◎教皇連続講話「世界を癒す」④大感染の試練の中で「社会的不平等」と「分かち合い」の意味を考える

Pope Francis during his weekly General AudiencePope Francis during his weekly General Audience  (ANSA

*為政者の権利と義務

 また教皇は、私たち持ち物が「共同体に価値をもたらす」ことを確実にするために、為政者たちは、「共通善に従って財産に対する権利の合法的行使を統制」する権利と義務を負っていることを強調。

 さらに、財産とお金は「使命を果たすことを可能にする手段」だが、「私たちは、その目的を『個人または集団』に簡単に変えてしてしまう、それによって、本質的な人間の価値観が損なわれる。神の似姿で創造され、自分が社会的存在であり、創造、協力、そして愛するという大きな能力を与えられていることを、私たちは忘れてしまうのです」と警告された。

 「私たちの視線をイエスに据え、イエスの愛が弟子たちの共同体を通して働いてくださる、という確信を持って、私たちは皆、それぞれにより良い何かを生み出すことを願って、共に行動しなければなりません。神に根ざしたキリスト教徒の希望は、神に対する強い思いです。それは、キリストの弟子としての私たちの使命を共に分かち合い、強めようとする意志を支えてくれます」。

 そして、講話の終わりに教皇は、「創造者が私たちにくださったものを世話し、誰も欠けないように共有する」なら、「私たちは、もっと健康で平等な世界を再生する希望を、強く持つことができるでしょう」と語られた。

 そして最後に「子供たちについて」考えるよう信徒たちに促され、「多くの子供たちが現在の不当な社会の仕組みのためにに苦しんでいます。命を落とし、食べる物がなく、教育を受ける機会も与えられていません。コロナの危機の後で、私たちは、もっと良くならねばなりません」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 なお、バチカン放送日本語課による講話の発表全文日本語訳は以下の通り。(原文の英語版[pandemic]は普通名詞ですが、この場合の適切な日本語として「カトリック・あい」が使用している「新型コロナウイルスの大感染」に改めました。)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

新型コロナウイルスの世界的大感染とその社会的影響を前にして、多くの人が希望を失いそうになっています。不確実で苦悩に満ちたこの時、キリストから来る希望の賜物を受け入れるよう、すべての人に呼びかけたく思います。キリストこそが、この感染症や、死、不正義によって荒れた波を航海し、これらに打ち勝つことを助けてくださるのです。

今回のウイルスの大感染は、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました。ある人々は家から仕事ができる一方で、他の多くの人にはそれができません。ある子どもたちは、困難にも関わらず、学校教育を受け続けることができますが、他の非常に多くの子どもたちにとっては、その教育はいきなり中断されました。一部の力のある国々は、この危機のために予算を増やせますが、他の国々にとって、それは未来を抵当に入れることを意味します。

この不平等の症状は、社会における一つの病、不健全な経済から来るウィルスともいえるものを示しています。私たちは、単純に言うべきでしょう、すなわち経済が病んでいると。それは、人間の基本的価値を考慮しない不平等な経済発展がもたらすものです。今日の世界では、少数の非常に富んだ人々が、残りの人類全体よりも多くを所有しています。もう一度言いましょう。これは考えるべきことです。ほんの一握りの人々が、残りの人類全体よりも多くを持っています。これは純粋な統計です。その不平等は天に向かって声を上げています。

同時に、この経済モデルは、「共通の家」である地球を苦しめる被害には無関心です。共通の家を大切にしようとしません。私たちの素晴らしい地球は、多くの限界に達しつつあります。生物の多様性の減退や、気候変動から、海面の上昇、熱帯雨林の破壊に至る、その影響は深刻で後戻りできないものです。社会的不平等と環境破壊は進行を共にし、同じ根源を持っています(参照:回勅 ラウダート・シ101)。それは、兄弟姉妹たちと、自然、神ご自身に対する所有と支配を望む罪です。しかし、これは創造をめぐる神のご計画とは異なるものです。

「初めに、神は地とその産物とを人類の共同の管理にゆだね、それを世話するように図られました」(参照:「カトリック教会のカテキズム」2402)。神は私たちにご自分の御名において地を支配し(参照:創世記1章28節)、一つの園、皆の園として、耕し、守るようにと命じられました(参照:同2章15節)。「『耕す』とは、育てる、働く、『守る』とは、保護する、保存することを意味します」(「ラウダート・シ」67)。

しかし、これを、地を自分の好き勝手にしてよい、というように解釈してはいけません。そうではなく、私たちと自然の間には、「責任ある相互関係」が存在します(「ラウダート・シ」67)。私たちは自然から受け取り、そして、今度は私たちから自然に返します。「すべての共同体は、生きていくために必要な、地の恵みを受け取ることができます。しかし、同時にそれを守る義務があります」(同)。

実際、地は私たちに先立ち(同上)、神から「全人類のために」(「カトリック教会のカテキズム」2402)与えられました。したがって、その実りを、一部の人だけでなく、すべての人に届くようにすることは、私たちの義務です。これは私たちと地上の財との関係について鍵となる要素です。

それは、第二バチカン公会議の教父たちがこのように思い出させているとおりです。「人はこの豊かさを用いながら、合法的に所有する外部の物を、彼だけでなく、他の人たちもそれを享受できるように、自分の所有としてだけでなく、共有の物とみなさなければなりません」(「現代世界憲章」69)。実際、「ある財産を所有するということは、その所有者が神の摂理の管理人にされるということであり、当人はその実を結ばせ、手にした利益を他の人々と分かち合うべきなのです」(参照:「カトリック教会のカテキズム」2404)。

私たちは、財の所有者ではなく、管理者です。「でも、財産は私のものです」。そうです、あなたのものです。しかし、それは管理するためのものであり、利己主義的にあなたが独占するためのものではありません。

2020年8月26日

♰「私は何者かーイエスの問いかけは私たち1人ひとりに向けられている」教皇の第21主日正午の祈りで

 

Pope Francis waves from the window of the Apostolic PalacePope Francis waves from the window of the Apostolic Palace  (Vatican Media)

(2020.8.23 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは年間第21主日の日曜日、23日の正午の祈りでの説教で、イエスは私たちに、完璧への道はご自分を信頼し、慈しみ溢れる連帯の行為をするところにある、と教えておられる、と話された。

 この日の説教で、教皇はこの日のミサで読まれた福音(マタイ16章13~20節)、ペトロが、イエスを、キリストであり神の子であると信仰告白した箇所を取り上げられた。

 この箇所で、イエスは弟子たちに、あなた方は私を何者だというのか、とお尋ねになり、ご自分と彼らの関係をさらに進んだものとされたが、教皇は、「ご自分に付き従う人々、とくに12人の弟子たちとの旅の全ては、まさに、彼らの信仰を教え育てられることの一つなのです」と説かれた。

 

*告白に直面してのためらい

 イエスはまず、弟子たちに、人々はご自分のことを何者だと言っているのか、と尋ねられたが、「ご自分をどう思っているか、の答えについて、人々に対するイエスが求めているのは、それほど厳しいものではありません… たとえ、うわさ話ではなく信仰についての見方であることが既に求められているとしても、です」とされた教皇は、次の弟子たちへの問いかけ-「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」-でイエスは、核心に踏み込まれる、と指摘。

