・教皇、シノドス総会を2023年10月、2024年10月の異例の2セッション開催に

File photo of Pope Francis meeting with Cardinals in the Synod HallFile photo of Pope Francis meeting with Cardinals in the Synod Hall  (Vatican Media)

(2022.10.16 Vatican News  Devin Watkins)

   教皇フランシスコは16日、年間第29主日の正午の祈りの説教の中で、現在の”シノドスの道”の終着点である全世界代表司教会議(シノドス)をこれまで予定していた来年10月の一回だけでなく、再来年、2024年10月に続けて開くことを発表された。

*”シノドスの道”の歩みを完全に成熟したものにしたい

 教皇は、このシノドス総会2セッション化という異例の決定の理由を「現在全世界の教会で進められている(”シノドスの道”の歩みの)取り組みでは、すでに多くの成果がもたらされていますが、それを完全に成熟したものにするには、時間が必要なのです」と説明。

 シノドスの第 16 回通常総会の第 1セッションとして 2023 年 10 月 4日から29日にかけて開く会議は、「耳を傾けること」と「識別」に焦点を当てたものとし、さらに第二セッションの会議を2024年10月に会議を開く、との決定を示された。

 そして、この決定が「教会の構成要素としてのシノダリティ(共働性)の理解を促進し、福音の喜びを証しする兄弟姉妹の旅として、すべての人がシノダリティを生きるのを助けることを望んでいます」と語られた。

 

 

”2セッション化”についてシノドス事務局からの追加説明

 教皇の発表を受けて、バチカンのシノドス事務局が声明を発表し、(教皇フランシスコが2018年に出された)シノドスに関する使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ」 は、同一の全世界代表司教会議を複数のセッションで行うことを認めており、今回の決定はそれに基づくものだ、と説明。

 「この決定は、シノダルな教会に関わるテーマが、その幅広さと重要性から、全世界代表司教会議の参加者だけでなく、全教会によってシノドス会議のメンバーだけでなく、教会全体による長期にわたる識別の主題となってもらいたい、という強い願望から生まれたもの」と述べた。

 さらに、「世界代表司教会議の総会の2セッション化は、現在進められている”シノドスの旅”によく適合するもの。なぜなら、シノドス総会は単なるイベントではなく、神の民全体がご自分の教会のための主のご意思をして、聖霊が識別を助ける方向に向けて共に歩むように召されているからです」とし、「2セッション化は、より深い熟考を促進するという目標を持った”旅の中の旅”を形成することになるでしょう」としている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年10月16日

☩「飢えをもたらす世界大戦がまた繰り返されている」-16日・国連「世界食糧デー」に教皇メッセージ

(2022.10.14 バチカン放送)

 16日の国連「世界食料デー」を前に、教皇フランシスコが国連食糧農業機関(FAO)の屈冬玉(チュー・ドンユィ)事務局長に宛てにメッセージを送られた。

その中で教皇は、1945年の設立から今年で77年を迎えるFAOの誕生は、「第二次世界大戦の影響によって困窮と飢えに圧迫された多くの人々の必要に応えるのが目的だった」ことを思い起こされ、「残念ながら、今日も、私たちは『第三次世界大戦』とも言える戦争を背景に生きています。『世界が戦争の中にある』ということを、私たちは深く考える必要があります」と訴えられた。

 今年の「世界食料デー」のテーマは「誰一人取り残さない。より良い生産、より良い栄養、より良い環境、より良い生活」だが、教皇は「このテーマのように、人類を襲う数多くの危機に立ち向かうには、誰一人取り残すことなく、皆で働き、共に歩む必要があり、そのためには第一に、他者を自分たちの兄弟姉妹、人類家族の同じ一員としてとらえることが大切です」と強調。

 同時に「あらゆる計画を、”数字”や”統計”ではなく、具体的なストーリーや顔を持ち、一定の場所に居住する人間を軸にして考えること」の重要性を指摘された。

 そして、「バチカンは、FAOをはじめとする諸機関と共に、貧しい人々のために働き、兄弟愛と調和と相互協力に重点を置きながら、今日と未来の世界に真の益をもたらす状態を追求すべく取り組んでいきます」と約束され、「すべての人が、その手から糧を受け取ることができるように、また、パンを貧しい人々と分かち合う人を豊かに祝してくださるように」と全能の神に祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月15日

◎教皇連続講話「識別について」⑤「”強い願望”は私たちの方向を見極める羅針盤だ」

APope Francis arrives for the weekly General AudiencePope Francis arrives for the weekly General Audience  (ANSA)

 教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見で、「識別について」の連続講話をお続けになった。

 今回は、識別に欠かせない要素としての「強い願望」を取り上げ、信徒たちに「神の、私たちの人生に対する”強い願望”を知る助けを、主に求めるように」と勧められた。

*強い願望とは…

 

 教皇は、「私たちに欠けているが、それとなく知っているもの」についてさらに説明され、「精神の専門家は、それを『欲望』と呼んでいます。これは完全には満たされることのないものへの欲求であり、私たちの内にある神の臨在のしるしです」と述べられた。

 そして、イタリア語の desiderio は、ラテン語の de-sidus に由来し、「星、つまり、私たちの人生の歩み方向付ける基準点を欠いていること」を意味し、それは、「苦しみ、欠如、そして同時に、失われている善なるものに到達するための緊張、を呼び起こします」とされ、「強い願望は、一瞬の渇望ではない… 誠実な願望は、私たちの存在の琴線に深く触れる方法を知っているので、困難や挫折に直面しても消えることがありません」と語られた。

 さらに、教皇は、私たちの喉が渇いた状態を例にとり、「私たちは、飲み物が見つからなくてもあきらめず、渇きを癒すためにあらゆる犠牲を払おうとし、水を求める気持ちが、私たちの考えや行動を支配していきます」とされ、それと同じように「障害や失敗が、欲求を抑えることはなく、私たちの中で、さらに生き生きとさせます」と説かれた。

 

*強い願望は時を経ても続き、果たされる

 

 教皇は「一時の欲求や感情とは異なり、強い願望は、時を経ても持続し、長期にわたって持続し、実現することも少なくありません」とされ、例えば、医者になることを希望する若者は長い間、医者になるためにひたすら勉強する… 「医者になる、という彼の選択は、自分に制限を課すことを意味します。他の勉学のコースを選ぶことに『ノー』と言い、懸命に勉学に励む間、気晴らしや娯楽を断つことを意味します」と指摘。

