☩教皇、ギリシャ訪問「兄弟愛と平和の道を共に歩む恵みを、主がくださいますように」イエロニモス2世大主教に

教皇フランシスコ、イエロニモス2世大主教の訪問を受けて 2021年12月5日 アテネ市内・バチカン大使館教皇フランシスコ、イエロニモス2世大主教の訪問を受けて 2021年12月5日 アテネ市内・バチカン大使館  (AFP or licensors)

 ギリシャ訪問2日目の5日、教皇フランシスコは、滞在先の首都アテネのバチカン大使館で、ギリシャ正教会のイエロニモス2世大主教の訪問を受けられた。

 前日に教皇がイエロニモス2世を大主教館に訪問したことに対する答訪として行われたこの出会いは、およそ30分に及び、和やかな対話の後、教皇と大主教は互いに記帳を行なった。

 イエロニモス2世大主教は「2021年12月5日、聖サバスの祝日、私と随行員は、ギリシャ訪問に感謝するために、教皇、ローマの聖なる兄弟であるフランシスコを訪れました。ここに挨拶をおくり、良き旅を祈願します。聖なる神が私たちを祝してくださいますように」と記した。

 これに対し、教皇は「喜びと平安のうちに愛する兄弟イエロニモス2世とお会いします。その兄弟的善意、柔和、忍耐に感謝します。主が私たちに兄弟愛と平和のこの道を共に歩む恵みをくださいますように。共なる歩みを助けてくださるイエロニモス2世大主教座下の寛大さに感謝します。姉妹である私たちの二つの教会を、主が祝福してくださいますように。聖なる神の御母、私たちを支えてください」と記した。

 最後に、イエロニモス2世大主教は、20世紀初頭の小アジアにおけるギリシャ人の痛ましい歴史をめぐる本など書籍2冊と聖母子画、教皇は今回の訪問の記念メダルなどを贈り物として交換した。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月6日

☩教皇、レスボス島訪問「難民は人道上の危機、”文明の難破”を止めよ」

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 ミティリニ移民受入・登録センターは、一昨年秋に火災で焼失した欧州最大の難民収容施設、モリア難民キャンプに代わるものとして、新しく整備された。教皇は2016年のレスボス島訪問で、焼失前のモリアのキャンプを、正教会のバルトロメオス1世総主教とイエロニモス2世大主教と共に訪問している。

 カリタス・ヘラスの関係者によれば、ミティリニ島に寄留する移民・難民の数は現在約3千人で、5年前の約2万5千人と比較し、80%以上減少したが、ギリシャ国内全体では10万人を上回るという。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月5日

☩教皇ギリシャ訪問:「パウロに倣い、歴史的な信仰の”実験場”で働き続けるように」カトリック関係者へ

(2021.12.4 ギリシャ入りされた教皇フランシスコは4日夕、首都アテネのアレオパゴスの聖ディオニシオに捧げられたカテドラルで、司教、司祭、修道者、助祭、カテキスタたちと会見された。

 ギリシャでは、全人口の約86%をギリシャ正教会の信者が占め、カトリック信者は1.22%と少数派。ギリシャ司教協議会は、ラテン、東方二つの典礼の司教で構成されている。

 会見で教皇はまず、西洋の基礎を築いたギリシャの偉大な文明に触れ、初期のキリスト教は、この豊かな文明の中で、信仰の「受肉」の”実験”を始めた、とされ、「ギリシャ文明とキリスト教の出会いの”実験場”において、多くの教父たちがその聖なる生き方と著作を通して貢献しましたが、”実験”に最初に着手したのは、使徒パウロでした」と指摘。

 そのうえで、教皇は、パウロのアテネにおける宣教について二つの特徴を挙げ、今日の福音宣教の模範とするように促された。

 特徴一つは、「神への信頼」。

 パウロがアテネで人々と討論していた時、哲学者の中には、「このおしゃべりは、何が言いたいのか」(使徒言行録17章18節)と首をかしげる者もいた。そして、彼をアレオパゴスに連れて行き、その教えについて問いただした。

 教皇は、アレオパゴスに連れて行かれたパウロの状況を想像するようにと勧められ、「彼は、たった一人で、少数派の論者として、成功の見込みはないと分かっていました。それでも、おじけづくことなく、福音を宣べ伝えることを決して諦めなかったのです」とし、そこに「神に信頼して前に進む」という真の使徒の特徴がある、と指摘された。そして、「イエスは小さき者や貧しい者を選ばれ、彼らがその謙遜さを通して歴史を変えていったように、『小さな教会』であることは『雄弁な福音的しるし』です」とされ、「パウロのように神に信頼し、この世の、からし種、パン種となって、静かに成長していくことを召命とするように」と促された。

 アテネにおけるパウロの宣教姿勢のもう一つの特徴は、「相手を受け入れる態度」。

 パウロは、頭ごなしに教えを説くのではなく、アテネの人々の宗教精神を受け入れた。彼は「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」(使徒言行録17章22-23節)と言い、相手の尊厳を認め、その宗教的感受性を尊重している。その点に、教皇は注目され、「今日、私たちにも人間性・文化・宗教の違いの中で、交わりを育てようとする熱い心、受け入れの態度が必要とされているのです」と説かれた。

 アテネでパウロが福音を告げた時、多くの人はあざ笑い、去っていったが、「しかし、彼に付いて行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ…もいた」(使徒言行録17章34節)。

 多くの人は去っていったが、「その時に残ったディオニシオに、このカテドラルが捧げられていること」に教皇は感慨を表され、「わずかに残った者から、神は今日まで歴史を織り出されてきたのです」とし、「ギリシャのカトリック教会が、この歴史的な信仰の”実験場”で働き続けること」を心から願われた。

2021年12月5日

・教皇ギリシャ訪問:「民主主義、社会正義を守り、新しいヒューマニズムの要に」-指導者たちへ

(2021.12.4 バチカン放送)

 教皇フランシスコは4日、キプロスからギリシャ入りされ、首都アテネの大統領官邸で、サケラロプル大統領、ミツォタキス首相、各界代表と会見された。

 大統領官邸の広間で行われたギリシャ各界の代表および駐在外交団との会見で、教皇は同国訪問における最初の公式の挨拶をおくられ、精神性、文化・文明の豊さあふれるギリシャの歴史に触れて、「アテネとギリシャ無くしては、今日ある形でのヨーロッパと世界は存在しなかったでしょう」とされた。

 さらに、「オリンポス山から、アクロポリス、アトス山に至るまで、ギリシャはあらゆる時代の人間の眼差しを、いと高き所へ、神へと導いてきました。また、アテネは、人間の眼差しを高きに導くだけでなく、地中海のただ中で人々を結ぶ架け橋として、他者の存在にも目を向けるよう促されてきました」と指摘。そして、市民共同体「ポリス」の中で生まれた民主主義は、「世紀を経て、人民が民主的に集う大きな家、すなわち欧州連合へと育ち、同時に世界の多くの民族に平和と兄弟愛の理想を築きました」をされた。