 教皇は「この瞬間、その場にいた弟子たち1人ひとりが、イエスに付き従う理由を告白する決断を迫られ、一瞬、沈黙したように思われます… それで、ある種のためらいが、即答にまさったのです」と語られた。

*確固とした答え

*信仰における慈善

 また、教皇は、イエスにおける慈善と信仰の関係について考察され、「カトリックの共同体は、様々な形の貧困と危機に直面している人々に対して、司牧的ケアを提供する必要があります。慈愛は常に完璧への王道です」とされたうえで、連帯の働きは「私たちを主イエスとのつながりから逸らすことはできません」と付け加えられ、「キリスト教の慈善は単なる社会奉仕活動ではありません。一方で、イエスご自身の目を通して他者を見、他方では、貧しい人と向き合っておられるイエスを見ているのです」と説かれた。

 

*聖母マリアは、私たちの完璧な導き手

 最後に、教皇は、私たちキリスト教徒の人生の旅を聖母マリアが助けてくださるように、次のように祈られた。

 「聖母マリア、信じて祝福された方、キリストを信仰する道の案内者、模範となり、キリストへの信頼が、私たちの慈善活動と私たちの存在すべてに完全な意味をもたらすことを私たちが知るように助けてくださいますように」

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年8月23日

◎教皇連続講話「世界を癒す」③新型コロナの「目に見えないウイルス」と不正義の「目に見えるウイルス」を共に克服する

 

2020.08.19 Udienza GeneralePope Francis delivers his catechesis during the weekly General Audience  (Vatican Media)

 

 教皇はまた、貧しい人々の近くにいることは、ウイルス大感染が止まった後に後遺症が続く中で、私たちが正常の状態を取り戻そうと努力する時、「不健全な社会構造」を克服するために働くことを意味する、とされる一方、この「正常」には、現代社会を特徴づけている「社会的不正と環境の悪化」の状態に戻ることは含まれてはならない、と指摘。

 利益本意の経済ではなく、「貧しい人々に優先順位が与えられる必要がある」、神の愛から来るこの倫理的、社会的な要請は、人々、特に最も貧しい人々を考えた経済社会の構築だ、と訴えられた。そして、新型ウイルス感染症のワクチンが利用できるようになった場合、最も沢山のお金を持っている人よりも、最も必要としている人を優先すべきであり、 「もしワクチンの利用について、最も裕福な人に優先権が与えられるとしたら、どれほど悲しいことでしょう」とされた。

 そして、大感染が起きている現在の財政援助の対象が、「疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然保護に貢献しない企業」に向けられるとしたら、酷いことた、疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然の保護ーの4つの貢献は、どのような企業に財政援助をするかの基準とせねばならない、と強調された。

 最後に教皇は、今後について、貧しい人々や脆弱な人々が不当に扱われている今の世界で、新型ウイルスの大感染が再び激化するとしたら、私たちは世界を変えねばならない、とし、「完全な神の愛の医者、すなわち、体と心と社会を癒すイエスの模範をもって、私たちも今、この新型コロナウイルスという『目に見えない小さなウイルス』による感染症からの癒しと、社会の不正義という『目に見える大きなウイルス』の大感染からの癒しのために、行動する必要があります」と説かれ、「神の愛から出発し、辺境を中心に置き、最も貧しい人を一番にすることで、このようなことが実現するようにすること」を提案。

 「さもなければ、現在の危機はさらに酷いものとなるでしょう」と警告されたうえで、次の祈りで講話を終えられた。

 「今の世界の要請に応え、よりよい結果を生むために、主が私たちを助け、力をくださいますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

バチカン放送日本語課翻訳による教皇のカテケーシスの全文は以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 新型コロナウイルスの大感染は、貧しい人々の困難な状況と、世界にはびこる大きな不平等を浮き上がらせました。ウイルスが誰にでも感染しながら、その破壊的な歩みを進める中で、大きな不平等と差別があぶり出されました。その不平等と差別は拡大しているのです。

 こうしたことから、大感染への対応は、二つの側面を持っています。一つは、全世界で猛威を振るっている、(注:新型コロナウイルスという)「小さくても恐ろしいウイルス」の治療法を見つけること。そして、もう一つは、社会の不正義、機会の不平等、疎外、最も貧しい人々の保護の欠如といった「大きなウイルス」に対するケアをすること、です。

 この2つのいやしの対応において、福音書は、不可欠な一つの選択を示しています。それは、貧しい人々への優先的配慮という選択です(参照:使徒的勧告「福音の喜び」195項)。これは政治的選択ではありません。イデオロギー的な、あるいは政党的な選択ではないのです。貧しい人への優先的な思いやりが、福音の中心。その選択を最初に行われたのは、イエスです。

 先ほど耳を傾けた「コリントの信徒への手紙」(2 ・ 8章1節-2章9節)に、イエスは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とあります。イエスはこうして、わたしたちと同じ者となられました。福音の中心、イエスの福音の中心には、この選択があるのです。

 イエスご自身が、神の身分でありながら、ご自分を脱ぎ捨て、人間と同じ者となられました。イエスは特権的な人生を求めず、僕の身分を選ばれました(フィリピの信徒への手紙2章6-7節参照)。僕となり、ご自分を無にされたのです。イエスは慎ましい家庭に生まれ、職人として仕事をされました。イエスは、その説教の始めに、神の国において、貧しい人々は幸いである、と告げました(参照:マタイ福音書5章3 節; ルカ福音書6章20節 ; 「福音の喜び」197項)。

 病者や貧しい人々、疎外された人々の中にいて、神の慈しみ深い愛を示されました(参照:「カトリック教会のカテキズム」2444項)。当時、律法上、「清くない」とされた病者や重い皮膚病の人のところに行かれたため、しばしばイエスご自身、「清くない者」とみなされました。また、イエスは貧しい人々と共にいるために、リスクを負われました。

 それゆえに、イエスの弟子たちは、貧しい人、小さき者、病者、囚人、疎外された人、忘れられた人、食べ物や服に事欠く人の近くにいるかどうかで、認められます(参照:マタイ福音書25章31-36節 ;「カトリック教会のカテキズム」2443項)。私たちは、マタイ福音書25章に、すべての人が裁かれる際の、基準を読むことができます。これは、真のキリスト者であるための、鍵となる基準です(参照:ガラテヤの信徒への手紙2章10節 ; 「福音の喜び」195項)。

 ある人々は「この貧しい人への特別な愛は、一部の人たちの課題だ」と誤って考えるかもしれません。しかし、実際には、聖ヨハネ・パウロ2世も述べておられるように、それは全教会の使命です(参照:聖ヨハネ・パウロ2世、回勅「真の開発とは」42項)。「すべてのキリスト者、すべての共同体は、貧しい人々の解放と発展促進のための、神の道具となるように召されています」(「福音の喜び」187項)。

 信仰、希望、愛は、必然的に、私たちを最も貧しい人々への、単なる必要な援助を越えた、特別な配慮へと導きます(「福音の喜び」198項)。そして、それは、私たちが共に歩き、苦しむキリストをよく知る彼らから福音化され、彼らの救いの体験、知恵、創造性から感化されることにつながります。(同)。

