大司教 菊地功

2023年5月15日

・「主の愛を受け、心をもって語る者でありたい」菊地大司教の「世界広報の日」メッセージ

2023年5月13日 (土)週刊大司教第124回:復活節第6主日A

505594_204727_800_auto_jpg 復活節も終盤となり、すでに第六主日です。 主の昇天と聖霊降臨が近づいてきました。復活節第六主日は、世界広報の日でもあります。 今年の教皇フランシスコのメッセージのテーマは、「心をもって、『愛に根ざして真理を語る』(エフェソの信徒への手紙4章15節)」とされています。

 本日、私はローマにおります。 この原稿は一週間前に事前投稿していますので、どういう結末になっているかは、この後改めて記します。

 何をしているのかというと、予定では選挙に負けるためにローマまで来ております。 国際カリタスは4年ごとに総会を開催し、そのたびごとに4年任期で、総裁と事務局長を選出しています。 その国際カリタスの次期総裁選挙の投票が、5月13日午後に、ローマで行われます。 それに参加しております。

 前回の2019年5月の総会まで、私はアジアのカリタスの総裁を8年務めました。 昨年2月にはカリタスジャパンの責任司教も降りましたので、いまはカリタスとのつながりはありません。 カリタスの選挙はメンバーによるノミネート制で、立候補はできません。 また候補者に関しては国務省の事前審査が必要です。

 というわけで、カリタスジャパンではなくて、アジアのどこかのカリタスが、ありがたいことに私を総裁候補にノミネートしてくださり、国務省の審査も通りましたので、選挙に参加するように急遽、呼ばれました。 候補者は私を入れて5名です。 ほとんど全員存じ上げているので、どなたが選ばれるか、事前に予測しております。 現在の総裁がフィリピン出身のタグレ枢機卿様ですから、私は無理だと思います(地域的にも能力的にも)。 いずれにしろ結果が出たらすぐにお知らせします。 ちなみに事務局長はフルタイムですが、総裁はパートタイムですから、選ばれたからといって、ローマに引っ越すわけではありません。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第124回、復活節第六主日メッセージ原稿です。

【復活節第六主日A 2023年5月14日】

 ヨハネ福音は、最後の晩餐の席上で、聖霊を与えると弟子たちに約束を繰り返すイエスの言葉を記しています。 御聖体の秘跡のうちに常に現存されることを約束された主は、さらに愛する弟子たちに思いをはせ、またご自分が創造されたすべての命への愛に駆られて、常に変わらない聖霊の導きを約束されます。 その愛に満ちあふれたイエスの御心に思いを馳せましょう。

「私が父のうちにおり、あなた方が私のうちにおり、私もあなた方のうちにいる」

 イエスに従うものが、共同体のうちに共に生きていくことが、この言葉に示唆されています。 聖霊は教会共同体に働き、共同体としてイエスの福音を明かしするものであるようにと、私たちを導いてくださいます。 主は共におられます。

 教会は、復活節第六主日を「世界広報の日」と定めています。 第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、「広報分野における各自の責務について教えられ、この種の使徒職活動のために祈り、援助のために募金するように(18)」と、1967年に始まりました。

 新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などにとどまらず、いまや時代はインターネットです。 すべての人が、この使徒職に関わる道具を手にしています。 SNSなどを通じて私たちは、誰でもいつでも、世界に向けて声を届ける手段を手に入れました。 今や広報における使徒職は、特別な人や団体だけに限定された使徒職ではなく、すべてのキリスト者にとっての使徒職です。

 この配信をご覧になる皆さんを含め、福音宣教のための道具を手にしているのです。 もう、福音宣教ができない口実を並べることはできません。私たちは、道具を手にしているからです。

 今年の第57回世界広報の日メッセージで、教皇様は「心をもって話す」ことに焦点を当て、こう記されています。

 「澄んだ心で相手の話に耳を傾けることができれば、愛に根ざして真理を語れるようになります(エフェソの信徒への手紙4章15節参照)。面倒が生じようとも、真実を告げることを恐れてはなりません。 ただし真実を告げる際、愛も心もないままに、そうしていないかを気に掛けねばなりません」

 心を持って語ることは愛のうちに語ることです。 現代社会はインターネットという福音宣教の道具を手にしながら、同時に「真実を捏造して操作する偽情報を持ち出すことす」すら可能となっています。 私たちは、ともにおられる主に導かれ、聖霊に照らされながら、主の愛を受けて、心をもって語る者でありたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2023年5月13日

・「イエスに倣い、私たちも『新しい道』を切り開かねばならない」菊地大司教の復活節第5主日メッセージ

2023年5月 6日 (土)週刊大司教第123回:復活節第5主日A

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 復活節第五主日です。

 ご存じのように今年の10月には、ローマでシノドスが開催されます。このほど確定した日程が公表され、シノドスはまず、9月30日(土)にエキュメニカル祈祷会で始まり、9月30日から10月3日までが参加者全員の黙想会、そして10月4日から29日までが実際の討議となります。

 正式な参加者リストは、これから教皇様の裁可を経て、後日公表されるとのことですが、すでに報道されているように、参加者には各国の司教協議会から選出された司教以外にも、70名の司祭・修道者・信徒の代表が参加することになります。

