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Sr.岡のマリアの風 ⑯教皇のコロンビア訪問…私たちも、ゆるしと和解・・
教皇フランシスコの9月6日から11日にかけてのコロンビア訪問で、パパさまは自ら 信仰の巡礼者」として、内戦や不正、搾取のために犠牲になった多くの人々、その家族と共に、「泣く恵み」を祈り求めた。訪問中、一週間、毎日、各地でミサを捧げ、人々を訪問し、ひたすら「ゆるし」を訴えかけたパパさまの言葉は、まさに「生の声」で、わたしたちの心を揺さぶるものだった。
「信仰の巡礼者」としてのパパは、一貫して、「わたしたちはみな、罪びとです。みんなです。このことを忘れないでください」と繰り返した。
(司祭、修道者、神学生、その家族との集いで)(メデジン、コロンビア:9月9日)[試訳]
「わたしたちは、和解するために、和解されました。呼ばれたこと(召命を受けたこと)は、わたしたちに、品行方正の、完全無欠の証明書を与えるものではありません。わたしたちは、聖性のオーラ(雰囲気)をまとっていません。聖人のような(あたかも聖人であるかのような)顔をして生きている修道者、奉献生活者、神父、シスターは不幸です(呪われよ)!わたしたちはみんな罪びとです。みんな。
わたしたちは、日々、再び立ち上がるために、神のゆるしといつくしみを必要としています。神は、よくないこと、わたしたちが間違ったことをはぎ取り(根こそぎにし)、それを、ぶとう園の外に放り出し、それを燃やします。神はわたしたちを清めます-実を結ぶことが出来るように-」。
コロンビアでのパパの呼びかけは、一貫している。わたしたちは、みな、日々、ゆるされることを必要としている罪びとであることを、深く悟って初めて、「神のまなざし」で、「神の心」で、今の世の現実をみつめることが出来るようになる、と。そして、「神のまなざし」は、冷たい裁判官のそれではなく、いつくしみに満ちた愛のまなざしである、と。
犯してしまった間違い、罪は、曖昧にしてはいけない。それをしっかりと見つめて、改めなければならない。不正、搾取は、決してゆるしてはいけない。しかし、罪を犯してしまった「一人の人間」には、「顔」がある。わたしたちの神は、その人の「顔」をも探し求めて、「出て行く」神であり、それはまさに、善きサマリア人としてのイエス・キリストご自身の姿である。
教会に逃れてきた人たちが虐殺され、多数の犠牲者を出した、ビリャヴィセンシオでの、和解のための祈りの集い (9月8日)では、二人の子供を失った母である牧師と、足を失った青年によって代表された、苦悩と恨みを乗り越えて、ゆるし・和解のために働き続ける人々の証があった。同時に、「罪」の側に、人のいのちを奪う側に加担してしまった人々の証-ゆるしを乞い、自分を捧げる生き方を始めた人々-の証もあった。
「わたしたちは、みな、ゆるしを必要としている罪びとです。みんな」。パパはキリストの共同体に 罪を犯した人々、殺す側に回ってしまった人々が、神の恵み
で「変わろうと」しているのを受け入れる「勇気」をも、持ってください、と訴える。それは非常に困難なチャレンジであることを、わたしは知っています。でも、主の恵みに心を開き、それを受け入れてください、と。
また、パパは、若者たちが生来もっている「じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)」は、一方で、たやすく悪への誘惑に引き込まれる要因となるが(「麻薬の殺し屋たちによって欺かれ、破滅させられる」-ひじょうに多くの若者たちが!-)、もしそれが、神の恵みによって導かれるなら、自分自身の利益、楽しみを捨てて、他者のために「出て行く」はずみともなる、と語りかける。
そして、どんな人でも、神を信じない人であっても、他者の痛みに心を揺り動かされ、それに寄り添うために、自分から「出て行く」とき、その人は、自分でも知らないうちに、イエスを運んでいる、と明言する。
たとえ、キリストを知らない人であっても、その人の中で、いつくしみと愛が先行し「出て行く」とき、その人は、イエスを運んでいる、つまり、「真の人間」の姿を運んでいる、と。
(司祭、修道者、神学生、その家族との集いで)(メデジン、コロンビア:9月9日)[試訳]
「若者たちは、生来、探し求めることにおいて、じっとしていられない(落ち着かない)ものです。そして、現在の、責任の危機や、共同体的結びつきの危機にもかかわらず、多くの若者たちが、共に、世の悪を前にして結集し、活動や、ボランティアの、さまざまな形で献身しています。たくさんの若者たちです。
そして、何人かは、「掟を守っているカトリック信徒」(cattolici praticanti)ですが、多くは、「名ばかりのカトリック信徒」(cattolici “all’acqua di rose”)―わたしのおばあちゃんが言っていたように-です。その他の人々は、信じているのか信じていないのか分からない人々です。
しかし、この、じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)が、彼らを、他の人々のために何かをしようとさせ、この、じっとしていられないことが、世界中のボランティア活動を、若い顔で満たしています。この、じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)を導かなければなりません。それを、イエスへの愛のためにするなら-自分が共同体の一部であると感じながら-、彼らは「信仰の旅人(巡礼者)」-あらゆる道、あらゆる広場、地上の隅々にイエスを運ぶことを喜びとする-となります(cf. 使徒的勧告『福音の喜び』107)どんなにたくさんの人々が、イエスを運んでいることを知らずに、実際にはイエスを運んでいるころでしょうか!
これこそ、仕えながら道に出て行くこと、もしかしたら、彼ら自身もそれをすべて知らなくても、信仰の旅人であることの豊かさです。それは、証です。証は、わたしたちを、わたしたちの心の中に入り、そこで働くだろう、聖霊のわざへと開きます」。
第二バチカン公会議は、イエスの受難・死・復活の神秘から、わたしたちの上に、世界の上にあふれ出る「聖霊」-愛の霊、ゆるしの霊、いのちを与える霊-は、構造上の「教会」をはるかに超えて自由に働いていることを、再確認している。神の望みは、「すべての人々」の救いであるからだ。目の前には、「みことばのたね(種子)」 «semina verbi»によって準備された、「喜びの知らせ」(福音)を待っている、広大な地がある。わたしたちは、異なる方法であっても、「みな」、喜びの知らせを告げ知らせる義務をもっている。
[参照]「みことばの種子 AG 11 15 、「福音の準備」 LG 16、第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』Ad gentes AG 1965 3 11 15項。『現代世界憲章』Gaudium et spes GS 1965 10 11 22 26 38 41 92 93項。『教会憲章』Lumen gentium LG 1964 16 17項。パウロ六世 使徒的勧告『福音宣教』Evangelii nuntiandi 1975 53項。ヨハネ・パウロ二世 回勅『救い主の使命』Redemptoris missio 1990 28項。イエスと出会った喜び、イエスと出会い続けている喜びを生きているキリスト者は
みな、大いなる確信をもって、「みことばの種子」によって準備されている地に出て行かなければならない。このキリスト者の「義務」は、大きな喜びに促されて、いても立ってもいられない心、まさに、イエスのいつくしみの心から、イエスのまなざしから、生まれる。わたしの心は、何と、まだまだ「狭い」ことか!
