教皇フランシスコ、イエロニモス2世大主教の訪問を受けて 2021年12月5日 アテネ市内・バチカン大使館 (AFP or licensors)
(2021.12.5 バチカン放送)
ギリシャ訪問2日目の5日、教皇フランシスコは、滞在先の首都アテネのバチカン大使館で、ギリシャ正教会のイエロニモス2世大主教の訪問を受けられた。
前日に教皇がイエロニモス2世を大主教館に訪問したことに対する答訪として行われたこの出会いは、およそ30分に及び、和やかな対話の後、教皇と大主教は互いに記帳を行なった。
イエロニモス2世大主教は「2021年12月5日、聖サバスの祝日、私と随行員は、ギリシャ訪問に感謝するために、教皇、ローマの聖なる兄弟であるフランシスコを訪れました。ここに挨拶をおくり、良き旅を祈願します。聖なる神が私たちを祝してくださいますように」と記した。
これに対し、教皇は「喜びと平安のうちに愛する兄弟イエロニモス2世とお会いします。その兄弟的善意、柔和、忍耐に感謝します。主が私たちに兄弟愛と平和のこの道を共に歩む恵みをくださいますように。共なる歩みを助けてくださるイエロニモス2世大主教座下の寛大さに感謝します。姉妹である私たちの二つの教会を、主が祝福してくださいますように。聖なる神の御母、私たちを支えてください」と記した。
最後に、イエロニモス2世大主教は、20世紀初頭の小アジアにおけるギリシャ人の痛ましい歴史をめぐる本など書籍2冊と聖母子画、教皇は今回の訪問の記念メダルなどを贈り物として交換した。
(編集「カトリック・あい」)
(2021.12.4 ギリシャ入りされた教皇フランシスコは4日夕、首都アテネのアレオパゴスの聖ディオニシオに捧げられたカテドラルで、司教、司祭、修道者、助祭、カテキスタたちと会見された。
ギリシャでは、全人口の約86%をギリシャ正教会の信者が占め、カトリック信者は1.22%と少数派。ギリシャ司教協議会は、ラテン、東方二つの典礼の司教で構成されている。
会見で教皇はまず、西洋の基礎を築いたギリシャの偉大な文明に触れ、初期のキリスト教は、この豊かな文明の中で、信仰の「受肉」の”実験”を始めた、とされ、「ギリシャ文明とキリスト教の出会いの”実験場”において、多くの教父たちがその聖なる生き方と著作を通して貢献しましたが、”実験”に最初に着手したのは、使徒パウロでした」と指摘。
そのうえで、教皇は、パウロのアテネにおける宣教について二つの特徴を挙げ、今日の福音宣教の模範とするように促された。
特徴一つは、「神への信頼」。
パウロがアテネで人々と討論していた時、哲学者の中には、「このおしゃべりは、何が言いたいのか」(使徒言行録17章18節)と首をかしげる者もいた。そして、彼をアレオパゴスに連れて行き、その教えについて問いただした。
教皇は、アレオパゴスに連れて行かれたパウロの状況を想像するようにと勧められ、「彼は、たった一人で、少数派の論者として、成功の見込みはないと分かっていました。それでも、おじけづくことなく、福音を宣べ伝えることを決して諦めなかったのです」とし、そこに「神に信頼して前に進む」という真の使徒の特徴がある、と指摘された。そして、「イエスは小さき者や貧しい者を選ばれ、彼らがその謙遜さを通して歴史を変えていったように、『小さな教会』であることは『雄弁な福音的しるし』です」とされ、「パウロのように神に信頼し、この世の、からし種、パン種となって、静かに成長していくことを召命とするように」と促された。
アテネにおけるパウロの宣教姿勢のもう一つの特徴は、「相手を受け入れる態度」。
パウロは、頭ごなしに教えを説くのではなく、アテネの人々の宗教精神を受け入れた。彼は「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」(使徒言行録17章22-23節)と言い、相手の尊厳を認め、その宗教的感受性を尊重している。その点に、教皇は注目され、「今日、私たちにも人間性・文化・宗教の違いの中で、交わりを育てようとする熱い心、受け入れの態度が必要とされているのです」と説かれた。