 そのうえで、世界中で民主主義が危機を迎えている現実に触れ、「良い政治の基本は、ポジション作りではなく、参加すること、共通善に配慮し、特に最も弱い立場の人々に関心を持つことです」と強調。気候変動や、新型コロナウイルスの世界的大感染、貧困の拡大など、今日の大きな課題を挙げ、こうした課題解決のために「多国間主義を通して平和の道を開くことのできる国際共同体が必要です」と説かれた。

 また、教皇は、気候変動を原因とするある種の気象条件の中で、「最近、地中海地域を象徴する古いオリーブの木々が、火災で焼失するのを見るのは悲しいこと」とされ、こうした傷ついた環境を前に、オリーブの木が「気候危機と環境破壊に立ち向かう意志のシンボル」となることを願われた。さらに、「創世記」に記された洪水の後に、鳩がオリーブの枝をくわえてノアのもとに帰ってきたエピソード(創世記8,章11節参照)を思い起こされ、「オリーブを『創造主と被造物に対する関係を改める再出発の象徴』とみなし、気候変動との闘いに取り組み続けましょう」と呼びかけられた。

 さらに、聖書に「オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく探してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」(申命記24章20節)とあるように、「オリーブは連帯への呼びかけの象徴でもある」と指摘。「多くの移民・難民を、自国の経済的な疲弊にもかかわらず、受け入れてきたギリシャの姿勢」を評価する一方で、欧州諸国が国家的エゴイズムのために、移民・難民受け入れを巡って分裂している現状を嘆かれ、「かつてはイデオロギーが東西の対話を妨げましたが、今では移民・難民問題が南北関係を不安定にしています」と語られた。

 講話の最後に教皇は、「長い生命を保つオリーブの木のように、記憶とルーツを保つことの大切さ」を説かれ、「ギリシャが、これからも『欧州の記憶』として、民主主義や社会正義を守り、新しいヒューマニズムの要となっていくこと」を願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月5日

☩教皇キプロス訪問-正教会代表とお会いに「同じ”子”として”母なる教会”に向かって進もう」

教皇フランシスコ、キプロスで正教会のクリソストモス2世大主教を表敬訪問 2021年12月3日教皇フランシスコ、キプロスで正教会のクリソストモス2世大主教を表敬訪問 

(2021.12.3 バチカン放送)

 キプロスを訪問2日目の2日朝、教皇フランシスコは、正教会のクリソストモス2世大主教をニコシア市内の大主教館に表敬訪問され、私的な会話を交わされた。

また、教皇はこの訪問で、次のように記帳された。

「歴史と信仰の真珠、キプロスへの巡礼者として、謙遜と勇気をもって神に祈ります。共に完全な一致に向けて歩み、使徒たちの模範の上に、兄弟愛に満ちた慰めのメッセージと、生き生きした希望の証しを世界にもたらせますように。

 大主教座下、人々の中で母なる教会についてお話しくださることに感謝いたします。これは私たち司牧者が通るべき道です。共にこの道を歩んで参りましょう。対話についてお話しくださったことに深く感謝します。わたしたちは常に対話の道を進まなければなりません。それは険しく忍耐を要する歩みですが、確実な歩みです。それは勇気ある歩みです。『率直さと堅忍』」。

クリソストモス2世大主教への表敬訪問に続き、教皇は正教会の主教座聖堂を訪れ、聖シノドの主教たちに迎えられた。

  教皇はこの出会いで、「かつてキプロス島で宣教した使徒パウロが、やがてはローマに到達することになる、その生涯の足跡を振り返りつつ、キプロスとローマの教会が共通の使徒的起源で結ばれていること」を指摘。「福音への熱い情熱という一本の道でつながる二つの教会が、さらなる兄弟愛と完全な一致を求めて同じ道を共に歩むこと」を願われた。

 また、キプロス出身で、同島の布教に大きく貢献した聖バルナバに触れた教皇は、「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ –『慰めの子』という意味– と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフ 」(使徒言行録4章36節)の聖霊と信仰に満ちた人となりを思い起こされた。

 そして、「すべての真の慰めは、慰めにとどまらず励ましとなります」とされ、「慰めの子」バルナバは、「掟の遵守を繰り返し説くのではなく、人々と出会い、人々の必要に関心を持つことを通して福音を伝えるようにと、私たちを促しています」と話された。

 また、バルナバが「自分が持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」(使徒言行録4章37節)ことに言及。バルナバのこの素晴らしい行為は、「交わりと宣教において活気を取り戻し、完全な一致を促進するために、私たちも自分を脱ぎ捨てる勇気を持つように、と教えています」と語られた。

 さらに「自分の持ちものを使徒たちの足もとに置いたバルナバは、皆の心の中に入って行ったのです」と述べ、「私たちもキリストの体の一部であることを再発見するために、兄弟たちの足もとに身をかがめるよう主から召されています」とも話された。

 教皇は、「クリソストモス2世大主教の言葉にあるように、教会は母である、と述べ、私たち皆を忍耐と優しさと勇気をもって引き寄せ、主の道を歩ませる母なる教会に信頼し、違いを乗り越え、同じ子として、母なる教会のある場所に向かって歩んで行きましょう」とと呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月4日

☩教皇、キプロスで移民・難民との集い「”無関心の文化”の中で、見て見ぬふりはできない」

(2021.12.3 バチカン放送)

 キプロス訪問中の教皇フランシスコは3日午後、キプロスでの実質的な最後の行事である「移民・難民たちとエキュメニカルな祈りの集い」をなさった。

 首都ニコシア市内の小教区教会の一つ、聖十字架教会で行われた集いには、地中海を渡ってキプロスに来た移民・難民たちが多数参加。カリタス・キプロスの代表から、大陸と文化の十字路であるキプロスには多くの人が戦争や危機を逃れ、安全やより良い生活を求めて来ていること、キプロスは欧州の国々の中で最も多くの難民申請者を受け入れていること、などが説明された。また多くの移民・難民を代表して、アジア、アフリカ、中東から来た4人の若者が、自分たちが体験した危険や暴力、搾取や人身取引、差別や疎外などについて語った。

 彼らの体験に耳を傾けた教皇は、「神はご自分の子らが兄弟姉妹として平和に生きる世界を望んでおられますが、それを望まないのは私たちなのです」とされ、「神は、私たちが分裂した世界を前に諦めず、人々を分け隔てる壁や敵意から解放された人類を目指して、この歴史の中を歩んでいくことを願われています」と強調。「痛ましい分裂に苦しむキプロス島が、神の恵みによって、兄弟愛の工房となるように」と祈られた。