祈りつつ、今日も前に進みたい。アーメン
(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
Sr 岡のマリアの風 ⑮和解と平和…パパ・フランシスコの心…
パパ・フランシスコが、南米コロンビアの司牧訪問(2018年9月6日~11日)を終えた。パパは、一貫して、「和解と平和」の切り離せない関係を語りかけた。「誰かが」、先ず、出て行って、自分を傷つけた相手との、具体的な和解・ゆるしの道を歩み始めなければならない。そうしない限り、決して「憎しみ」の連鎖は断ち切れない。たった一人であっても、その「誰か」が、絶望、あきらめの中で、希望を開く人となる、と。
パパは、自分もラテン・アメリカ人である。コロンビアの人々にとって、この「和解と平和」の道が、どんなに困難であるか、人間的に見れば不可能でさえあることを、よく知っている。長い内戦の暴力、社会の不正の犠牲となった人たち。特に無実の犠牲者たちと、その家族、友人たち。パパ・フランシスコは、その人々に「復讐の誘惑」に打ち勝ってください、次の世代のために、「平和を築く人」になってください、と訴えかける。
「わたし」が「先ず」出て行って(相手のところに来るのを待たずに)、対話をする。それは、妥協ではなく、顔と顔を合わせて、目と目を合わせて、つまり、「具体的に」「実際に」最初の言葉をかける、という意味だろう。対話は決して「馴れ合い」ではない。互いに、自分の考えをはっきりと述べ、そして相手の考えを聞く。相手の間違いを非難し合うばかりでは、「憎しみの連鎖」から脱出できない。それは、最終的には、神に似た者として造られた人間を、悪魔の姿、「憎しみの奴隷」としてしまう。対話とは、互いの考えを聞き合う中で、共有できる善を共に探すことだろう。そこから「憎しみの連鎖」からの解放、「将来の希望」への道が開ける。
特に現代の教皇たちは、「人間は神ではない」「わたしたちは救い主ではない」ことを、教会の「罪の歴史」と率直に向き合う中で語ってきた。「人間は神ではない」-当たり前だ、と簡単に言うことは出来ないだろう。わたしたちは-少なくともわたしは-、日々の小さな事柄、人々とのかかわりの中で、あたかも「わたしが」他者の救い主であるかのようにふるまうことが、多々、ある。「わたし」自身も、ゆるされ、救われることを、常に必要としていることを忘れながら。
人間は、誰一人として、「わたしが絶対に正しい」「わたしのしていることに、間違いはなし」とは言えないだろう。わたしが、今、ここで、「普通の」生活をしているとしたら、それは、わたしが、今日まで、たくさんの、たくさんの人々に「ゆるされ」「受け入れられ」てきたからだ。不幸にも、ゆるされることも、受け入れられることもなく生きることを強いられた人々の傷を、わたしがあたかも救い主であるかのように触れるとき、さらなる分裂、さらなる憎しみの連鎖が始まるのだろう。
わたしたちの主、イエス・キリストは、わたしたちに模範を残した。人々の深い傷に触れることが出来るために、自ら「貧しく」なりながら。自らを、究極まで低めながら。十字架を、いつくしみの深い沈黙の中で受け入れながら。
わたしは、わたしを非難し、拒絶する人に対して、わたしを賞賛し、受け入れる人に対するのと同じ心で接しているだろうか。「和解が抽象的なものであるなら、それは何の実も結ばない」と、パパ・フランシスコは言う。和解、ゆるし、愛…それは、実に「具体的」なもの、一人の、具体的な人の目を見つめながら、その人の幸せだけを願う心から生じるものでなければならない、と。
子どもの幸せを心から願う母親は、たとえ子どもが自分の思うとおりにならなくても、「待つ」ことを知っている。母の「待つ」心は、受け身ではなく、実に「積極的」である。母の「待つ」心は、勇気、信頼、希望の、英雄的な行為である。母マリアが、子イエスの十字架のもとに立ちながら、憎しみ、絶望に心を閉ざさず、希望に開かれた心で「待つ」ことを知っていたように。
今、パパ・フランシスコのコロンビアでのメッセージ(講話、説教、祈り、記者会見…)を、少しずつ読んでいる。教皇ベルゴリオは、彼自身、英雄的に、「憎しみ、絶望の誘惑」と戦ってきた、そして今も戦い続けている、と言えるだろう。現在、毎週水曜日の一般謁見でのカテキズムは、「キリスト者の希望」についてで、前回(2017年8月30日)で32回目となる。
折に触れて、さまざまな形で教皇が、キリストの民に、すべての善意ある人々に語りかけるメッセージは、その時代その時代の教会にとって「預言的」、つまり、現在、この世の中において、神が何を望んでいるのかを指し示すものである。それは、簡単には分からない。「わたしたち」の側からも、「神はわたしに、わたしたちに何を望んでいるのか」を祈り求める謙虚な態度を要求する。
「わたしたちは救い主ではない」。それはまさに、自分の罪深さを素直に認め、わたしたちの罪をはるかに超える神のいつくしみにより頼む、へりくだった心から生まれる「悟り」だろう。
「キリストに従う者」としての歩みは、何と困難で、同時に、何と奥深く神秘に満ちたものだろう。それを素直に謙虚に受け入れるなら、わたしたちは「キリストの喜び」を心に抱く、という、最高の幸せをいただくのだろう。それは、人のために、その人の幸せのために、自分のいのちまでも差し出す準備が出来ている心の状態、態度、と言えるかもしれない。
アーメン
(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
三輪先生の国際関係論 ⑰9.11に想うーデジャヴュのビル崩落・テロリズムの男性原理・国際テロリズムは地球化社会幕開けの「内戦」か
デジャヴュのビル崩落
2001年9月11日、ニューヨークの惨劇をテレビで始めてみたとき、それがテレビドラマの一シーンではなくて、現実に起こっていることだととっさに理解できた人はいなかったのではないか。 それほどそれは現実離れをしていた。それが現実に起こっていることと解ったとき、私はそれを過激 なアメリカ人の行為だと信じた。
合衆国憲法によって作り上げられたアメリカという法律論的人工国家では、その憲法の理念に正統 性の根拠を置く諸々の政治行動が発生し続けてきた。
1980年代に聞いた情報では、自分たちの憲法で保障された権利が侵害されているとして、それを民主政治の通常の手続きで回復できないと観念 した男たちが秘密結社に集い、暴力によりその目的を達成しようとしている。ある調査によればその 総数は6000名を超え、全国各地に点在し、それぞれの結社はインターネットで横の連携をはかっ ているというのである。 つまり国内の政治に対してアメリカ国民自身のテロリスト集団の一斉蜂起さえありうるのである。
地下鉄サリン事件は1995年日本で起きたが、アメリカではこの日本の宗教法人オーム真理教 をかねてからお墨付きのテロリスト集団としてマークしていたのである。事件の結果日本では「安全 と空気はただ」という神話だけは一瞬砕けたかに見えたが、これを「テロリズム」とか「テロリスト」の一般的概念で捕らえ、対策を立てようとする発想にはまだ立ち至っていなかったようである。
そんなお国柄なので9.11から日本人が受けた衝撃は、「テロリズム」が多少なりとも情報化していた社会のアメリカ人とは違ったものだった。そのうえ日本政府はアメリカの同盟国として、国連 の決議が得られなかったイラク戦争に協力することに決めたとき、国民に対して「石油」については 一言もなく、当時国民の最大関心事だった日本国民の拉致という対北朝鮮問題解決にアメリカの協力 が必要だという理屈だけで押し切った経緯がある。