アテネでパウロが福音を告げた時、多くの人はあざ笑い、去っていったが、「しかし、彼に付いて行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ…もいた」(使徒言行録17章34節)。
多くの人は去っていったが、「その時に残ったディオニシオに、このカテドラルが捧げられていること」に教皇は感慨を表され、「わずかに残った者から、神は今日まで歴史を織り出されてきたのです」とし、「ギリシャのカトリック教会が、この歴史的な信仰の”実験場”で働き続けること」を心から願われた。
(2021.12.3 バチカン放送)
キプロス訪問中の教皇フランシスコは3日、首都ニコシアの GSPスタジアムでミサを捧げられた。
ラテン典礼で行われたミサには約一万人が参加し、朗読はギリシャ語、信徒の祈りは英語・イタリア語・タガログ語・アラビア語なども交えて行われた。
説教で教皇は、イエスが二人の目の不自由な人をいやすエピソード(マタイ福音書9章27-31節)を取り上げ、イエスに対する信頼、共に歩む姿勢、喜びに満ちた証しの大切さを強調された。
[二人の目の不自由な人は、「ダビデの子よ、私たちを憐んでください」と言いながらイエスについて来た(同9章27節)]
教皇は「どうして、彼らはイエスに信頼したのでしょう。それは、『イエスこそが心と世の暗さを照らし、あらゆる闇に打ち勝つ光だ』と直感したからです」とされ、「私たちも皆、心に闇を抱えていますが、最初にすべきことは、この二人のように、イエスのところに行き、信頼して癒やしを願うことです。イエスだけがすべての人を照らす真の光であり、イエスだけが人に光と温かさと愛を与え、心の闇から解放することができるのです」と説かれた。
また、教皇は、このエピソードで二人の目の不自由な人が「共に行動している」ことに注目され、「彼らは置かれた状態とその苦しみを分かち合い、共に光を求めてイエスについて行き、共に叫んで癒しを願っています。特に『私たちを憐んでください』という叫びは重要。二人は『私』の、すなわち『自分だけ』の癒しを願うのではなく、『私たち』の癒しを求めているのは意味のあることなのです」と話された。
そして、個人主義から抜け出し、「『私たち』として考え、話し、行動すること、これこそが教会の精神です」と強調された。
[イエスは二人の目に触り、二人は目が見えるようになった(同9章29-30節参照)。イエスが「このことは、誰にも知らせてはいけない」と彼らに命じたにもかかわらず、「二人は外に出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」( 同30-31節参照)]
教皇は「このエピソードから分かることは、二人は主に対し不従順だったのではなく、癒されたことへの感動と喜びを抑えきれなかったからです」とされ、「『福音の喜び』とは、抑えきれずに心からあふれ出るもの」であり、「私たちも、福音書のこの二人のように、イエスとの出会いを新たにし、勇気をもって自分自身から抜け出し、出会う人たちに福音を喜びをもって証ししましょう」と信徒たちに呼びかけられた。
(編集「カトリック・あい」)
Pope Francis at the General Audience (Vatican Media)
(2021.11.24 Vatican News Devin Watkins)
教皇フランシスコは24日の水曜恒例の一般謁見で、「聖ヨセフについて」をテーマにした連続講話をお続けになった。
教皇は、救いの歴史における彼の役割を念頭に置きながら、講話を続けられ、「聖ヨセフは、社会の片隅に置かれた人々さえも、神の救いの計画で特別な役割を果たしていることを示しています」と語られた。
ルカとマタイの両福音書に描かれた聖ヨセフに注目された教皇は、この2人の福音書記者がイエスの系図(ルカ福音書3章28‐38節、マタイ福音書1章1‐16節)を伝え、アブラハム(マタイ福音書)、アダム(ルカ福音書)のいずれかで始まり、ヨセフとイエスで最高潮に達している、と指摘された。
そのうえで教皇は、「ルカとマタイのいずれもが、ヨセフを、イエスの”生物学的な父親”ではなく、”完全にイエスの父”である、と語っています」とされ、「ヨセフを通して、イエスは、神と人との間の契約と救いの歴史を成就させるのです」と強調された。