 貧しい人たちと分かち合うことは、互いに豊かになることを意味します。そして、もし、彼らが未来を夢見ることを阻む、病んだ社会構造があるならば、私したちはそれを癒し、変えていくために、共に働かなければなりません(参照:同195項)。これが、私たちを極みまで愛されたキリストの愛へと導き、その愛は人間存在の辺境、片隅、最前線にまでもたらされます。辺境を中心に据えること、それは「私たちの生活の中心をキリストに置くこと」を意味します。キリストが「貧しくなられた」のは、ご自分の「貧しさ」によって、私たちが豊かになるためでした(参照: コリントの信徒への手紙2・ 8章9節)。

 私たち皆が、新型ウイルス大感染の社会的影響を心配しています。多くの人が普通の生活を取り戻し、経済活動を再開することを望んでいます。それは当然のことです。しかし、その「普通の生活」が、社会の不正義や、環境の劣化を含んでいてはなりません。大感染は一つの危機です。危機から脱した時、以前とは同じではあり得ません。以前より良くなるか、悪くなるかです。私たちは、この危機から脱した時に、社会正義の点からも、環境の点からも、より良くなるよう努めねばなりません。

 今日、私たちは何か新しいものを構築するチャンスに接しています。例えば、貧しい人々のために、単なる支援主義ではない、経済の統合的な発展を助けることができます。支援が悪いものだ、と言っているのではありません。支援事業は大切です。ボランティアは、イタリアの教会が持つ、最も素晴らしいシステムの一つです。しかし、私たちは、それをさらに超えて、支援を余儀なくするような問題そのものを、解決していかなくてはならないのです。

 たとえば、尊厳ある仕事への就労機会の創出とはかけ離れた利潤追求など、救済策を講じない経済は、実際に社会を害しています(参照:「福音の喜び」204項)。現実の経済と乖離した、このような種類の利潤は、本来、普通の人々の利益のために還元されるべきものです(参照:回勅「ラウダート・シ」109項)。にもかかわらず、しばしば、「共通の家」としての地球環境が被った害に対して無関心であったりします。

 貧しい人々を優先する選択、神の愛から来るこの倫理‐社会的要求は、人間、特に貧しい人を中心とした経済を考え、計画するように、私したちを刺激します。そして、新型ウイルス感染症の治療を、それを最も必要とする人々を優先しながら計画するように促します。

 新型ウイルスのワクチンが、最も豊かな人々に優先して配分されるなら、それは悲しいことです。このワクチンが特定の国々の所有になり、万人のものにならないとしたら、悲しむべきことです。もし、私たちが注目している、大半が公金で賄われる経済援助のすべてが、疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然保護に貢献しない企業に対する支援に集中するとしたら、何と酷いことでしょう(同)。疎外された人々の受け入れ、貧しい人々の生活向上、共通善、自然の保護ーの4つは、どのような企業を支援するかの基準となるものです。

 もし、このウイルスが、最も貧しい人々や弱い立場の人々を軽視するような世界で、再び猛威を振るうことがあるなら、私たちはこの世界を変えなくてはいけません。完全な神の愛の医者、すなわち、体と心と社会を癒すイエスの模範をもって、私たちも今、この新型コロナウイルスという「目に見えない小さなウイルス」による感染症からの癒しと、社会の不正義という「目に見える大きなウイルス」の大感染からの癒しのために、行動しなければいけません。

 神の愛から出発し、辺境を中心に置き、最も貧しい人を一番にすることで、このようなことが実現するように、私は提案したいと思います。マタイ福音書25章にある、私たちが裁かれる際の基準を忘れないようにしましょう。これを感染症からの復興において実践しましょう。そして、この具体的な愛から出発し、希望にしっかりと結ばれ、信仰に基礎を置くことで、より健全な世界が可能となるように。そうでなければ、私たちは、この危機から良い形で脱せないでしょう。主が私たちを助け、私たちが、今日の世界の必要に応えながら、良い形で危機から脱する力を与えてくださいますように。

(編集「カトリック・あい」

 

2020年8月19日

♰「ナザレの乙女の小さな一歩は、人類の偉大な飛躍となった」聖母被昇天の祭日の正午の祈り

Pope greeting people in St. Peter's Square at the Angelus prayer on the feast of the Assumption, August 15, 2020. Pope greeting people in St. Peter’s Square at the Angelus prayer on the feast of the Assumption, August 15, 2020.   (Vatican Media)

 (2020.8.15 バチカン放送)

 カトリックの教会暦は15日、「聖母の被昇天」の祭日を迎え、教皇フランシスコは正午の祈りに先立つ説教で、マリアのように、主がなさった偉大なことを思い出し、感謝と賛美を捧げるように、信者らに勧められた。

 教皇の「聖母の被昇天」の祭日の正午の祈りの集いでの説教は次のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 人が月面に初めて立った時の有名な言葉がありますー「これは一人の人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。

 実際に人類は、一つの歴史的な目標に到達しました。しかし、今日、聖母の被昇天において、私たちは、限りなく、より大きい到達を祝います。聖母が天国に発たれたのです。霊魂だけでなく、肉体も、聖母ご自身のすべてをもって天国に入られました。このナザレの乙女の小さな一歩は、続く人類の偉大な飛躍となりました。

 月に行っても、私たちがこの地上で、皆兄弟として生きられないとしたら、残念なことです。しかし、私たちの一人が天国で体ごと暮らしているということ、それは私たちに希望をもたらします。私たちは貴重な存在であり、復活するように定められている、ということが分かります。

 神は、私たちの肉体を虚しく消えるままにはされません。神と一緒ならば、何も失われません。マリアは目的地に到達されました。私たちは歩む理由をマリアから示されています。つかの間の地上の事柄を手に入れるためではなく、永遠の天の祖国を目指すため、です。そして、マリアは、私たちを導く星です。マリアが最初に天国に上げられたからです。第二バチカン公会議が教えるように、マリアは「歩む神の民のための、確かな希望と慰めのしるしとして輝いています」(「教会憲章」68項)

 私たちの母であるマリアは、私たちに何を勧めているでしょうか。今日の福音で、マリアの最初の言葉は「私の魂は主をあがめます」(ルカ福音書1章46節参照)でした。この言葉を聞き慣れている私たちは、恐らく、それ以上の意味を考えないかもしれません。

 「Magnificare(称える、の意)」とは、文字どおり「大きくする」という意味です。マリアは主を「大きくする」のです。当時も様々な問題には事欠かなかったでしょう、しかし、マリアは、こうした問題ではなく、主を「大きく」します。

 マリアに比べて、私したちは、何度問題に押しつぶされ、怖れに心を占められていたことでしょうか。聖母はそうではありません。神を人生の最も大きなものに位置付けている、からです。このようなところから「マグニフィカト」は、ほとばしります。ここから喜びが生まれます。

 問題がないわけではありません。問題はいずれあっても、私たちのそばにおられ、私たちを助けられる「神の現存」から喜びは生まれます。神は偉大な方であり、小さき者たちを顧みる方です。私たちは、神の愛の「弱み」なのです。神は小さき者たちをご覧になり、愛されます。

 マリアは自分の小ささを知り、主がマリアになさった「偉大なこと」(ルカ福音書1章 49節参照)を称えています。その偉大なこととは何でしょうか。

 それは、まず「予期せず命を授かったこと」です。乙女マリアは胎内に子を宿し、親類のエリザベトも、高齢でしたが、身ごもっていました。主は小さき者や、自分の小ささを知る者に、素晴らしいことを行われ、人生の中に神のための大きな場所を与えられます。主は、ご自分に信頼する者に慈しみを与えられ、謙遜な者たちを高く上げられます。マリアが神を称えるのは、このためです。