 また教皇は、「地中海が今や広大な墓地となっている現実や、拉致され、取引され、搾取される移民・難民の苦しみを目の当たりにしているにもかかわらず、私たちは、その状況に慣れつつあります」と指摘。「無関心の文化の中で、私たちは沈黙し、見て見ぬふりをすることはできません」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月4日

☩教皇、キプロスでミサ「『私』でなく、『私たち』が教会の精神です」

(2021.12.3 バチカン放送)

 キプロス訪問中の教皇フランシスコは3日、首都ニコシアのGSPスタジアムでミサを捧げられた。

 ラテン典礼で行われたミサには約一万人が参加し、朗読はギリシャ語、信徒の祈りは英語・イタリア語・タガログ語・アラビア語なども交えて行われた。

 説教で教皇は、イエスが二人の目の不自由な人をいやすエピソード(マタイ福音書9章27-31節)を取り上げ、イエスに対する信頼、共に歩む姿勢、喜びに満ちた証しの大切さを強調された。

 [二人の目の不自由な人は、「ダビデの子よ、私たちを憐んでください」と言いながらイエスについて来た(同9章27節)]

 教皇は「どうして、彼らはイエスに信頼したのでしょう。それは、『イエスこそが心と世の暗さを照らし、あらゆる闇に打ち勝つ光だ』と直感したからです」とされ、「私たちも皆、心に闇を抱えていますが、最初にすべきことは、この二人のように、イエスのところに行き、信頼して癒やしを願うことです。イエスだけがすべての人を照らす真の光であり、イエスだけが人に光と温かさと愛を与え、心の闇から解放することができるのです」と説かれた。

 また、教皇は、このエピソードで二人の目の不自由な人が「共に行動している」ことに注目され、「彼らは置かれた状態とその苦しみを分かち合い、共に光を求めてイエスについて行き、共に叫んで癒しを願っています。特に『私たちを憐んでください』という叫びは重要。二人は『私』の、すなわち『自分だけ』の癒しを願うのではなく、『私たち』の癒しを求めているのは意味のあることなのです」と話された。

 そして、個人主義から抜け出し、「『私たち』として考え、話し、行動すること、これこそが教会の精神です」と強調された。

 [イエスは二人の目に触り、二人は目が見えるようになった(同9章29-30節参照)。イエスが「このことは、誰にも知らせてはいけない」と彼らに命じたにもかかわらず、「二人は外に出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」( 同30-31節参照)]

 教皇は「このエピソードから分かることは、二人は主に対し不従順だったのではなく、癒されたことへの感動と喜びを抑えきれなかったからです」とされ、「『福音の喜び』とは、抑えきれずに心からあふれ出るもの」であり、「私たちも、福音書のこの二人のように、イエスとの出会いを新たにし、勇気をもって自分自身から抜け出し、出会う人たちに福音を喜びをもって証ししましょう」と信徒たちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月4日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」③婚約中のカップルへ「ヨセフに倣い、時の試練に耐える成熟した愛を」

(2021.12.1 Vatican News  Christopher Wells)

   教皇フランシスコは1日の水曜恒例の一般謁見中の「聖ヨセフについて」の講話を続けられ、世界の婚約中のカップルすべてに対し、「恋に落ちることの素晴らしさを超えて、時の試練に耐えることのできる成熟した愛に向かって進む」カップルの模範として、「正義の人であり、マリアの婚約者」ー聖ヨセフを示された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用は、「聖書協会・共同訳」を使用、バチカン放送翻訳の「である」調は、教皇のお話しのニュアンスを伝えるために「ます」調にしました)

 

2021年12月1日

☩「いつも目を覚まして祈っていなさい」‐待降節第一主日の正午の祈りで

(2021.11.28 Vatican News  staff writer)

 世界のカトリック教会は28日から待降節に入ったが、教皇フランシスコは、その第一主日となった同日正午の祈りの説教で、世界の信徒たちに、「いつも用心し、魂を眠りから目覚めさせ、人生で最も重要なことに心を注げるよう、祈り続ける」ことを強く勧められた。

 教皇は、この日のミサで読まれた、この世の終わりに主が来られることについて述べたルカ福音書の箇所(21節25-28節)を取り上げ、「人生の試練と苦難の真っただ中にあっても、 主は私たちに、『救いの時は近い。身を起こし、頭を上げなさい』と勧められているのです」と語られた。

 

*”寝ぼけまなこ”の信徒にならないように

  そして、「私たちが日々の挑戦と苦しみに圧倒されるようなときにも、救いに心を向け続ける必要があます」と強調。イエスの言葉—眠りに込むことなく、「いつも目を覚まして祈っていなさい」(21節36節)ーを思い起こされ、「『いつも目を覚ましている』ことは、キリスト教徒の生活における重要な側面。私たちが用心を怠らず、日々の生活で本当に重要なこと以外に心を煩わさないようにせねばなりません」と説かれた。

 さらに、「『いつも目を覚ましている』とは、『怠惰な、精神的な活力と祈りの熱意を欠いた”寝ぼけまなこ”のキリスト教徒にならないように、いつも気を引き締めている』ことを意味します。私たちには、物事に感動せず、自分にとって心地よいもの以外には関心を持たなくなる可能性があるのです」と指摘。

*油断することなくあなたの心を守りなさい

 続けて、「『いつも目を覚ましている』とは、『私たちの日々の生活を、単なる”手順通り”にしないこと、世俗的な関心だけに夢中にならないこと』を意味します」とされ、私たちの心を”安楽椅子”、凡庸、そして不品行に落ち込ませようとするものを、よく意識するように励まされた。

  また、私たちの周りの人たちが負わされている重荷に目を止め、そのことに気づいて、何かしているか、自問することを求められ、「そうすることは、私たちが無感動ー魂を閉じ込め、喜びを奪う、後ろ向きの精神ーに陥るのを防ぐのに役立ちます。 箴言が言うように、『守るべきものすべてにも増して、あなたの心を保て。命はそこから来る』(4章23節)からです」と説かれた。

*「来てください、主イエスよ」を繰り返そう

 教皇は、「『いつも目を覚ましている』秘訣は、祈りにある」と強調。「祈りは、いつも私たちの心のランプを灯し続け、私たちを神に戻し、心を眠りから覚まし、『重要なことに、存在の目的に』に集中させます。 私たちは決して、祈りを怠ってはなりません」と語られ、この待降節中に、「Come, Lord Jesus(来てください、主イエス)」という呼び掛けを日々の念祷とするように提案された。

 説教の締めくくりに教皇は、「いつも目覚めた心で、主をお待ちになった聖母マリア」に、「この待降節を通して、特別のなさり方で私たちと共に歩んでくださるように」と願われた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年11月28日