 また教皇様はこれまで司教に限定されていたシノドスでの投票権を、司教以外の参加者にも認める決定をされ、すでにシノドス事務局の次官として女性・修道者で初めて投票権を持つことが決まっていたシスター・ナタリーに加えて、投票権の範囲が広がることになりました。

 それぞれの大陸別司教協議会連盟にはリストを作成するように指示が出ており、私が事務局長を務めるFABC(アジア司教協議会連盟)でも候補者リストを作成しているところです。これから準備される世界から集まる140名の候補者リストから、教皇様が70名を選択することになります。

 とは言え、9月30日から10月29日まで、仕事や学業を休んでローマにいることになりますから、司祭・修道者・信徒からの候補者選びは、それは簡単なことではありません。

 よりよい参加者の選択がされますように、お祈りください。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第123回、復活節第五主日のメッセージ原稿です

【復活節第五主日A 2023年5月07日】

 「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の下に行くことができない」

 私たちの主イエスは、すでに出来上がっている地図に基づいて道を案内してくれる、いわば”カーナビのガイド”ではなく、ご自分こそが何もないところに新たに切り開かれていく「道」そのものなのだ、と自ら宣言されます。

 すなわち、御父へと至る道は既に存在している道ではなくて、新しい道、しかもイエスご自身が先頭に立って切り開いて行かれる新しい道であります。イエスは、「その新しい道こそ真理であり、そこにこそ命がある」と言われます。私たちは、既にあり、よく知っているからこそ、不安なくたどることのできる道に安住しがちであります。

 既によく知っているからこそ、「そこにこそ安心があり、命がある」と思い込んでしまいます。しかし主は、常に新たにされる道であるご自身と共にたどるように、招いておられます。「未知への旅立ち」を促されます。

 私たちは御父へと至る道を、一人で勝手に歩むことはできません。イエスご自身しか、その新しい道を知らないからです。ですからイエスに付き従って、歩み続けなければなりません。そのためにもイエスが共におられる、共同体の存在は不可欠なのです。「私のいるところに、あなた方もいることになる」と福音に記されているように、主は信仰の共同体と共におられます。私たちが歩む「命の道は」、共同体の交わりの道であります。

 初代教会が発展してきた頃に、その実際の運営を巡って「対立と混乱が生じた」と使徒言行録に記されています。そこで教会共同体は進むべき道を識別します。教会の新たな在り方を定めていったのです。聖書に記された教会の最初の改革です。神の言葉を告げ知らせることこそ、優先すべきことだ、と識別した教会は、そのための制度を整えたことで、さらに発展を遂げていきました。

 現代を生きる教会も、「神の言葉をないがしろ」にしてはなりません。神の言葉をさらに多くの人たちに告げていくために、教会のあり方を常に見直す必要があります。シノドスの道はそのことを求めています。今、教会は「変革の時」にあります。

(編集「カトリック・あい」)

 

2023年5月6日

「一人ひとりの弱さを認め、与えられた召命を見つめ直そう」菊地大司教の「世界召命祈願日」メッセージ

2023年4月29日 (土) 週刊大司教第122回:復活節第四主日A

2023_03_21_073_20230427091001 復活節第四主日です。善き牧者の日曜日です。また教会はこの日を「世界召命祈願日」と定めています。東京教区では、教区の一粒会が、この日にカテドラルで召命祈願ミサを捧げていますが、この3年は新型コロナの大感染の影響で開催できていませんでした。

メ ッセージでも触れていますが今年は、4月30日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、従来通り捧げることができることになりました。司祭・修道者の召命のために祈るとともに、同時にキリスト者としてのすべての人への神の呼びかけに、一人ひとりが勇気を持って応えることができるように、ミサに参加される方も、参加されない方も、お祈りをお願いいたします。

以下、29日午後6時配信の週刊大司教第122回、復活節第四主日のメッセージ原稿です。

【復活節第四主日A 2023年4月30日のメッセージ】

 教会は復活節第四主日を「世界召命祈願日」と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りをお願いする日としています。今年は2019年以来四年ぶりに、東京教区の一粒会が主催して、神学生や志願者と一緒に、召命祈願ミサがささげられます。

 改めて皆さまに、司祭や修道者への召命のため、またその道を歩んでいる神学生や志願者のために、お祈りくださるよう、お願いいたします。

 また、召命を語ることは、司祭や修道者への召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者、特に信徒に固有の召命を語ることでもあります。第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。

 「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31項)

 「自分自身の務め」を社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が今、必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が今、必要です。召命は、特別な人の特別な役割のことだけを語っているのではなく、「すべてのキリスト者に与えられている使命について、責任を持つように」と求めるものです。

 ヨハネ福音は、よい牧者であるイエスの姿を記します。羊はよい牧者の声を聞き分け、従うことで、救いへとつながる羊の門へと導かれます。「よい牧者であるキリスト」の声を聞き分け、よい牧者が示す道を見い出し、それをすべての人に届けるためには、一人ひとりのキリスト者の働きが必要です。暗闇に彷徨う多くの人に、永遠の命へとつながる道を示すのは、私たち教会の務めです。