 ここで問いましょう。私たちは、「神を賛美すること」を忘れていないでしょうか。神が私たちのためにされた偉大なことに、感謝しているでしょうか。神が与えてくださる毎日に、神が私たちを愛し、赦してくださることに、神の優しさに対して、感謝しているでしょうか。

 まだあります。神が、私たちに聖母を与えてくださったことに、私たちの人生の途上で出会わせてくださる兄弟姉妹たちのために、私たちに天国を開いてくださったことに、感謝していますか。私たちは、これらのことのために、神に感謝し、神を賛美しているでしょうか。

 もし、私たちがこれらの善を忘れるなら、心は縮んでしまいます。しかし、マリアのように、主がなさった偉大なことを思い出すなら、そして、一日に少なくとも一回は神を賛美するなら、私たちは大きな一歩をしるした、と言ってよいでしょう。

 一日一回、「主を賛美します」、「主は讃えられますように」という、小さな賛美の祈りを唱えましょう。これは神を称えることです。この小さな祈りによって、心は広がり、喜びは豊かになるでしょう。眼差しを天に、神に向かって上げ、「ありがとうございます」と感謝することで、毎日を始める恵みを、天国の扉である聖母に願いましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2020年8月15日

◎教皇連続講話「世界を癒す」②「人間の尊厳を踏みにじるあらゆる行為と戦おう」

Pope Francis during the General Audience  (ANSA)

(2020.8.12   Vatican News)

   教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、先週から始まった「世界を癒すために」をテーマにした講話を続けられ、新型コロナウイルスの世界的な大感染が続く今、キリスト教徒は福音に反し、人としての尊厳を踏みにじるあらゆる行為と戦い、全人類家族と”私たちの家”の幸せのために働くように、世界の人々に求められた。

 講話の中で教皇は、まずカトリック教会の社会教説の観点から、現在の新型ウイルス大感染が私たちに与えている影響を考察された。

 そして、「私たち1人ひとりがいかに弱く、しかも互いに関係し合っているか」を大感染が私たちに強く知らせている、と指摘され、「私たちが、一番弱い人-一番影響を受ける人ーから始めて、互いの世話をしないなら、私たちは世界を癒すことができません」とされた。

*大感染の中で求められるキリスト教徒の隣人愛

 さらに、教皇は、「自分たちも感染の危険があるにもかかわらず、献身的な治療に携わることで、人間愛、キリストの愛を証ししている」多くの人々の努力を賞賛される一方、「新型コロナウイルスは、私たちが戦うべき唯一の病いではないが、大感染は最も幅広い社会的な病に光を当てている」と述べ、「そうした病の一つは、人間の持つ歪んだ見方、人々の尊厳と関係性を無視する見方をすることです」と言われた。

*”使い捨ての文化”

 また教皇は、時として、他の人々は「使用済みで、捨てられる」対象として見られることがあるが、「そのような見方は、ものを見えなくさせ、個人主義的で挑戦的な”捨てる文化”を育て、人類を”消費財”に変容させてしまいます」と警告。私たちが信仰に導かれるなら、神が『男と女を、物としてではなく、ご自身の姿と好みの中で、”愛され、愛することのできる人々としてお創りになっている』のを知ることができる、と説かれた。

 

*人間の尊厳

 教皇はさらに、「奉仕し、他者のために自分の命を捧げるような生活」を、イエスが私たちに提示しておられることを強調。イエスが奉仕の人生を提案し、他の人に人生を捧げることを提案していることを強調するとともに、 「私たちは、人種が何であれ一人ひとりの中に、『人間の尊厳』を認識したいのです」と訴えられた。

 そして、「第二バチカン公会議が、私たちは神に似せて創造されたゆえに『人間の尊厳』を手放せない、ということを強調しており、そのことを現代文化において示しているのは、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が『人類の長く、困難な道の一里塚』と定義した国連の世界人権宣言である、と述べられた。

 

*信仰の力

 最後に教皇は、「世界は新型ウイルスの終息と治癒を待ち望んでいますが、私たちの信仰は、人間の尊厳が冒される事態に直面して”無関心の病”との戦いに真剣に取り組むように、強く促しています。信仰は、私たち自身が癒され、個人としても、集団としても、個人主義から転向するように、いつも求めているのです」と強調され、次のように祈られた。

 「主が、私たちの視力を回復してくださいますように。そうすることで、私たちが、人類家族の一員となることの意味を再発見できますように」

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年8月12日

♰「沈みかけた時『主よ、助けてください』と叫ぶのを、恥ずかしく思うな」-教皇、第19主日正午の祈り

(2020.8.9 Vatican News)

   教皇フランシスコは9日、年間第19主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書14章22~22節「湖の上を歩くイエス」を考察され、 今日の福音は「私たちの人生でいつも、特に試練と恐怖の時に、信頼して神に自分自身を任せるように」との呼びかけだ、と説かれた。

 福音書のこの箇所では、嵐の最中に湖の上を歩かれたイエスが、「水の上を歩いて自分の所に来るように」とペトロに言われた場面が描かれている。ペトロは舟から降りて水の上を少し歩いたが、風を見て怖くなり、沈みかけたので、イエスに、「主よ、助けてください」と叫ぶ。すると、イエスはすぐに手を伸ばして、彼の手をつかみ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったか」と言われた。

 このペトロの振る舞いについて、教皇は、「私たちには、疑いと恐れの強い感情があります。自分が沈みかけているように思われた時、ペトロのように『主よ、助けてください』と叫ぶのを恥ずかしいと思ってはなりません」とされ、この「主よ、助けてください」という祈りは、「神の心、イエスの心の扉をたたくものであり、何回でも繰り返すことができるのです」と語られた。

 さらに、ペトロの助けを求める叫びに、イエスがすぐに応え、助けの手を差し伸べられたことについて、「イエスは、私たちを決してお見捨てにならない『父の手』、いつも私たちにとって良いことだけをお望みになる『父の強くて忠実な手』であること」を示している、と説かれた。

 また教皇は、この日のミサの第一朗読で読まれた旧約聖書の列王記上19章11~13a節(…主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を割き… 地震があった… 火があった。しかし、その中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった)について、「神は『激しい風』や『火』『地震』ではありません。強制はしないが、聞いてくれるように願う『軽やかなそよ風』に乗って、私たちの所に来られるのです」と強調された。

 そして、主が「私たちの信仰がどれほど弱く、私たちの旅がいかに困難であるか」を知っておられ、 「イエスは復活された方、私たちを安全な所に引き戻すために、死を遂げられた主です。私たちが求め始める以前から、私たちのそばにいてくださいます」とされ、 「暗闇の中で、私たちは恐らく、 主が遠くにおられると考え、『主よ、主よ!』と叫びます。そして、主は言われますー「私はここにいる」と。そうです。主は私と共にいてくださった!それが主なのです」と念を押された。

*激しい風にさらされる船は「教会」だ

 また教皇は、マタイの福音書の朗読箇所に戻り、「激しい風にさらされた弟子たちの舟は『教会』です。教会は、あらゆる時代に逆風に遭い、厳しい試練に直面します」とされ、特に20世紀には「長い、継続した迫害」があり、「今日でも、いくつかの場所で(迫害が起きている)」。