*キリストのしもべ
さらに、教皇は、マタイの福音書は、ヨセフが神の救いの計画の中心点を表していることを示している、とされ、「ヨセフは、”主人公”となることを決して求めず、あくまで”仲介者”の役を果たしています」と述べられた。
そして、「見過ごされたり、隠されたりする聖ヨセフの中に、仲介者であり、困難な時の案内人を、皆が見出すのです。彼は、無視されたり、”二列目”に置かれたりする人たちの全てが、救いの歴史で比類なき代理人を持っていることを、思い起こさせます… 世界は、このような男女を必要としているのです」と説かれた。
*イエスとマリアの守護者
次にルカの福音書に目を向けられた教皇は、この福音書では、ヨセフは、「イエスとマリアの守護者」として描かれている、と指摘され、「ヨセフのこの役割は歴史を経て広がり、『教会の守護者』ともなりましたーこれは、カインが兄を殺した後に神に投げかけた「私は私の兄の番人ですか」という問いに対する神の答えです」と説明。
そして、「ヨセフは彼の人生をもって、私たちが『私たちの兄弟姉妹の守護者、近くにいる人々、人生の様々な状況を通して主が私たちに託された人々の後見人』だと感じるようにいつも呼ばれていることを求めているように、見えます」と語られた。
*苦しむ人の守護の聖人
また教皇は、「聖ヨセフは、現代の移ろいやすい社会に、人間関係のあり方の模範を示しています」とされ、「二つの福音書のイエスの系図の説明は、私たちに『私たちの人生は、私たちに先行し、そして私たちと共にある絆によって成り立っている』と言うことを、思い起こさせます。神の御子、イエスは、そのような絆によってこの世に来ることを選ばれたのです」と語られた。
そして、さらに、「イエスのこの思いは、自分の人生で意味のある人間関係を見つけたいと苦闘するすべての人ー孤独を感じ、前に進む力を失っている人ーに向けられています」と付け加えられた。
*苦しい時の支え
講話の最後に教皇は、孤独に苦しむすべての人を助けるための、次のような祈りを捧げられ、「彼らは聖ヨセフの中に、味方、友、そして支え人を見出すことができます」とされた。
聖ヨセフ、
マリア、イエスとの絆を守られた方、私たちの人生で人間関係を大切にするのを助けてください。
誰もが、見捨てられた、という思いを経験しないようにーそれは孤独から来ています。
私たち一人一人が、私たち自身の歴史と、先人たちと、和解しますように、そして神のご意思が進まれた道を誤ったことさえも、悪が最後に勝つことがなかったことを、認めますように、
ひどく苦しんでいる人たちに、あなた自身が友であることを見せてください、あなたがマリアとイエスを困難な時に支えたように、私たちの旅も、支えてください。 アーメン
Saint Joseph,
you who guarded the bond with Mary and Jesus,
help us to care for the relationships in our lives.
May no one experience the sense of abandonment
that comes from loneliness.
Let each of us be reconciled with our own history,
with those who have gone before,
and recognise even in the mistakes made
a way through which Providence has made its way,
and evil did not have the last word.
Show yourself to be a friend to those who struggle the most,
and as you supported Mary and Jesus in difficult times,
support us too on our journey. Amen.
