Sr 岡のマリアの風 ⑮和解と平和…パパ・フランシスコの心…

 

 パパ・フランシスコが、南米コロンビアの司牧訪問(2018年9月6日~11日)を終えた。パパは、一貫して、「和解と平和」の切り離せない関係を語りかけた。「誰かが」、先ず、出て行って、自分を傷つけた相手との、具体的な和解・ゆるしの道を歩み始めなければならない。そうしない限り、決して「憎しみ」の連鎖は断ち切れない。たった一人であっても、その「誰か」が、絶望、あきらめの中で、希望を開く人となる、と。

 パパは、自分もラテン・アメリカ人である。コロンビアの人々にとって、この「和解と平和」の道が、どんなに困難であるか、人間的に見れば不可能でさえあることを、よく知っている。長い内戦の暴力、社会の不正の犠牲となった人たち。特に無実の犠牲者たちと、その家族、友人たち。パパ・フランシスコは、その人々に「復讐の誘惑」に打ち勝ってください、次の世代のために、「平和を築く人」になってください、と訴えかける。

 「わたし」が「先ず」出て行って(相手のところに来るのを待たずに)、対話をする。それは、妥協ではなく、顔と顔を合わせて、目と目を合わせて、つまり、「具体的に」「実際に」最初の言葉をかける、という意味だろう。対話は決して「馴れ合い」ではない。互いに、自分の考えをはっきりと述べ、そして相手の考えを聞く。相手の間違いを非難し合うばかりでは、「憎しみの連鎖」から脱出できない。それは、最終的には、神に似た者として造られた人間を、悪魔の姿、「憎しみの奴隷」としてしまう。対話とは、互いの考えを聞き合う中で、共有できる善を共に探すことだろう。そこから「憎しみの連鎖」からの解放、「将来の希望」への道が開ける。

 特に現代の教皇たちは、「人間は神ではない」「わたしたちは救い主ではない」ことを、教会の「罪の歴史」と率直に向き合う中で語ってきた。「人間は神ではない」-当たり前だ、と簡単に言うことは出来ないだろう。わたしたちは-少なくともわたしは-、日々の小さな事柄、人々とのかかわりの中で、あたかも「わたしが」他者の救い主であるかのようにふるまうことが、多々、ある。「わたし」自身も、ゆるされ、救われることを、常に必要としていることを忘れながら。

 人間は、誰一人として、「わたしが絶対に正しい」「わたしのしていることに、間違いはなし」とは言えないだろう。わたしが、今、ここで、「普通の」生活をしているとしたら、それは、わたしが、今日まで、たくさんの、たくさんの人々に「ゆるされ」「受け入れられ」てきたからだ。不幸にも、ゆるされることも、受け入れられることもなく生きることを強いられた人々の傷を、わたしがあたかも救い主であるかのように触れるとき、さらなる分裂、さらなる憎しみの連鎖が始まるのだろう。

 わたしたちの主、イエス・キリストは、わたしたちに模範を残した。人々の深い傷に触れることが出来るために、自ら「貧しく」なりながら。自らを、究極まで低めながら。十字架を、いつくしみの深い沈黙の中で受け入れながら。

 わたしは、わたしを非難し、拒絶する人に対して、わたしを賞賛し、受け入れる人に対するのと同じ心で接しているだろうか。「和解が抽象的なものであるなら、それは何の実も結ばない」と、パパ・フランシスコは言う。和解、ゆるし、愛…それは、実に「具体的」なもの、一人の、具体的な人の目を見つめながら、その人の幸せだけを願う心から生じるものでなければならない、と。

 子どもの幸せを心から願う母親は、たとえ子どもが自分の思うとおりにならなくても、「待つ」ことを知っている。母の「待つ」心は、受け身ではなく、実に「積極的」である。母の「待つ」心は、勇気、信頼、希望の、英雄的な行為である。母マリアが、子イエスの十字架のもとに立ちながら、憎しみ、絶望に心を閉ざさず、希望に開かれた心で「待つ」ことを知っていたように。

 今、パパ・フランシスコのコロンビアでのメッセージ(講話、説教、祈り、記者会見…)を、少しずつ読んでいる。教皇ベルゴリオは、彼自身、英雄的に、「憎しみ、絶望の誘惑」と戦ってきた、そして今も戦い続けている、と言えるだろう。現在、毎週水曜日の一般謁見でのカテキズムは、「キリスト者の希望」についてで、前回(2017年8月30日)で32回目となる。

 折に触れて、さまざまな形で教皇が、キリストの民に、すべての善意ある人々に語りかけるメッセージは、その時代その時代の教会にとって「預言的」、つまり、現在、この世の中において、神が何を望んでいるのかを指し示すものである。それは、簡単には分からない。「わたしたち」の側からも、「神はわたしに、わたしたちに何を望んでいるのか」を祈り求める謙虚な態度を要求する。

 「わたしたちは救い主ではない」。それはまさに、自分の罪深さを素直に認め、わたしたちの罪をはるかに超える神のいつくしみにより頼む、へりくだった心から生まれる「悟り」だろう。

 「キリストに従う者」としての歩みは、何と困難で、同時に、何と奥深く神秘に満ちたものだろう。それを素直に謙虚に受け入れるなら、わたしたちは「キリストの喜び」を心に抱く、という、最高の幸せをいただくのだろう。それは、人のために、その人の幸せのために、自分のいのちまでも差し出す準備が出来ている心の状態、態度、と言えるかもしれない。

アーメン

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2017年9月14日 | カテゴリー :