 互いへの信頼が失われ個人主義の深まる社会にあって、パン種のように「神に従って秩序づけながら神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が、これまで以上に必要です。たとえ一人の働きは小さくとも、まさしく小さなパン種がパンを大きく膨らませるように、その働きは福音宣教に大きな実りを生み出します。

 牧者であるキリストの声が、社会に大きく響き渡るように、すべての人に届くように、努めましょう。世の終わりまで共にいてくださる主に信頼しながら、その声がすべての人の心に響き渡るように、私たち一人ひとりに与えられている召命を見つめ直してみましょう。

(菊地功=菊地・功=東京大司教、カトリック日本協議会会長)

2023年4月29日

・「教会共同体が神との一致、人類の一致の道具だという自覚を新たにしよう」復活節第三主日の菊地大司教メッセージ

2023年4月22日 (土) 週刊大司教第121回:復活節第三主日A

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   復活節第三主日です。

 先週の日曜日、復活節第二主日には、東京の六本木にあるフランシスカン・チャペルセンターで、堅信式ミサを捧げました。チャペルセンターはフランシスコ会の日本管区本部の隣にあり、司牧はフランシスコ会が担当しています。

 東京教区内には、いくつかの言語別の属人小教区があります。そのうちのフランス語共同体とドイツ語共同体には、それぞれフランスの司教団とドイツの司教団が司祭を派遣してきますし、関口にあるもう一つの小教区である韓人教会は、ソウル教区が司祭を派遣してきます。

 それに対してチャペルセンターは独立した教会の建物がある東京教342059418_165277406468101_57366739464429区の小教区ですが、基本的に英語を使用する教会なので、主任司祭は司牧を委任されているフランシスコ会が手配をし、現在はシンガポールから派遣されてきたフランシスコ会員のクリフォード・アウグスティン神父様です。

   復活節第二主日には、この教会の所属する様々な国籍の子供たちが、20数名、堅信を受けられました。おめでとうございます。写真は、フランシスカン・チャペルセンターのFaceBookからお借りしました。

  明日、復活節第三主日は、都内の成城教会で、午後から堅信式ミサの予定です。

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   吉祥寺教会の司牧を担当し、また私自身の所属する神言修道会では、6年に一度の総会の前に、ローマ本部の顧問が各国の共同体を訪問することになっています。これを総視察と呼んでいます。

  現在ローマ総本部から二名が日本に来られ総視察中ですが、そのうちの一人、総本部顧問のGuy Mazola Midoブラザーが、昨日訪問してくださいました。ブラザーGuyは、コンゴ民主共和国出身です。神言修道会のアフリカのミッションでは、ガーナとともに長年にわたって活動を続けている歴史のある管区出身です。これからの神言修道会の東京における活動について、意見を交換させていただきました。

以下、22日午後6時配信の、週刊大司教第121回、復活節第三主日のメッセージ原稿です。

( 復活節第三主日A  2023年4月23日)

   主が復活された日の夕方、力強く導いていたリーダーを突然に失い、弟子たちは混乱していました。その中で、二人の弟子が、その混乱の現実に背を向け、安心を求めてエルサレムを旅立ち、エマオへ向かっていました。

   悲劇的な出来事の引き起こす混乱に心が翻弄され、不安に取り付かれている時に必要なのは、落ち着いた振り返りです。イエスが何を教えきたのか。何を証ししてきたのか。そしていま眼前で起こっている出来事を通じて、神は何を語りかけているのか。落ち着いて見つめ直し、より良い道を探し求めなくてはなりません。しかしこの日、弟子たちには、その心の余裕がありません。

 二人の弟子と共に道を行かれるイエスは、起こっている出来事の意味に自ら気が付くようにと、二人に辛抱強く耳を傾け、共に歩きながら、彼らが気付くのを待ち続けます。

 使徒的勧告「キリストは生きている」で教皇フランシスコは、イエスに対する信仰とは「イエスと出会って真の友情を深めることだ」として、こう指摘されます。

 「イエスとの友情は揺るぎないものです。黙っておられるように見えたとしても、この方は決して私たちを放ってはおかれません。私たちが必要とするときには、ご自分と出会えるようにしてくださり、どこへ行こうともそばにいてくださいます」(154項)

 あの夕方、エマオへの道で、二人の弟子と共に歩み、辛抱強く耳を傾けたように、主は今日も私たちと歩みを共にされ、辛抱強く私たちの叫びに耳を傾け、時のしるしをどのように読み解くのか、私たちが気付くように導きながら、いつも待っておられます。

 私たちを友情の固い絆のうちに結び合わされた主は「黙っておられるように見えたとしても」、必ずや共にいてくださる、共に歩まれる。私たちはそう信じています。

 この3年間の様々な活動の制約が徐々に撤廃されている今、単に過去の「あの時」に戻るのではなく、この体験から何を学ぶことができるのか、何を神は語りかけているのか、振り返ってみることが大切です。なぜなら教会は、時の流れの中で立ち止まらず、時の流れに逆らって過去に戻るのでもなく、聖霊に導かれて常に前進を続ける神の民であるからに、他なりません。