 そして、「そのような時に、教会は『神が自分をお捨てになった』と思いたくなる誘惑に陥りそうになるかも知れません。ですが、まさにその瞬間に、信仰の証し、愛の証し、希望の証しが最も輝くのです」と強調。そして、「復活したキリストの臨在は、教会に、殉教した証し人の恩寵を与え、そこから新しいキリスト教徒と全世界の和解と平和の果実が育ち始めるのです」と説かれた。

*広島・長崎、核兵器のない世界への取り組みを改めて訴え・レバノンでの悲劇と住民への助けを祈る

 また教皇は、この日の正午の祈りに続いて、75年前の1945年8月6日と9日に広島と長崎を襲った原子爆弾の悲劇を思い起こされ、昨年11月の訪日の際に、現地を訪れた時の「心揺さぶられる思いと、現地の方々への感謝を改めてかみしめながら、皆さまと共に祈り、核兵器のない世界への取り組みへの決意を新たにします」と述べられた。

 また、多数の死傷者が出ているベイルートでの大爆発の悲劇にも言及され、犠牲者、そしてレバノンの国民に深い哀悼の意を示すとともに、「レバノンには、さまざまな文化が共存しています… 確かに、この共存は現在、非常に脆弱ですが、神の助けと人々の参加によって、自由で強い共存に生まれ変わることを祈っています」とされ、さらにレバノンの司教たち、司祭たち、そして宗教者たちに対して、「人々に寄り添い、贅沢を慎み、福音的な貧しさを生きるように。あなた方の国民はとても多くの苦しみを味わっているのですから」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年8月9日

♰「『聖職者の性的虐待』と戦うことは、命への深い敬意を育てる」教皇、新刊書の巻頭言で

(2020.8.6 Crux  ROME BUREAU CHIEF Inés San Martín)

Pope says fighting clerical abuse fosters deeper respect for life

Pope Francis and Father Daniel Portillo of CEPROME. (Credit: screen caption.)

 アルゼンチン・ロサリオ発ー教皇フランシスコは、8月下旬に出版予定の中南米諸国やアイルランドの神学者や司祭、信徒たちの論考をまとめた「教会における性的虐待に関する神学と防止、研究(Theology and Prevention, Studies on Sexual Abuses in the Church)」(メキシコの出版社 SalTerrae刊)に巻頭言を寄せた。

 注目されるのは、教皇が従来から深く認識するよう指摘されている「聖職者による性的虐待と戦う明白な諸理由、性的虐待が被害者たちに与えたあらゆる損傷」に加えて、「性的虐待を防ぐ努力が、全ての命は神聖で、尊敬に値するものだということを、より深く認識するように促す」という新たな視点を加えられたことだ。

 巻頭言で教皇はまず、「性的虐待と戦うことは、諸共同体を育成し、力を持たせ、それによって見張りを続け、『全ての命、とくに自分たちの声を聞いてもらう手立てのない、最も無防備な人たちに尊敬され、大事にされる価値がある』と知らせることを可能にします」と語られた。

 そして、「私たちには課題が突き付けられています-この問題を直視し、それを取り上げ、被害者、家族、そして共同体全体と共に苦しみ、『虐待の文化』に二度と戻りません、と私たちが約束する方法を見つけるーという課題です… この現実は、私たちの共同体や一般社会におけるこうした問題の認識、防止、そして『ケアと保護の文化』の促進に取り組むことで、誰もが清廉さと尊厳を侵害されたり、酷く扱われないようにすることを、私たちに求めているのです」と強調された。

 教皇は「神学の観点から、カトリック教会で起きている性的虐待のこの憎むべき悪を掘り下げるように勧めてくださった著者の皆さんの貢献に感謝します」と謝意を述べ、さらに 虐待を非難することは「必要」である、としたうえで、マタイの福音書の言葉を引用して、未成年保護の分野で働くように人々に呼びかけたー「まことに私はあなた方に言う。私の兄弟たちの最も小さな者にあなたがしたことは、私にしたことである」と。

 教皇が巻頭言を載せられたこの本の編者は、メキシコ・カトリック大学の「未成年者保護のための学際的調査研究センター」(CEPROME)の創設者、ダニエル・ポルティージョ神父。ベネズエラ、ブラジル、チリ、アイルランド、コロンビア、メキシコの神学者による考察が含まれている。チリのサンドラ・アレナスは「非聖職主義化-教会における人権侵害の”解毒剤”」と題して論じている。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

・・Cruxは、カトリック専門のニュース、分析、評論を網羅する米国のインターネット・メディアです。 2014年9月に米国の主要日刊紙の一つである「ボストン・グローブ」 (欧米を中心にした聖職者による幼児性的虐待事件摘発のきっかけとなった世界的なスクープで有名。映画化され、日本でも昨年、全国上映された)の報道活動の一環として創刊されました。現在は、米国に本拠を置くカトリック団体とパートナーシップを組み、多くのカトリック関係団体、機関、個人の支援を受けて、バチカンを含め,どこからも干渉を受けない、独立系カトリック・メディアとして世界的に高い評価を受けています。「カトリック・あい」は、カトリック専門の非営利メディアとして、Cruxが発信するニュース、分析、評論の日本語への翻訳、転載について了解を得て、掲載しています。

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2020年8月7日

♰「広島と長崎の被爆者の方々の声が、私たちと未来の世代への警鐘であり続けますように」-原爆投下75周年へ教皇

教皇フランシスコ 2019年11月24日 広島・平和記念公園で教皇フランシスコ 2019年11月24日 広島・平和記念公園で  (Vatican 

(2020.8.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコが、今年75回目を迎えた広島・長崎の原爆忌に、メッセージを寄せられた。

 広島県の湯﨑英彦知事に宛てたメッセージで、昨年11月の広島、長崎両市訪問を振り返りながら、平和構築と、核兵器廃絶への思いを記されている。

 教皇フランシスコの、75年目の広島・長崎原爆忌へのメッセージは次のとおり。

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 1945年の広島への原爆投下から75年を迎えるこの厳粛な記念において、主催者の皆様、そして参加者の皆様、とりわけ被爆者の方々に謹んでご挨拶申し上げます。

 私しは、昨年11月の司牧訪問の際、広島市と長崎市を自ら訪れるという特別な機会を得ました。この訪問で、広島の平和記念碑と長崎の爆心地公園において、75年前の恐ろしい戦争の日々、この二つの都市で起きた、人命と資産の破壊について思いを深めることができました。

 昨年、私しは平和の巡礼者として日本を訪れました。それゆえ、私は、平和を強く希求し、平和のために自らを捧げようとする今日の人々、特に若い人々の熱望を、今も心にとどめ続けています。同時に、私は、貧しい人々の叫びをも心にとどめます。彼らは常に、暴力と紛争の最初の犠牲者です。

 平和を花開かせるには「すべての人々が兵器を、特に最も強力で破壊的な核兵器を捨て去る必要があること」が、これほど明白なことはありません。核兵器は、都市や国々を根こそぎに破壊できるものです。昨年、広島で申し上げたことを繰り返したいと思います。「原子力の戦争目的の使用は倫理に反します。核兵器の保有はそれ自体が倫理に反しています」(2019年11月24日、広島平和記念公園でのメッセージ)。

 広島と長崎の被爆者の方々の預言的な声が、私たちと未来の世代への警鐘であり続けますように。これらの方々に、そして和解のために働くすべての方々に、私たちは詩編のこの言葉を、自らのものとしてお贈りしたいと思います。「私の兄弟、友だちのために、さあ、私は言おう。『あなたの内に平和があるように』」(詩編122章8節)。

 この原爆忌を記念されるすべての方々の上に、神の豊かな恵みをお祈り申し上げます。

フランシスコ バチカンより、2020年7月15日

(編集「カトリック・あいい」=文中の聖書の引用は「聖書協会 共同訳」を使用)

2020年8月6日

◎教皇連続講話新シリーズ「世界を癒す」①聖霊は「信望愛」を通して私たちを癒し、「癒す者」とする

Pope Francis at the General Audience of July 5, 2020.