 そして「このようなことを可能にするのは、『自分の人生に方向性を与え、目標に到達したい』という強い願望です。実際のところ、その目標が魅力的であれば、素晴らしいものとなり、達成しやすくなる。ある人が言っているように、『良いことよりも、良くなりたい、という願望を持つことが重要』なのです」と説かれた。

 

*強い願望と奇跡

 

 次に教皇は、「イエスが奇跡をなさる前に、相手に「何を望むのか」と問いかけられることが多いこと」に注目された。

 例えば、ヨハネ福音書には、イエスがエルサレムに入られた時、ベトサダの池の回廊に横たわっていた病人に「良くなりたいか」と問いかけられる場面(5章3節以降)がある。

 この病人はイエスの問いかけの真意をまだ理解できず、「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」とおかしな返事をする。イエスの問いかけは、彼に自分の気持ちを正直に表わさせ、飛ぶように歩けるようにし、他の人に池に入れてもらわねばならないような、麻痺した病人と考える必要がなくなるようにする、という招きの言葉だったのだ。

 「主との対話で主につながることで、私たちは、自分の人生で本当に得たいものを理解することを学ぶのです」と教皇は指摘された。

*強い願望が、”一時の欲求”におとしめられている

 

 ただし、しばしば起きるのは、「欧州のことわざにある『地獄への道が善意で舗装されている』ことで、強い願望が、成功し、首尾一貫した永続的な計画と、何千もの願望と善意の間に違いを生むこと」であり、「最大限の選択の自由を促しているように見えて、実際は願望を『一時の欲求』におとしめている現代、私たちは何千もの提案、計画、そして可能性に攻め立てられ、混乱させられ、自分が本当に欲しいものを冷静に評価でいなくなるリスクのもとに置かれているのです」と警告された。

 そして、多くの人が苦しんでいるのは「自分の人生に何を求めているのか分からない」ためで、「おそらく、自分の心の最も深いところにある願望に触れたことがない」ため、と教皇は指摘。

 それゆえに、「彼らは、さまざまな種類の試みと手段の間で振り回され、どこにも到達せず、貴重な機会を無駄にするーというリスクを冒している。だから、理論的には望ましい変更であっても、機会が訪れたときに、実行できない変更があります」と注意された。

 

 

*神の願望を知ろうとする強い願望

 

 教皇は、イエスが、エリコで目の見えないバルティマイに言われた(マルコ福音書10章51節)ように「『何をしてほしいのか』と主に問われたら、私たちは、どう答えるでしょうか?」と、一般謁見に参加している信徒たちに問いかけられた。

 そして、主に対する答えとして、「神ご自身が私たちの心の中に置かれた最も深い願望を知ることができるように助けてください。そして、その願望を実現する力をお授けください」と主に願うように勧められ、次のように締めくくられた。

 「これは、計り知ることのできない恵みです。他のあらゆるものの基礎、福音書にあるように、主が私たちのために奇跡を起こしてくださるのを可能にするもの。それは、主も私たちのために大きな願望、主の満ち溢れる命に私たちを与らせたい、という願望を持っておられるからです」と語られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年10月12日

☩「”暴力の嵐”を止め、平和的な共存を取り戻せ」教皇、ロシアのウクライナへの連続ミサイル攻撃に

(2022.10.12 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

   教皇フランシスコは12日の水曜恒例の一般謁見での講話の最後に、今週に入ってのロシアによるウクライナ全土へのミサイル攻撃に言及。世界の人々に対して、今年二月以来のロシアの軍事侵攻の中でも最も激しい爆撃にさらされ、苦しんでいる人々のために祈るよう促され、ロシアなど関係国指導者に、「戦争をやめ、平和的な共存を受け入れるように」と求められた。

 今週に入ってのロシアのウクライナに対するミサイル攻撃は、首都キエフの中心部だけでなく、リヴィウ、ドニプロ、ハリコフなどの複数の都市が対象となり、数多くの死傷者を出している。

 教皇は「私の心は、ウクライナの人々、中でも爆撃が猛威を振るった都市に住む方々と共にあります」とされ、「私は、彼らの痛み、苦しみを共有し、神の母マリアの取り次ぎを通して、祈りの中で、主に捧げます」と語られた。

 そして、「神は、主を呼び求める人々の叫びを常に聞いておられます… 聖霊が、戦争の行方を握っている人々の心を改めさせ、暴力の嵐が止み、正義に基づく平和的の共存が取り戻されますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2022年10月12日

☩「どのように教会を見るべきか、第二バチカン公会議から学ぼう」教皇、公会議60周年記念ミサで

(2022.10.11 Vatican News  Christopher Wells)

   教皇フランシスコが11日、聖ペトロ大聖堂で第二バチカン公会議開始60周年記念ミサを捧げられ、説教の中で、「イエスが、聖ペトロに言われた言葉ー「私を愛しているか?私の羊を養いなさい」(ヨハネ福音書21章15節)ーは、私たち、教会としての私たちにも向けられています」と語られた。

 説教で教皇はまず、ヨハネ福音書に書かれたイエスのペトロに対する問いかけー「私を愛しているか?」を取り上げ、第二バチカン公会議は、この問いかけに対する「素晴らしい一つの答えだった」と指摘。
2022.10.11 Santa Messa nel 60° anniversario del Concilio Ecumenico VaticanoII

 「教会の主への愛を、再び燃え立たせるために、カトリック教会は、その歴史の中で初めて、自身を点検し、自身の本質と使命を熟考するために、公会議を捧げたのです」と説かれ、教会を見るために、この公会議から学ぶことのできる 3 つの方法を示された。

 

*「まず、愛に満ちた神の目で」

 それは、まず、神の視点で教会を見ることー「高いところから、神の目で、愛に満ちた目で教会を見ること」である、とされ、自分の視点で教会を見ないよう注意するとともに、”進歩主義”と”伝統主義”のいずれもを不信心であり、「自分たちの好みと計画を神の愛よりも優先するペラギウス的な利己主義の様式」として批判された。

 そして、会議開始から60周年の今、「私たちは、第二バチカン公会議が示した情熱を再発見し、この公会議への私たちの情熱を新たにしましょう」と呼びかけられた。

 

*「羊の群れを養う」

 