いわば国民は小泉首相の「詭弁」に乗せられたのだ。そのわけの一端は国際テロリズムと無縁のよ うな国内平和を享受してきた日本人と、国民の教育を怠ってきた日本のジャーナリズムの見識不足にあった。
一般に言われる日本人の「平和ボケ」はテロリズムに及んでいたのである。
テロリズムの男性原理
私が9.11の映像をテレビで見たときすぐにこれは「国内」テロだと思ったのにはわけがあった。黒煙を上げ崩落してゆく二棟の高層ビルに人気俳優ブラッド・ピット主演のハリウッド映画「ファ イトクラブ」のラストシーンが重なったのである。
90年代の作品「ファイトクラブ」は「女性化」する社会で、去勢されたような生活の憂さを晴らす ために、毎夜閉店後のバーの地下室をリングに変え、相手を叩きのめすまでパンチの応酬を続ける男たちの話である。それはやがて全国的組織となり、政治目的を金融資本主義の砦、クレディット会社 の本社ビルの爆破に設定する。そうすればクレディットカードで使いすぎて債権者に追い回されてい る貧者の解放、アメリカ資本主義に翻弄される弱者の救済になるという理屈である。
ここに描かれているのはテロリストというよりはロビン・フードの伝承に連なる「義賊」の姿であ る。そのメッセージがあまりにも「反社会的」なので、商業映画として妥協し、登場人物の妄想とし てストーリーは完結する。ニューヨークの金融街の中心に聳え立つ超高層ビルが崩れ落ちるところで 大詰めとなるのである。それは人気俳優ブラッド・ピットの演ずる「社会正義派」の若者を中心にし て展開する。
暴力と「正義」という近年まれな男性原理を体現しているこのブラッド・ピットに見出される世のいわゆる‶エリート青年〟がいる。この青年は父親の「成功」のイメージを具現しようとして、本来ある べき人格を喪失してしまっている。
一流大学を出て一流企業に勤め、一流のアパートに住み、ブラン ド物の輸入家具をだんだんに買い足すという人生設計のこの青年をブラッド・ピットは揶揄し、自らのイメージの暴力的正義漢にこの青年を仕立て直していく。また中国系移民二世が店番をしている二流のスーパーに盗賊として忍び込みながら、その青年も本来、獣医学校に進みたいのに一声も親父に逆らえず、一流のビジネススクールに進学すべく浪人生活をしている。義賊ブラッド・ピットはその青年を縛りあげたうえで今度来たとき自分の希望どおりに獣医学校に行っていなければそのときは命は無いものと思えと威嚇して、何も盗らずに退散するのである。
これはテロリストの顔をした世直し義賊に間違いない。そういうメッセージを発信していたハリ ウッド映画のイメージが現実に起こった貿易センタービルの崩落のテレビニュース映像に重なってい たのであった。
国際テロリズムは地球化社会幕開けの「内戦」か
9.11を真珠湾と同一視するアメリカン人は決して少なくないが、真珠湾の奇襲攻撃と貿易セン タービルの倒壊との違い、つまりアルカイダによるアメリカ攻撃と日本の対米開戦との違いはなにか。
日本の場合は唯一軍事力の独占が許されている主権国家による、その限りにおいて、「合法的」軍 事行動であったのに対し、アルカイダの場合は没国家的無法者集団のまっさらな暴力行為であるとい う相違は明白である。
ブッシュ大統領はこの無法者集団に対して直ちに「宣戦布告」をし、国民は熱狂的にこの「正義」 の「戦争」を支持した。しかし、それがこれまでの「戦争」と根本的に異なるのは明らかである。国家が脱国家的個人集団と国際法で言う「戦争」をするなどということはありえないことだからである。
ではいったい何なのか。地球化の進んだ現代の状況を積極的にとらえれば、テロリズムをアルカ イダという反体制派の暴力行為として、地球社会内の「内戦」とすることはできる。つまりアルカイ ダは「国際社会」形成過程において避けがたい「内戦」というべきか革命闘争の戦闘を開始していた といえるのだろう。
ところで、アメリカに対する国際的テロリズムは何もこのとき急に始まったわけではない。海外ではこれより以前からアメリカの公館が攻撃されていた。1972年にはニクソン政権によって、対テロ対策は国内の研究機関に委嘱されていた。国連の安保理事会に対しても対テロ対策を提案していた が、その度にソ連の拒否権行使で具体化することができなかった。
そのソ連もレバノンで自国の外交官がテロに遭遇して死亡するにおよび、ようようアメリカに同調 するようになったのであった。
(2017・9・11 記)
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
(9.11については私にも鮮烈な記憶がある。テロが起きたちょうどその時、私は読売新聞本社の論説委員室で副委員長としてデスク当番をしていた。貿易センタービルに旅客機が突っ込む瞬間をテレビで実況中継でリアルタイムで目にし、最初は何が起きているのが判断しかねた(NHKの映像では、カメラの位置のせいもあってか、旅客機がビルに突っ込んだのか、ビルの裏をすれすれに落ちて行ったのかが、よくわからなかった。CNNに切り替えてみたところ、ビルに突入して火災が発生しているのがよく分かった)が、間もなく直感で「これは大変なテロだ!」と判断。自宅にいた論説委員長に連絡(彼は事態の深刻さがなかなか理解できないようだったが!)、編集局の整理担当に、可及的速やかに社説を差し替える旨、連絡するとともに、国際政治担当の論説委員に執筆の準備を指示し、NHK, CNNなどの実況中継をフォロー。ペンタゴンにも旅客機が突っ込んで、二機目の”攻撃”を受けた貿易センタービルが崩壊するに至って、社説の見出しを「絶対に許せないテロ行為だ」と決めて、執筆を急がせた。翌日朝刊は各紙とも一面トップから始まって9.11テロ一色になったが、社説でこの問題を論じ、残虐なテロ攻撃を断罪するとともに、国際社会の再発防止への連帯を訴えたのは、わが読売新聞と、たまたま社内の夜の会議で論説のデスクが社にいた日経新聞の二紙のみ。朝日、毎日などは、事の重大性に論説委員の方々が気づくのに遅れたのか、一日遅れになったのだった。・・「カトリック・あい」南條俊二)
駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」 ①「人の誕生の源は同じ・・だから・・」
ペルシャ語を学び始めてほぼ半世紀、ペルシャ文学の華とも云える詩歌に本気に向き合えるようになったのは、5年前のことである。2011年の3月11日、東日本大震災に際して、私は大使としてイランのテヘランに赴任していた。イラン人が日本国民に、弔意と同情を表すのに、次の詩を贈ってくれた。
「世界の人々はみな同胞 人の誕生の源は同じだから 一人でも痛みを覚えれば 誰一人安穏としていられない」(サアディの詩)。
かつて聞いたことのあるこの詩に、いたく感動した。詩はイラン人の心に深く根差していることを実感した。そこでもう一人の詩聖、ハーフェズの詩集を、分らないなりに全編我慢して目を通すことにした。
「突然 虚無の大岩が すべての夢を木っ端みじんにした」の一句を目にしたとき、大惨事の衝撃をよく表していると感じた。
テヘラン勤務中は、ペルシャ世界の2大詩人、ハーフェズとモウラナーの詩をイラン人の先生について学ぶことにした。日本に戻ってからも、これぞと思う詩句を毎日暗唱した。
暗唱を繰り返すうちに、それらの詩句は、イスラーム教の世界に生きるイラン人が、神(アッラー)とのありようを模索して探求した苦闘の成果、その営みの成果は散文ではよく説明できず 詩の形として発展したことが分かってきた。またそれは深い人間研究であり、人類共通の教訓を含むものであることも実感するようになった。