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
2021年11月21日の第35回「世界青年の日」教皇メッセージ 「起き上がれ。私はあなたを、あなたが見てきたことの証人にする」(使徒言行録26章16節参照)
親愛なる若者の皆さん
2023年にリスボンで開催されるワールドユースデー(WYD)に向けて、ともに霊的巡礼を続けていくために、改めて皆さんの手を取りたいと思います。
昨年、パンデミックが起きる直前、私は「若者よ、あなたにいう。起きなさい」(ルカ福音書7章14節参照)というテーマのメッセージに署名しました。主はそのみ摂理において、私たちがこれから経験する過酷な試練に向け、早くも備えさせようとしておられたのです。
世界中で人々が、多くの愛する人を失い、社会的に孤立したことによる苦しみに直面しなければなりませんでした。本来、外に向かって行こうとする若者の皆さんも、公衆衛生上の非常事態で、学校や大学、職場で集まれなくなってしまいました。
皆さんは、対応するのに慣れていない困難な状況に置かれてしまいました。対応する力が十分にない人や、支援が受けられなかった人は困惑しました。失業、うつ、孤独、依存症とともに、家庭の問題も増加しました。ストレスの蓄積、極度の緊張、怒りの爆発、暴力の増加はいうまでもありません。
しかし、幸いなことに、これはコインの片面でしかありません。この試練は、わたしたちのもろさを見せつけはしましたが、連帯への志向といった美点も明らかにしました。世界各地で、多くの若者を含む大勢の人が命のために闘い、希望の種を蒔(ま)き、自由と正義を守り、平和の紡ぎ手、橋を築く人となっているのを目の当たりにしました。
若者が倒れるということは、ある意味、人類が倒れるということです。しかし、一人の若者が立ち上がれば、世界全体が立ち上がるようなものであるのも事実です。親愛なる若者の皆さん。皆さんの手には、なんと大きな可能性があることか。皆さんの心には、なんという強さがあることか。
だから今日も、神は皆さん一人ひとりにおっしゃいますー「起き上がれ」と。私はこのメッセージが、新たな時代への、人類の歴史の新たなページへの準備に役立つことを心より願っています。
愛する若者の皆さん、真実、あなたがたなしでは再出発はできません。世界が再び起き上がるためには、皆さんの力、熱意、情熱が必要です。その意味で私は、使徒言行録の中のイエスがパウロにかけた言葉を皆さんとともに黙想したいと思います。「起き上がれ。私はあなたを、あなたが見てきたことの証人にする」(26章16節参照)。
*王の前で証言するパウロ
2021年のWYDのテーマとなったこの一節は、投獄されていたパウロの、アグリッパ王の前での証言から取られたものです。かつてはキリスト者の敵であり迫害者であったパウロが、今はキリストへの信仰ゆえに裁判にかけられているのです。25年を経て、使徒は自らの身上と、キリストとの出会いという根幹の出来事を語ります。
パウロは、それまでキリスト者を迫害していたが、ある日、数名のキリスト者を逮捕するためダマスコに向かう途中に「太陽よりも明るい」光が彼と同行者たちを包み(使徒言行録26・13参照)、だが彼だけが「声」を聞いた、そう告白しています。イエスが彼に語りかけ、その名を呼んだのですー「サウル、サウル」と。
一緒に、この出来事を深く見ていきましょう。主は名前で呼ぶことで、あなたを知っているのだ、ということをサウロに悟らせました。あたかも、「あなたがだれなのか、何をしようとしているのか、私は知っている。にもかかわらず、私はまさに、あなたに直接話している」と言うかのようにです。
主は、モーセ(出エジプト記3章4節参照)やサムエル(サムエル記上3章10節参照)になされたように、特別で、極めて重要な召命のしるしとして、彼の名を二度呼んでおられます。地面に倒れたサウロは、神の顕現、力強い啓示を目の当たりにしていることを理解します。これはサウロにとって衝撃でしたが、彼を押しつぶすのではなく、むしろ名を呼んで、直接、問いかけたのです。