  公会議から学ぶ、二つ目の方法として、教皇は、イエスがペトロに言われた「養う」に注目され、「このことが、イエスがペトロに求められた愛です」と言われた。

 漁師だったペトロは、イエスによって羊の群れの中で生活し、羊を愛するように呼ばれて羊飼いとなった。この世の中に暮らし、周りに気を配り、他の人々を見下さない…。

 「第二バチカン公会議は、何と時宜を得てものであり続けているのでしょう!… 公会議は、私たちが心地よさと確信の中に自分を閉じ込めてしまう誘惑を退けるのを助け、神のなさり方に倣い、いなくなった羊を探し、囲いに戻すうよう、私たちを導いてくれます」と教皇は語られた。

 そして、「三位一体の心から湧き出る、私たちの聖なる、階層をなす、母なる教会は、愛ゆえに存在しているのです」とされ、教会の指導者たちに、「自己陶酔に陥る誘惑に抵抗する」よう求められ、「神の民は、”羊飼いの民”、羊飼いは、貧しい人と疎外された人を特別に世話する必要があります」と共著された。

*「教会の全たちを視野に置く」

 

 教会を見るために公会議から学ぶ三つ目の方法は、「全体を視野に置くこと」だ。

 説教の締めくくりに、教皇は、教会における一致を強く訴えられるとともに、「神は、私たちが全体を見ることを望んでおられます。そして、これが、教会を見る三つ目の方法です」とされ、教会の指導者たちに、すべての人たちの奉仕者となる代わりに、特定の者をひいきにする傾向があるのを嘆かれた。

 そして、「私たちは神の羊、神の羊の群れ。私たちは一緒になり、一つになることで、そのようになることができるのです。あらゆる分極化に打ち勝ち、自分たちの交わりを持ち続けましょう」と訴えられた。

 最後に、教皇は「第二バチカン公会議の賜物」を主に感謝し、「自分で何でもできるという思い込みと、俗物的な批判の心から、私たちを自由にしてくださいますように。そして、自己陶酔の影から私たちを導き出し、悪魔の業である分極化から私たちを救ってください」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

参考(2022.10.12 バチカン放送)

 11日夕方、ミサが行われた聖ペトロ大聖堂には、多くの枢機卿、司教をはじめ、聖職者、修道者・信者たちが集った。

 ミサに先立ち、聖ヨハネ23世による第2バチカン公会議開会の辞「ガウデット・マーテル・エクレジア」の一部と、同公会議の公文書の中でも最も重要とされる4つの憲章、『典礼憲章』『教会憲章』『神の啓示に関する教義憲章』『現代世界憲章』の数節が朗読され、参列者らは60年前、同じ場所で祝われた同公会議の幕開けを思い起こしていた。

 教皇フランシスコはミサの説教で、ヨハネ福音書21章、復活したイエスがティベリアス湖畔で再び弟子たちにご自身を現わされた時のペトロとの対話を取り上げられた。

 このエピソードで、イエスはペトロに対し、「私を愛しているか」(ヨハネ福音書21章15節)と尋ね、「私の羊の世話をしなさい」(同17節)と命じられた。

 主はその偉大な愛において人々に友として語りかけ、対話され(「神の啓示に関する教義憲章」2項参照)、今も、常に、その花嫁である教会に「私を愛しているか」と尋ねている、と教皇は述べ、「第2バチカン公会議はこの問いに対する一つの大きな答えでした」と話された。

 教皇は、神にその優位を再び返すために、またイエスとイエスが愛した人々を深く愛し、イエスに満ち溢れると共に清貧で、自由でいて人を自由にする教会を取り戻すために、同公会議を再発見するよう招かれた。

 そして、同公会議は福音書におけるペトロのように、「最初の愛の源泉であるガリラヤへ戻り、その貧しさの中に神の聖性を再び見出すように導いています」と話された。

 また、イエスはペトロに「私の羊の世話をしなさい」と命じられたが。イエスはこの「世話をする」という言葉に、「ご自身がペトロに望む愛の形を示されています」と教皇は述べられた。

 漁師だったペトロは、イエスから牧者という使命を与えられたが、「漁師が自分のために漁をするのに対し、牧者は他者の世話をし、彼らと一緒に留まり、彼らを大切に愛するという意味で、彼にとってはまったく新しい生き方でした」と教皇は指摘。同公会議もまた、「神の御国の奉仕者として、世の中に人々と共に留まることを教えています」と話された。

 教皇はさらに、イエスがペトロに世話を託した羊たちを、「私の羊(たち)」と呼んでいることに注目。イエスが「私の」と愛情を込めて呼ばれる羊たちすべてを、一致させて導く牧者の使命を強調された。

 「主は、ご自身の羊、ご自身の群れである私たちの一致をお望みです」と述べた教皇は、分極化を超え、一致を保ち、「すべての人を一つにしてください」(参照 ヨハネ福音書17章21節)という主の願いをより実現できるように、と祈られた。

 ミサの終わりに、教皇が手にするろうそくから、代表の信者のろうそくに火が灯され、他の参加者たちのろうそくへと伝えられていった。

 60年前の公会議初日の夜のろうそく行列をほうふつとさせる無数の光は聖堂全体に広がり、信者たちはそれぞれ信仰を象徴するそのともし火を手に、大聖堂から外の広場へ向かっていった。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月12日

☩「米ソが核戦争を回避した『キューバ危機』の歴史に学べ」教皇、改めて訴え

(2022.10.9  Vatican News staff writer)

 

 

2022年10月10日

☩「子育ての親、働く人、病む人、高齢者の中に聖性を見い出そう」ー「現代の聖性」会議参加者に

教皇フランシスコと列聖省主催の会議参加者との出会い 2022年10月6日 バチカン宮殿教皇フランシスコと列聖省主催の会議参加者との出会い(2022年10月6日 バチカン宮殿で =Vatican Media)

 教皇フランシスコは6日、列聖省主催の「現代の聖性」をテーマにした会議参加者との会見で、使徒的勧告「喜びに喜べ – 現代世界における聖性」で示された「現代の世界で聖性を受肉させることの重要性」を改めて訴えられた。

 教皇は、「神の民の中に聖性を発見するのは、今も重要なことです」とされ、子を愛情をもって育てる両親や、日々の仕事に取り組む人々、病者としての状態を耐え忍ぶ人々、微笑みと助言を絶やさないお年寄りなど、身近な人々の中に聖性を見出すことの大切さを強調。

 さらに、「徳に満ちたキリスト教生活をおくりながら主の弟子として生きる多くの人たちの証しは、聖性への招きに答えるようにと、私たちに呼びかけています」とされ、このような「身近な聖人」たちの存在は、「福音をあますことなく生きることは、すべての人に可能だということを思い出させてくれます」と語られた。