 私たちは弟子と共に歩む主の姿に倣い、互いに耳を傾け合う対話と、共に道を歩む辛抱強さを持つものでありたいと思います。神から命を賜物として与えられた兄弟姉妹として、友情の絆で結び合わされ、連帯のうちに支え合いたいと思います。教会共同体こそは、社会の現実の中で、神との一致と全人類の親密な一致の「しるしであり道具である」という自覚を、新たにしたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=表記を当用漢字表記に統一しました)

2023年4月22日

・「神の慈しみを、憐みを、愛を、具体的に生きる教会であるように」菊地大司教の復活節第二主日メッセージ

2023年4月15日 (土)週刊大司教第120回:復活節第二主日

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  復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められています。聖ファウスティナに告げられた主イエスのお望みメッセージに基づいて、大聖年であった2000年から、復活の主日の次の日曜日(復活節第2主日)が「神の慈しみの主日」と定められ、この主日に神の慈しみに対する特別の信心を行うよう、教皇様は望まれました。2005年に帰天された時、最後に準備されていたのは、この神のいつくしみの主日のメッセージでした。

 なお東京カテドラルの地下聖堂には、聖ファウスティナに出現された主イエスの姿の絵が安置されています。教皇庁大使館を通じて聖ファウスティナと聖ヨハネパウロ二世の聖遺物とともに、東京教区に贈られたものです。こちらにそれについて触れた「慈しみの特別聖年」の際の岡田大司教様の説教があります。(上の写真は、ウクライナの平和のための祈祷会の時のものです)

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 今週は、12日の水曜日に、東京カトリック神学院において、哲学・神学課程を始める前に少なくとも一年間を過ごす予科のために、独立した建物ができあがり、司教様たちも東京と大阪の教会管区から8名の司教も参加して、竣工祝福式が行われました。新しい”予科棟”は、ぱっと見ると新潟の司教館とそっくりです。デザインと施工が新潟の司教館と同じだからです。施工は木造建築では定評のある、新潟の新発田建設でした。

 また土曜日15日の午後2時からは、ドミニコ会において司祭叙階式が行われ、ドミニコ会会員の佐藤了師が司祭に叙階されました。おめでとうございます。今年は東京では司祭叙階の多い年になりました。叙階式は渋谷教会で行われました。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第120回目のメッセージ原稿です。

( 復活節第二主日A  2023年4月16日)

 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と福音に記されています。私たちはこの3年間、同じように、恐れの中で閉じこもっていました。

 その日、弟子たちに向けて語りかけられたように、主ご自身が今もまた、「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださっていると、信じています。神の平和、すなわち神の支配の中に、私たちは生かされていることを心に留めたいと思います。

 復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神の慈しみの主日」と定められました。聖ファウスティナが受けた主イエスの慈しみのメッセージに基づいて、神の慈しみに身をゆだね、互いに分かち合う大切さを黙想する日であります。

 よく知られていますが、2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の「神の慈しみの主日」のためにメッセージを用意されていました。そこには、こう記されています。

 「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、赦し、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

 神の慈しみは、教皇ヨハネパウロ二世にとって重要なテーマの一つでした。1980年に発表された回勅「慈しみ深い神」には、「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では『憐み・慈しみ』と呼ばれています。・・・慈しみは愛になくてはならない広がりの中にあって、言わば愛の別名です」(慈しみ深い神3/7)と記されています。

 神の慈しみ・憐みを目に見える形とするのは、愛の具体的な実践です。同時に教皇は、「人間は神の慈しみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、慈しみを持つように命じられている」としるします(慈しみ深い神14)。神の慈しみは一方通行ではありません。それをいただいた私たちは、互いに神の慈しみ・憐み、すなわち愛を分かち合うものでなくてはなりません。

 東京ドームでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。

「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、”野戦病院”となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる『慈しみ』という基準です」

 神の慈しみを、憐みを、愛を、具体的に生きる教会でありましょう。

2023年4月15日

・「互いに支え合い、希望を生み出す”シノドスの道”を歩もう」菊地大司教の復活の主日ミサ

(菊地大司教の日記 2023年4月 9日 ) 2023年復活の主日@東京カテドラル

 主イエスの御復活、おめでとうございます。

 聖週間中は肌寒く雨が降ったり風が吹いたりの、ちょっと荒れ気味の天気が続いた東京でしたが、復活の主日の今日は、朝からきれいに晴れ渡りました。

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 東京カテドラル午前10時のミサには、座席の後ろで立ってミサに与る人も出るほど、大勢の方に参加していただきました。入堂の制限をほとんどしなくなりましたので、久しぶりに大勢の方が参加する復活祭でした。たまたま東京におられたのでしょうが、海外から団体で来られていた方も30名以上おられました。

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 またミサ後には、これも2019年の復活祭以来、本当に久しぶりに、ケルンホールで復活の祝いの茶話会(食事会はまだ実現していません)が行われ、昨晩受洗した方々だけでなく、2020年、2021年、2022年の受洗者や転入者の方々も紹介され、お祝いのひとときとなりました。

 以下、本日のミサの説教原稿です。

【主の復活A 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月9日)