☩「イエスの友情は、違いを豊さとして生きることを可能にする」‐12月3日「国際障害者デー」へ

教皇、国際障害者デーに向けメッセージ教皇、国際障害者デーに向けメッセージ  (©Minerva Studio – stock.adobe.com)

(2021.11.25 バチカン放送)

  12月3日の国際障害者デーを前に、教皇フランシスコが、世界の障害を持つすべての人に向けたメッセージをおくられた。

 教皇はメッセージで、「あなたがたは私の友である」(ヨハネ福音書15章14節)というイエスの言葉を示しながら、「教会は皆さんを愛し、福音宣教の使命のために皆さん一人ひとりを必要としています」と呼びかけられた。

 そして、「最後の晩餐でイエスご自身が弟子たちに『あなたがたは私の友である』と言われたように、イエスは私たちの友なのです」と強調。

 さらに、「イエスとの友情は解くことのできないものであり、たとえイエスが沈黙しているかのように思われる時でも、イエスが私たちを見捨てることは決してありません」と語られた。

 こうしたイエスとの個人的で信頼に満ちた友情は、すべての人が体験する自らの限界を受け入れ、自分の状況と和解して生きるための霊的な鍵だ、と説かれているが、私たちの社会生活の様々なレベルで「偏見や無知、一人ひとりのかけがえのない価値を理解しない文化」を原因とする差別が、いまだに存在することに注意を向けられた。

 そのうえで、教会において存在する「秘跡に与ることを妨げるなどの霊的配慮の欠如」は、最悪の差別、と批判され、そうした教会内の差別に対し、すべての人に与えられるイエスの友情は、「私たちを救い、違いを豊さとして生きることを可能にしてくれるのです」と説かれた。

 また、「イエスの友情は、私たちを試練の時から守ってくれます」とされ、新型コロナウイルスの世界的大感染がもたらしている危機が障害者の人々に与えている困難や不便を思いつつ、ご自身と教会の寄り添いを表明された。

 さらに教皇は、「私たちキリスト者の召命もまた、イエスの友情から生まれたもの」であり、「イエスは『あなたがたが行って実を結び、その実が残るように』と私たちを選ばれたのです(ヨハネ福音書15章16節参照)…。イエスは私たち一人ひとりの幸福と聖性を願っておられ、その御言葉は私たちを慰めるとともに、回心へと招いています」と言明。

 メッセージの最後に、障害のある人々がイエスと出会い、その人生がイエスによって深く変えられ、イエスの証し人となっていったことを思い起こし、「主はご自身を信頼する人々の祈りを注意深く聞かれます」とされ、「特にこのコロナ禍の今、共にこの危機を抜け出せるように祈って欲しい」と、「祈り」の使命を一人ひとりに託された。

*国際障害者デー(International Day of People with Disability)は、障害者問題への理解促進、障害者が人間らしい生活を送る権利とその補助の確保を目的とした国際的な記念日1982年12月3日に第37回国連総会で「障害者に関する世界行動計画」が採択されたのを記念して、1992年の第47回国連総会で毎年12月3日を「国際障害者デー」とすることが宣言された。

(編集「カトリック・あい」)

2021年11月26日

◎教皇連続講話「聖ヨセフについて」②「現代社会にとっての人間関係の模範」

Pope Francis at the General AudiencePope Francis at the General Audience  (Vatican Media)

   教皇フランシスコは24日の水曜恒例の一般謁見で、「聖ヨセフについて」をテーマにした連続講話をお続けになった。

 教皇は、救いの歴史における彼の役割を念頭に置きながら、講話を続けられ、「聖ヨセフは、社会の片隅に置かれた人々さえも、神の救いの計画で特別な役割を果たしていることを示しています」と語られた。

 ルカとマタイの両福音書に描かれた聖ヨセフに注目された教皇は、この2人の福音書記者がイエスの系図(ルカ福音書3章28‐38節、マタイ福音書1章1‐16節)を伝え、アブラハム(マタイ福音書)、アダム(ルカ福音書)のいずれかで始まり、ヨセフとイエスで最高潮に達している、と指摘された。

 そのうえで教皇は、「ルカとマタイのいずれもが、ヨセフを、イエスの”生物学的な父親”ではなく、”完全にイエスの父”である、と語っています」とされ、「ヨセフを通して、イエスは、神と人との間の契約と救いの歴史を成就させるのです」と強調された。

*キリストのしもべ

 さらに、教皇は、マタイの福音書は、ヨセフが神の救いの計画の中心点を表していることを示している、とされ、「ヨセフは、”主人公”となることを決して求めず、あくまで”仲介者”の役を果たしています」と述べられた。

 そして、「見過ごされたり、隠されたりする聖ヨセフの中に、仲介者であり、困難な時の案内人を、皆が見出すのです。彼は、無視されたり、”二列目”に置かれたりする人たちの全てが、救いの歴史で比類なき代理人を持っていることを、思い起こさせます… 世界は、このような男女を必要としているのです」と説かれた。

 

*イエスとマリアの守護者

 次にルカの福音書に目を向けられた教皇は、この福音書では、ヨセフは、「イエスとマリアの守護者」として描かれている、と指摘され、「ヨセフのこの役割は歴史を経て広がり、『教会の守護者』ともなりましたーこれは、カインが兄を殺した後に神に投げかけた「私は私の兄の番人ですか」という問いに対する神の答えです」と説明。

 そして、「ヨセフは彼の人生をもって、私たちが『私たちの兄弟姉妹の守護者、近くにいる人々、人生の様々な状況を通して主が私たちに託された人々の後見人』だと感じるようにいつも呼ばれていることを求めているように、見えます」と語られた。

*苦しむ人の守護の聖人

 また教皇は、「聖ヨセフは、現代の移ろいやすい社会に、人間関係のあり方の模範を示しています」とされ、「二つの福音書のイエスの系図の説明は、私たちに『私たちの人生は、私たちに先行し、そして私たちと共にある絆によって成り立っている』と言うことを、思い起こさせます。神の御子、イエスは、そのような絆によってこの世に来ることを選ばれたのです」と語られた。

 そして、さらに、「イエスのこの思いは、自分の人生で意味のある人間関係を見つけたいと苦闘するすべての人ー孤独を感じ、前に進む力を失っている人ーに向けられています」と付け加えられた。

 

*苦しい時の支え

 講話の最後に教皇は、孤独に苦しむすべての人を助けるための、次のような祈りを捧げられ、「彼らは聖ヨセフの中に、味方、友、そして支え人を見出すことができます」とされた。

聖ヨセフ、

 マリア、イエスとの絆を守られた方、私たちの人生で人間関係を大切にするのを助けてください。

 誰もが、見捨てられた、という思いを経験しないようにーそれは孤独から来ています。

 私たち一人一人が、私たち自身の歴史と、先人たちと、和解しますように、そして神のご意思が進まれた道を誤ったことさえも、悪が最後に勝つことがなかったことを、認めますように、

 ひどく苦しんでいる人たちに、あなた自身が友であることを見せてください、あなたがマリアとイエスを困難な時に支えたように、私たちの旅も、支えてください。 アーメン

Saint Joseph,
you who guarded the bond with Mary and Jesus,
help us to care for the relationships in our lives.
May no one experience the sense of abandonment
that comes from loneliness.
Let each of us be reconciled with our own history,
with those who have gone before,
and recognise even in the mistakes made
a way through which Providence has made its way,
and evil did not have the last word.
Show yourself to be a friend to those who struggle the most,
and as you supported Mary and Jesus in difficult times,
support us too on our journey. Amen.

