(2020.8.2 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは2日、年間第18主日の正午の祈りに先立つ説教で、ご聖体から力を得、助けを必要としている人々への思いやりと優しさを示すように勧められた。
*パンと魚の奇跡は、弱点を持つ私たちを主が慈しむしるし
説教で、教皇はこの日のミサで読まれたマタイ福音書のパンと魚の奇跡(14章13~21節)を考察された。冒頭、この箇所の直前で洗礼者ヨハネの死を聞いたイエスは、舟に乗って、一人寂しい所に退かれたが、人々は後を追って、その場所に行き、イエスの言葉に耳を傾けたが、「それは、イエスの言葉と振る舞いが希望を取り戻してくれるからです」と語られた。
そして、夕方になって、人々が食べ物を求め始めると、イエスは弟子たちに、「彼らに食べるものを与えるように」と命じられたが、それは「イエスが、この状況を使って、神の論理、つまり、他人に対して責任を負うことについて、当時も、今も、教えたい、と考えておられるからです」と説かれた。
イエスに対して、弟子たちが「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と答えたが、イエスは、彼らを放っておかなかった。そのパンを取って天を仰いで祝福され、パンを割いて弟子たちにお渡しになり、人々に配るようにする。
教皇は、「イエスはこのような振る舞い-大げさなやり方ではなく、人々を慈しむしるし、疲れ手助けを求める子供たちに対する父なる神の寛大さのしるしとして、ご自分の力をお示しになります」とされ、イエスは人々の命を第一に考え、私たちの弱さと限界を分かっておられ、 「御言葉で彼らを養い育て、食べ物を十分にお与えになる」と述べられた。
*ご聖体と日々のパンは一つに結び付いている
さらに、男性だけで5000人もの人の食欲を満たしたパンは、はっきりと聖体の意味を含み、ここで重要な点は、聖体としてのパン-永遠の命のための食物-と、私たちの日々の糧としてのパンー私たちがこの世で生きるための食物-が結びついていることにある、とされたうえで、「イエスは、救いのパンとしてご自身を御父に捧げる前に、ご自分に付き従う人、ご自分と一緒にいようとして(注:食料の)備えを忘れた人のために、食物を保証されます… このことは、霊的なものと物質的なものが相反しないことを示している」と語られた。
*本当の「同情」は「相手の痛みをわが身に負う」こと
そして、この場面で示されたイエスの人々への深い同情と優しさは、「人々が必要としていることを大切にする愛の具体的な現れ」であり、「御父は、イエスの深い同情の振る舞いを模範として示すことで、ご聖体の食事のテーブルのそばに寄るようにと、全ての人に強く促しておられるのです」と強調された。
また「強い同情の心は、単なる気持ちではありません。本当の『同情』は『相手と共に苦しむこと』『相手の痛みをわが身に負うこと』です」と述べられ、「戦争、飢餓、または新型コロナウイルスの大感染の記事を目にする時、『本当の同情の心を持って読んでいるか』と自問するように勧めたー 「私は、そうした苦難に巻き込まれた人たちに同情の心を抱きますか?」。「深い同情の心は、御父の摂理的な愛を信頼すること、そして勇気をもって分かち合うことを意味するのです」と説かれた。
最後に教皇は、私たちのキリスト教徒としての旅を続けるのを助けてくださるように、聖母マリアに祈られたー「それは友愛の旅ーこの世の貧しさと苦しみに出会う時、特に今の困難な時期に必要なもの、私たちにこの世を超えさせるもの。なぜなら、それは神に始まり、神に帰る旅だからです」。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)