 みなさん、主の復活おめでとうございます。

 昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方、堅信を受けられた方、おめでとうございます。

 十字架における受難と死を通じて新しい命へと復活された主は、私たちが同じ新しい命のうちに生きるようにと招きながら、共に歩んでくださいます。

 改めて、コロナ感染症の世界的大感染の暗闇が始まった初期、3年前の9月に教皇様が謁見で語られた言葉を思い起こしたいと思います。

 「この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません… 協力するか、さもなければ、何もできないかです。私たち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません」

 この3年間、教会は互いに支え合い連帯することの大切さを、繰り返し強調してきました。今、まさに全世界の教会が、進むべき道を模索して歩み続けているシノドスの道程のように、教会は、信仰を共同体の中で、互いに支え合って生きるのだ、と繰り返してきました。

 とりわけ、感染症の世界的大感染がもたらした暗闇は、物理的に集まることを難しくしてしまいましたが、その中にあって、教会は、「共に歩むことと、単に一緒にいることは異なっているのだ」と言うことをはっきりと自覚させられました。神の民はどこにいても、常に歩みを共にする共同体です。それぞれがどこにいたとしても、洗礼の絆で結ばれた兄弟姉妹は、連帯のうちに神に向かって歩みを進めます。私たちは、共に歩む神の民であります。

 主イエスが受難の道を歩まれた晩に、恐れから三度にわたって「イエスを知らない」と口にしてしまったペトロは、先ほど朗読された使徒言行録では、全くの別人となっていました。ペトロはイエスについて、「聖霊と力によってこの方を油注がれた者とされました」と語っていますが、ペトロ自身が、主の復活の体験によって力づけられ聖霊を受けたことによって、力強い宣教者に変えられました。

 ペトロはさかんに「自分は『証人』である」と強調します。すなわち彼自身が証しをする出来事そのものが、彼を変えた。だからこそ、ペトロはその出来事を語らざるを得ない。そうする力は、その体験から生み出されてくる力です。

 ペトロは、その体験が個人的体験なのではなく、共同体としての体験であることを、たとえば「ご一緒の食事をした私たち」というように語り、「私たち」が証人であることを強調します。復活の体験は個人の体験ではなく、共同体の体験です。力強く変えられるのは私一人ではなく、互いに歩む兄弟姉妹と共にであります。信仰は、共に体験し、共に学び、共に深め、共に歩む道であります。

 私たちは、創世記の2章18節にあるように、互いに助け合う者となるために命を与えられています。ですから、連帯の内に互いに支え合うことは、私たちの「優しい性格の賜物」なのではなく、賜物として与えられた命を生きる者にとっての務めです。

 しばしば引用していますが、2019年11月25日、東京で行われた東北被災者との集いでの教皇フランシスコの言葉を思い起こします。

 「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすために最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

 教会の愛に基づく様々な支援活動は、困難に直面する人たちが、「展望と希望を回復」するために、自らは出会いの中で「友人や兄弟姉妹」の役割を果たすことです。「展望と希望」を、外から提供することはできません。連帯における支え合いこそが、命を生きる希望を生み出します。

 私たちが共同体として信仰を生きる理由は、教会共同体が社会にあって命を生きる希望を証しする存在となり、神による救いの道を指し示す、闇に輝く希望の光として存在するためであります。信仰は、自分の宗教的渇望を満たすためではなく、神から与えられた命がその尊厳を守られ、与えられた使命を果たすためであり、その使命は共同体における連帯のうちに実現されます。

 教皇ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、 「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです」と記しています。

 私たちは、生きている主イエスと出会いたいのです。復活された栄光の主と出会いたいのです。その主イエスは、教会共同体の中におられます。ミサに与るとき、朗読される聖書のことばに主は現存されます。御聖体の秘跡のうちに主は現存されます。そしてともに歩む兄弟姉妹の一人ひとりのうちに、主はおられます。「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書25章40節)と、イエスの言葉が福音には記されています。

 第二バチカン公会議は、教会とは、神との交わりと全人類の一致を目に見える形で表す存在として、また世の光、地の塩として、命と希望をもたらすためにこの世界に派遣されている神の民であると強調しています。

 私たちは一緒になって旅を続ける一つの民であり、その中心には主ご自身が常におられます。主と共に歩む神の民は、人類の一致の見えるしるしとして、命を生きる希望を生み出す存在であるはずです。この教会の姿を具体的に生きようとしているのが、教皇フランシスコが共に歩むことを呼びかけておられる「シノドスの道」であります。

 今回の「シノドスの道」においては、参加すること、耳を傾けること、識別することの三つが重要だと言われています。そのために教皇様は、教会全体が参加して耳を傾け合い、祈り合い、識別するための長いプロセスを選択されました。

 それは決して、下からの決議を積み重ねて、民主主義の議会のように多数決で何かを決めていくようなプロセスを定めることを目的としているのではなく、識別するための姿勢、耳を傾けあう姿勢、互いに連帯の内に支え合う姿勢を、教会の当たり前の姿勢にすることを一番の目的としています。

 教会がその姿勢を身に着けることができたのなら、それは聖霊の導きの識別へと自ずとつながります。ですから、「準備された様々なステージが終わったからもう関係がない」ではなくて、この「シノドスの道」で求められていることは、これからも続いて取り組まなくてはならないことです。