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年11月24日

☩「イエスと共に夢を見、人生をしっかりつかむように」-「王であるキリストの主日」「青年の日」ミサで若者たちに

 

Pope Francis during Mass in St Peter's BasilicaPope Francis during Mass in St Peter’s Basilica  (ANSA)

(2021.11.21  Vatican News staff reporter)

   教皇フランシスコは21日、「王であるキリストの主日」と世界の各教区の「世界青年の日」を迎えた聖ペトロ大聖堂でのミサの説教で、「すべてが壊れても、しっかりと立ち、近道を選ばず、虚偽を捨て、勇気をもって波に逆らって進むように」と若者たちを激励された。

 教皇は、この日のミサで朗読された聖書の箇所をもとに説教を始められ、「第一朗読(ダニエル書7章13-14節)でダニエルによって預言され、第二朗読(黙示録1章5-8節)で聖ヨハネが語った「天の雲に乗って来る方」と、福音書朗読で(ヨハネ18章33b-37節)で描かれた、ピラトに『私は王である』と告げられたキリスト。2023年のリスボンでの世界青年の日、世界大会に向けて旅する若者たちに、このイエスの二つのイメージを心にとめることを勧められた。

 そして、この二つのイメージのうち最初の「雲と共に来られるイエス」は、「世の終わりに、キリストが栄光のうちに来られることを思い起こさせます」とされ、「私たちの人生の最後の言葉はイエスに帰することを、私たちに気づかせます」と語られ、さらに、「イエスは私たちを安心させるために 『雲と共に』来るのです。こう言っておられるようですー『嵐があなたの人生に覆いかぶさるとき、私はあなたを放っておかない。私はいつもあなたと共にいる。私は、晴天を取り戻すために来る』と」と説かれた。

 また、教皇は、「預言者ダニエルは、『夜の幻を見ていた時、主が天の雲に乗って来たのを見た』と、私たちに告げています」とされたうえで、若者たちに「あなたがたも、『夜の幻』を見るように。つまり、『暗闇の中にあっても、目を輝かせていなさい。心に抱くかも知れない闇、自分の周りいたるところで目にする闇の中でも、光を探し求めることをあきらめないように」と助言された。

 さらに教皇は若者たちに、「あなた方は、わくわくするような、でも困難な仕事を任されています。周りのすべてが崩れてしまっているように見えても、背を伸ばし、しっかりと立ちなさい。暗視鏡で物を見る用意をした歩哨になりなさい。廃墟の中の建設者になりなさい。夢を見ることができるようにしなさい」と励まされた。

 そして、「あなた方が夢を見るとき、皆があなた方に感謝します。なぜなら、あなた方がイエスを、自分の人生の夢にし、喜びと周りに広がる熱意で包む時、私たちに善を施してくれるからです…。あなた方に感謝します。なぜなら、目先の利益だけを考え、壮大な理想を抑え込む傾向のある世界で、あなた方は夢を見る力を失っていないからです。このことは、私たち大人、そして教会の助けになります」と強調。

 次に、イエスの二つ目のイメージ、ピラトに「私は王だ」と答えられたイエスについて、教皇は「私たちは、この場面で示された『イエスの決意、彼の勇気、彼の完全な自由』に心を打たれます」とされ、 「イエスは彼の真の姿を隠したり、この世においでになった意図を隠したりなさらず、ピラトが残した(処刑を避ける)余地さえも生かそうとはなさいませんでした…。真理から生まれる勇気をもって、『私は王だ』と答えられた。ご自身の人生に責任をとられたのです」と語られた。

 そして、「イエスに従い、内面的に自由であることで、私たちは人生を『あるがまま』に見、『きらびやかだが、すぐに消え去る、ひと時の流行と消費者主義の陳列』に幻惑されることがなくなります…。友達の皆さん。私たちは、この世の魅惑的は歌手たちにうっとりとするためではなく、全力で生きるために、命を懸け、命をすり減らすために、この世にいるのです…。そうすることで、イエスの自由を手に、流れに逆らって泳ぐのに必要な勇気を奮い起こすのです」と強く説かれた。

 最後に教皇は次のように若者たちを激励して、説教を締めくくられたー「これから歳を重ねても、夢を見続けるように、『自由で、真正であり、社会にとって欠かせない良心』であるように」と若者たちに求め、「真実に情熱を注いでください。そうすれば、あなた方は夢をもって、こう言うことができるでしょうー私の人生は、世の考え方にとらわれない。私は自由だ。それは、私がイエスと共に、正義、愛、そして平和に君臨しているからだ』と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2021年11月21日

☩「一人の若者が立ち上がれば、世界全体が立ち上がる」11月21日の「世界青年の日」に

2021年11月21日の第35回「世界青年の日」教皇メッセージ 「起き上がれ。私はあなたを、あなたが見てきたことの証人にする」(使徒言行録26章16節参照)

親愛なる若者の皆さん

 2023年にリスボンで開催されるワールドユースデー(WYD)に向けて、ともに霊的巡礼を続けていくために、改めて皆さんの手を取りたいと思います。

 昨年、パンデミックが起きる直前、私は「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(ルカ福音書7章14節参照)というテーマのメッセージに署名しました。主はそのみ摂理において、私たちがこれから経験する過酷な試練に向け、早くも備えさせようとしておられたのです。

 世界中で人々が、多くの愛する人を失い、社会的に孤立したことによる苦しみに直面しなければなりませんでした。本来、外に向かって行こうとする若者の皆さんも、公衆衛生上の非常事態で、学校や大学、職場で集まれなくなってしまいました。

 皆さんは、対応するのに慣れていない困難な状況に置かれてしまいました。対応する力が十分にない人や、支援が受けられなかった人は困惑しました。失業、うつ、孤独、依存症とともに、家庭の問題も増加しました。ストレスの蓄積、極度の緊張、怒りの爆発、暴力の増加はいうまでもありません。

 しかし、幸いなことに、これはコインの片面でしかありません。この試練は、わたしたちのもろさを見せつけはしましたが、連帯への志向といった美点も明らかにしました。世界各地で、多くの若者を含む大勢の人が命のために闘い、希望の種を蒔(ま)き、自由と正義を守り、平和の紡ぎ手、橋を築く人となっているのを目の当たりにしました。