例えば、「インド人とトルコ人が同じ言葉をしゃべることはしばしば トルコ人二人が異邦人であることもしばしば それならば神聖な言葉とは何か別のもの 共感は言葉が同じであるよりも大切」(モウラナー)(注:ペルシャ文化の世界は、イランのみならず中央アジア、インド亜大陸、トルコに及ぶ)
また、「心は 長い間 世界を見透す杯を 我々に求めた 自ら持てるものを よそ者に求めたもの 皆が生み出される根源の宝を 海(道)にさまよった者に求めた」(ハーフェズの詩)
冒頭のサアディの詩を含めて以上3つ詩句は 韻を踏みリズミカルで、毎日反芻し、自分の人生の指針となっている。一昨年、半年も入院する羽目になった。その際、ハーフェズの詩句が何と励みになったことか。
「衰え無力となっても 良いではないか 朝の北風のごとく(花弁を散らす とされる)(神への恋の)道にあっては 痛み(を感じること)は健康であるよりも優れる」
(ペルシャ詩の翻訳はいずれも筆者))
駒野欽一(国際大学特任教授、元イラン大使)
菊地・新潟司教の日記 ⑬姫路から仙台まで・・カトリック教育・至難の業にどう応える
2017年8月26日 (土)
今週は火曜日から姫路へ移動、そして金曜日が仙台と、移動の一週間でした。姫路は、水曜日の朝から木曜日の昼まで、姫路にある賢明女子学院中学・高等学校で、教職員の方の宗教研修会。そして金曜日は、仙台の元寺小路教会で、朝は全ベース会議、午後は仙台教区サポート会議でした。
賢明女子学院は、設立母体が聖母奉献修道会。1796年にフランスで創立された修道女会です。日本には、1948年にカナダから大阪に会員が初めて派遣されてきています。学校は1951年の開校。姫路城のすぐ目の前に、カトリック姫路教会を挟んで、男子校の淳心学院と女子校の賢明があるという配置は、どこか、カトリック南山教会を挟んで、男子部と女子部が配置されている、名古屋の南山中学高校を思い起こさせました。
教職員の宗教研修会は毎年この時期に行われているとのことで、参加者は、提出していただいたリフレクションペーパーの数から見ると61名。松浦司教のお兄様である松浦校長先生や、理事長のシスター山本も、全日参加してくださいました。
そして残念なことに現代社会は、様々なレベルで、いのちよりも他の価値観を優先する選択を続けているように思いますし、その傾向はさらに強まっているように感じます。神が善いものとして創造し、完全である自らに似せて創造されたことによって尊厳を与えた賜物であるいのちを優先するとき、どのような社会を構築し、どのような人間関係を構築するのかは、定まってくるように思います。
とはいえ、現実の社会の中で生きる若い世代に、そのことを直接伝えるのは至難の業であることもその通りだと思います。それでは具体的にどうしたらよいのだろうかという質問も、先生方からたくさんいただきました。
もちろん人間は一朝一夕で変身はしないので、信仰の立場から主張していることがそのまますぐに受け入れられるとは思いません。でも繰り返しそれを伝え、言葉と行いで「あかし」続けることで、心の片隅に、大切すべき理想はどこにあるのかが残り続けてくれるなら、いざというときにどのような道を選ぶかの道しるべになるのではなかろうかと期待をしています。
姫路まで招いてくださった先生方、ありがとうございます。真っ白になった姫路城、美しかったです。
木曜日の夕方にはそのまま姫路から仙台へ移動。金曜日は仙台で、東北大震災の復興支援の定例会議でした。午前中は、各ベースでの活動に関して報告をいただき、午後は、平賀司教を中心に、全国の教会管区代表が集まって情報交換。今回は、平賀司教、幸田司教(東京教会管区)、諏訪司教(大阪教会管区)、浜口司教(長崎教会管区)と私を加えて、関係司教全員がそろいました。
ところで、その会議でも話が出ましたが、聖座の福音宣教省長官、フィローニ枢機卿が9月末に来日され、一日だけですが仙台にもおいでになります。これは仙台教区から正式に発表されることでしょうが、9月22日(金)には、被災地視察の後、夕方18:30から、カテドラルの元寺小路教会で、枢機卿様も参加してミサが捧げられます。私もご一緒する予定です。
福音宣教省は、世界の中で、いわゆる宣教地とされている地域を管轄する役所で、大雑把に言えばアジアではフィリピンを除くすべての国が、福音宣教省の管轄です。一般にそのラテン語旧称から「プロパガンダ」と呼ばれます。いわゆるキリスト教国に関しては、司教省が司教の任命などに関して権限を持っていますが、日本などの宣教国では福音宣教省が司教の任命を管轄しています。
それ以外にも、宣教地での活動の資金的援助や、各地の神学院の管轄でもあります。(なお日本の教会は、すでに何年も前から、福音宣教省からの資金援助は申請していませんが、毎年、世界宣教の日の献金などを通じて、アジアやアフリカの宣教地支援に福音宣教省を通じて貢献しています。)
バチカンの役所は、実際のローマにある役所本体と、それを支える委員会(メンバー)から成り立っており、枢機卿さんたちはすべて、どこかの役所の(複数の)メンバーとして教皇様から任命されています。それ以外のメンバーも多く任命されており、私も、現在、福音宣教省のメンバーとしての任命をいただいています。
Sr 阿部のバンコク通信 ⑫タイのカトリックのAIDS問題対策
タイ語を学んでいる頃、学校でイタリアの女性に会いました。 毎年休暇を貯めてエイズ患者のお世話に来て、 タイ語も学んでいるとか。 ソーニャさんを通しエイズに苦しむ人々との関わりが始まりました 。
当時は薬も高価、入手も至難の技。カミリアン病院修道会は『 命を賭しても』と決断し、蔓延するエイズと取組み始めました。 ソーニャさんに連れて行かれた駆け込み宿で、 特に子供達を救うために命懸けで奮闘しているジョバンニ神父に会 いました。インドから大量に薬を手に入れて務所入りした話、 薬さえ手に入れば保菌状態で命を保てるとか、 顔立ちの整った子供達の人身売買や売春が原因でファヤオ県のAI DS感染死亡率は高いとか、私はおかげでHIV- AIDSの問題に直に触れ、今に至る関わりを続けています。
その後、日本のカトリック中央協議会にHIV-AIDS 問題対策窓口を設けるため、スタディーツアー企画を依頼され、 一般、仏教界、教会内外の取組みを案内、 時宜を得たお世話が出来ました。『カミリアン病院の前をいつも拝んで通る』とある日本人、 相棒がAIDSに感染、どの病院からも断られた時、 受入親身に世話してくれたとのこと。
時に神学生やボランティアのお伴をしてAIDS ホスピスを訪問。殆どが患者、 ストレッチャーで運び込まれ患者が元気になって介護、 ホテルのシェフが食堂で腕を振るい、美味しいご馳走作り、 活き活きと明るい大家族なのです。
タイのカトリックのAIDS問題対策は、予防に始まり、 正しい認識、介護、患者の快復復帰に至るまで、隔離遮断せず、 温かい見守りの中で『慈愛の免疫力』 を高めながら行われています。
(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)
森司教のことば ⑭教皇フランシスコに対する批判と教皇の心
2016年、教皇は、家庭についての使徒的勧告『Amoris Laetitia(愛のよろこび )』を発表した。それは、すでに指摘したように、2014,15年と、家庭をテーマにして二回にわたって開催されたシノドスを基にまとめられたものである。