 そして、聖性とは、「努力や諦観の訓練」によるものではなく、何よりも「『神に愛されている』という体験、無償で受け取った神の愛と慈しみの経験」によるものであり、「その神の恵みに対する感謝と喜びが、『神からの恵みと勇気をもってすべてのことに立ち向かうことができるのだ』という確信をもたらすのです」と説かれ、「この喜びがなければ、信仰は、重苦しく、悲しい勤めに過ぎなくなります。聖人になるには喜びに満ち、希望に向かって開かれた心が必要です」と強調された。

 講話の最後に教皇は、「聖人たちは貴重な真珠、福音の言葉の生きた表現、目で見るカテキズムです… 聖人たちの模範が現代の人々の信仰と希望と愛を励ますように」と願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年10月7日

◎教皇連続講話「識別について」④ 「祈りと自己認識が私たちを自由の中で成長させてくれる」

Pope Francis(2022.10.5 Vataican News   Benedict Mayaki, SJ

   教皇フランシスコは5日、水曜恒例の一般謁見で、「識別について」の連続講話を続けられ、すべてのキリスト教徒に対し、「自分が何に最も敏感であるかを発見し、自分にとって何が本当に重要であるかを知るために、忍耐強く自己を深く省みることで、探求することにより、自己認識に全力をかけるように」と勧められた。

 講話で教皇はまず、「優れた識別には、自己認識も必要です。それには記憶、知性、意志、愛情といった人間の能力が関係しているからです」とされ、「多くの場合、私たちは自分自身を十分に知らず、自分が本当に何を望んでいるか分からないために、物事を見分ける方法を知りません」と語られた。

*宗教的次元と人間的次元との対話

 そして、「根底的な霊的疑惑と召命の危機が、信仰生活と私たちの人間的、認知的、感情的な側面との間の対話が十分に行われていないことからくるのも、珍しくありません」と述べられ、「識別をテーマとする多くの困難が、認識され、探求されるべき、他の種類の問題を、いかに暗示しているか」と訴える霊性に関する高名な著作家の言葉に言及することで、そのことを例証された。

 その著作家は、「真の識別と祈りにおける真に成長の最大の障害は、神の触れることのできない特質ではなく、『私たちは自分自身を十分に知らず、ありのままの自分を知りたいとさえ思っていないこと』、そして 『私たちの大部分は、人前だけでなく、鏡で自分を見るときも、仮面の後ろに隠れていること』だ、という確信を表明している。

 「人生における神の臨在を忘れることは、私たち自身、私たちの性格の特質、そして私たちの最も深い欲求についての知らないことと、密接に関係しています」と教皇は述べられた。

*自分自身を知ること

 続けて、「自分自身を知ることは難しいことではありませんが、骨の折れる作業です… それは忍耐強く自己を探求することであり、立ち止まり、”自動操縦装置”を無効にする能力、自分の行動様式、自分に内在する感情、自分をしばしば無意識のうちに条件づける繰り返し起きる思考について認識する能力が求められます」と指摘。

 さらに、感情と精神的な能力を識別し、「私は感じている」と「私は確信している」を区別し、「私はしたい気がする」は「私はしたい」とは同じでないことを知る必要があり、そうすることで、「自分と現実についての見方が多少歪んでいることがよくあることに、気がつくようになります」と語られた。

 そして、「そのことに気づくことは、恵みです!」とされ、「そうでないと、私たちは過去の経験に戻づく現実についての誤った確信から強い影響を受け、人生で本当に重要なことのために努める自由を制限されることが、頻繁に起こってしまうからです」と説かれた。

 

*霊的”パスワード”と誘惑

 

また教皇は、「高度に情報化された現代、プログラムに入るのにパスワードが必要とされるのと同じように、霊的生活にも”パスワード”があります。それは、私たちにとって最も敏感なものに関わるゆえに、心に触れる”キーワード”です。そして、私たちを誘惑する悪魔は、その”キーワード”を知っています」と警告。

そのうえで、「自分が好まないところにいる事態を避けるために、私たちもそれを知っていることが、重要です。なぜなら、誘惑は、いつも悪いことばかりを持ちかけるのではなく、でたらめなことを、極めて重要であるかのように示すことがあるからです」と注意された。

教皇はさらに、「誘惑は、心をかき乱す魅力なやり方で私たちを催眠術にかけ、美しいが幻想的で、約束されたが果たされず、最終的には虚脱感と悲しみを残すのです。そうした誘惑には、学位、出世、人間関係が含まれる場合があります。それ自体は素晴らしいものですが、私たちが自由に判断できなければ、それを求めることが、非現実的な期待に終わる危険があります… そのような誤った判断から、大きな苦しみが生まれる。それが私たちの尊厳を保証するものではないからです」と言明され、自分自身を知ることの重要さ、自分を操る説得力のある言葉をかける者から自分自身を守れるように敏感であることの重要さ、を強調された。

 

*良心の糾明を習慣とするように

 そして、教皇は、人生の道を歩むうえで私たちを助ける手立ての一つとして、良心を糾明することを勧められた。

 「それは、私たちの日々の生活で起きていることを冷静に見つめ直す、良い習慣であり、そうすることで、私たちが最重要視するもの、探しているものとその理由、そして最終的に見つけたものを評価し、選択することに気づくようになります… そしてまた、心を満たしてくれるものを認識するのを学ぶのにも役立ちます」と説かれ、「私たちの価値を確認できるのは、主だけであり… 主が私たちを優しい抱擁してくださるのを妨げる障害や失敗はないからです」と強調された。

 最後に教皇は、「祈りと自己認識は、キリスト者としての存在の基本要素、人生における自分の居場所を見つけるための貴重な要素として、私たちを自由の中で成長できるようにするものなのです」と念を押された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年10月5日

☩「核兵器で世界を壊滅させるな。暴力と死の連鎖を止めるように」教皇、ロシア大統領に懇願ー「ポンペイのロザリオの聖母に祈りを」

 (2022.10.2  Vatican News)

   教皇フランシスコは2日、年間第27主日の正午の祈りを前にした説教で、長期化するロシアのウクライナ軍事侵攻を取り上げた。教皇はその中で、プーチン大統領が核兵器の使用をほのめかしていることに深い懸念を表明、関係国に対して即時の停戦を強く訴えられた。また、ロシアがウクライナの占領地域の併合を宣言したことに遺憾を表明し、すでに何千人もの犠牲者、特に子供たちに多くの犠牲者が出ていることを深く悲しまれ、「すべての国の領土の保全と少数者の権利の尊重」を強調された。

 この中で、教皇は、「ロシアの大統領」という表現で、「国民のためにも、この暴力と死の連鎖を止めるように」と懇願された。

 これまで、教皇はプーチン大統領を刺激しないように、名指しで批判することを慎重に避けられてきたが、核兵器の使用をほのめかす発言や、ウクライナの領土の一方的なロシア領宣言など、余りにも理不尽かつ危険な言動を目の当たりにして、危機感を深め、”実名”の使用に踏み切ったものと推察される。(この部分「カトリック・あい」)

  以下は教皇のイタリア語による説教を英語の暫定訳にしたものの日本語訳。

兄弟姉妹の皆さん、こんにちは!

