☩教皇、キプロスでミサ「『私』でなく、『私たち』が教会の精神です」

(2021.12.3 バチカン放送)

 キプロス訪問中の教皇フランシスコは3日、首都ニコシアのGSPスタジアムでミサを捧げられた。

 ラテン典礼で行われたミサには約一万人が参加し、朗読はギリシャ語、信徒の祈りは英語・イタリア語・タガログ語・アラビア語なども交えて行われた。

 説教で教皇は、イエスが二人の目の不自由な人をいやすエピソード(マタイ福音書9章27-31節)を取り上げ、イエスに対する信頼、共に歩む姿勢、喜びに満ちた証しの大切さを強調された。

 [二人の目の不自由な人は、「ダビデの子よ、私たちを憐んでください」と言いながらイエスについて来た(同9章27節)]

 教皇は「どうして、彼らはイエスに信頼したのでしょう。それは、『イエスこそが心と世の暗さを照らし、あらゆる闇に打ち勝つ光だ』と直感したからです」とされ、「私たちも皆、心に闇を抱えていますが、最初にすべきことは、この二人のように、イエスのところに行き、信頼して癒やしを願うことです。イエスだけがすべての人を照らす真の光であり、イエスだけが人に光と温かさと愛を与え、心の闇から解放することができるのです」と説かれた。

 また、教皇は、このエピソードで二人の目の不自由な人が「共に行動している」ことに注目され、「彼らは置かれた状態とその苦しみを分かち合い、共に光を求めてイエスについて行き、共に叫んで癒しを願っています。特に『私たちを憐んでください』という叫びは重要。二人は『私』の、すなわち『自分だけ』の癒しを願うのではなく、『私たち』の癒しを求めているのは意味のあることなのです」と話された。

 そして、個人主義から抜け出し、「『私たち』として考え、話し、行動すること、これこそが教会の精神です」と強調された。

 [イエスは二人の目に触り、二人は目が見えるようになった(同9章29-30節参照)。イエスが「このことは、誰にも知らせてはいけない」と彼らに命じたにもかかわらず、「二人は外に出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」( 同30-31節参照)]

 教皇は「このエピソードから分かることは、二人は主に対し不従順だったのではなく、癒されたことへの感動と喜びを抑えきれなかったからです」とされ、「『福音の喜び』とは、抑えきれずに心からあふれ出るもの」であり、「私たちも、福音書のこの二人のように、イエスとの出会いを新たにし、勇気をもって自分自身から抜け出し、出会う人たちに福音を喜びをもって証ししましょう」と信徒たちに呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

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2021年12月4日