デジャヴュのビル崩落
2001年9月11日、ニューヨークの惨劇をテレビで始めてみたとき、それがテレビドラマの一シーンではなくて、現実に起こっていることだととっさに理解できた人はいなかったのではないか。 それほどそれは現実離れをしていた。それが現実に起こっていることと解ったとき、私はそれを過激 なアメリカ人の行為だと信じた。
合衆国憲法によって作り上げられたアメリカという法律論的人工国家では、その憲法の理念に正統 性の根拠を置く諸々の政治行動が発生し続けてきた。
1980年代に聞いた情報では、自分たちの憲法で保障された権利が侵害されているとして、それを民主政治の通常の手続きで回復できないと観念 した男たちが秘密結社に集い、暴力によりその目的を達成しようとしている。ある調査によればその 総数は6000名を超え、全国各地に点在し、それぞれの結社はインターネットで横の連携をはかっ ているというのである。 つまり国内の政治に対してアメリカ国民自身のテロリスト集団の一斉蜂起さえありうるのである。
地下鉄サリン事件は1995年日本で起きたが、アメリカではこの日本の宗教法人オーム真理教 をかねてからお墨付きのテロリスト集団としてマークしていたのである。事件の結果日本では「安全 と空気はただ」という神話だけは一瞬砕けたかに見えたが、これを「テロリズム」とか「テロリスト」の一般的概念で捕らえ、対策を立てようとする発想にはまだ立ち至っていなかったようである。
そんなお国柄なので9.11から日本人が受けた衝撃は、「テロリズム」が多少なりとも情報化していた社会のアメリカ人とは違ったものだった。そのうえ日本政府はアメリカの同盟国として、国連 の決議が得られなかったイラク戦争に協力することに決めたとき、国民に対して「石油」については 一言もなく、当時国民の最大関心事だった日本国民の拉致という対北朝鮮問題解決にアメリカの協力 が必要だという理屈だけで押し切った経緯がある。
いわば国民は小泉首相の「詭弁」に乗せられたのだ。そのわけの一端は国際テロリズムと無縁のよ うな国内平和を享受してきた日本人と、国民の教育を怠ってきた日本のジャーナリズムの見識不足にあった。
一般に言われる日本人の「平和ボケ」はテロリズムに及んでいたのである。
テロリズムの男性原理
私が9.11の映像をテレビで見たときすぐにこれは「国内」テロだと思ったのにはわけがあった。黒煙を上げ崩落してゆく二棟の高層ビルに人気俳優ブラッド・ピット主演のハリウッド映画「ファ イトクラブ」のラストシーンが重なったのである。
90年代の作品「ファイトクラブ」は「女性化」する社会で、去勢されたような生活の憂さを晴らす ために、毎夜閉店後のバーの地下室をリングに変え、相手を叩きのめすまでパンチの応酬を続ける男たちの話である。それはやがて全国的組織となり、政治目的を金融資本主義の砦、クレディット会社 の本社ビルの爆破に設定する。そうすればクレディットカードで使いすぎて債権者に追い回されてい る貧者の解放、アメリカ資本主義に翻弄される弱者の救済になるという理屈である。
ここに描かれているのはテロリストというよりはロビン・フードの伝承に連なる「義賊」の姿であ る。そのメッセージがあまりにも「反社会的」なので、商業映画として妥協し、登場人物の妄想とし てストーリーは完結する。ニューヨークの金融街の中心に聳え立つ超高層ビルが崩れ落ちるところで 大詰めとなるのである。それは人気俳優ブラッド・ピットの演ずる「社会正義派」の若者を中心にし て展開する。
暴力と「正義」という近年まれな男性原理を体現しているこのブラッド・ピットに見出される世のいわゆる‶エリート青年〟がいる。この青年は父親の「成功」のイメージを具現しようとして、本来ある べき人格を喪失してしまっている。
一流大学を出て一流企業に勤め、一流のアパートに住み、ブラン ド物の輸入家具をだんだんに買い足すという人生設計のこの青年をブラッド・ピットは揶揄し、自らのイメージの暴力的正義漢にこの青年を仕立て直していく。また中国系移民二世が店番をしている二流のスーパーに盗賊として忍び込みながら、その青年も本来、獣医学校に進みたいのに一声も親父に逆らえず、一流のビジネススクールに進学すべく浪人生活をしている。義賊ブラッド・ピットはその青年を縛りあげたうえで今度来たとき自分の希望どおりに獣医学校に行っていなければそのときは命は無いものと思えと威嚇して、何も盗らずに退散するのである。
これはテロリストの顔をした世直し義賊に間違いない。そういうメッセージを発信していたハリ ウッド映画のイメージが現実に起こった貿易センタービルの崩落のテレビニュース映像に重なってい たのであった。