 ウクライナでの戦争は非常に深刻な事態になっています。壊滅的で脅迫的であり、大きな懸念を引き起こしています。ですから、今日の正午の祈りに先立つ考察全体を、この問題に当てようと思います。今、人類に対するこの恐ろしく想像を絶する傷は、治癒するどころか、さらに多くの血を流し続け、さらに広がる危険を冒しています。

 私は、(注:ロシアがウクライナに対する軍事侵攻を始めて)この数か月で流されている血と涙の川に心を痛めています。何千人もの犠牲者、特に子供たちの犠牲、そして多くの人々や家族が家を失い、寒さと飢え、この広大な地域を脅かす破壊で悲嘆にくれています。(注:平和に暮らしていた人々を武力で蹂躙する)行動は決して正当化できません。

 ブチャ、イルピン、マリウポリ、イジューム、ザポリージャ など(注:武力で激しく破壊され、住民が殺されている都市の)名前から、世界がウクライナの地理を学んでいるのは悲しいことです。そして、人類が再び核の脅威に直面しているという事実をどう思いますか?馬鹿げています。

 次に何が起こるのでしょうか?戦争は決して解決策ではなく、破壊にすぎないことを理解するのに、あと、どれだけの血が流されねばならないのでしょうか?神の名において、そしてすべての人の心に宿る人間性の名において、私は即時の停戦を改めて呼びかけます。

 武力による解決ではなく、合意に基づく公正で安定した解決につながる交渉の条件を模索しましょう。そして、人命の神聖な価値、各国の主権と領土保全、少数者の権利と正当な関心事の尊重に基づくなら、そのような解決は可能です。

 私は、国際法の原則に反するさらなる行動を伴う、最近、引き起こされた重大な状況を深く遺憾に思います。それは核兵器の使用による戦争拡大のリスクを増大させ、世界中で制御不能で壊滅的な結果をもたらす可能性を高めます。

 私の訴えは、何よりもまずロシアの大統領に向けられています。大統領自身の国民のためにも、この暴力と死の連鎖を止めるよう懇願します。一方、ウクライナ国民が被っている(注:ロシアによる軍事侵略の結果としての)計り知れない苦しみを深く思い、ウクライナ大統領に対し、和平のための真剣な提案が出されれば応じる用意をするよう、強く訴えます。

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 私は、国際社会のすべてのリーダーたち、各国の政治指導者に対し、危険な戦争の拡大に巻き込まれることなく、戦争終結のために、可能な限りのことを行い、対話の実現を促し、助けるよう、強く求めます。世界の若い世代に、狂気の戦争の汚れた空気ではなく、平和の新鮮な空気を吸わせてください!

 7か月にわたる敵対行為の後、この酷い悲劇に終止符を打つために、これまで試みられなかった手法も含め、できる限りの外交的な手段を使いましょう。戦争そのものが過ちであり、恐怖なのです!

 心を変えることができる神の憐れみと、平和の女王である聖母マリアの執り成しに信頼して、ポンペイの巡礼聖堂に集まった信者たち、そして世界の多くの場所にいる信徒たちとの霊的な一致のもとに、ポンペイのロザリオの聖母(写真)に祈りを捧げましょう。

*注:「ポンペイのロザリオの聖母」は勝利の聖母としても知られており、そのロザリオは世界の罪と悪との戦いにおける精神的な武器と見なされている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年10月2日

☩「飢えた人たちの叫びに、効果的かつ緊急に応えねばならない」ー29日「食料ロスと廃棄に関する啓発の国際デー」に

深刻な食糧危機に直面するイエメン深刻な食糧危機に直面するイエメン  (AFP or licensors)

(2022.9.29 バチカン放送)

 教皇フランシスコは29日、同日の国連の「食料ロスと廃棄に関する啓発の国際デー」にあたって、国連食糧農業機関(FAO)の屈冬玉(チュー・ドンユィ)事務局長にメッセージを送られ、「社会における正義の欠如が、世界の多くの人々に十分な食生活をおくることを妨げている現状」に注意を向け、「再分配のために食料を集め、生産されたものを無駄にしてはなりません」と強調された。

 メッセージで、教皇は「食料ロスと廃棄」を無視できない重大な問題とし、「食料を無駄にすることは、人を無駄にすること」であり、「豊富な食料に囲まれて生活する人々と、飢えに苦しみ、栄養失調で亡くなる人々との間にある大きな不平等が顕著くなっている」と指摘。「飢えた人たちの正義を求める苦しみの叫びに、私たちは言葉だけでなく、効果的で誠実な方法をもって、緊急に応えねばなりません」と訴えられた。

(編集「カトリック・あい」)

2022年9月30日

♰「改めて、残酷な試練に遭い続けているウクライナの人たちのために祈ろう」一般謁見で呼びかけ

ウクライナのイジウムにある破壊された建物の近くで花が咲くFlowers grow near a destroyed building in Izium, Ukraine 

    教皇フランシスコは28日の水曜恒例一般謁見で、9か月に及ぶロシアによる軍事侵攻に苦しむウクライナの人々のために祈るよう、世界の信徒たちに改めて呼びかけられた。

 教皇は、大きな犠牲を強いられ続けているウクライナに思いを寄せられ、「この国はとても大きな苦しみの中にあり、人々はひどく残酷な試練に遭っています」と語られた。

 そして、教皇の命によりロシアの侵攻開始から4度目の現地訪問をして、このほどローマにもどったバチカン支援援助省長官のクライェウスキ枢機卿からの悲惨極まる現地の状況についての報告を踏まえ、「改めてウクライナのことを思い、命を落とした人たちのために祈りましょう」と呼びかけた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年9月28日