事実、キリストとの、匿名ではない個人的な出会いだけが人生を変えるのです。イエスは、ご自分がサウロのことをよく知っていること、「その心の内側まで知っている」ことを示しておられます。
サウロが迫害者であっても、キリスト者への憎しみが心にあっても、イエスはそれが無知のためである、とご存じで、ご自分の憐れみを、サウロに表そうとしておられるのです。まさしくこの恵みが、この見返りを求めない無条件の愛こそが、サウロの人生を根源から変える光なのです。
*「主よ、あなたはどなたですか」
自分の名を呼ぶこの不思議な存在を前に、サウロは尋ねます。「主よ、あなたはどなたですか」(使徒言行録26章15節)。
この質問はきわめて重要であり、人生において遅かれ早かれ、誰もがこれを問わなければなりません。ほかの人がキリストについて語るのを聞いたことがあるというだけでは十分ではなく、個人的にキリストと話すことが必要です。
それはすなわち、祈りなのです。それは、たとえ心がまだ混乱していても、キリストやキリスト者に対する疑問や軽蔑が心にあったとしても、イエスに直接話すことです。私は、すべての若者が、心の内奥からこう問うようになってほしいと願っています。「主よ、あなたはどなたですか」。
インターネットの時代とはいっても、誰もがイエスを知っていて当たり前というわけではありません。多くの人が、イエスに、教会に向ける質問がまさにこれです。「あなたはどなたですか」。聖パウロの召命の物語全体の中で、パウロが口にするのはそれだけです。そしてその質問に、主はすぐにお答えになります。
*「私は、あなたが迫害しているイエスである」
「私は、あなたが迫害しているイエスである」ー この答えによって主イエスは、サウロに大いなる神秘を明かします。主はご自分を、教会と、キリスト者と、一体になさっておられる、ということです。それまでサウロは、自分が牢に入れ(使徒言行録26章10節参照)、その死刑に賛成の意思表示をした(同)信者と会うことを通してのみ、キリストについて見聞きしてきました。
そしてキリスト者が、キリストの名のために不正や暴力、中傷や迫害に耐えることで、善をもって悪に応じ、愛をもって憎しみに応じるさまを見てきました。ですからよく考えてみれば、サウロは知らず知らずのうちに、何らかの形ですでにキリストと出会っていたのです。彼は、キリスト者を通してキリストと出会っていたのです。
「イエスはいいけれど、教会は嫌」と、あたかも一方が他方の代替であるような発言をよく耳にします。教会を知らなければ、イエスを知ることはできません。その共同体の兄弟姉妹を介さずに、イエスを知ることはできません。信仰の教会的次元を生きていなければ、完全なキリスト者とはいえません。
*「とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う」
これは主が、地面に倒れたサウロにかけた言葉です。かなり以前から不思議な方法で彼に語りかけ、サウロをご自分のもとに引き寄せようとしていたかのようで、それでもサウロは抵抗しているかのようです。
私たちの主は、ご自分に背を向ける若者一人ひとりに向けて、同じように優しい「叱責」をなさっています。「いつまで私から逃げるのか。あなたのことを呼んでいるのになぜ聞かないのか。あなたの帰りをわたしは待っている」と。預言者エレミヤのように、私たちも「主の名を口にすまい」(エレミヤ書20章9節)と言うことがあります。ですが、一人ひとりの心の中には燃え盛る火のようなものがあります。それを抑え込もうとしても、自分よりも強いのですから無理なのです。
主は、ご自身を迫害し、ご自身とご自身に従う者たちを完全に敵視している人をもお選びになります。事実、神から見ればやり直すことのできない人はいません。主と個人的に出会うことで、いつでもやり直すことができます。神の恵みとあわれみが届かない若者はいません。「遠すぎる……遅すぎる」と言える人などいません。反骨心と大勢に逆らう気概を持ちつつも、献身しなければ、全力で愛さなければ、使命に生きなければ、という思いを心に抱く若者が、どれほど多いことでしょう。イエスは、若きサウロに、まさにそれを見ているのです。