(2020.8.5 Vatican News Robin Gomes)信望愛

  教皇フランシスコが5日、7月の〝夏季休暇”を終えて、毎週水曜日の一般謁見とカテケーシス(教理講話)をバチカン図書館からの動画配信の形で、「世界を癒す」を新たなテーマとして再開された。

 その中で教皇は、「信仰、希望、そして愛というキリスト教の徳目が、新型コロナウイルスの大感染で明らかにされたような、現代の身体的、社会的、精神的な病を癒すことを、私たちに可能にする」と語られた。

 現在、新型ウイルスが人々に感染、死をもたらし続け、多くの人、特に貧しい人々が社会・経済的な問題のために先の見えない時期を過ごしている。「それにもかかわらず、癒しと救いの神の王国は、イエスがルカ福音書で私たちに保証されているように、存在するのです」と教皇は言明された。

 そして、この正義と平和の王国は、愛の働きを通して証しされ、信仰を高め、強める。信仰、希望、そして慈愛を通して、聖霊は私たちを癒すだけでなく、私たちを「癒し手」にする。

 これら三つの徳は、「私たちが現代の難しい水域を航海する時でさえも、新たな地平を開いてくれるのです」とされ、「信仰、希望、そして愛の福音が、私たちの『肉体的な弱さの根源』と、人類家族と地球を脅かし、私たちを互いに引き離す『破壊的な習慣』を変容させることを、私たちに可能にしてくれるでしょう」と強調された。

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 以下、2020.8.5 バチカン放送による教皇講話の全文和訳以下の通り。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

新型コロナウイルスの世界的大感染は、私たちの脆さを明るみに出しながら、深い傷を広げ続けています。すべての大陸で、多くの方が亡くなり、非常にたくさんの方が感染しています。多くの人や家族が社会・経済問題のために不安定な時を過ごしています。その影響は最も貧しい人たちを襲うものです。

それゆえ、私たちは視線をしっかりとイエスに据えなくてはなりません(参照:ヘブライ人への手紙12章2節)。そしてこの信仰をもって、イエスご自身が私たちを導かれる神の御国への希望を抱かねばなりません(参照:マルコ福音書1章5節、 マタイ福音書4章17節、「 カトリック教会のカテキズム 」2816項)。癒しと救いの王国は、すでに私たちの間にあります(参照:ルカ福音書10章11節)。

正義と平和の王国は、愛(カリタス)の業によって表され、人々は希望を育て、信仰を強めます(参照:コリントの信徒への手紙1・13章13節)。キリスト教の伝統では、信仰と希望と愛は、単なる感情や態度以上のものです。それは聖霊の恵みによって私たちの中に注がれた徳です(参照:「カトリック教会のカテキズム」1812-1813項)。それは、私たちを癒し、私たちを癒す者とする賜物、今日の困難な水域を航海する時でさえも、新たな地平を私たちに開いてくれる賜物です。

「信仰と希望と愛の福音」との新たな出会いは、私たちに創造的で刷新された精神を帯びるようにと招きます。こうして、私たちは身体と精神、社会の病の根源を変容することができるのです。私たちを互いに引き離し、人類家族と私たちの地球を脅かす、不正の構造や破壊的な実践を、深い部分から癒すことができるでしょう。

イエスの業は多くの癒しの模範を示してくれます。イエスが、熱を出した人(参照:マルコ福音書1章29-34節)や、重い皮膚病の人(参照:同1章40-45節)、中風の人(参照:同2章1-12節)、目の不自由な人(参照:同8章22-2節 ・ヨハネ福音書9章1-7節)、耳が聞こえず舌の回らない人(参照:マルコ福音書7章31-37節)を癒された時、それは身体的な癒しだけでなく、その人の全体を癒されたのです。同様の方法で、イエスは癒しを共同体にももたらされ、それを孤立から解放するのです。

このカテケーシスの初めに耳を傾けた、イエスがカファルナウムで中風の人を癒した、マルコ福音書のとても美しいエピソード(参照:2章1-12節)を考えてみましょう。中風の人を運んできた人たちは、群衆に阻まれて家に入ることができず、屋根をはがして、上から病人の寝ている床を、イエスが説教している場所につり降ろしました。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(2章5節)。そして、イエスは目に見える印として言われました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(2章11節)。

なんという素晴らしい癒しの模範でしょうか。キリストの行為は、これらの人々の信仰、主に置く希望、互いに抱き示し合う愛への直接の答えです。このようにイエスは癒されますが、単に中風を治されただけでなく、罪を赦し、この人と友人たちの人生を新たにした、つまり、「生まれ変わらせた」のです。

この身体と精神の全体の癒しは、イエスとの個人的・社会的出会いの実りです。この友情や、その家にいた皆の信仰が、イエスの行為によってより大きくなったと、想像してみてください。それは、イエスとの癒しの出会いです。

ここで、自問しましょう。今日、私たちの世界を、どのような方法で助け、癒すことができるでしょうか。魂と体の医者である、主イエスの弟子として、私たちは、肉体的・社会的・精神的意味において、「癒しと救いの業」(「カトリック教会のカテキズム」1421項)を続けるよう召されています。

教会は、秘跡を通して、キリストの癒しの恵みをつかさどりながらも、また地球の最も遠い片隅で医療奉仕を供給しようとも、新型コロナウイルスの感染の予防と治療における専門家ではありません。ましてや、特別な社会的・政治的指示を与えることもできません(参照:パウロ6世、使徒的書簡『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』1971.5.14、4)。これは政治・社会の指導者たちの役目です。

しかしながら、歴史の中で、福音の光のもとで、教会は基本的ないくつかの社会的原則を育んできました(参照:「教会の社会教説要綱」160-208項)。それは、私たちが必要とする未来を準備するための前進を助ける原則です。

互いに密接に結びつくこれらの原則を挙げてみましょうー人間の尊厳、共通善、貧しい人々を優先する選択、富の普遍的な用途、連帯、援助、私たちの共通の家を大切にすることーなどです。これらの原則は、発展していくために、またこの新型コロナウイルスの大感染のように、個人・社会を癒すために、社会の指導者や責任者を助けるものです。これらすべての原則は、それぞれ違う形で、信仰と希望と愛の徳を表現するものでもあります。

来週以降、この新型ウイルスの大感染が浮かび上がらせた急務の課題ー特に社会の病について、皆さんと共に考えてみたいと思います。そして、それを福音と対神徳、教会の社会教説の原則の光のもとに考察しましょう。

私たちのカトリックの社会的伝統が、重大な病に苦しむ世界を癒すために、どのように人類家族を助けることができるかを一緒に探りましょう。未来の世代のために、より良い希望にあふれた世界の構築を目指し、癒すお方であるイエスの弟子たちとして、皆で共に考え働くこと、それが私の願いです(使徒的勧告『福音の喜び』2013.11.24、183)

