Sr.岡のマリアの風 ⑯教皇のコロンビア訪問…私たちも、ゆるしと和解・・

 教皇フランシスコの9月6日から11日にかけてのコロンビア訪問で、パパさまは自ら 信仰の巡礼者」として、内戦や不正、搾取のために犠牲になった多くの人々、その家族と共に、「泣く恵み」を祈り求めた。訪問中、一週間、毎日、各地でミサを捧げ、人々を訪問し、ひたすら「ゆるし」を訴えかけたパパさまの言葉は、まさに「生の声」で、わたしたちの心を揺さぶるものだった。
「信仰の巡礼者」としてのパパは、一貫して、「わたしたちはみな、罪びとです。みんなです。このことを忘れないでください」と繰り返した。

(司祭、修道者、神学生、その家族との集いで)(メデジン、コロンビア:9月9日)[試訳]
「わたしたちは、和解するために、和解されました。呼ばれたこと(召命を受けたこと)は、わたしたちに、品行方正の、完全無欠の証明書を与えるものではありません。わたしたちは、聖性のオーラ(雰囲気)をまとっていません。聖人のような(あたかも聖人であるかのような)顔をして生きている修道者、奉献生活者、神父、シスターは不幸です(呪われよ)!わたしたちはみんな罪びとです。みんな。
わたしたちは、日々、再び立ち上がるために、神のゆるしといつくしみを必要としています。神は、よくないこと、わたしたちが間違ったことをはぎ取り(根こそぎにし)、それを、ぶとう園の外に放り出し、それを燃やします。神はわたしたちを清めます-実を結ぶことが出来るように-」。

 コロンビアでのパパの呼びかけは、一貫している。わたしたちは、みな、日々、ゆるされることを必要としている罪びとであることを、深く悟って初めて、「神のまなざし」で、「神の心」で、今の世の現実をみつめることが出来るようになる、と。そして、「神のまなざし」は、冷たい裁判官のそれではなく、いつくしみに満ちた愛のまなざしである、と。
犯してしまった間違い、罪は、曖昧にしてはいけない。それをしっかりと見つめて、改めなければならない。不正、搾取は、決してゆるしてはいけない。しかし、罪を犯してしまった「一人の人間」には、「顔」がある。わたしたちの神は、その人の「顔」をも探し求めて、「出て行く」神であり、それはまさに、善きサマリア人としてのイエス・キリストご自身の姿である。
教会に逃れてきた人たちが虐殺され、多数の犠牲者を出した、ビリャヴィセンシオでの、和解のための祈りの集い (9月8日)では、二人の子供を失った母である牧師と、足を失った青年によって代表された、苦悩と恨みを乗り越えて、ゆるし・和解のために働き続ける人々の証があった。同時に、「罪」の側に、人のいのちを奪う側に加担してしまった人々の証-ゆるしを乞い、自分を捧げる生き方を始めた人々-の証もあった。

 「わたしたちは、みな、ゆるしを必要としている罪びとです。みんな」。パパはキリストの共同体に 罪を犯した人々、殺す側に回ってしまった人々が、神の恵み
で「変わろうと」しているのを受け入れる「勇気」をも、持ってください、と訴える。それは非常に困難なチャレンジであることを、わたしは知っています。でも、主の恵みに心を開き、それを受け入れてください、と。
また、パパは、若者たちが生来もっている「じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)」は、一方で、たやすく悪への誘惑に引き込まれる要因となるが(「麻薬の殺し屋たちによって欺かれ、破滅させられる」-ひじょうに多くの若者たちが!-)、もしそれが、神の恵みによって導かれるなら、自分自身の利益、楽しみを捨てて、他者のために「出て行く」はずみともなる、と語りかける。
そして、どんな人でも、神を信じない人であっても、他者の痛みに心を揺り動かされ、それに寄り添うために、自分から「出て行く」とき、その人は、自分でも知らないうちに、イエスを運んでいる、と明言する。
たとえ、キリストを知らない人であっても、その人の中で、いつくしみと愛が先行し「出て行く」とき、その人は、イエスを運んでいる、つまり、「真の人間」の姿を運んでいる、と。

(司祭、修道者、神学生、その家族との集いで)(メデジン、コロンビア:9月9日)[試訳]
「若者たちは、生来、探し求めることにおいて、じっとしていられない(落ち着かない)ものです。そして、現在の、責任の危機や、共同体的結びつきの危機にもかかわらず、多くの若者たちが、共に、世の悪を前にして結集し、活動や、ボランティアの、さまざまな形で献身しています。たくさんの若者たちです。

 そして、何人かは、「掟を守っているカトリック信徒」(cattolici praticanti)ですが、多くは、「名ばかりのカトリック信徒」(cattolici “all’acqua di rose”)―わたしのおばあちゃんが言っていたように-です。その他の人々は、信じているのか信じていないのか分からない人々です。
しかし、この、じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)が、彼らを、他の人々のために何かをしようとさせ、この、じっとしていられないことが、世界中のボランティア活動を、若い顔で満たしています。この、じっとしていられないこと(落ち着きのなさ)を導かなければなりません。それを、イエスへの愛のためにするなら-自分が共同体の一部であると感じながら-、彼らは「信仰の旅人(巡礼者)」-あらゆる道、あらゆる広場、地上の隅々にイエスを運ぶことを喜びとする-となります(cf. 使徒的勧告『福音の喜び』107)どんなにたくさんの人々が、イエスを運んでいることを知らずに、実際にはイエスを運んでいるころでしょうか!
これこそ、仕えながら道に出て行くこと、もしかしたら、彼ら自身もそれをすべて知らなくても、信仰の旅人であることの豊かさです。それは、証です。証は、わたしたちを、わたしたちの心の中に入り、そこで働くだろう、聖霊のわざへと開きます」。

 第二バチカン公会議は、イエスの受難・死・復活の神秘から、わたしたちの上に、世界の上にあふれ出る「聖霊」-愛の霊、ゆるしの霊、いのちを与える霊-は、構造上の「教会」をはるかに超えて自由に働いていることを、再確認している。神の望みは、「すべての人々」の救いであるからだ。目の前には、「みことばのたね(種子)」 «semina verbi»によって準備された、「喜びの知らせ」(福音)を待っている、広大な地がある。わたしたちは、異なる方法であっても、「みな」、喜びの知らせを告げ知らせる義務をもっている。

[参照]「みことばの種子 AG 11 15 、「福音の準備」 LG 16、第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』Ad gentes AG 1965 3 11 15項。『現代世界憲章』Gaudium et spes GS 1965 10 11 22 26 38 41 92 93項。『教会憲章』Lumen gentium LG 1964 16 17項。パウロ六世 使徒的勧告『福音宣教』Evangelii nuntiandi 1975 53項。ヨハネ・パウロ二世 回勅『救い主の使命』Redemptoris missio 1990 28項。イエスと出会った喜び、イエスと出会い続けている喜びを生きているキリスト者は

 みな、大いなる確信をもって、「みことばの種子」によって準備されている地に出て行かなければならない。このキリスト者の「義務」は、大きな喜びに促されて、いても立ってもいられない心、まさに、イエスのいつくしみの心から、イエスのまなざしから、生まれる。わたしの心は、何と、まだまだ「狭い」ことか!
祈りつつ、今日も前に進みたい。アーメン

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2017年9月26日 | カテゴリー :