この文書は、教会の使命は人間一人ひとりに神の優しさ、あたたかさを伝え、あたたかさで包みこんでいくことにある、という教皇フランシスコの信念に貫かれている。特にそれは、結婚に失敗しながらも生きていかなければならない人々に対する教会の姿勢について語るときに、よりはっきりと現れる。教皇は、離婚した者に対するこれまでの教会の厳しい姿勢を改め、彼らの苦しみや悲しみについての理解を深めなければならない、と言及しているのである。
教皇の姿勢は、当事者たちはもとより、司牧の現場に立って日々苦しむ人々と顔を合わせていなければならない多くの司祭たちの共感を呼ぶものである。しかし、その一方で、教義を重んじる人々からの批判の声も上がってきているである。
カトリック教会には、2000年の歴史があり、一つ一つの教義の歴史も古く、その理解も多様で、さまざまな考え方が受け継がれてきており、たとえ教皇の発言であっても、そのまま素直に受け止められるとは限らない。良心的に教皇の姿勢に従うことが出来ず、カトリック教会から離れていった数多くの人々がいる。プロテスタント教会との分裂も、その一つの例である。
しかし、近代になってからは、教皇に対する批判の声は、ストレートに表に出ることは滅多になかった。が、今回の使徒的勧告に対しては、教皇にメッセージに逆らう批判の声が、はっきりと表に現れてきたのである。
教皇は、根強い反対意見があることを承知だったことは確かである。というのは、シノドスで司教たちが厳しい議論が交わされる場に臨席していたからである。そうした反対意見があることを承知の上で、教皇は、使徒的勧告をまとめ、発表したのである。そこから教皇フランシスコの、神は憐れみそのものであるという神理解と教会は神の心を証ししなければならないという揺るぎない
確信が、私たちには伝わってくるのである。
☆
教皇への批判は、特に、離婚し再婚した者に聖体拝領を許すかどうかは、司牧の現場の司祭たちに委ねるべきである、という教皇の姿勢に対するものである。周知のように、カトリック教会は、これまで一貫して、夫婦の絆は神が結び合わせたものであり、その絆は不解消であり、離婚は神の掟に背く大罪である、離婚して再婚した者には聖体拝領は許されない、と教え、指導してきた。そうした教会の姿勢は、時代が変わっても受け継がれ、揺らぐことはなかった。
事実、1997年に公にされた、最も新しいカトリック教会の「カテキズム」の中でも、明記されている。「離婚は、秘蹟による結婚が表す救いの契約を侮辱するものです。たとえ、民法上認められたものであっても、再婚すれば、罪は一層重くなります。再婚した人は、公然の恒常的な姦通の状態にあります」(2384項 邦訳691ページ、傍線筆者)『離婚した後に民法上の再婚をした者は、客観的には神法に背く状態にあります。したがって、この状態が続く限り、聖体を拝領することが出来ません。同じ理由から、教会のある種の任務を行うこともできません。許しの秘蹟によって許しを与えられるのはただ、キリストの契約と忠実さのしるしである結婚を破ったことを痛悔し、全くの禁欲生活を送る人々に対してのみです。』(2384項 邦訳498ページ、傍線筆者)
この「カテキズム」は、後に教皇ベネディクト16世となるヨゼフ・ラッツィンガーがまだ教理省長官だったころ、彼を委員長として1993年に設置された委員会によって検討され、まとめられ、1997年にヨハネ・パウロ2世によって、カトリック教会の正式の教えとして公に認証されたものである。現代の教会の姿勢を示すものである。
しかし、「カテキズム」に記された文言は、離婚し、再婚した現代の人々にとっては、非常に厳しい表現になっている。そこに記されているとおりに「全くの禁欲生活を送る」ことは、一つ屋根の下で生活する男女には不可能に近い。さらにまた離婚が増加し、離婚したとも一人で生きていることが出来ず、新しい相手を見出して、新しい歩みを始めようとする者にとっては、「再婚した人は、公然の恒常的な姦通の状態にある」という言葉は、残酷すぎる言葉である。せっかく、これから前を向いて歩もうとする人の心に新たな重荷を与えることにもなる。
こうしたカトリック教会の結婚・離婚に関しての教えの厳しさは、一般の人々に「カトリック教会を近付きがたい存在である」という印象を与えてしまっていることは否めない。しかし、一般社会の人々がどのように受け止めようと、指導者たちの多くは、結婚・離婚に対する教会の教義は、決して妥協してはならない神聖な教義であり、その教義を教え守るように信者たちを指導していくことにこそ、カトリック教会の使命がある、という信念の上に立ってきているのである。
そうした指導者たちが、教皇の使徒的勧告が発表されてすぐ反応し、批判の声をあげたのである。彼らなりの使命感からである。まずは、ヨアヒム・マイスナー枢機卿、ヴァルター・ブランドミュラー枢機卿の2人のドイツ人枢機卿、米国人のレイモンド・レオ・バーク枢機卿 、イタリア人のカルロ・カファラ枢機卿の4人の枢機卿たちの名をあげることが出来る。恐らく教皇のメッセージに居たたまれなくなったのだろう。この4人は、教皇に批判的な手紙を送り、それを公にしたのである。
4人の内の一人、レイモンド・バーク枢機卿は、教会法学者でバチカンの最高裁判所の元長官である。彼は、アメリカのカトリック紙の記者のインタビューで「離婚して再婚した信者の聖体拝領が可能である」と示唆することによって「教皇は誤りを教えている」と述べ、カトリック信者の間に「重大な戸惑いと大きな混乱」を引き起こしていると指摘し、教皇に「正式に訂正すべきである」とまで発言している。
枢機卿たちだけではない。4人の枢機卿たちの発言に勢いづいて、23名の神学者たちが、この4人の枢機卿たちを支持するように各地の司教たちに呼びかける、という行動に出たのである。その23名の中には、教皇のお膝元のバチカンの諸委員会で働く数名の司祭たちも加わっている。呼びかけを受けた司教たちが、どのように反応したか、残念ながら、私は知らない。
さらにまた前教皇ベネディクト16世によって教理省長官に任命されていたゲルハルト・ミュラー枢機卿も、「再婚者に聖体拝領を認めることは神法に反する」と発言し、教皇の姿勢とは距離を置いた発言をしていたが、この7月その職から解任されている。
☆
神理解の違い
枢機卿や司教たちが、教皇の発言に対して批判の声を公にあげることは、近年になってからは、稀なことである。教皇と教皇を批判する人たちとの意見の違いは、その根底にある神理解の違いによるものであるように、私には思われる。
伝統的な立場に立つ指導者たちにとっては、神は「万物の主催者であり、倫理・道徳の最高の基準」である。人間は、そうした神の権威を尊び、敬い、その掟に沿って生きていかなければならない、神の掟に背くことは、万物の主宰としての神の権威を無視し、逆らうことにつながっていく。教会の使命は、何よりも神の意思、権威を尊重し、神のみ旨に沿って生きていくよう、人々を指導することにある、という神理解であり、信仰である。
こうした神理解に立つ指導者たちにとっては、離婚は神の掟に背く大きな罪であり、離婚し再婚した信者たちに、安易に聖体拝領への道を示していくことは、神の掟を曖昧にしていくことにつながってしまう誤った指導以外の何ものでもないのである。そうした観点から、教皇の使徒的な勧告に批判的な声をあげたように私には思われる。
こうした神理解に対して、フランシスコ教皇の神理解は「憐れみ」に軸足を置いている。
教皇が、教義を否定していないことは、「愛の喜び」の序章で、「教義および実践の統一性は普遍的な真理である」と記していることからも明らかである。教皇は、カトリック教会の教義の変更はせず、結婚に失敗した人々の聖体拝領などについて、教会内で解釈権限の拡大に道を開いたのである。