◎教皇連続講話「識別について」③「祈りは、識別のために欠かすことのできない助け」

(2022.9.28 Vatican News   Christopher Wells)

   教皇フランシスコは28日の水曜恒例の一般謁見で、カザフスタン訪問などで中断していた「識別について」と題する連続講話を再開され、「私たちを神と親しい関係に入ることができるようにする、識別における祈りの重要さ」について語られた。

 「祈りは、霊的な識別、とくに愛を伴う識別の際に、欠かすことのできない助けとなます」とされた教皇は、「祈りは、私たちが、さまざまな思いを超え、自発的な愛のこもった主との親しい関係に入ることを可能にします… 聖人たちの人生の秘訣は、神との親密さと信頼。それらは彼らの中で育まれ、神にとって喜ばしいことを認識するのをさらに容易にします」と指摘された。

(以下、バチカン放送より講話の要旨=編集「カトリック・あい」)

 今回は、「識別」の構成要素の中で最も大切な「祈り」について考えてみたいと思います。識別には、ある環境、すなわち「祈りの状態」にあることが必要です。

 祈りは、霊的識別に欠くことのできない助けです。それは特に神に対して愛情のもとに素直に親しく友のように話すことを助けてくれます。単なる考えを超越し、自然な愛情をもって主との親しい関係に入ることができるのです。

 聖人たちの生き方の秘密は、神との親しさと信頼にあります。彼らは神との親しさを育むことで、神が喜ばれることが何であるかを容易に理解できるようになっていきました。

 真の祈りは、神との親しさそのものであり、ただ「祈りを繰り返し唱えていればよい」というものではありません。この親しさが、「神のみ旨が自分たちのためにならないのではないか」という疑念や「私たちの心を騒がせ不安にする考えから生まれる誘惑」に打ち勝たせてくれます。

 識別は「絶対の確信」を強要しません。なぜなら、人生は常に論理で片付くものではなく、ただ一種類の考え方に閉じ込められない、多面的な様相を帯びているからです。

 「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ人への手紙7章19節)と使徒パウロが言った経験を、私たちも何度体験したことでしょう。私たちは理性のみでできておらず、機械のような存在でもありません。すべきことの説明を得るだけでは足りません。主のための決意の障害となっているのは、特に愛情的な障害です。

 マルコ福音書で、イエスが最初に行った奇跡が、汚れた霊に取りつかれた男を癒したことであったのは、意味深いことです(マルコ福音書1章21-28節参照)。カファルナウムの会堂で、イエスは一人の人を悪霊から解放されると同時に、悪魔がふき込んでいた「神は私たちの幸福を望まない」という誤った神のイメージからも解放されました。悪霊に取りつかれた男は「イエスが神だ」と知りながらも、イエスを信じることができずに「我々を滅ぼしに来たのか」(同1章24節)と言いました。

 たとえイエスが神の子だったとしても、「私たちの幸福を望んでおられるのだろうか」と、キリスト者をも含む多くの人が皆、同じように疑っています。それどころか、ある人々は、イエスの教えを真面目に受け取ることは「人生を台無しにし、自分たちの願いや熱望を押さえつけることを意味するのではないか」と恐れています。

 こうした考えは、私たちにも頭をもたげることがあります。「神が私たちに求めるものが大きすぎる」、あるいは、「神は自分にとって大事なものを取り上げてしまう」、「神は私たちを本当に大切に思っていないのではないか」と考えてしまうのです。

 私たちが主との最初の出会いで体験したように、「喜び」は主との出会いのしるしです。これに対して「悲しみや恐れ」は主から離れているしるしです。

 「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(マタイ福音書19章17節)とイエスは金持ちの青年に言われました。残念ながらこの青年には、「善い先生」のすぐ近くに従いたい、という望みの実現をはばむものがありました。青年はイエスに会いに行く熱心さと行動力を持ちながらも、愛情において彼の心は二つに引き裂かれていた。彼にとって富は重要すぎたのです。

 イエスは金持ちの青年に決断を強要しません。福音書は青年が「悲しみながら立ち去った」(同19章22節)ことを伝えています。いくら多くの財産や才能を持っていたとしても、主から遠ざかる者は、決して喜びを感じません。

 外見に惑わされやすいために、私たちの心の中に起きることを識別するのは容易でありませんが、神との親しさが、疑いや恐れを優しく解いてくれるでしょう。

 聖人たちは、神の光を反映させ、不可能をも可能にする「神の愛情深い存在」を、日常生活の単純な行いの中に表しています。

 互いに愛情を持ち続け、長い人生を共に過ごした夫婦は、次第に「似た者になる」と言われます。愛のこもった祈りにおいても、同じようなことが言えます。そこでは、命の奥深くから湧き上がってくるもののように、少しずつ、自ずと重要なことを見分けられるようになります。

 友が友に語りかけるように、主との友情の絆を生きる恵みを願いましょう。

 

2022年9月28日

☩「”パン”は世界の食卓で分かち合われねばならない」教皇、イタリア聖体大会のミサで

教皇フランシスコ、マテーラの聖ミサを主宰Pope Francis presides at Holy Mass in Matera  (Vatican Media)

(2022.9.25 Vatican News  Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは25日、イタリアのマテーラで開かれた第27回イタリア聖体会議の終わりにミサを捧げられ、説教で、「貧しい人々への思いやりなしには聖体崇拝はない」と説かれた。

 教皇はミサ中の説教でミサで読まれた「ぜいたくな暮らしをしている金持ちと、その食卓から落ちてくるパンのくずを拾って食べた貧しいラザロ」について語るルカの福音書(16章 19-31節)を取り上げられた。

 そして、「私たちが今聞いた福音書は、『パンが、この世の食卓で必ずしも分かち合われるとは限らない』と告げています。パンはいつも、霊的交わりの香りを発しているわけではないし、いつも正義において割かれてわけでもない」と語られた。

 そのうえで、「私たちの地上での存在が消費されている中で、聖体は復活の約束を待ち望み、死に打ち勝つ新しい命に向かって、私たちを導いてくれることを思い起こすために、”パンの味”に戻るように」と勧められた。

 

*このたとえ話で、金持ちに”名”が無いのは…

 

 そして、まず第一に、「聖体は私たちに、神の優位性を思い起させます」とされ、「たとえ話の金持ちは、神に心を開いていません。自分の幸福、自分の必要を満たすこと、人生を楽しむことだけを考えています。自分自身を喜ばせ、世俗的な富を崇拝し、自分自身の小さな世界に閉じこもっています。自己満足し、お金に酔いしれ、虚栄心に恍惚となっている、この金持ちは、自分自身のみを崇拝しているため、その人生に神の居場所はないのです」と語られた。