 共同体における連帯は、命を生きる希望を生み出します。共同体において共に歩むことで、私たちは聖霊の導きを識別します。互いに支え合うことで、主ご自身と出会います。共に御言葉と御聖体に生かされることで、復活を体験したペトロのように大きく変えられていきます。

 教会共同体が希望を生み出す存在であるように、互いに連帯のうちに、支え合いながら歩み続けましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教会議会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に統一しました)

2023年4月10日

・「主の死と復活・私たちに求められているのは行動、前進すること 」菊地大司教、復活徹夜祭ミサ

(菊地大司教の日記 2023年4月 9日)

2023年復活徹夜祭@東京カテドラル

 主のご復活、おめでとうございます。

 8日本日午後7時からの、東京カテドラル聖マリア大聖堂での復活徹夜祭では、25名の方が洗礼を受けられました。おめでとうございます。また転会の方もあり、成人の受洗者と一緒に堅信を受けられました。心からお慶び申しあげます。

皆様の教会ではいかがでしたでしょうか。

毎年多くの方が洗礼を受けられますが、いつまで経っても聖堂がパンクすることはありません。確かに健康や年齢のために教会に足を運ぶことができなくなる方もおられるでしょうし、帰天された方もおられたでしょう。しかし、いつの間にか足が遠のいてしまう方がおられるのも事実です。時に「教会での様々なレベルでの人間関係がその要因だ」というお話しを伺って、残念に思うことがあります。

信仰生活は独りで孤独のうちに歩むのではなく、共同体で歩むものです。一緒に支える信仰です。と言っても、すべての人が同じように、例えば教会の活動に参加できるわけではないですし、「グループ活動はちょっと」と感じられる方もいるでしょう。共同体の絆は信仰における絆であって、具体的な活動によって生み出されるものではないと思うのですが、「それではどうするのか」と問われると、明確な答えを持っていません。「同じ信仰によって結び合わされているのだ」という確信が、お互いの心に芽生えるような教会共同体のあり方を、模索していきたいと思います。

以下、8日夜の東京カテドラル聖マリア大聖堂における復活徹夜祭の説教原稿です。

【聖土曜日復活徹夜祭 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月8日】

 皆さん、御復活、おめでとうございます。

 復活徹夜祭は、小さなロウソクの光で始まりました。暗闇に光り輝く小さな炎は、私たちの希望の光です。すべてを照らして輝く太陽のような巨大な光ではなく、小さなロウソクの炎です。キリストがもたらす新しい命への希望は、その小さな炎にあります。暗闇が深ければ深いほど、たとえ小さな光であっても、その炎は不安をかき消す希望の力を秘めています。

 希望は、キリストがもたらす新しい命への希望です。暗闇の中で復活のロウソクの光を囲み、復活された主がここにおられることを心に留め、主によって新しい命に招かれ、主によって生きる希望を与えられ、主によって生かされていることを、改めて思い起こします。

 復活のロウソクにともされた小さな光は、「キリストの光」という呼びかけの声と共に、この聖堂の暗闇の中に集まっているすべての人に、分け与えられていきました。復活のロウソクにともされた、たった一つの小さな炎は、ここに集う多くの人のロウソクに分け与えられ、一つ一つは小さいものの、全体としては、聖堂を照らす光となりました。

 私たちは復活の命の希望の光を、兄弟姉妹と分かち合い、共にその光を掲げることで、皆で暗闇を照らす光となります。教会が呼びかける連帯の意味はそこにあります。

 死に打ち勝って復活された主イエスは、新しい命への希望を、私たちに与えています。私たちは孤独のうちに閉じ籠ることなく、連帯の絆をすべての人へとつなげていき、死を打ち砕き、命の希望を与えられるキリストの光を、一緒になってこの社会の現実の中で高く掲げたいと思います。教会は、命を生きる希望の光を掲げる存在です。絶望や悲しみを掲げる存在ではなく、希望と喜びを掲げる存在です。

 今夜、このミサの中で、洗礼と初聖体と堅信の秘跡を受けられる方々がおられます。キリスト教の入信の秘跡は、洗礼と聖体と堅信の秘跡を受けることによって完結します。ですから、その三つの秘跡を受ける方々は、いわば完成した信仰者、成熟した信仰者となるはずであります。どうでしょうか。大人の信仰者として教会に迎え入れられるのですから、成熟した大人としてのそれなりの果たすべき責任があります。それは一体なんでしょうか。

 先ほど朗読されたローマ人への手紙においてパウロは、洗礼を受けた者がキリストと共に新しい命に生きるために、その死にもあずかるのだ、と強調されています。そしてパウロは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるため」に洗礼を受けるのだ、と指摘しています。洗礼を受けた私たちには、キリストとともに、新しい命の道を歩む務めがあります。

 先ほど朗読された出エジプト記には、モーセに対して語られた神の言葉が記してありました。

 「なぜ、私に向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」

 モーセに導かれて奴隷状態から逃れようとしたイスラエルの民は、エジプトのファラオの強大な権力の前で恐怖にとらわれ、希望を失い、助けを求めて叫ぶばかりでありました。そこで神は、モーセに、行動を促します。「前進せよ」と求めます。しかも、ただ闇雲に前進するのではなく、「神ご自身が先頭に立って切り開く道を、勇気を持って歩め」と命じておられます。