そのように教皇を促したものは、無論、教皇の人間理解である。教皇は、現実の人間は、みな弱く、複雑で、純粋に教えに沿って清く正しき生きることがどんなに難しいことであるかに配慮し、教会の教えにそって生きていくことが出来ない人々も、神の憐れみの対象であることを、訴えようとしたのである。
「教会の生命を支える柱は、憐れみです。教会の司牧行為はすべて優しさに包まれていなければなりません」(小冊子 18ページ)
「憐れみは、福音の脈打ち心臓であって、教会のすべての人の心と知性に届けなければならないものです」(同20ページ)
恐らく、教皇は、アルゼンチン時代の司牧経験から、夫婦が生涯をともにすることの難しさを、肌感覚で学んできていたに違いないのである。また離婚したからといって、一方的に罪を犯したと断罪できない現実も、十分に見てきたに違いないのである。次のように述べているのである。
「客観的に見て罪の状態と思われる条件の中にいる人は、様々な制約や情状配慮要素のため、主観的に罪科が無いことがありうる。その人は神の恩恵を受けている状態であり、教会の助けを得て恩恵と愛徳のうちに成長しつづけることがありうる。(中略)どんな問題でも、白か黒かというアプローチしかできないと、恵みと成長への道が閉じられてしまい、神に栄光を帰する聖性への道を諦めることになるでしょう」(第305項)
そして教義を前面に押し出す人々に対しては、次のように語るのである。
「混乱の余地のない厳正な宗教指導を期待する人たちがいるのは承知している。しかし、聖霊は弱い人間のさなかに善なるものの種をまく。その善きものに気を配るよう、イエスは教会に求めていると、私は心から信じている」「本当に教義を守るのは、教義の文書よりも精神を支える者であることに気付かされた」「離婚・再婚した人々は助けが必要です。この助けは秘跡の助けを含む場合もある。ご聖体は完全さへの褒賞ではなく、弱さへの薬であり、栄養である」(第38項)
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
Dr.南杏子の「サイレント・ブレス日記」⑪太宰の「津軽」2017年
昭和19年、太宰治が3週間にわたって旅した津軽半島を8月中旬、急ぎ足で回った。太宰の旅は、出版社から執筆を依頼された風土記の取材のため。私のそれは、津軽地方の地域医療現場を視察させていただくことが目的だった。
「きょうは、どうされました?」。若い医師が、ゆっくりと丁寧な問診に努めて いる。この日の外来担当は、ふだんは東京の病院で勤務している医師だ。定期的な派遣要請を受け、東京から一泊二日の日程で外来診療、入院患者や関連施設に入所 する高齢者の回診などを担当している。
医師の問いかけに、ほんの短い言葉だけを返す患者もいれば、早口の津軽弁で主訴を詳しく語り始める患者もいる。「先生、咲江ちゃんは昨日から熱が下がらない んですって……」。医師の傍らに立つ看護師が、患者の話す地元の言葉を医師に向けてひとつひとつ“通訳”する。
この診察室で、患者は「ちゃん付け」である。ただし、医師の前に座った小柄な患者は80歳をとうに過ぎたと見える高齢女性だ。集落内に同じ名字が多いため、 患者の識別を明確に行いたいという対応側の知恵でもあると同時に、医療者と患者 の距離の近さをも感じさせる。それを証明するように、看護師の頭の中には、「咲江ちゃん」の年齢や既往症をはじめ、前回の受診時期、詳しい家族構成などがすべ て入っている。「息子さん、あした仙台に帰るんでしょ? 今回はゆっくりできて 良かったね――」。津軽半島の町で診療の合間に交わされる会話は、どの患者に対してもそんな具合だった。
だが僻地医療が直面する現実は、厳しいと言わざるを得なかった。医師の確保と定住問題、更新が必要な医療設備といった医療供給側の問題だけではない。医療を受ける側の集落や町そのものが、やせ衰えている現状が横たわっているのだ。
本州最北端の新幹線停車駅「奥津軽いまべつ駅」がある今別町を例に取ると、良く分かる。
70年以上前に発表された小説「津軽」の中で太宰は、「今別は(中略)明るく、近代的とさえ言いたくなるくらいの港町である。人口も、四千に近いようである 」と書いている。その今別町の人口は、今や約2700人だ。世界最長の海底トン ネルが開通し、新幹線が通る町の人口が、太宰の生きた時代の約7割にまで落ち込んでいるのだ。「人口急減」と「地方消滅」という言葉の重みが胸にしみわたる。
人口減少は、医療の形態も変える。
辺地であれば、医療の中心は在宅診療であろうと想像していた。だが、私が訪問 したあるクリニックでは、訪問診療は数年前に止めてしまったという。集落の中で、高齢の患者を支える若い家族、あるいは同居する家族そのものがいないために、 在宅医療そのものが無理になっているのだ。独居高齢者ばかりが増え、もはや「老老介護」をもできない現状。患者は治療も含めて身の回りの世話を病院に頼るしか なく、いわゆる「社会的入院」が高齢者を守る最後の砦になっていた。
身寄りのない高齢者であふれる病院&高齢者施設――津軽地方の現実は、決して 他人事ではなく、日本の将来の姿とも思えてくる。
ただ、大きな救いもある。冒頭で紹介した外来診察室の風景だ。クリニックを訪ねる患者をはじめ、入院中の患者、施設の入居者たちは、みな穏やかな笑顔であっ た。年をとり、病気になり、身寄りがなくても、人は心穏やかに老後を過ごすこと ができる。少なくとも、医療者と患者の信頼関係があれば、そうしたケアや優しさを提供できる施設を作りうる――基本的だが重要な事実を、津軽の人たちと風土が私に教えてくれた。
ところで、今回の小さな旅の途中、「津軽」を再読して驚いた。太宰の津軽旅行 に同行した青森の学友・T君、今別町のMさん、蟹田のSさんは、みな医師や薬剤 師、病院事務長といった医療関係者ばかりだった。
(みなみきょうこ・医師、作家: 終末期医療のあり方を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス』=幻冬舎=は5刷出来。5月24日発売の日本推理作家協会編『ザ・ベストミステリーズ2017』=講談社=に短編「ロングターム・サバイバー」が収録されました。アマゾンへのリンクは、https://www.amazon.co.jp/dp/4344029992?tag=gentoshap-22)
漆原JLMM事務局長の「共に生きるヒント」 ⑩「共感力」
もう15年以上になりますが、毎年4、5回のペースでカンボジアのスタディツアーを企画しています。学生から年配の方まで現地にご案内し、カンボジアの歴史・文化・暮らしを学んだり、JLMMの支援活動にボランティア参加していただいています。
カンボジアにおける約30年間にわたる内戦について学ぶことは、現在のカンボジアの復興と発展、そして人びとの心を知るために不可欠な要素なので、プノンペンでのキリングフィールド、政治犯収容所跡地、シェムリアップの戦争博物館の3か所に毎回訪れています。
内戦やポルポト時代の歴史に少しでも触れる中で、戦争の恐ろしさ、愚かさと戦争が人間の人生や社会にどれだけ深いダメージを与えるかを感じる時間です。
ところがここ数年、大学生や高校生を戦争博物館にご案内すると、展示されている戦闘機、戦車、武器などにとても詳しい学生がいることに驚かされます。そして実際に内戦で使用された武器を手に取り、撃つまねごとをしたり、嬉々として写真撮影している姿には、とてつもない違和感を覚えてしまいました。
先日のツアーで一人の学生が興奮した様子で「僕、戦争大好きなんですよ!」と私に言いに来た時、私はついに自分の感情を抑えることができなくなりました。実際に人を何人も殺したはずの武器たちを目の前にして、平気でいられるどころか楽しんでいるその感覚とは何なのか。私はそこにいた学生全員に自分のいらだった気持ちややるせないような感情を分かち合いました。