 さらに、「聖書がこの金持ちの名前を出さないのはたまたま、ではありません。この男性の個性は彼の持ち物に由来するので、彼を名前でなく、『金持ち』と呼ぶのです… これは悲しい現実です。今日も私たちが目の当たりにしています。相手を判断するとき、持ち物ー富、肩書き、役割、あるいは来ている服ーで判断してしまう」と教皇は指摘され、「そのような物や外見がしばしばこの世を支配しますが、結局は、私たちは何も持たずにこの世を去るのです」と説かれた。

 翻って、このたとえ話に、金持ちの『名無し』と対極の存在として登場する人物について、教皇は「この貧しい人は『神が助ける』を意味するラザロという名前で登場するを持っています… 彼は、貧困と疎外という状態に置かれているにもかかわらず、神との関係の中で生きているので、尊厳は損なわれていない。彼の御名そのものに神の何かがある。神は、彼の人生にとって、揺るぎない希望なのです」と彼は言いました。

*聖体の招きに応じないならば…

 そして、「聖体が私たちの生活に提示する挑戦は、ここにありますー自分自身ではなく神を崇拝するように、イエスを生活の中心に置くように招きます」とされた。

 その招きに応えず、これまでに「私たちが自分自身を崇拝するなら、私たちは小さな自己の中で窒息します。この世の富を崇拝するなら、私たちは捕らえられ、奴隷されてしまう。見掛け倒しの”神”を崇拝し、浪費に走るなら、遅かれ早かれ、私たちにそうした人生の結論が示されます」とされた。

 反対に、「聖体に現われる主イエスを崇拝するなら、私たちの人生に新しい『表情』を受けます。自分が持っている物で、手に入れる成功で、私の価値が決まるわけではない。人生の価値は、誇れるかどうかで決まらないし、失敗し、倒れることがあっても、減ることはない… 私は神から祝福されています。神は私に美をまとわせ、すべての束縛から解放されることを望んでおられます。神を崇拝する者は、誰の奴隷にもなりません」と説かれた。

*聖体は、兄弟姉妹を愛するように私たちに求める

 続けて教皇は「聖体は私たちに、兄弟姉妹を愛するように呼びかけています… パンの形の中にある聖体は、”愛の奇跡”です。キリストは、私たちのためにご自身を捧げられ、ご自身を砕かれ、私たちにそれに倣うように求めておられます」と語られた。

 たとえ話の金持ちは、そのようにすることをせず、死後、陰府でさいなまれながら目を上げると、ラザロがアブラハムの懐にいるのに気づいた。そしてアブラハムに助けを求めたが、「私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられている…お前たちの方へ渡ることも、そこから私たちの方に越えてくることもできない」と拒絶される(ルカ16章26節)。

 教皇は、「私たちの永遠の未来は、現世でどのような人生を送るかにかかっています。私たちが自分自身と兄弟たちの間に”淵”を設けるなら、私たちは後で『自分の墓を掘る』ことになる… 今、兄弟たちに壁を作るなら、私たちは孤独と死の中に囚われたままになります」と警告された。

*このたとえ話は、現在の時代の物語でもある

 そして教皇は、このたとえ話が、今、私たちの時代の物語でもあることー不正義、不平等、地球資源の不平等な分配、弱者に対する権力者の虐待、貧しい人々の叫びに対する無関心… 私たちが日々、掘っている深い淵が、人と人の間に疎外を生み出していることーを指摘され、世界の信徒たちに、次のように強く求められた。

 「聖体は新しい世界の預言です。『無関心』から『思いやり』へ、『浪費』から『分かち合い』へ、『利己心』から『愛』へ、『個人主義』から『兄弟姉妹愛へ』の回心が起こることを誓い、実行するように、私たちに求めるのは、聖体の中におられるイエスであることを認識しましょう」。

*「聖体の秘跡の教会」は自らをパンとして割く男女で構成される

 

 続いて教皇は、聖体の秘跡の教会は「孤独と貧困にさいなまれるすべての人、優しさと思いやりに飢えている人、希望のパン種が欠けているために人生が崩れている人のために、自らをパンとして割く女性と男性で構成されねばなりません」と強調。

 さらに、「聖体の前にひざまずき、パンの中におられる主を礼拝する教会は、苦しむ人々の傷の前に哀れみをもってかがみこみ、貧しい人々を立ち上がらせ、苦しむ人々の涙をぬぐい取り、すべての人に希望と喜びを与えるパンとする方法も知っている… 真の聖体崇拝は、今日も私たちの近くを歩く多くの『ラザロ』への思いやりなしにはあり得ません」と語られた。

 そして、このたとえ話をもとに、教皇は信徒たちに「”パンの味”に戻る」ように勧められた。それは、「私たちが愛と希望に飢えるとき、私たちが人生の試練と苦しみで壊れそうになるとき、イエスは私たちを養い、私たちを癒す食物になってくださるから… この世で貧しい人々に対する不正義と差別が起こり続けているとき、イエスが私たちに分かち合いのパンを与え、友愛、正義、平和の使徒として毎日私たちを遣わしてくださるからです」とと説かれた。

 最後に教皇は、「イエスを中心に置いた、すべての人への優しさと憐れみのパンとなる聖体の秘跡の教会となるために”パンの味”に戻りましょう」と改めて信徒たちに呼びかけ、「”パンの味”に戻って、私たちのこの地上の存在が続いている間、聖体が、復活の約束に従って、私たちを死に打ち勝つ新たな命に導いてくれます。イエスのみもとに戻り、イエスを崇拝し、イエスを心から受け入れましょう。主は死に打ち勝ち、常に私たちの命を新たにしてくださいます」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2022年9月25日

☩「ミャンマー、ウクライナ、カメルーンの平和のために祈ろう」教皇、改めて訴え

Pope Francis invokes the Queen of Peace during Angelus in MateraPope Francis invokes the Queen of Peace during Angelus in Matera  (Vatican Media)

(2022.9.25 Vatican News  Linda Bordoni)

 25日のマテーラでのイタリア聖体大会に参加された教皇フランシスコは、正午の祈りで、梁瀬に苦しむミャンマー、ウクライナ、カメルーンの人々のために速やかな平和の実現に努めるよう、世界の人々に訴えられた。