(編集「カトリック・あい」=「わたし」「いやす」は当用漢字表では「私」「癒す」です。ひらがなの多用は読みにくいだけでなく、言葉の意味を分かりにくくするので、「カトリック・あい」では漢字表記にしています。漢字は立派な日本語です。)

2020年8月5日

♰「主は私たちの弱さと限界をお分かりになり、助けてくださる」第18主日正午の祈りで

(2020.8.2 Vatican News Devin Watkins)

*ご聖体と日々のパンは一つに結び付いている

 さらに、男性だけで5000人もの人の食欲を満たしたパンは、はっきりと聖体の意味を含み、ここで重要な点は、聖体としてのパン-永遠の命のための食物-と、私たちの日々の糧としてのパンー私たちがこの世で生きるための食物-が結びついていることにある、とされたうえで、「イエスは、救いのパンとしてご自身を御父に捧げる前に、ご自分に付き従う人、ご自分と一緒にいようとして(注:食料の)備えを忘れた人のために、食物を保証されます… このことは、霊的なものと物質的なものが相反しないことを示している」と語られた。

*本当の「同情」は「相手の痛みをわが身に負う」こと

 そして、この場面で示されたイエスの人々への深い同情と優しさは、「人々が必要としていることを大切にする愛の具体的な現れ」であり、「御父は、イエスの深い同情の振る舞いを模範として示すことで、ご聖体の食事のテーブルのそばに寄るようにと、全ての人に強く促しておられるのです」と強調された。

 また「強い同情の心は、単なる気持ちではありません。本当の『同情』は『相手と共に苦しむこと』『相手の痛みをわが身に負うこと』です」と述べられ、「戦争、飢餓、または新型コロナウイルスの大感染の記事を目にする時、『本当の同情の心を持って読んでいるか』と自問するように勧めたー 「私は、そうした苦難に巻き込まれた人たちに同情の心を抱きますか?」。「深い同情の心は、御父の摂理的な愛を信頼すること、そして勇気をもって分かち合うことを意味するのです」と説かれた。

 最後に教皇は、私たちのキリスト教徒としての旅を続けるのを助けてくださるように、聖母マリアに祈られたー「それは友愛の旅ーこの世の貧しさと苦しみに出会う時、特に今の困難な時期に必要なもの、私たちにこの世を超えさせるもの。なぜなら、それは神に始まり、神に帰る旅だからです」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2020年8月3日

♰「人身取引は、現代社会の体の傷、なすべきことは多い」-国連「人身取引反対の日」に

(2020.7.30 バチカン放送)

 国連が定める「人身取引反対世界デー」の30日、教皇フランシスコは、ツイッターを通して「人身取引は、いまだに現代社会の体の傷であり続けています。そうした”人間の商品化”の無実の被害者のために働くすべて人々に、心から感謝します。まだ、なすべきことは多く残っています」と訴えられた。

 人身取引の被害者は、世界に4000万人以上と推定される。 国連薬物犯罪事務所(UNODC)の報告書によれば、そのおよそ3分の1が未成年者で、全体の71%が、成人女性と少女たちという。国際労働機関(ILO)は、世界で約2500万人が強制労働の状態にある、としている。

 教皇庁人間開発省・移住者難民部門次官補マイケル・チェルニー枢機卿は、人身取引問題に対するカトリック教会の取り組みの中で最も重要なものとして、修道女たちのネットワーク「タリタ・クム」を挙げている。マルコ福音書5章41節にある、亡くなったと思われた少女にイエスが「タリタ、クム」(「少女よ、わたしはあなたに言う、起きなさい」の意)と言われると、少女は起き上がって歩き出したというエピソードから、その名前をとっている。人身取引と闘うための、奉献生活者たちの国際ネットワーク。2009年、人身取引に対抗する活動を分かち合い、調整し、強化することを目的に設立された。5大陸、70カ国の男女の修道者らが、ネットワークを通し、協力し合い、情報を交換し、それぞれの背景や文化の中でこの問題に取り組んでいる。

 チェルニー枢機卿は、人間開発省・移住者難民部門は「タリタ・クム」の活動に寄り添い、支援や助言をしながら、人身取引問題について協力し合っている、とし、近年、世界各国が人身取引問題に関心を示していることについて、「人身取引の被害者一人ひとりが、具体的な男性や女性や子どもたちであるように、最終的には、この問題に対し、世界中の市民一人ひとりの努力、意識の向上が一番重要となる」と述べた。

  そして、教会でもこの問題に対応し、予防や、解放のための支援、社会復帰などのための新しい使徒職がたくさん生まれていることを挙げる一方で、「私たち一人ひとりの選択、たとえば、どの携帯電話を買うか、どこに旅行に行くかなど、自分の選択が、何らかの形で人身取引に加担することにならないか、よく意識することが必要」と話した。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年7月31日

♰「主は、コロナ危機の乗り切りと課題解決へ力をくださる」-新刊本の序文で

Pope Francis leads the Special Urbi et Orbi blessing on 27 March 2020Pope Francis leads the Special Urbi et Orbi blessing on 27 March 2020  (Vatican Media)

(2020.7.28 Vatican News Devin Watkins)

 教皇フランシスコは28日にバチカン出版局から出版された「Communion and Hope」イタリア語版に序文を寄せられ、キリスト教徒たちが新型コロナウイルスの世界的大感染から得た教訓について語られた。

 「Communion and Hope」は、バチカン・キリスト教一致推進評議会名誉議長のワルター・カスペル枢機卿と同評議会顧問のジョージ・オーガスティン神父が編者となり、「新型コロナウイルス大感染の今、信仰を証しする」ことについての様々な筆者の神学的考察をまとめたもの。まず6月にドイツ語版が出版され、今回、イタリア語版の出版となった。

 その序文で教皇はまず、「突然襲ってきた嵐のように、新型コロナウイルスが世界を襲った危機は、皆を驚かせ、私たちの私生活、公的な生活、家庭生活、そして職業生活を、世界的なレベルで突然、変えてしまいました」と述べ、多くの人々が命を落とし、仕事をなくし、経済的な安定を失っていることを、深く悲しみ、「復活祭さえも、多くの所で、例年とは異なる形で、孤独に祝うことを余儀なくされ、秘跡に慰めを得ることもできなかった」と、世界の多くの信徒たちと苦しみを分かち合われた。

 そして「この突然の出来事は、時と不慮の事態に影響される、私たち人間の脆弱さを痛切に感じさせます」とされたうえで、新型ウイルスの大感染は、「幸せの根幹は何かを考え、キリスト教の信仰という宝を再発見」するように私たちを仕向け、「人生における重要な課題のいくつかを忘れたこと、あるいは、取り組むのが遅れたこと」を私たちに気付かせ、「何が本当に重要で必要なものなのか、何がそれほど重要でなく、あるいは重要に見えるだけなのか」を私たちに判断させる機会となっている、と指摘された。

 教皇は、このような今を、私たちの人生を神に向けなおす機会をもたらす「試練の時」とし、「現在の危機は、特別に助けが必要な時に、私たちが他の人々との連帯を拠り所とすることを示しています。新たなやり方で、私たちが他の人々の役に立つように勧めているのです。私たちを、地球規模の不正を認識させ、貧しい人々の叫び、酷く病んだ私たちの星の叫びに目覚めさせるのです」と、訴えられた。