 若者が倒れるということは、ある意味、人類が倒れるということです。しかし、一人の若者が立ち上がれば、世界全体が立ち上がるようなものであるのも事実です。親愛なる若者の皆さん。皆さんの手には、なんと大きな可能性があることか。皆さんの心には、なんという強さがあることか。

 だから今日も、神は皆さん一人ひとりにおっしゃいますー「起き上がれ」と。私はこのメッセージが、新たな時代への、人類の歴史の新たなページへの準備に役立つことを心より願っています。

 愛する若者の皆さん、真実、あなたがたなしでは再出発はできません。世界が再び起き上がるためには、皆さんの力、熱意、情熱が必要です。その意味で私は、使徒言行録の中のイエスがパウロにかけた言葉を皆さんとともに黙想したいと思います。「起き上がれ。私はあなたを、あなたが見てきたことの証人にする」(26章16節参照)。

*王の前で証言するパウロ

 2021年のWYDのテーマとなったこの一節は、投獄されていたパウロの、アグリッパ王の前での証言から取られたものです。かつてはキリスト者の敵であり迫害者であったパウロが、今はキリストへの信仰ゆえに裁判にかけられているのです。25年を経て、使徒は自らの身上と、キリストとの出会いという根幹の出来事を語ります。

 パウロは、それまでキリスト者を迫害していたが、ある日、数名のキリスト者を逮捕するためダマスコに向かう途中に「太陽よりも明るい」光が彼と同行者たちを包み(使徒言行録26・13参照)、だが彼だけが「声」を聞いた、そう告白しています。イエスが彼に語りかけ、その名を呼んだのですー「サウル、サウル」と。
一緒に、この出来事を深く見ていきましょう。主は名前で呼ぶことで、あなたを知っているのだ、ということをサウロに悟らせました。あたかも、「あなたがだれなのか、何をしようとしているのか、私は知っている。にもかかわらず、私はまさに、あなたに直接話している」と言うかのようにです。

 主は、モーセ(出エジプト記3章4節参照)やサムエル(サムエル記上3章10節参照)になされたように、特別で、極めて重要な召命のしるしとして、彼の名を二度呼んでおられます。地面に倒れたサウロは、神の顕現、力強い啓示を目の当たりにしていることを理解します。これはサウロにとって衝撃でしたが、彼を押しつぶすのではなく、むしろ名を呼んで、直接、問いかけたのです。

 事実、キリストとの、匿名ではない個人的な出会いだけが人生を変えるのです。イエスは、ご自分がサウロのことをよく知っていること、「その心の内側まで知っている」ことを示しておられます。

 サウロが迫害者であっても、キリスト者への憎しみが心にあっても、イエスはそれが無知のためである、とご存じで、ご自分の憐れみを、サウロに表そうとしておられるのです。まさしくこの恵みが、この見返りを求めない無条件の愛こそが、サウロの人生を根源から変える光なのです。

*「主よ、あなたはどなたですか」

 自分の名を呼ぶこの不思議な存在を前に、サウロは尋ねます。「主よ、あなたはどなたですか」(使徒言行録26章15節)。

 この質問はきわめて重要であり、人生において遅かれ早かれ、誰もがこれを問わなければなりません。ほかの人がキリストについて語るのを聞いたことがあるというだけでは十分ではなく、個人的にキリストと話すことが必要です。

 それはすなわち、祈りなのです。それは、たとえ心がまだ混乱していても、キリストやキリスト者に対する疑問や軽蔑が心にあったとしても、イエスに直接話すことです。私は、すべての若者が、心の内奥からこう問うようになってほしいと願っています。「主よ、あなたはどなたですか」。

 インターネットの時代とはいっても、誰もがイエスを知っていて当たり前というわけではありません。多くの人が、イエスに、教会に向ける質問がまさにこれです。「あなたはどなたですか」。聖パウロの召命の物語全体の中で、パウロが口にするのはそれだけです。そしてその質問に、主はすぐにお答えになります。

*「私は、あなたが迫害しているイエスである」

 「私は、あなたが迫害しているイエスである」ーこの答えによって主イエスは、サウロに大いなる神秘を明かします。主はご自分を、教会と、キリスト者と、一体になさっておられる、ということです。それまでサウロは、自分が牢に入れ(使徒言行録26章10節参照)、その死刑に賛成の意思表示をした(同)信者と会うことを通してのみ、キリストについて見聞きしてきました。

 そしてキリスト者が、キリストの名のために不正や暴力、中傷や迫害に耐えることで、善をもって悪に応じ、愛をもって憎しみに応じるさまを見てきました。ですからよく考えてみれば、サウロは知らず知らずのうちに、何らかの形ですでにキリストと出会っていたのです。彼は、キリスト者を通してキリストと出会っていたのです。

 「イエスはいいけれど、教会は嫌」と、あたかも一方が他方の代替であるような発言をよく耳にします。教会を知らなければ、イエスを知ることはできません。その共同体の兄弟姉妹を介さずに、イエスを知ることはできません。信仰の教会的次元を生きていなければ、完全なキリスト者とはいえません。

*「とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う」

 これは主が、地面に倒れたサウロにかけた言葉です。かなり以前から不思議な方法で彼に語りかけ、サウロをご自分のもとに引き寄せようとしていたかのようで、それでもサウロは抵抗しているかのようです。

 私たちの主は、ご自分に背を向ける若者一人ひとりに向けて、同じように優しい「叱責」をなさっています。「いつまで私から逃げるのか。あなたのことを呼んでいるのになぜ聞かないのか。あなたの帰りをわたしは待っている」と。預言者エレミヤのように、私たちも「主の名を口にすまい」(エレミヤ書20章9節)と言うことがあります。ですが、一人ひとりの心の中には燃え盛る火のようなものがあります。それを抑え込もうとしても、自分よりも強いのですから無理なのです。

 主は、ご自身を迫害し、ご自身とご自身に従う者たちを完全に敵視している人をもお選びになります。事実、神から見ればやり直すことのできない人はいません。主と個人的に出会うことで、いつでもやり直すことができます。神の恵みとあわれみが届かない若者はいません。「遠すぎる……遅すぎる」と言える人などいません。反骨心と大勢に逆らう気概を持ちつつも、献身しなければ、全力で愛さなければ、使命に生きなければ、という思いを心に抱く若者が、どれほど多いことでしょう。イエスは、若きサウロに、まさにそれを見ているのです。

*自らの盲目に気づく

 想像するに、キリストと出会う前のサウロはある意味「自分のことで頭がいっぱい」で、自分は道徳的に清廉潔白で、熱意があり、出自も教養も申し分ないので、自分を「立派」だと考えていたのでしょう。確かに彼は、自分の正しさを確信していました。しかし、主がご自身を現されると、彼は「打ちのめされ」、自分は盲目だと気づきます。サウロは突然、自分は身体的に見えないだけでなく、霊的にも盲目だと気づくのです。彼の確信は揺さぶられます。