 復活の出来事を記す福音書は、復活されたイエスの言葉をこう記しています。

 「恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」

 イエスを失った弟子たちは、落胆と、不安と、恐れにとらわれ、希望を失っていたことでしょう。力強いリーダーが突然いなくなったのですから、ぼうぜんと立ちすくんでいたのかも知れません。

 恐れと不安にとらわれ、前に向かって歩むことを忘れた弟子たちに対して、「立ち上がり、ガリラヤへと旅立て」とイエスは告げます。立ち止まるのではなく、前進することを求めます。行動するようにと促します。ガリラヤは新しい命を生きる希望の原点です。最初にイエスが福音を告げ、弟子たちを呼び出したのはガリラヤでした。自らが教え諭した原点に立ち返り、「そこから改めて旅路を歩み始めるように」と弟子たちに命じています。

 主の死と復活にあずかる私たちに求められているのは、行動することです。前進することです。何もせずに安住の地にとどまるのではなく、新たな挑戦へと旅立つことです。そして苦難の中にあって闇雲に進むのではなく、先頭に立つ主への揺らぐことのない信頼を持ち、主が約束された聖霊の導きを共に識別しながら、御父に向かってまっすぐに進む道を見いだし、勇気を持って歩み続けることであります。

 とは言え、一人で旅路を歩むのは心細いものです。本当にそれが正しい道なのかどうか、分からないときも、しばしばでしょう。ですから私たちは、共にこの道を歩みます。教会は共同体であり、私たちは信仰の旅路を、共同体として共に歩みます。一人孤独のうちに歩むのではなく、互いに助け合いながら、歩み続けます。

 ちょうど今、教会は、シノドスの道を歩んでいます。そのテーマは「共に歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められています。シノドスは信仰の旅路の刷新を目指します。東京教区では、集まることが難しい中、定期的にビデオを作成し、公開していますが、ご覧になったことはありますでしょうか。

 一つ一つは短いものですので、是非ご覧になって、何人かの方々とその内容についてご自分の思いを話し合い、分かち合う機会を持ってくだされば、と願っています。「互いに信仰を深め、進むべき方向性の指針を再確認し、助け合い、支え合いながら、信仰の旅路を共にに歩み続ける教会となること」が目的です。

 シノドスの歩みを共にすることで、洗礼と堅信によって与えられた信仰者としての責務を、共に助け合いながら連帯のうちに果たす道を見いだしましょう。その歩みの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきましょう。東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべての命を大切にする共同体」の実現のために、福音を告げ知らせ、証しする道を共に歩み、暗闇の中に希望の光を燦然と輝かせる教会を実現していきましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

 (編集「カトリック・あい」=表記を原則として当用漢字表記に統一させていただきました)

2023年4月9日

・「主イエスの苦しみにあずかり、栄光と希望への道を切り開こう」菊地大司教の聖金曜日・主の受難

(菊地大司教の日記 2023年4月 7日 )

2023年聖金曜日主の受難@東京カテドラル

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 主の受難を黙想する聖金曜日です。この日は、通常のミサは行われません。各教会では、それぞれの慣習に従って、十字架の道行きをされたところも多かったのではと思いますが、今年の東京は、猛烈に風の吹く聖金曜日となりましたので、参加が難しい方もおられたかと思います。このブログの一番下に、東京教区で作成した十字架の道行きのビデオを貼り付けておきます。

 また、本来、主の受難の典礼は、午後3時頃に行われ、夜には悲しみの聖母の崇敬式(スタバート・マーテルが歌われます)が行われたりしましたが、現在では、週日の金曜ということもあり、夕方に主の受難の典礼が行われることになっています。東京カテドラルの主の受難の典礼も、午後7時から行われました。

 (なお、東京カテドラル聖マリア大聖堂の正面に向かって右手側には、聖ペトロ大聖堂に置かれているミケランジェロのピエタ像のレプリカが安置されています。サンピエトロにあるものと全く同じものです。また東京カテドラルの聖櫃は、他の大聖堂などと同じく、正面祭壇ではなく、脇祭壇や小聖堂に置かれることになっているため、むかって左側のマリア祭壇に置かれています。)

 以下、本日午後7時の主の受難の典礼における、説教原稿です。

【聖金曜日・主の受難 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2023年4月7日】

 私たちの信仰は、「道を歩み続ける信仰」です。時の流れの中で、どこかに立ち止まってしまうのではなく、常に歩みを続ける旅路です。時にはその歩みは遅くなったり、速くなったり、横にそれてみたり、後ろを振り返ってみたり、それでも、なんとか前進を続ける旅路です。

 その信仰生活の歩みの中でも、四旬節には特別な意味があります。今年は2月22日の灰の水曜日から、私たちは四旬節の旅路を共に歩んで来ました。

 四旬節は私たちの信仰の原点を見つめ直すときです。私たちの信仰の原点には、主の十字架があります。その十字架を背負い、苦難のうちに死に向かって歩まれる主の受難の姿があります。主イエスの苦難の旅路こそは、私たちの信仰の旅路の原点であります。