*自らの盲目に気づく
想像するに、キリストと出会う前のサウロはある意味「自分のことで頭がいっぱい」で、自分は道徳的に清廉潔白で、熱意があり、出自も教養も申し分ないので、自分を「立派」だと考えていたのでしょう。確かに彼は、自分の正しさを確信していました。しかし、主がご自身を現されると、彼は「打ちのめされ」、自分は盲目だと気づきます。サウロは突然、自分は身体的に見えないだけでなく、霊的にも盲目だと気づくのです。彼の確信は揺さぶられます。
あれほど熱く自分を駆り立てていたもの、すなわちキリスト者を粛清しようという熱意は完全に誤りだった、と魂において気づきます。自分は絶対的真理の保有者ではない、それどころか、そこからはほど遠い存在だ、と悟るのです。そして、彼の確信と一緒に、彼の「立派さ」もまた崩れ落ちていきました。突然彼は、自分は道に迷っていると、もろく、「小さい」のだと悟るのです。
このような謙虚さが、つまり自分の限界の自覚が欠かせないのです。自分のことも、他人のことも、さらには宗教上の真理についても、何でも分かっていると思っている人がキリストに出会うのは難しいでしょう。盲目になったサウロは、自身の基準点を失ってしまったのです。暗闇の中に一人取り残された彼にとって唯一はっきりしていたのは、見た光と聞いた声だけでした。なんとも逆説的です。目が見えないと気づいた、まさにその時に、見え始めるのですから。
ダマスコへの道で光に照らされた後、サウロは「小さい者」という意味であるパウロと呼ばれることを好みました。これは、今日一般の人の間でも使われている「ニックネーム」や「ペンネーム」とは違います。キリストとの出会いによって自分自身を真に知ることを妨げていた壁が崩され、彼は心からそう思うに至ったのです。パウロは、自らについてこう述べています。「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(コリントの信徒への手紙1・15章9節)。
リジューの聖テレジアは、他の聖人たちのように、「謙虚さこそが真理である」を好んで口にしていました。今は多くの「ストーリー」が、とくにSNS上で、さまざまな演出、カメラ機能、道具立てによって、ほとんど芸術的に仕立てられ、私たちの日々に味わいを添えています。
「友だち」やフォロワーに、自分の姿ー本当の姿は映し出さないのはしばしばですが――を見せようと、強い照明を当てて、巧みに演出しています。真昼の太陽であるキリストは、私たちを照らし、私たちのありのままの姿を回復させるために来られ、すべての仮面を取り除いてくださいます。ありのままに愛してくださることで、私たちがどんな者であるのかを明確に示してくださるのです。
*視点を変える
パウロの回心は後戻りではなく、まったく新しい物の見方へ扉を開くものです。確かにパウロはダマスコへの旅を続けますが、彼はもう以前と同じではなく別人です(使徒言行録22章10節参照)。いつも通りのことをしながら、けれども改められた心と今までとは異なる動機づけをもって、普段の生活の中で回心し刷新することは、私たちにもできます。
この場合、イエスはパウロに対し、パウロ自身が目指していたダマスコへと向かうよう、わざわざお命じになります。パウロはそれに従いますが、そこにおいて旅の目的と様相は根本的に変わりました。このときから、パウロは新しい目で現実を見るようになります。
かつての厳しい迫害者の目が、以後は証言する弟子の目となります。ダマスコでは、アナニヤが彼に洗礼を授け、キリスト者の共同体に引き合わせました。沈黙と祈りの中で、パウロは自らの体験と主イエスから与えられた新たなアイデンティティを深めていくのです。
*若者たちの力と情熱を蹴散らすな