 あれほど熱く自分を駆り立てていたもの、すなわちキリスト者を粛清しようという熱意は完全に誤りだった、と魂において気づきます。自分は絶対的真理の保有者ではない、それどころか、そこからはほど遠い存在だ、と悟るのです。そして、彼の確信と一緒に、彼の「立派さ」もまた崩れ落ちていきました。突然彼は、自分は道に迷っていると、もろく、「小さい」のだと悟るのです。

 このような謙虚さが、つまり自分の限界の自覚が欠かせないのです。自分のことも、他人のことも、さらには宗教上の真理についても、何でも分かっていると思っている人がキリストに出会うのは難しいでしょう。盲目になったサウロは、自身の基準点を失ってしまったのです。暗闇の中に一人取り残された彼にとって唯一はっきりしていたのは、見た光と聞いた声だけでした。なんとも逆説的です。目が見えないと気づいた、まさにその時に、見え始めるのですから。

 ダマスコへの道で光に照らされた後、サウロは「小さい者」という意味であるパウロと呼ばれることを好みました。これは、今日一般の人の間でも使われている「ニックネーム」や「ペンネーム」とは違います。キリストとの出会いによって自分自身を真に知ることを妨げていた壁が崩され、彼は心からそう思うに至ったのです。パウロは、自らについてこう述べています。「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(コリントの信徒への手紙1・15章9節)。

 リジューの聖テレジアは、他の聖人たちのように、「謙虚さこそが真理である」を好んで口にしていました。今は多くの「ストーリー」が、とくにSNS上で、さまざまな演出、カメラ機能、道具立てによって、ほとんど芸術的に仕立てられ、私たちの日々に味わいを添えています。

 「友だち」やフォロワーに、自分の姿ー本当の姿は映し出さないのはしばしばですが――を見せようと、強い照明を当てて、巧みに演出しています。真昼の太陽であるキリストは、私たちを照らし、私たちのありのままの姿を回復させるために来られ、すべての仮面を取り除いてくださいます。ありのままに愛してくださることで、私たちがどんな者であるのかを明確に示してくださるのです。

*視点を変える

 パウロの回心は後戻りではなく、まったく新しい物の見方へ扉を開くものです。確かにパウロはダマスコへの旅を続けますが、彼はもう以前と同じではなく別人です(使徒言行録22章10節参照)。いつも通りのことをしながら、けれども改められた心と今までとは異なる動機づけをもって、普段の生活の中で回心し刷新することは、私たちにもできます。

 この場合、イエスはパウロに対し、パウロ自身が目指していたダマスコへと向かうよう、わざわざお命じになります。パウロはそれに従いますが、そこにおいて旅の目的と様相は根本的に変わりました。このときから、パウロは新しい目で現実を見るようになります。

 かつての厳しい迫害者の目が、以後は証言する弟子の目となります。ダマスコでは、アナニヤが彼に洗礼を授け、キリスト者の共同体に引き合わせました。沈黙と祈りの中で、パウロは自らの体験と主イエスから与えられた新たなアイデンティティを深めていくのです。

*若者たちの力と情熱を蹴散らすな

 復活したイエスと出会う以前のパウロの態度は、私たちにとって馴染みのないものではありません。愛する若者の皆さん、皆さんの心の中にも、どれほどの力とどれほどの情熱が息づいていることでしょう。しかし、皆さんを包み、皆さんの奥深くにある暗闇が正しく見ることを邪魔するのであれば、無意味な闘いで時間を無駄にし、暴力的になるおそれすらあります。

 しかも残念なことに、皆さん自身と、皆さんにもっとも近しい人たちが、その最初の犠牲になるのです。また、もともとは正しい価値観を守るために闘っていたのが、極端になって、破壊的なイデオロギーとなる危険もあります。

 今日、おそらくは自らの政治的あるいは宗教的信念に突き動かされながらも、多くの人の人生に対し、暴力と破壊をもたらす道具と化してしまう若者がどれほど多くいることでしょう。”デジタルネイティブ”といった一部の人は、仮想空間やSNSを新たな戦場とし、良心のとがめを感じることなしに、フェイク・ニュースという武器を使って毒をまき散らし、反対者を一掃しようとします。

 主がパウロの人生に分け入ったとき、主はパウロの個性を抑え込まず、彼の熱意と情熱を鎮めることなく、かえってその才能を用いて、地の果てまで行く偉大な宣教者になさいます。

*異邦人のための使徒

 以後パウロは、「異邦人のための使徒」として知られるようになります。律法を遵守する意識の高いファリサイ派であったパウロが、です。ここにもう一つの逆説があります。主は、ご自分を迫害する、まさにその人に信を置いたのです。

 パウロのように、私たちはそれぞれ、心の奥底で自分に呼びかけるこの声を聞くことがあります。「私はあなたを信頼している。私はあなたの過去を知っており、それを、あなたとともに、この手に引き受けよう。あなたがしばしば私に敵対してきたとしても、私はあなたを選び、私の証し人とする」。神の論理は、最悪の迫害者を偉大な証人としうるのです。

 キリストの弟子は、「世の光」(マタイ福音書5章14節)となるよう呼ばれています。パウロは自分が見たことについて証言しなければなりませんが、今は目が見えません。またしても逆説です。ですがパウロは、まさにこうした自身の個人的体験によって、主が自分を遣わされている人々と一体となれたのです。事実パウロは、「彼らの目を開いて、闇から光に… 立ち帰らせ」(使徒言行録26章18節)るために証人とされたのです。

*「起き上がって、証言しなさい」

 洗礼によって与えられた新しい命を抱きしめることで、私たちは「私の証人となりなさい」という使命をも主から受け取ります。それは打ち込むべき使命であり、わたしたちの人生を変えるのです。

 今日、キリストのパウロに対する招きは、めいめいに、若者の皆さん一人ひとりに向けられていますー「起きなさい」。自分を哀れんで、地面に倒れている場合ではありません。あなたを待っている使命があるのです。あなたも、イエスがあなたの中でなし遂げようとし始めておられる業を証しできます。だからこそ私

は、キリストの名においてあなたに伝えます。

— 起き上がって証言してください。目の見えなかった者が光と出会った体験を、自分の中に、他者の中に、そしてあらゆる孤独に打ち勝つ教会の交わりの中に、神の善と美を見た体験を。