*ミャンマーでは学校が空爆され、子供たちが亡くなっている

 教皇この中で、まず「暴力が死者と難民をもたらし続けているミャンマーの人々のことを思い起こされ、「彼らの苦しみを忘れたり無視したりしないように」と求められた。

 そして、ミャンマーでは「2年以上にわたり、この気高い国が深刻な武力衝突と暴力によって多くの犠牲者を出し、多くの人が故郷から離れざるを得ない、という悲劇を引き起こしてきました」とされ、「今週も、学校が空爆され、子供たちが亡くなったことに対する悲しみの叫び声が聞こえます。このような悲劇が繰り返されてはなりません」と訴えられた。

Image of the school in Sagaing, Myanmar after the air strike by Myanmar Armed Forces
(写真は、国軍の空爆で破壊されたミャンマー北部ザガインの学校)

 ミャンマーでは、2021年2月にミャンマー軍がクーデターで民主的な選挙で選ばれたアウンサン・スーチー政権を倒して、政権を奪取。以来、これまでに数千人が殺害されている。

*ウクライナへの軍事侵略を直ちに止める努力を

 教皇はまた、ロシアの軍事侵略が続いているウクライナの人々への思いを改めて表明され、すでに7か月も続いている侵略戦争の停止を関係国に呼びかけられた。

Image of the war in Ukraine

 教皇は、聖母マリアに「殉教したウクライナの人々」への慰めを願い、世界の政治指導者たちに対して、「この戦争を終わらせるための効果的な方法を速やかに見つけ、実施する意志の強さ」を発揮するよう求められた。

(ロシア軍によって破壊された町、家屋)

*カメルーン

 教皇フランシスコはまた、カメルーンのマンフェ教区で誘拐された司祭5人と修道女1人を含む8人の速やかな解放を求める現地司教の訴えに加わることを表明され、8人の解放実現とともに、この国に速やかな平和が戻るように祈られた。

 現地からの情報によると、8人は23日、教区の教会を襲撃、放火した暴徒によって誘拐された。この犯行の首謀者は明らかになっていない。カメルーンの南西部に位置するマンフェ教区は、同国からの分離、独立を主張するグループが、政府に対して武力行使を続けており、マンフェ教区の地域はその紛争地域の一つだ。

Refugees fleeing unrest in Cameroon
(戦火を逃れて非難するカメルーンの人たち)

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2022年9月25日

☩「あなたがたは”崩れかけた共通の家”を建て直すよう呼ばれている」教皇、アッシジでの若者の集まりで

 教皇フランシスコが24日、イタリア・アッシジを訪問、若者たちの集会「Economy of Francesco」の最終日の行事に参加された。

 教皇は、会場の「テアトロ・リリック」に集まった世界約100か国の若者たちを前にあいさつされ、「今日、環境危機、新型コロナの大感染、ウクライナや各地における戦争など、若い皆さんが生きている今の時代は決して容易ではありません。私たちの世代は皆さんに豊かな遺産を残しはしましたが、地球を守り、平和を保ち続けることはできませんでした」とされたうえで、「皆さんは『共通の家』、その『崩れかけた家』を建て直す人となるよう呼ばれています」と訴えられた。

 さらに、「アッシジの聖フランシスコからインスピレーションを得た『新しい経済』は、今日、自然に優しい、平和の経済、『殺す経済』ではなく、『命の経済』となるべきです」と語られ、その「新しい経済」に必要とされることとして、「環境との調和」、搾取などによって破壊されたものを元どおりにする「普遍的倫理」、そして「多面的な持続性」を挙げられた。

 また教皇は、「貧しい人の叫びと大地の叫びは、同じ叫びです… 環境問題の解決は、人々の貧しさや不平等を減らし、苦しむ人々に配慮するものでもなければなりません」と指摘された。

 今日の世界に特徴的な「人間関係の貧しさ」についても言及。特に家庭の危機によって、「人々は、命を迎え入れ、守ることに困難をきたし、消費主義が、人々の孤独や心の空虚を満たそうとしていますが、それは『幸福の飢餓』を招くだけです」と警告された。

 さらに、社会や経済における精神性の重要さを強調された教皇は、「すべての人間は生きるための意味を求めていますが、それは経済生活においても同様です… これまで宗教や伝統によって育まれてきた社会の『精神的な資本』を、現代世界は猛烈なスピードで消耗させ、若い人たちは今、『意味の欠如』に苦しんでいます」とされ、アッシジの聖フランシスコの清貧、貧しい人々への愛に触れつつ、「貧しい人々を中心に据え、貧しく弱い立場の人たちへの、尊重と愛といたわりのある経済を目指すように」と若者たちを促された。

 このような考察を踏まえながら、新しい経済を構想する若者たちが努力すべきこととして、「貧しい人々の視点で世界を見ること」「働くことと、働く人の大切さを忘れないこと」「考えや希望を具体的な形にすること」の3点を強調され、最後に、「『善』と『命』を望む若者たちの歩みを支えてください」と神に祈られた。

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 経済をテーマにしたこの集まりは、教皇フランシスコが2019年、世界各国の若いエコノミストや起業家、経済を専攻する学生、社会や共同体のために独自の経済活動を試みる若者たちを、環境、持続性、貧困問題、正義、平和などの広い観点を持った包括的な経済の考察へと招かれたことがもとになっている。最初の集まりは2020年3月にアッシジで予定されていたが、新型コロナの大感染の影響で同年11月に延期され、オンライン形式で行われた。

 2回目となる今回の集まりは、イザヤ書の「見張りの者よ、今は夜の何どきか」「夜明けは近づいている、しかし、まだ夜なのだ」(参照 イザヤの預言12章11-12節)を表現する、「夜から夜明けへ」をテーマにしたパフォーマンスで始まり、アフリカ、南米、アジア、ヨーロッパ出身の若者たちが、それぞれを取り巻く環境、得た経験、これからの目標や夢を語った。集まりの最後に、参加者たちはこれからの目標リストを教皇に示し、教皇が若者たちの約束が記された紙にサインされた。

(編集「カトリック・あい」=表記の修正のうち、とくに”いのち”は当用漢字表記の「命」にしましたが、この漢字は「神に願い、いただいたもの」を表す会意文字であり、それ自体に深い意味を含んでいます。ひらがなでは、その意味が伝わりません。教会関係者には、「聖書・新共同訳」に影響されてか、ひらがなを多用する傾向がありますが、漢字も立派な日本語、日本文化の一部であることを認識する必要があります。)

2022年9月25日