話をよく聞いてみると、日常的にやっているオンラインゲームなどの「戦争ゲーム」の影響だとのこと。何種類もの武器がどのくらいの殺傷能力を持つかをゲームの機能としてよく覚えているというのです。ツアーの中で学生一人ひとりと話してみると、武器というものの見方が変わり、「武器をおもしろがり、かっこいいと思っていた今までの自分を恥ずかしいと思いました」と語ってくれる学生もいました。確かにゲーム上では、殺されたキャラクターの人生や残された家族のストーリーや感情などは全く無関係なのですから、そのような姿勢で戦争をとらえてしまうのも当然です。私は、そのような戦争ゲーム世代の学生たちを責めることもできないなと感じました。
バーチャルな世界から抜け出て、リアルな世界に触れることが必要で、戦争のリアリティについてもその時代を生きた人々の実際の体験に耳を傾け、自分なりに感じることが大切なのだとあらためて思いました。実際に人と出会い語りあうことを通して、現実をとらえることができるのだと思います。そして、もし自分だったどうなのだろうという、「共感するチカラ、能力」が問われているのだと思います。
だからこそいま、戦争を「仕方がない」とする層が多い日本社会の現状の中で、戦後72年を迎え、第二次世界大戦の体験者の方々が最後に語り残そうとされていることを心に刻み、2度と同じような過ちを繰り返さない選択をしていくことがとても重要なのだと思います。
(JLMM事務局長・漆原比呂志)
*JLMM は日本カトリック司教協議会公認団体、国際協力NGOセンター(J
JLMMでは毎年、派遣候補者を募集しています。賛助会員としてのご支援やご寄付をお願いいたします。またカンボジアスタディツアーやチャリティコンサートの企画、
Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑭時間の奴隷と時間の支配者
バチカン放送は、国際放送なので、時差の関係で全ての番組が録音され、放送の時間が来ると、担当の技術者がオン・エアする、という形をとっている。だから録音中にたまに読み間違えても、失敗しても、やり直すことができるから安心。録音をするスタジオと外の副調整室で働くミキサーとは、両方に通じるマイクで交信できる。
原稿を読み違えてしまい、止まって読み直すときに、ミキサーに「あと、何分残っている?」と聞けば、「3分とか2分」と真面目に応えてくれる。ところが「あと何秒?」と聞くと、「まだそんな言葉を覚えているのか?あと1秒」などあり得ない答えが返ってくる。「放送は秒刻み」というのが、日本人の常識だった。だから、わたしたちは時間を厳守するように努めた。
でも、イタリア人にとっては「何秒」などという言葉は、頭の片隅にもない。いくら「日本ではこうなのだから」と説明しても、正確な時間に仕上げようとしても、「あんたたちは時間の奴隷だね。僕たちは自分で時間を支配している」と胸を張る。わたしたちの要求は無視して。
日本に休暇で帰ってきたとき、NHKの国際放送局を訪ねた。その時に、こう言われた「時間にルーズなのは、バチカン放送とブラジルの放送です」。
バチカンに戻り、会議の時にそのことを報告したら、「これは、少なくとも、日本でわたしたちの放送が聞かれている、という証拠だ」と、技術部副部長。唖然として言葉が継げなかった。考えようによっては、イタリア人のこの楽天的でおおらかな国民性が、いわゆる「外国人」と呼ばれる人々を寛大に迎え入れ、いささかの違和感も感じないで、生活できるようにしてくれるのかもしれない。21年間のイタリア滞在で、一回もホームシックにかからず、元気で働き続けることができたのも、そんお蔭かもしれないと、今にして思う。
( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)
三輪先生の国際関係論 ⑯歴史散策‐3
先月号で取り上げた二つの例は、アメリカの有名大学の場合であるが、博士論文審査の過程で見逃される例は、私が関知しているものに日本の有名大学の例がある。学位が授与された課程博士の論文で、中堅出版社から書籍として出版されている場合である。
審査した指導教授も出版社の編集者も見逃した「言語」の過ちである。アメリカのシオドア・ルーズベルト大統領の英文で書かれた信書が引用されているのだが、その翻訳が、おかしいのであった。謙譲語と尊敬語がごちゃごちゃに間違って使われているのである。「私が差し上げましたお手紙を拝見して頂けましたでしょうか」というように。
私自身が関わった研究で、第一級の史料集が収録している文書の中でも、わざわざ「信憑性あり」を示すマークを欄外余白部分に付けている文書を用いた論文で、それが後に「偽書」であると判明した経験をしている。他でもない、私にとっては大発見の大論文であり、「ペリーの『白旗』」という一大論争の一方の火付け役となったことは忘れようも無い大事件であった。
もう一方の火付け役は松本健一であった。その事情は拙著『隠されたペリーの「白旗」-日米関係のイメージ論的・精神史的研究』(Sophia University Press, 1999 に詳しいのでここでは簡略にフォローするに止めるとしよう。それはこういう事である。東京帝国大学文化大学史料編纂掛編纂『大日本古文書・幕末外国関係文書之一』(1910年)の269‐270頁に「信憑性」ありの印を付して、英語文書の一部が以下のように示されていたのである。
6月9日(?)米国使節ペリー書簡 我政府へ 白旗差出の件
〇町奉行書類ニハ、初メニ「亜美利加極内密書写」ト題ス 〇高麗環雑記ニハ・・・「艦ヲ退ケ和議可致旨申趣旨之和議二有之」トアリ
続けてもう一つの翻訳文書では書簡と共に「白旗二流」が箱の中に収められていたと示されている。
松本健一もこの文書に付された「信憑性」ありの印を信じて、ペリーの白旗に言及した論文「日米『次の一戦』はあるか」を『中央公論』1991年十一月号に発表していたのである。この論文に大きな衝撃を受けたのである。そのわけは、若くしてアメリカに二度までも留学して1950年代中期と60年代中期にジョウジタウン大学とプリンストン大学でそれぞれ、学士、修士と博士の学位を取得していたが、私が学んだアメリカ史のなかで、「ペリーの白旗」などということにはついぞお目にかかったことがなかったのである。
日本側の「第一級」の史料があるのに、アメリカ側には、調べてみても、その痕跡すらないのは一体どうした事か。私は早速電話してみた。相手はこの史料編纂所の元所長だった金井円さんである。金井さんは私と同じ旧制高校の先輩で、しかも同郷人である。ごく親しい研究者仲間であった。言下に金井先輩は「無論信憑性があります」といい、この文書が高麗環の手元に置かれた写し書きであるいわれにも触れてくれた。
オリジナルは江戸の大火で消失していたということだった。「史料編纂所の教授に採用された際に受けた試験ではまさにこの高麗環のことを習った」とさえコメントなさっていた。ここまで確かめても、私には何か胡散臭い感じが残っていた。だってそうではないか、アメリカ側には全くそんな気が発見できないからであった。
日本側でも不思議な現象があった、アメリカ批判の言論に使われてもよさそうなものを、実際使っている文書の筆者は歴史家には一人もいなくて、国際法専門家だけが、ペリーの「白旗」をひきあいに出すのであった。
