・「必要なのは『現代社会の洗礼者ヨハネ』であること」-菊地大司教の年間第二主日メッセージ

2023年1月14日 (土) 週刊大司教第109回

 降誕祭も終わり、次は灰の水曜日から始まる四旬節までのつかの間、「年間」と呼ばれる時期が始まります。主の洗礼直後の週が年間第一週ですので、今年は1月15日が年間第二主日となります。

 司祭の養成は神学院に入る前から始まり、神学院での予科の時間を過ごして、哲学を学び、神学を学び、その上で助祭に叙階され、司祭へと至ります。しかし司祭になってそれで養成が終わりではなく、実は、ここから人生の終わりまで、司祭としての生涯を通じた養成は継続します。この考えそれ自体はまだ新しいもので、数年前から、各国の司教団は、司祭の生涯養成についての計画を練ってきました。

 日本の司教団でも、司祭叙階後五年目の教区司祭を対象に、養成コースをはじめることになり、現在、初の叙階五年後の教区司祭向けの養成コースを開講しています。その模様はまた別途報告しますが、司祭のためにお祈りくださるようにお願いいたします。

 以下、本日午後6時配信の週刊大司教第109回、年間第二主日メッセージ原稿です。

【年間第2主日A 2023年1月15日】

 つい数日前に主の降誕を喜び祝っていたかと思うのですが、典礼の暦は先に歩みを進め、先日の月曜日は主の洗礼の祝日でした。そこで朗読されたマタイの福音は、イエスが洗礼者ヨハネから水の洗礼を受けた様を描写するものでありました。

 「罪の赦しを得させるために悔い改めの」水による洗礼を受けることは、そもそも罪の汚れのない神であるイエスには必要のないことですが、「その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾」であり(「カトリック教会のカテキズム」536項)、罪人である人類に加わることで、水を通じて私たちをその贖いの業にあずかる道を開かれました。水による洗礼はイエスの公生活の始まりを告げています。

 今日朗読されるのは、同じ出来事について触れているヨハネ福音です。そこにおいて洗礼者ヨハネは、自分が水の洗礼を授けた方が誰であるのかを宣言しています。

 まず第一にイエスは「世の罪を取り除く神の小羊」であり、そして「神の子」であると洗礼者ヨハネは証言します。それによってヨハネはイエスの誕生の理由が、罪にまみれた人類の救いのためであることを明確にします。

 さらに加えて洗礼者ヨハネは、自分の立場を今一度明確にします。つまりイエスは、「私よりも先におられた」方であり、自らが水の洗礼を授ける理由は、「この方がイスラエルに現れるため」であったのです。しかも洗礼者ヨハネがイエスを神の子と証しをした理由は、自分がそう思ったからではなく、自らの派遣の使命を識別し確実に認識していたからだ、とも証言しています。

 今、私たち教会に必要なのは、「現代社会にある洗礼者ヨハネ」であることです。私たちは「自分の思いを伝えている」のではありません。「自分が褒めたたえられるために行動する」のではありません。すべては洗礼を通じてイエスの神性にあずかった私たちに与えられている福音を告げ知らせるという使命を果たすためであり、洗礼者ヨハネと同じく、私たちの言葉と行いを通じて、イエスが現代社会に表されるようになるためです。私たちは、社会の中にあって、自らの言葉と行いが一体何を証ししているのか、今一度振り返ってみたいと思います。

(編集「カトリック・あい」=表記の乱れを、当用漢字表記で統一してあります。また「技」とあるは「業」に修正してあります)

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2023年1月14日