☩「”パン”は世界の食卓で分かち合われねばならない」教皇、イタリア聖体大会のミサで

教皇フランシスコ、マテーラの聖ミサを主宰Pope Francis presides at Holy Mass in Matera  (Vatican Media)

(2022.9.25 Vatican News  Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは25日、イタリアのマテーラで開かれた第27回イタリア聖体会議の終わりにミサを捧げられ、説教で、「貧しい人々への思いやりなしには聖体崇拝はない」と説かれた。

 教皇はミサ中の説教でミサで読まれた「ぜいたくな暮らしをしている金持ちと、その食卓から落ちてくるパンのくずを拾って食べた貧しいラザロ」について語るルカの福音書(16章 19-31節)を取り上げられた。

 そして、「私たちが今聞いた福音書は、『パンが、この世の食卓で必ずしも分かち合われるとは限らない』と告げています。パンはいつも、霊的交わりの香りを発しているわけではないし、いつも正義において割かれてわけでもない」と語られた。

 そのうえで、「私たちの地上での存在が消費されている中で、聖体は復活の約束を待ち望み、死に打ち勝つ新しい命に向かって、私たちを導いてくれることを思い起こすために、”パンの味”に戻るように」と勧められた。

 

*このたとえ話で、金持ちに”名”が無いのは…

 

 そして、まず第一に、「聖体は私たちに、神の優位性を思い起させます」とされ、「たとえ話の金持ちは、神に心を開いていません。自分の幸福、自分の必要を満たすこと、人生を楽しむことだけを考えています。自分自身を喜ばせ、世俗的な富を崇拝し、自分自身の小さな世界に閉じこもっています。自己満足し、お金に酔いしれ、虚栄心に恍惚となっている、この金持ちは、自分自身のみを崇拝しているため、その人生に神の居場所はないのです」と語られた。

 さらに、「聖書がこの金持ちの名前を出さないのはたまたま、ではありません。この男性の個性は彼の持ち物に由来するので、彼を名前でなく、『金持ち』と呼ぶのです… これは悲しい現実です。今日も私たちが目の当たりにしています。相手を判断するとき、持ち物ー富、肩書き、役割、あるいは来ている服ーで判断してしまう」と教皇は指摘され、「そのような物や外見がしばしばこの世を支配しますが、結局は、私たちは何も持たずにこの世を去るのです」と説かれた。

 翻って、このたとえ話に、金持ちの『名無し』と対極の存在として登場する人物について、教皇は「この貧しい人は『神が助ける』を意味するラザロという名前で登場するを持っています… 彼は、貧困と疎外という状態に置かれているにもかかわらず、神との関係の中で生きているので、尊厳は損なわれていない。彼の御名そのものに神の何かがある。神は、彼の人生にとって、揺るぎない希望なのです」と彼は言いました。

*聖体の招きに応じないならば…

 そして、「聖体が私たちの生活に提示する挑戦は、ここにありますー自分自身ではなく神を崇拝するように、イエスを生活の中心に置くように招きます」とされた。

 その招きに応えず、これまでに「私たちが自分自身を崇拝するなら、私たちは小さな自己の中で窒息します。この世の富を崇拝するなら、私たちは捕らえられ、奴隷されてしまう。見掛け倒しの”神”を崇拝し、浪費に走るなら、遅かれ早かれ、私たちにそうした人生の結論が示されます」とされた。

 反対に、「聖体に現われる主イエスを崇拝するなら、私たちの人生に新しい『表情』を受けます。自分が持っている物で、手に入れる成功で、私の価値が決まるわけではない。人生の価値は、誇れるかどうかで決まらないし、失敗し、倒れることがあっても、減ることはない… 私は神から祝福されています。神は私に美をまとわせ、すべての束縛から解放されることを望んでおられます。神を崇拝する者は、誰の奴隷にもなりません」と説かれた。

*聖体は、兄弟姉妹を愛するように私たちに求める

 続けて教皇は「聖体は私たちに、兄弟姉妹を愛するように呼びかけています… パンの形の中にある聖体は、”愛の奇跡”です。キリストは、私たちのためにご自身を捧げられ、ご自身を砕かれ、私たちにそれに倣うように求めておられます」と語られた。

 たとえ話の金持ちは、そのようにすることをせず、死後、陰府でさいなまれながら目を上げると、ラザロがアブラハムの懐にいるのに気づいた。そしてアブラハムに助けを求めたが、「私たちとお前たちの間には大きな淵が設けられている…お前たちの方へ渡ることも、そこから私たちの方に越えてくることもできない」と拒絶される(ルカ16章26節)。

 教皇は、「私たちの永遠の未来は、現世でどのような人生を送るかにかかっています。私たちが自分自身と兄弟たちの間に”淵”を設けるなら、私たちは後で『自分の墓を掘る』ことになる… 今、兄弟たちに壁を作るなら、私たちは孤独と死の中に囚われたままになります」と警告された。

*このたとえ話は、現在の時代の物語でもある

 そして教皇は、このたとえ話が、今、私たちの時代の物語でもあることー不正義、不平等、地球資源の不平等な分配、弱者に対する権力者の虐待、貧しい人々の叫びに対する無関心… 私たちが日々、掘っている深い淵が、人と人の間に疎外を生み出していることーを指摘され、世界の信徒たちに、次のように強く求められた。

 「聖体は新しい世界の預言です。『無関心』から『思いやり』へ、『浪費』から『分かち合い』へ、『利己心』から『愛』へ、『個人主義』から『兄弟姉妹愛へ』の回心が起こることを誓い、実行するように、私たちに求めるのは、聖体の中におられるイエスであることを認識しましょう」。

*「聖体の秘跡の教会」は自らをパンとして割く男女で構成される

 

 続いて教皇は、聖体の秘跡の教会は「孤独と貧困にさいなまれるすべての人、優しさと思いやりに飢えている人、希望のパン種が欠けているために人生が崩れている人のために、自らをパンとして割く女性と男性で構成されねばなりません」と強調。

 さらに、「聖体の前にひざまずき、パンの中におられる主を礼拝する教会は、苦しむ人々の傷の前に哀れみをもってかがみこみ、貧しい人々を立ち上がらせ、苦しむ人々の涙をぬぐい取り、すべての人に希望と喜びを与えるパンとする方法も知っている… 真の聖体崇拝は、今日も私たちの近くを歩く多くの『ラザロ』への思いやりなしにはあり得ません」と語られた。

 そして、このたとえ話をもとに、教皇は信徒たちに「”パンの味”に戻る」ように勧められた。それは、「私たちが愛と希望に飢えるとき、私たちが人生の試練と苦しみで壊れそうになるとき、イエスは私たちを養い、私たちを癒す食物になってくださるから… この世で貧しい人々に対する不正義と差別が起こり続けているとき、イエスが私たちに分かち合いのパンを与え、友愛、正義、平和の使徒として毎日私たちを遣わしてくださるからです」とと説かれた。

 最後に教皇は、「イエスを中心に置いた、すべての人への優しさと憐れみのパンとなる聖体の秘跡の教会となるために”パンの味”に戻りましょう」と改めて信徒たちに呼びかけ、「”パンの味”に戻って、私たちのこの地上の存在が続いている間、聖体が、復活の約束に従って、私たちを死に打ち勝つ新たな命に導いてくれます。イエスのみもとに戻り、イエスを崇拝し、イエスを心から受け入れましょう。主は死に打ち勝ち、常に私たちの命を新たにしてくださいます」と励まされた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

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2022年9月25日