しかし、ここに一つの驚嘆すべきケースがある。新渡戸稲造の場合である。それは彼にとっては英語でも日本語でも出版された書籍としては、全く第1号に当たるジョンズホプキンス大学の出版局から出されたHistory of Intercourse between Japan and the United States of Americaであった。彼は白旗が事実として記載されている文書を引用しながら、それをペリーが幕府に届けた白旗としてではなく、我が日本国の軍旗が海外で占領地にはためいたもの、に置き換えてしまっているのである。
それは、この著書の前書きでわざわざ断っているように、日本と個人としての新渡戸自身がアメリカとアメリカ人に対して自覚していなければならない恩義に報いるために書かれたためであった。アメリカの名誉を守ろうとして、このような歴史の歪曲になったのである。
「恩義に報いるため」 として書かれたれ歴史が、結果として「虚偽の歴史」になったのが、日本で最もよく知られた国際人であり、教育者としては、第一高等学校、東京帝国大学で次代の日本を背負った指導者を多数送り出した人物の所業であったことを知って、真底、驚嘆した。
この驚くべき事実を、彼の薫陶を受けた学者知識人が一言も明かさず世を去ってしまったことに、日本の学界もジャーナリズムも黙過してきたことに、戦慄を覚えた。日本の知的空間にはこのような大きなブラックホールがあるのだ、と。
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
Sr 岡のマリアの風 ⑭独り言…「人々」から、一人ひとりの「顔」へ…
今年(2017年)の六月、ここ、小長井の本部修道院を訪れてくださった、スペイン人のホセ神父とのメールのやりとり。8月17日、スペイン北東部バルセロナ中心部のランブラス通りで起きたテロ事件の知らせを聞き、悲しみ、祈っています、という、わたしからのメールから始まって。
***
ホセ神父さま、バルセロナでのテロ事件の知らせを、痛みをもって聞きました。シスターBと、わたしたちは祈らなければならない、と話しました。何よりも先ず、わたしたち自身の心が、主の恵みに開かれるように。わたしたちは、ただ、主イエスを見つめることによってのみ-特に、わたしたちが真のいのちを得るために、極みまでへりくだり、愛し、赦して、十字架にかかったイエスを見つめることによって-、本当の平和、赦し、和解が何であるかを知り、学び、それを生きる力を与えられるのでしょう。わたしたちは、神父さまと、神父さまの民-主から愛された民-と共にいます。主イエスを真ん中にして。祈りつつ
***
シスターL、シスターのみなさま、祈りでわたしたちと共にいてくださることに感謝します。
ただ、愛から生じる正義だけが、つまりイエスの現存だけが、暴力を遠ざけることを可能にします。まさにシスター方が日々しているように、わたしたちは、祈り、働かなければなりません。素朴な(単純な)世界、より兄弟愛に満ちた世界を造り出すために。今は、犠牲者とその家族のために、共に祈りましょう。
先日、8月15日の、長崎での、平和とマリアについての話はどうでしたか?もちろん、すばらしかったと確信しています。マリアの母のご保護のもとにいるのですから。わたしもお祈りしていました。
祈りのうちでつながりながら。ホセ神父
***
ホセ神父さま、メールをありがとうございます。わたしが、わたしの貧しい話を通して、何らかの方法で、一人ひとりの心の中に、わたしたちの平和、イエスさまを運ぶことが出来たのか。正直、わたしには分かりません。すべて主の御手に委ねます。
引き続きお祈りしています。先ず、いつくしみ深い主が、わたしに「新しい心」をくださるように。憎しみ、嫉妬、絶望に耐え、対抗することが出来る心を。
場所は離れていても、イエスさまを真ん中にして、神父さまと、神父さまの民の近くにいます。祈りつつ。
***
もしかしたら、ここ本部修道院の多くのシスターたちにとって、スペインの国や人々は、遠い国の「人々」だったかもしれない。でも、先日、本部修道院を訪れ、主日のミサの共同司式をしてくださったホセ神父を通して、スペインの人々が、「顔」のある、具体的な、身近な人々となったのではないか。
顔と顔を合わせた「出会い」を通して、「ふれあい」を通して、「その他大勢」だった人々が、それぞれ「名前」のある、「顔」のある、具体的な兄弟姉妹となっていく。そして、彼らを通して、彼らの両親、家族、友人、恩人…たちが、具体的な「顔」となっていく。
ホセ神父と出会ったシスターたちにとって、もはや、スペインの人々は、顔のない「その他大勢」ではなくなったはずだ。
8月には、二泊三日で、フランスの若者たちの巡礼団も訪れた。彼らは、ここ小長井の「山里」で、それまでの、どちらかというと強行軍だった巡礼の疲れを癒し、休み、黙想する時を過ごした。大きなリュックをしょって、歩き、雑魚寝をしてきた彼ら。聖堂の中で、袖なしシャツに短パンといったいでたちで、深く祈りに専心している若者たち。聖堂横の小部屋で告解をし、夕食後、夜8時から、聖ヨゼフ小聖堂でミサを捧げる…。シスターたちの慣習とは違う、しかし、真摯に祈っている姿は、心を打つものがあった。
三日目の朝、「旅立ち」の時、見送りのために玄関前に集まった、たくさんのシスターたち。日本語とフランス語で、聖歌を歌い合い、最後には抱き合い、握手し合い、涙も流しながらの、「心の交わり」。言葉は分からなくても、笑顔で通じる。
そしてこの日から、シスターたちにとって、フランスの国、フランスの人々が、「他人」ではなくなっていく。
***
一言の、「ごめんなさい」、「ありがとう」。目が合ったときの、笑顔、やさしさ…。
神を信じる者の「平和」とは、一人ひとりの心の中におられる神の現存、平和であるキリストの現存を、「呼び覚ます」もの、と言えるのかもしれない。神は、キリストは、わたしたちの心の中に、「すでに」おられるのだから。ただ、わたしたちの「思い煩い」-心配事ばかりでなく、わたしたちの目を引くさまざまな誘惑も-が、神の現存を「ふさいで」いるのだろう。
(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)
三輪先生の国際関係論 ⑮終戦特集3「勝つ確信」が無いのに対米開戦を決めた論理
戦わずしても亡国、戦っても勝ち目が無いという時にはどうするのがいいか、という二者択一を迫られた時、日本の政策決定者はどうしたか。彼らはこう議論した。
戦って負けたほうがよい。正義に向かって立ち上がることのできた国民は、再度、三度でも立ち上がることができよう。しかし、立ち上がらずして亡国に至るときは、永遠の亡国であり、二度と再び国を興すことはできまい。
こう対米開戦に決したのは1941年9月4日の御前会議でのことであった。
この論理の組み立て方は、歴史研究に携わってきた私にとって、長く心に突き刺さっていた。戦後の復興のエネルギィーは確かにそこに発していたろう。しかしその蔭には250万人の戦没者がいる。特に敗戦が誰の目にもはっきりしていた最後の数ヶ月に飛び立った特別攻撃隊の戦士の若い命は痛ましい。
彼らの、祖国へ、父母へ、恋人への想いが、生き残った我々の心を過ぎるとき、我々は奮起したのだ。彼らが果たせなかった夢を彼らに代わって、実現しなくてはならないと。世界の人々に尊敬される、偉大な祖国を創出するのだと。
果たしてこの目標は何処まで達成できてきているのだろうか。敗戦記念日が近づく今日この頃、真摯にこの命題に向き合っていたい。
(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)
三輪先生の国際関係論 ⑭終戦特集2 ボッブ・ディランの強靭なる魂から流れ出る華麗なる文言