◎教皇連続講話新シリーズ「世界を癒す」①聖霊は「信望愛」を通して私たちを癒し、「癒す者」とする

Pope Francis at the General Audience of July 5, 2020.

(2020.8.5 Vatican News Robin Gomes)信望愛

  教皇フランシスコが5日、7月の〝夏季休暇”を終えて、毎週水曜日の一般謁見とカテケーシス(教理講話)をバチカン図書館からの動画配信の形で、「世界を癒す」を新たなテーマとして再開された。

 その中で教皇は、「信仰、希望、そして愛というキリスト教の徳目が、新型コロナウイルスの大感染で明らかにされたような、現代の身体的、社会的、精神的な病を癒すことを、私たちに可能にする」と語られた。

 現在、新型ウイルスが人々に感染、死をもたらし続け、多くの人、特に貧しい人々が社会・経済的な問題のために先の見えない時期を過ごしている。「それにもかかわらず、癒しと救いの神の王国は、イエスがルカ福音書で私たちに保証されているように、存在するのです」と教皇は言明された。

 そして、この正義と平和の王国は、愛の働きを通して証しされ、信仰を高め、強める。信仰、希望、そして慈愛を通して、聖霊は私たちを癒すだけでなく、私たちを「癒し手」にする。

 これら三つの徳は、「私たちが現代の難しい水域を航海する時でさえも、新たな地平を開いてくれるのです」とされ、「信仰、希望、そして愛の福音が、私たちの『肉体的な弱さの根源』と、人類家族と地球を脅かし、私たちを互いに引き離す『破壊的な習慣』を変容させることを、私たちに可能にしてくれるでしょう」と強調された。

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 以下、2020.8.5 バチカン放送による教皇講話の全文和訳以下の通り。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

新型コロナウイルスの世界的大感染は、私たちの脆さを明るみに出しながら、深い傷を広げ続けています。すべての大陸で、多くの方が亡くなり、非常にたくさんの方が感染しています。多くの人や家族が社会・経済問題のために不安定な時を過ごしています。その影響は最も貧しい人たちを襲うものです。

それゆえ、私たちは視線をしっかりとイエスに据えなくてはなりません(参照:ヘブライ人への手紙12章2節)。そしてこの信仰をもって、イエスご自身が私たちを導かれる神の御国への希望を抱かねばなりません(参照:マルコ福音書1章5節、 マタイ福音書4章17節、「 カトリック教会のカテキズム 」2816項)。癒しと救いの王国は、すでに私たちの間にあります(参照:ルカ福音書10章11節)。

正義と平和の王国は、愛(カリタス)の業によって表され、人々は希望を育て、信仰を強めます(参照:コリントの信徒への手紙1・13章13節)。キリスト教の伝統では、信仰と希望と愛は、単なる感情や態度以上のものです。それは聖霊の恵みによって私たちの中に注がれた徳です(参照:「カトリック教会のカテキズム」1812-1813項)。それは、私たちを癒し、私たちを癒す者とする賜物、今日の困難な水域を航海する時でさえも、新たな地平を私たちに開いてくれる賜物です。

「信仰と希望と愛の福音」との新たな出会いは、私たちに創造的で刷新された精神を帯びるようにと招きます。こうして、私たちは身体と精神、社会の病の根源を変容することができるのです。私たちを互いに引き離し、人類家族と私たちの地球を脅かす、不正の構造や破壊的な実践を、深い部分から癒すことができるでしょう。

イエスの業は多くの癒しの模範を示してくれます。イエスが、熱を出した人(参照:マルコ福音書1章29-34節)や、重い皮膚病の人(参照:同1章40-45節)、中風の人(参照:同2章1-12節)、目の不自由な人(参照:同8章22-2節 ・ヨハネ福音書9章1-7節)、耳が聞こえず舌の回らない人(参照:マルコ福音書7章31-37節)を癒された時、それは身体的な癒しだけでなく、その人の全体を癒されたのです。同様の方法で、イエスは癒しを共同体にももたらされ、それを孤立から解放するのです。

このカテケーシスの初めに耳を傾けた、イエスがカファルナウムで中風の人を癒した、マルコ福音書のとても美しいエピソード(参照:2章1-12節)を考えてみましょう。中風の人を運んできた人たちは、群衆に阻まれて家に入ることができず、屋根をはがして、上から病人の寝ている床を、イエスが説教している場所につり降ろしました。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(2章5節)。そして、イエスは目に見える印として言われました。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(2章11節)。

なんという素晴らしい癒しの模範でしょうか。キリストの行為は、これらの人々の信仰、主に置く希望、互いに抱き示し合う愛への直接の答えです。このようにイエスは癒されますが、単に中風を治されただけでなく、罪を赦し、この人と友人たちの人生を新たにした、つまり、「生まれ変わらせた」のです。

この身体と精神の全体の癒しは、イエスとの個人的・社会的出会いの実りです。この友情や、その家にいた皆の信仰が、イエスの行為によってより大きくなったと、想像してみてください。それは、イエスとの癒しの出会いです。

ここで、自問しましょう。今日、私たちの世界を、どのような方法で助け、癒すことができるでしょうか。魂と体の医者である、主イエスの弟子として、私たちは、肉体的・社会的・精神的意味において、「癒しと救いの業」(「カトリック教会のカテキズム」1421項)を続けるよう召されています。

教会は、秘跡を通して、キリストの癒しの恵みをつかさどりながらも、また地球の最も遠い片隅で医療奉仕を供給しようとも、新型コロナウイルスの感染の予防と治療における専門家ではありません。ましてや、特別な社会的・政治的指示を与えることもできません(参照:パウロ6世、使徒的書簡『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』1971.5.14、4)。これは政治・社会の指導者たちの役目です。

しかしながら、歴史の中で、福音の光のもとで、教会は基本的ないくつかの社会的原則を育んできました(参照:「教会の社会教説要綱」160-208項)。それは、私たちが必要とする未来を準備するための前進を助ける原則です。

互いに密接に結びつくこれらの原則を挙げてみましょうー人間の尊厳、共通善、貧しい人々を優先する選択、富の普遍的な用途、連帯、援助、私たちの共通の家を大切にすることーなどです。これらの原則は、発展していくために、またこの新型コロナウイルスの大感染のように、個人・社会を癒すために、社会の指導者や責任者を助けるものです。これらすべての原則は、それぞれ違う形で、信仰と希望と愛の徳を表現するものでもあります。

来週以降、この新型ウイルスの大感染が浮かび上がらせた急務の課題ー特に社会の病について、皆さんと共に考えてみたいと思います。そして、それを福音と対神徳、教会の社会教説の原則の光のもとに考察しましょう。

私たちのカトリックの社会的伝統が、重大な病に苦しむ世界を癒すために、どのように人類家族を助けることができるかを一緒に探りましょう。未来の世代のために、より良い希望にあふれた世界の構築を目指し、癒すお方であるイエスの弟子たちとして、皆で共に考え働くこと、それが私の願いです(使徒的勧告『福音の喜び』2013.11.24、183)

(編集「カトリック・あい」=「わたし」「いやす」は当用漢字表では「私」「癒す」です。ひらがなの多用は読みにくいだけでなく、言葉の意味を分かりにくくするので、「カトリック・あい」では漢字表記にしています。漢字は立派な日本語です。)

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2020年8月5日