復活したイエスと出会う以前のパウロの態度は、私たちにとって馴染みのないものではありません。愛する若者の皆さん、皆さんの心の中にも、どれほどの力とどれほどの情熱が息づいていることでしょう。しかし、皆さんを包み、皆さんの奥深くにある暗闇が正しく見ることを邪魔するのであれば、無意味な闘いで時間を無駄にし、暴力的になるおそれすらあります。
しかも残念なことに、皆さん自身と、皆さんにもっとも近しい人たちが、その最初の犠牲になるのです。また、もともとは正しい価値観を守るために闘っていたのが、極端になって、破壊的なイデオロギーとなる危険もあります。
今日、おそらくは自らの政治的あるいは宗教的信念に突き動かされながらも、多くの人の人生に対し、暴力と破壊をもたらす道具と化してしまう若者がどれほど多くいることでしょう。”デジタルネイティブ”といった一部の人は、仮想空間やSNSを新たな戦場とし、良心のとがめを感じることなしに、フェイク・ニュースという武器を使って毒をまき散らし、反対者を一掃しようとします。
主がパウロの人生に分け入ったとき、主はパウロの個性を抑え込まず、彼の熱意と情熱を鎮めることなく、かえってその才能を用いて、地の果てまで行く偉大な宣教者になさいます。
*異邦人のための使徒
以後パウロは、「異邦人のための使徒」として知られるようになります。律法を遵守する意識の高いファリサイ派であったパウロが、です。ここにもう一つの逆説があります。主は、ご自分を迫害する、まさにその人に信を置いたのです。
パウロのように、私たちはそれぞれ、心の奥底で自分に呼びかけるこの声を聞くことがあります。「私はあなたを信頼している。私はあなたの過去を知っており、それを、あなたとともに、この手に引き受けよう。あなたがしばしば私に敵対してきたとしても、私はあなたを選び、私の証し人とする」。神の論理は、最悪の迫害者を偉大な証人としうるのです。
キリストの弟子は、「世の光」(マタイ福音書5章14節)となるよう呼ばれています。パウロは自分が見たことについて証言しなければなりませんが、今は目が見えません。またしても逆説です。ですがパウロは、まさにこうした自身の個人的体験によって、主が自分を遣わされている人々と一体となれたのです。事実パウロは、「彼らの目を開いて、闇から光に… 立ち帰らせ」(使徒言行録26章18節)るために証人とされたのです。
*「起き上がって、証言しなさい」
洗礼によって与えられた新しい命を抱きしめることで、私たちは「私の証人となりなさい」という使命をも主から受け取ります。それは打ち込むべき使命であり、わたしたちの人生を変えるのです。
今日、キリストのパウロに対する招きは、めいめいに、若者の皆さん一人ひとりに向けられていますー「起きなさい」。自分を哀れんで、地面に倒れている場合ではありません。あなたを待っている使命があるのです。あなたも、イエスがあなたの中でなし遂げようとし始めておられる業を証しできます。だからこそ私
は、キリストの名においてあなたに伝えます。
— 起き上がって証言してください。目の見えなかった者が光と出会った体験を、自分の中に、他者の中に、そしてあらゆる孤独に打ち勝つ教会の交わりの中に、神の善と美を見た体験を。
— 起き上がって証言してください。人との関係に、家庭生活の中に、親子の会話や若者と老人との対話の中に、築かれうる愛と尊敬を。
— 起き上がって守ってください。社会正義、真理と公正、人権、迫害されている人、貧しい人と弱い立場の人、社会にあって声を出せずにいる人、移住者たちを。
— 起き上がって証言してください。驚きに満ちた目で被造界を見られるようになり、地球をわたしたちの共通の家と理解させ、総合的な(インテグラル)エコロジーを守る勇気を与えてくれる、新たなまなざしを。
— 起き上がって証言してください。失敗した人生も立て直せるということを、霊的に死んでしまった人も再び立ち上がれるということを、奴隷にされた人々も再び自由を得られることを、悲しみに押しつぶされた心が再び希望を見いだせるということを。
— 起き上がって証言してください。キリストが生きておられることを喜びをもって。キリストの愛と救いのメッセージを、あなたと同世代の仲間たちに、学校、大学、職場、デジタル世界といった、あらゆる場で伝えてください。
