もう一方の火付け役は松本健一であった。その事情は拙著『隠されたペリーの「白旗」-日米関係のイメージ論的・精神史的研究』(Sophia University Press, 1999 に詳しいのでここでは簡略にフォローするに止めるとしよう。それはこういう事である。東京帝国大学文化大学史料編纂掛編纂『大日本古文書・幕末外国関係文書之一』(1910年)の269‐270頁に「信憑性」ありの印を付して、英語文書の一部が以下のように示されていたのである。
松本健一もこの文書に付された「信憑性」ありの印を信じて、ペリーの白旗に言及した論文「日米『次の一戦』はあるか」を『中央公論』1991年十一月号に発表していたのである。この論文に大きな衝撃を受けたのである。そのわけは、若くしてアメリカに二度までも留学して1950年代中期と60年代中期にジョウジタウン大学とプリンストン大学でそれぞれ、学士、修士と博士の学位を取得していたが、私が学んだアメリカ史のなかで、「ペリーの白旗」などということにはついぞお目にかかったことがなかったのである。
日本側の「第一級」の史料があるのに、アメリカ側には、調べてみても、その痕跡すらないのは一体どうした事か。私は早速電話してみた。相手はこの史料編纂所の元所長だった金井円さんである。金井さんは私と同じ旧制高校の先輩で、しかも同郷人である。ごく親しい研究者仲間であった。言下に金井先輩は「無論信憑性があります」といい、この文書が高麗環の手元に置かれた写し書きであるいわれにも触れてくれた。
オリジナルは江戸の大火で消失していたということだった。「史料編纂所の教授に採用された際に受けた試験ではまさにこの高麗環のことを習った」とさえコメントなさっていた。ここまで確かめても、私には何か胡散臭い感じが残っていた。だってそうではないか、アメリカ側には全くそんな気が発見できないからであった。
日本側でも不思議な現象があった、アメリカ批判の言論に使われてもよさそうなものを、実際使っている文書の筆者は歴史家には一人もいなくて、国際法専門家だけが、ペリーの「白旗」をひきあいに出すのであった。
しかし、ここに一つの驚嘆すべきケースがある。新渡戸稲造の場合である。それは彼にとっては英語でも日本語でも出版された書籍としては、全く第1号に当たるジョンズホプキンス大学の出版局から出されたHistory of Intercourse between Japan and the United States of Americaであった。彼は白旗が事実として記載されている文書を引用しながら、それをペリーが幕府に届けた白旗としてではなく、我が日本国の軍旗が海外で占領地にはためいたもの、に置き換えてしまっているのである。