— 起き上がって証言してください。人との関係に、家庭生活の中に、親子の会話や若者と老人との対話の中に、築かれうる愛と尊敬を。

— 起き上がって守ってください。社会正義、真理と公正、人権、迫害されている人、貧しい人と弱い立場の人、社会にあって声を出せずにいる人、移住者たちを。

— 起き上がって証言してください。驚きに満ちた目で被造界を見られるようになり、地球をわたしたちの共通の家と理解させ、総合的な(インテグラル)エコロジーを守る勇気を与えてくれる、新たなまなざしを。

— 起き上がって証言してください。失敗した人生も立て直せるということを、霊的に死んでしまった人も再び立ち上がれるということを、奴隷にされた人々も再び自由を得られることを、悲しみに押しつぶされた心が再び希望を見いだせるということを。

— 起き上がって証言してください。キリストが生きておられることを喜びをもって。キリストの愛と救いのメッセージを、あなたと同世代の仲間たちに、学校、大学、職場、デジタル世界といった、あらゆる場で伝えてください。

 主は、教会は、教皇は、皆さんを信頼し、皆さんを、現代の「ダマスコへの道」で出会う、他の大勢の若者のための証人に任命します。忘れないでください。「救いをもたらす神の愛を経験している人ならば、それを告げに出向いていくための準備の時間を、さほど必要とはしないからです。たくさんの講座を受けたり、長い期間指導を受ける必要はありません。イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です」(使徒的勧告『福音の喜び』120)。

*起き上がって、おのおのの部分教会でWYDを祝おう

 2023年にリスボンで開かれるWYDまで続くこの霊的巡礼への招待状を、改めて皆さん全員に、世界中の若者たちに送ります。今年のイベントは、皆さんが所属する部分教会で、つまり世界中のさまざまな教区や管区で行われます。それが、王であるキリストの祭日に祝われる、地方レベルでの2021年ワールドユースデーとなります。

 この期間を私たち皆が、「宗教的な観光客」ではなく真の巡礼者として過ごせるよう願います。神が与える驚きに、心を開けますように。神は私たちの道でご自分の光を輝かせたいと願っておられます。その声に、信仰における兄弟姉妹からも聞こえるその声に、耳を傾けることへ、と開かれますように。そうして私たちがともに立ち上がるために助け合い、この歴史的な困難の中で、希望に満ちた、新たな時代の預言者となれますように。祝福された乙女マリアよ、私たちを執り成してください。

  ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年9月14日 十字架称賛の祝日に フランシスコ

(翻訳カトリック中央協議会、編集「カトリック・あい」=表記は、当用漢字に統一、日本語を読みやすく、意味を的確に伝えるために改めました)

2021年11月21日

☩「児童労働をもたらす世界経済システムのゆがみを正そう」ー児童労働撤廃国際年の会議で

教皇フランシスコ、児童労働撤廃テーマの国際会議参加者と  2021年11月19日 教皇フランシスコ、児童労働撤廃テーマの国際会議参加者と 2021年11月19日   (Vatican Media)

 教皇フランシスコは19日、国連の「児童労働撤廃国際年」にあたって開かれた教皇庁主催の国際会議で挨拶され、「児童労働は、人類の今日と未来のために特別に重要な問題です」と強調、「児童労働の撤廃へ、世界のすべての人が呼ばれています。(コロナ禍が続く)困難の中にあっても、勇気をもって活動の輪を広げましょう」と呼びかけられた。

 国際労働機関(ILO)と国連児童基金(UNICEF)は、2020年時点の全世界の児童労働者は、およそ1億6000万人にのぼると推定。新型コロナウイルスの世界的大感染の影響で、過去20年で初めて前年比増加となっている。

 このような状況を踏まえて、教皇は「今日、技術革新を活用した生産活動が『第4次産業革命』とまで言われているにもかかわらず、いまだに、地球のあらゆる場所で、労働に従事する子どもたちが存在し続けています」と指摘された。

 そして、「グローバル化した経済の生産プロセスの中で、他人の利益のために子どもたちを搾取することは、健康で、十分な教育を受け、調和がとれた形で成長し、遊んだり、将来を夢見たりする子どもたちの権利を否定することです」と強調。

 さらに、「極度の貧困、親たちの就労機会の不足、それによる家族の窮状が、労働力として搾取される立場に子どもたちを追いやる最大の原因」とされ、「児童労働の問題を根絶するには、貧困を克服し、ごく一部の人々に豊かさを集中させる現在の経済システムのゆがみを正すために、皆が共に努力することが求められているのです」と説かれた。

 また、困窮家庭が、子どもたちを心ならずも働かせざるをえない状況に追い込まれないように、「十分かつ正当な給与が保証される、尊厳ある労働の機会を設けるよう、各国政府や経済界に求めていくことが必要であり、質の高い無償の教育、誰もがアクセスできる医療制度の確立を、あらゆる国で推進しなくてはなりません」と語られた。

(編集「カトリック・あい」)

2021年11月20日

☩教皇、「性的搾取と性的虐待から子供たちを守る欧州の日」を前に祈る

General Audience in the Paul VI HallGeneral Audience in the Paul VI Hall  (Vatican Media)

(2021.11.17 Vatican News  Gabriella Ceraso – Vatican City)

   教皇フランシスコは17日の水曜恒例の一般謁見で、イタリアの司教団が提唱する「性的搾取と性的虐待から子供たちを守る日」を翌日に控え、子供たちの教育に関わる人々の、彼らを虐待から守る義務を強調された。

 イタリア司教協議会は18日の「守る日」を前に、犠牲者と生存者(教会の内外で負傷した人)の人間的および精神的な回復の道を支援し、愛する人が耐えてきた苦しみによって影響を受けた家族やコミュニティを助けるための祈りを求めている。同協議会は、欧州全体の「守る日」と協調する形で行う。

  世界保健機関(WHO)は、欧州地域には18歳未満の児童・青少年が2億400万人おり、その9.6%が性的虐待を受けている、と推定している。

 教皇は、「この性的虐待防止の日を契機とする取り組みは、被害を受けた人たちの人的、精神的な回復を支援する決意を新たにし、彼らのために祈る機会となります」との希望を表明するとともに、「教育、野外活動、スポーツ訓練などの分野で子供たちをしっかりと保護すること」の重要性を強調。「そうした分野での性的虐待の大部分は、家庭、教会、学校で子供たちの教育に責任を負う人々によって起きており、青少年を保護し、大切にすることが義務であるを強く認識することを、そうした人々に求めた。

また、教皇は、イタリアのヴェネト地方にある2つの歴史的な企業が直面している経済的困難に向けられました。教皇はこれら二つの会社の労働者との連帯を表明し、「この状況や他の同様の状況で非常に多くの家族を困難にしたので、利益の論理は普及しないが[代わりに]公正で連帯に基づく共有のそれ」。彼は、「すべての仕事の問題の中心は常に人間の尊厳です。あなたがパンを稼がないとき、あなたはあなたの尊厳を失います。私たちはこれらの人々のために非常に祈らなければなりません」と述べた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年11月18日