◎教皇連続講話「世界を癒す」④大感染の試練の中で「社会的不平等」と「分かち合い」の意味を考える

Pope Francis during his weekly General AudiencePope Francis during his weekly General Audience  (ANSA

*為政者の権利と義務

 また教皇は、私たち持ち物が「共同体に価値をもたらす」ことを確実にするために、為政者たちは、「共通善に従って財産に対する権利の合法的行使を統制」する権利と義務を負っていることを強調。

 さらに、財産とお金は「使命を果たすことを可能にする手段」だが、「私たちは、その目的を『個人または集団』に簡単に変えてしてしまう、それによって、本質的な人間の価値観が損なわれる。神の似姿で創造され、自分が社会的存在であり、創造、協力、そして愛するという大きな能力を与えられていることを、私たちは忘れてしまうのです」と警告された。

 「私たちの視線をイエスに据え、イエスの愛が弟子たちの共同体を通して働いてくださる、という確信を持って、私たちは皆、それぞれにより良い何かを生み出すことを願って、共に行動しなければなりません。神に根ざしたキリスト教徒の希望は、神に対する強い思いです。それは、キリストの弟子としての私たちの使命を共に分かち合い、強めようとする意志を支えてくれます」。

 そして、講話の終わりに教皇は、「創造者が私たちにくださったものを世話し、誰も欠けないように共有する」なら、「私たちは、もっと健康で平等な世界を再生する希望を、強く持つことができるでしょう」と語られた。

 そして最後に「子供たちについて」考えるよう信徒たちに促され、「多くの子供たちが現在の不当な社会の仕組みのためにに苦しんでいます。命を落とし、食べる物がなく、教育を受ける機会も与えられていません。コロナの危機の後で、私たちは、もっと良くならねばなりません」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 なお、バチカン放送日本語課による講話の発表全文日本語訳は以下の通り。(原文の英語版[pandemic]は普通名詞ですが、この場合の適切な日本語として「カトリック・あい」が使用している「新型コロナウイルスの大感染」に改めました。)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

新型コロナウイルスの世界的大感染とその社会的影響を前にして、多くの人が希望を失いそうになっています。不確実で苦悩に満ちたこの時、キリストから来る希望の賜物を受け入れるよう、すべての人に呼びかけたく思います。キリストこそが、この感染症や、死、不正義によって荒れた波を航海し、これらに打ち勝つことを助けてくださるのです。

今回のウイルスの大感染は、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました。ある人々は家から仕事ができる一方で、他の多くの人にはそれができません。ある子どもたちは、困難にも関わらず、学校教育を受け続けることができますが、他の非常に多くの子どもたちにとっては、その教育はいきなり中断されました。一部の力のある国々は、この危機のために予算を増やせますが、他の国々にとって、それは未来を抵当に入れることを意味します。

この不平等の症状は、社会における一つの病、不健全な経済から来るウィルスともいえるものを示しています。私たちは、単純に言うべきでしょう、すなわち経済が病んでいると。それは、人間の基本的価値を考慮しない不平等な経済発展がもたらすものです。今日の世界では、少数の非常に富んだ人々が、残りの人類全体よりも多くを所有しています。もう一度言いましょう。これは考えるべきことです。ほんの一握りの人々が、残りの人類全体よりも多くを持っています。これは純粋な統計です。その不平等は天に向かって声を上げています。

同時に、この経済モデルは、「共通の家」である地球を苦しめる被害には無関心です。共通の家を大切にしようとしません。私たちの素晴らしい地球は、多くの限界に達しつつあります。生物の多様性の減退や、気候変動から、海面の上昇、熱帯雨林の破壊に至る、その影響は深刻で後戻りできないものです。社会的不平等と環境破壊は進行を共にし、同じ根源を持っています(参照:回勅 ラウダート・シ101)。それは、兄弟姉妹たちと、自然、神ご自身に対する所有と支配を望む罪です。しかし、これは創造をめぐる神のご計画とは異なるものです。

「初めに、神は地とその産物とを人類の共同の管理にゆだね、それを世話するように図られました」(参照:「カトリック教会のカテキズム」2402)。神は私たちにご自分の御名において地を支配し(参照:創世記1章28節)、一つの園、皆の園として、耕し、守るようにと命じられました(参照:同2章15節)。「『耕す』とは、育てる、働く、『守る』とは、保護する、保存することを意味します」(「ラウダート・シ」67)。

しかし、これを、地を自分の好き勝手にしてよい、というように解釈してはいけません。そうではなく、私たちと自然の間には、「責任ある相互関係」が存在します(「ラウダート・シ」67)。私たちは自然から受け取り、そして、今度は私たちから自然に返します。「すべての共同体は、生きていくために必要な、地の恵みを受け取ることができます。しかし、同時にそれを守る義務があります」(同)。

実際、地は私たちに先立ち(同上)、神から「全人類のために」(「カトリック教会のカテキズム」2402)与えられました。したがって、その実りを、一部の人だけでなく、すべての人に届くようにすることは、私たちの義務です。これは私たちと地上の財との関係について鍵となる要素です。

それは、第二バチカン公会議の教父たちがこのように思い出させているとおりです。「人はこの豊かさを用いながら、合法的に所有する外部の物を、彼だけでなく、他の人たちもそれを享受できるように、自分の所有としてだけでなく、共有の物とみなさなければなりません」(「現代世界憲章」69)。実際、「ある財産を所有するということは、その所有者が神の摂理の管理人にされるということであり、当人はその実を結ばせ、手にした利益を他の人々と分かち合うべきなのです」(参照:「カトリック教会のカテキズム」2404)。

私たちは、財の所有者ではなく、管理者です。「でも、財産は私のものです」。そうです、あなたのものです。しかし、それは管理するためのものであり、利己主義的にあなたが独占するためのものではありません。

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2020年8月26日