 また、教皇は、今年の復活祭、多くの信徒が孤独の中で祝うことを余儀なくされた復活祭、の意味について、死に対する勝利を通してキリストが示されたメッセージは、新型ウイルスの大感染という事態に直面しても、私たちは気力を失ったままでいることはできない、ということを示している、とされ、「復活祭は、私たちに、希望、信頼、そして励ましをもたらします。連帯感を強めます… 互いに重荷を背負い合う『一つの大きな家族の一員』として、過去の対立を克服し、違いを乗り越えて互いを見るようにと、私たちに語りかけています」と説かれた。

 そして、新型ウイルスの感染リスクは「愛の”感染症”が、どのようにして人から人へと移るかを、私たちに教えるに違いない」とも語られ、「患者の世話をする人、医師、そして司祭が見せている利他的で英雄的な献身の自発的行為に、心から感謝します」とされた。

 さらに教皇は、今回の新型ウイルスの大感染の初期の段階で、各国政府が公開ミサを禁止せざるをえず、多くの信徒が聖体拝領のできない時を過ごすことを余儀なくされたが、「主の名において2人か3人が集まるところに、主がおいでになることを、多くの方はお分かりになった」とも語られた。

 また、公開ミサの中断中、教皇ミサも含めてインターネットを通して教会でのミサを動画配信し、多くの信徒から感謝されたが、あくまでも「緊急の措置」であり、「動画配信は、主が現存される実際の聖体祭儀に代わるものではありません」とも指摘され、世界の多くの場所で、カトリックの信徒たちが、通常の信仰生活に戻ることができることに、感謝の気持ちを表わされた。

  そして、「御言葉において、そして聖体祭儀を通して復活された主の現存は、新型ウイルス危機後に直面する困難と課題を解決するために必要な力を、私たちに与えてくださいます」と強調され、この本が「新たな希望と連帯」を人々が見出す助けとなることを希望されて、次のように序文を締めくくられた。

 「エマオへと向かう弟子たちのように、御言葉を通し、聖体祭儀でパンを割くことを通して、これからもずっと、私たちと共にいてくださるでしょう。そして私たちに、こう言われるでしょう-『恐れるな!私は死に打ち勝ったからである』と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

 

 

2020年7月29日

♰「平凡で退屈な生活を送るのは、本当の宝を追い求めないから」ー26日の正午の祈りで

2020.07.26 AngelusPope Francis during Angelus  (Vatican Media)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年7月27日

♰「私たちは他者を顧みず、顔を背けて通り過ぎていないか」アルゼンチンの黙想会へ

 

教皇フランシスコ「他者の苦しみに顔をそむけず、奉仕する者に」

(2020.7.25 バチカン放送)

 教皇フランシスコが24日、アルゼンチンで行われたオンライン黙想会にビデオメッセージをおくられた。

 オンライン黙想会は、同国のコモドーロ・リヴァダビア教区が霊性コースの一環として開いたもの。「社会的ディアコニア(奉仕)への回心」をテーマに、教区の司牧に携わるおよそ600人の関係者が参加した。

 ビデをメッセージで教皇はまず、この黙想会のテーマである「社会的ディアコニア(奉仕)への回心」について、「誰かに奉仕することーこの世界で自分は一人ではないことに気づき、他者の物的・精神的な必要に配慮すること-です」と語られた。

 そして、「私たちはエゴイズムのために、他者の苦しみを顧みず、顔を背けて通り過ぎることに慣れてしまっている」とされたうえで、イエスはそのような私たちに、「道端に倒れた人の世話をした『善きサマリア人』のように、他者に仕える者となることを願っておられるのです」と強調。

 さらに「人生の道のりの様々な片隅に、お年寄りや子どもたちなど、私たちと同じ人間が、その眼差しを通して、私たちに助けを求めています」と語られ、「この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ福音書10章 42節)というイエスの言葉を示された。

 最後に教皇は、「勇気を出して、しっかり物事を見つめる。そうするだけで、あとはすべて自然に進みます」と、人々に奉仕する者となる「ディアコニアへの回心」に努める人々を励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

 

2020年7月26日

♰「『麦と毒麦』は私たち人間のこと、神は忍耐して回心を待つ」第16主日正午の祈りで

 

Pope at AngelusPope at Angelus  (Vatican Media)

(2020.7.19 By Vatican News)

  教皇フランシスコは19日、年間第16主日の正午の祈りの説教で、「私たちが神-父の愛を持って私たちを愛する方ーの忍耐を理解し、倣うのを、聖母マリアが助けがてくださるように」と祈られた。

教皇は説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書、三つのたとえ話(13章24-34節)を取り上げ、イエスは「私たちが神の忍耐を理解するのを助け、私たちの心を希望へと開いてくださいます」と語られた。

この箇所の最初のたとえ話で、イエスは、自分の畑に良い麦の種を蒔いた人の話をされている。夜になって敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て実を結ぶと、毒麦も現れたので、僕たちが抜こうとすると、主人は、麦まで一緒に抜いてしまうかもしれない、と考え、「刈り入れまで待つように」と彼らに命じた。

 教皇は、「現代の私たちの間でも、自分自身とこの地球に害を与える、とても多くの除草剤、除草剤、そして毒物によって、土壌が荒らされている、と言うことができます」とされた

 さらに教皇は、このたとえ話に出てくる「畑の主人」は「神」ー「いつも、良い種だけをお蒔きになり、目指しておられるのは豊作」。これに対して「敵」は「悪魔」、「神の真の敵であり、妬みと敵意を抱いて、神の業を破壊しようと望んでいます… 悪魔の狙いは、神の救いの業を妨げ、邪悪な働き手、不祥事を起こす種蒔き人を使って、神の国を妨害することなのです」とされたうえで、麦と毒麦は「抽象的な善悪を象徴」しているのではなく、「神にも悪魔にも従うことが可能な人間」のことを表現している、と指摘された。

 そして、「平和に暮らしていた家族や共同体が争い、嫉妬によって引き裂かれる、という話を、耳にすることがあまりにも多い… 厄介なことが起こり始めています」とし、私たちがどのようにして他人をうわさ話をまき散らしていると非難するか、について語られ、「もしも私たちが他の人についてうわさ話をし、壊してしまう誘惑にはまるなら、それはいつも悪魔か、私たちの誘惑の仕業です」と語られた。

 さらに教皇は、「悪、つまり邪悪な人々を速やかに取り除きたい、とする僕たちの強い望み」と、「賢明で、先を見ている神の計画」と対比させ、「イエスの弟子たちは、邪悪な人々を抑えつけるのではなく、救済することに力を注ぐよう、忍耐を求められているのです」と強調された。

 「今日読まれた福音は、of acting and of living history(行動に、そして生きた歴史に)二つの道があることを示していますー一つは『主人』が選ぶ道、もう一つは『僕』の選ぶ道です」と語られ、僕たちは畑の毒麦を取り除くことに注意を向ける道を取ろうとするが、主人は良い麦に関心があり、麦が毒麦と混ざってしまっていても、一緒に抜いてしまわず、守る道を知っている、と説かれた。

 最後に教皇は、「他の人の限界と欠点をいつも探し出そうとしている人々」に注意を与え、「教会と歴史の『畑』で静かに育っていく善を見分け、実がなるまで育てる道を知っている人」こそが、神のなさり方に倣い、力を合わせる人だ、と強調され、「善人に報い、悪人を罰するのは、神、神だけです」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)history

 

2020年7月19日