 すべての創造主である神は、ご自分がたまものとして創造し与えられたすべての命を、一人たりとも見捨てることなく、永遠の命における救いへと招くために、私たちの罪を背負い、自ら進んで苦しみの道を歩まれました。その苦しみは、嘆き悲しむ絶望に至る苦しみではなく、死から復活へと至る希望と栄光の旅路でもあります。

 私たちは、主の苦しみの旅路に心を合わせ、共に歩むように、と招かれています。主ご自身が悪との戦いの中で苦しみを受けられたように、私たちもこの世界の現実の中で、神の正義の実現を阻む悪との戦いで苦しみ、主ご自身がその苦難と死を通じて新しい復活の命の栄光を示されたように、私たちも苦しみの後に主の復活の神秘にあずかって、永遠の命にあずかる者とされます。十字架と共に歩む旅路は、私たちの信仰の原点です。

 「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書25章40節参照)という主イエスの言葉を心に留める時、私たちは人生の歩みの中で、数多くの機会に、主御自身と出会って来たことに気がつきます。またこれからの旅路の中で繰り返し主と出会い続けることでしょう。主とともに歩む十字架の道は、また様々な現実の出会いを通じて、主ご自身と出会う旅路でもあります。ともに歩まれる主は、人生の様々な十字架を背負い、苦しい挑戦の中で、命を生きている多くの方を通じて、私たちをご自身との出会いへと招いておられます。

 私たちは、悲しみの中で希望を求める人に、慰めを与える者だったでしょうか。苦しみの中で絶望にうちひしがれる人に手を差し伸べる者だったでしょうか。あえぎながら歩む人と共に歩む者だったでしょうか。神の前で罪を悔いる人に寄り添い、赦しへと招く者だったでしょうか。自分自身の常識とは異なる存在の人たちを裁くことなく、共に歩もうとする者だったでしょうか。

 黙して語らず、ただただすべての人の罪を十字架として背負われ、あえぎながら歩みを進める主イエスのその傍らに立ちながら、他者の罪を裁こうとする自分の姿を想像するとき、自らの傲慢さに恥ずかしくなります。

 主の背負う十字架に、さらなる重さを加えているのは、傍らで傲慢な生き方をする私たち自身です。私たちにできるのは、苦しみを受け、耐え忍び、黙しながら歩みを続けた神の旅路に心を合わせ、すべてを包み込むその愛と赦しと慈しみに感謝し、苦しみの先にある復活の栄光を信じながら、主イエスと共に、ひたすら歩み続けることです。同じ思いを持つ信仰の仲間と共に、歩み続けることです。

 十字架を背負った苦難の道は、ゴルゴタで終わります。この世での旅路が終わり、復活を通じて新しい命の旅路が始まる転換点は、ゴルゴタです。そこには、私たちの母である聖母マリアがおられました。

 受難の朗読は、十字架の傍らに聖母マリアがたたずまれ、御子の苦しみに心を合わせておられたことを、私たちに伝えています。人類の罪を背負い、その購い贖いのために苦しまれる主イエスの傍らに立つ聖母マリアは、キリストと一致した生き方を貫き、十字架を背負いながら他者のために身をささげて黙して歩み続ける模範を、教会に示されています。

 教皇パウロ六世は「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」という言葉を生涯にわたって生き抜いた聖母マリアは、「すべてのキリスト者にとって、父である神の御旨に対して従順であるように、との教訓であり、模範」であると指摘しています。(「マリアーリス・クルトゥス」21)

 主イエスは十字架上で、「女よ、見なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ福音書19章26‐27節参照)と聖母マリアと愛する弟子に語りかけることによって、聖母マリアを教会の母と定められました。

 聖母マリアは天使ガブリエルのお告げを通して神から選ばれた人生を、謙遜のうちに歩みましたが、このゴルゴタでの転換点を通じて、命を生きる模範を示すために、永遠にその母であるようにと、新しい歩みを始めるように主ご自身から招かれました。聖母マリアは、私たちイエスに従おうとする者の先頭に立つ、命を生きる道の模範です。教会は聖母マリアと共に主の十字架の傍らに立ち、その十字架を受け継ぎ、復活の栄光を目指して歩み続けます。

 聖母マリアは、私たち一人ひとりの信仰者にとっての模範でもあります。「お言葉通りにこの身になりますように」と天使に応えた聖母は、すべてを神に委ねる謙遜さの模範を示されました。黙して語らず、他者の罪を背負って十字架の道を歩まれた主の謙遜さを、その苦しみに心を合わせ生き抜いた聖母マリアの謙遜さに倣い、私たちも、神の計画に勇気を持って、そして謙遜に身を委ねる恵みを願いたいと思います。

 聖母マリアは、私たち一人ひとりの霊的な母でもあります。真の希望を生み出すために苦しみを耐え忍ばれたイエスに、身も心も合わせて歩みを共にされた聖母に倣い、私たちも、主イエスの苦しみにあずかり、真の栄光と希望への道を切り開いて行きたいと思います。

 主の十字架に心を合わせ、主の旅路を共に歩む私たちは、絶望と恐れではなく、希望と喜びを生み出す者であり続けたいと思います。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教、日本カトリック司教協議会会長)

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に統一させていただきました)

 

2023年4月8日