主は、教会は、教皇は、皆さんを信頼し、皆さんを、現代の「ダマスコへの道」で出会う、他の大勢の若者のための証人に任命します。忘れないでください。「救いをもたらす神の愛を経験している人ならば、それを告げに出向いていくための準備の時間を、さほど必要とはしないからです。たくさんの講座を受けたり、長い期間指導を受ける必要はありません。イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です」(使徒的勧告『福音の喜び』120)。
*起き上がって、おのおのの部分教会でWYDを祝おう
2023年にリスボンで開かれるWYDまで続くこの霊的巡礼への招待状を、改めて皆さん全員に、世界中の若者たちに送ります。今年のイベントは、皆さんが所属する部分教会で、つまり世界中のさまざまな教区や管区で行われます。それが、王であるキリストの祭日に祝われる、地方レベルでの2021年ワールドユースデーとなります。
この期間を私たち皆が、「宗教的な観光客」ではなく真の巡礼者として過ごせるよう願います。神が与える驚きに、心を開けますように。神は私たちの道でご自分の光を輝かせたいと願っておられます。その声に、信仰における兄弟姉妹からも聞こえるその声に、耳を傾けることへ、と開かれますように。そうして私たちがともに立ち上がるために助け合い、この歴史的な困難の中で、希望に満ちた、新たな時代の預言者となれますように。祝福された乙女マリアよ、私たちを執り成してください。
ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年9月14日 十字架称賛の祝日に フランシスコ
(翻訳カトリック中央協議会、編集「カトリック・あい」=表記は、当用漢字に統一、日本語を読みやすく、意味を的確に伝えるために改めました)
教皇フランシスコ、児童労働撤廃テーマの国際会議参加者と 2021年11月19日 (Vatican Media)
(2021.11.19 バチカン放送)
教皇フランシスコは19日、国連の「児童労働撤廃国際年」にあたって開かれた教皇庁主催の国際会議で挨拶され、「児童労働は、人類の今日と未来のために特別に重要な問題です」と強調、「児童労働の撤廃へ、世界のすべての人が呼ばれています。(コロナ禍が続く)困難の中にあっても、勇気をもって活動の輪を広げましょう」と呼びかけられた。
国際労働機関(ILO)と国連児童基金(UNICEF)は、2020年時点の全世界の児童労働者は、およそ1億6000万人にのぼると推定。新型コロナウイルスの世界的大感染の影響で、過去20年で初めて前年比増加となっている。
このような状況を踏まえて、教皇は「今日、技術革新を活用した生産活動が『第4次産業革命』とまで言われているにもかかわらず、いまだに、地球のあらゆる場所で、労働に従事する子どもたちが存在し続けています」と指摘された。
そして、「グローバル化した経済の生産プロセスの中で、他人の利益のために子どもたちを搾取することは、健康で、十分な教育を受け、調和がとれた形で成長し、遊んだり、将来を夢見たりする子どもたちの権利を否定することです」と強調。
さらに、「極度の貧困、親たちの就労機会の不足、それによる家族の窮状が、労働力として搾取される立場に子どもたちを追いやる最大の原因」とされ、「児童労働の問題を根絶するには、貧困を克服し、ごく一部の人々に豊かさを集中させる現在の経済システムのゆがみを正すために、皆が共に努力することが求められているのです」と説かれた。
また、困窮家庭が、子どもたちを心ならずも働かせざるをえない状況に追い込まれないように、「十分かつ正当な給与が保証される、尊厳ある労働の機会を設けるよう、各国政府や経済界に求めていくことが必要であり、質の高い無償の教育、誰もがアクセスできる医療制度の確立を、あらゆる国で推進しなくてはなりません」と語られた。
(編集「カトリック・あい」)