・「ウクライナ-賜物である命がこれ以上、危機にさらされないように」「福音は、私たちの日々の生活を通し言葉と行いで証しするもの」菊地大司教の年間第8主日メッセージ

2022年2月26日 (土)週刊大司教第66回:年間第8主日

このところ危機的な状況が継続していたウクライナを巡る国際的緊張関係は、国際社会の対話による解決への呼びかけもむなしく、ロシアの軍事侵攻へと発展してしまいました。

 二つ前の記事でもお知らせしましたが、教皇様は、3月2日の灰の水曜日に平和を求めて断食と祈りをするように呼びかけておられます。また教皇様ご自身は、駐バチカン・ロシア大使館へ直接出向かれて、平和への願いを伝えられたとのことです。

 これまでも世界の歴史の中で同様の行動が繰り返されてきたことですが、政治的・軍事的に大きな力を持った国による、他の独立国をもてあそぶような行動は、世界に与える影響を考えると許されることではありません。また今後の世界秩序に与える影響にも大きなものがあると思われます。

 今般の事態に関わる政治のリーダーたちが、共通善に資する道を選択し、命の尊厳を守る道を選択し、一日も早い事態の沈静化をはかるように望みます。同時に、賜物である命が、これ以上の危機にさらされることのないように祈ります。

 以下、26日午後6時配信の、週刊大司教第66回、年間第八主日のメッセージ原稿です。

【年間第八主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第66回 2022年2月27日】

 シラ書は、箴言や知恵の書と並んで、人生の現実を冷徹に見据えた辛辣な言葉に満ちあふれています。その言葉は辛辣であると同時に、人生を豊かに生きる上での奥深い示唆にも満ちあふれた含蓄に富む言葉でもあります。

 本日の朗読として指定されているシラ書の箇所は、「まさしくその通り」としか言い様がない示唆に富んだ言葉の羅列であります。「人間も話をすると欠点が現れてくるものだ」と記され、また「心の思いは話を聞けば分かる」と記されています。わたしたちが語る言葉は、わたしたちの心の反映です。心の鏡です。今こうして言葉を語っている自分自身への自戒も込めてでありますが、心にもないことを語ることで自分をより良く見せようとしても、語る言葉がその野望を打ち砕きます。

 ルカ福音はそのことを、イエスの言葉として、「人の口は,心からあふれ出ることを語るのである」と記しています。それはすなわち「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という言葉に集約されます。私たちはどのような実を結んでいるのでしょうか。

 同時にルカ福音は、「兄弟の目にある、おが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と語るイエスの言葉を記します。どれほど私たちは、自らの身を振り返ることなく,他者を裁いていることでしょうか。他者を裁き断罪するとき、私たちは時に大きな思い違いをしてはいないでしょうか。自分も同じように、過ちを犯す人間である。弱さを抱えた人間であるということを、忘れてはいないでしょうか。

 コリントの教会への手紙でパウロは「死よお前の勝利はどこにあるのか」と記しています。死は人間の命を奪い、すべてを無に帰することによって、あたかも私たちを完全に支配しているかのようであり、それによって私たちの上に勝利する存在であるかのように思われます。私たちは死によって、すべてを失うからであります。

 しかしパウロは、死はすべての終わりではなく、死に打ち勝って復活した主イエスによって、私たちは死による見せかけの勝利を打ち砕き、新しい命に生きるという本当の勝利に与るのだと指摘します。人間の存在を無に帰する死という究極の出来事を、主の復活は打ち砕いてしまったのですから、それにあずかる者には恐れるものがありません。パウロは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」私たち知っていると記します。

 主に結ばれた苦労に身を委ねないときに、私たちは他者を裁きます。主に結ばれた苦労に身を委ねないときに、私たちはむなしく虚栄に満ちた言葉を語ります。私たちは、主に結ばれて福音に生き、その福音を忠実に語り、その福音が現実となるように努めなくてはなりません。福音は心に秘めておくものではなく、私たちの日々の生活を通じて、つまり私たちの語る言葉と行いを通じて証しするものです。

 特に、コロナ感染症の状況が続く中で、さまざまな活動の自粛が続き,勢い、私たちはインターネットを通じたコミュニケーションに比重を大きく移しています。インターネットにおける無責任な発言や、他人を裁く言動、また面白おかしくするためなのか、全く真実ではないことを広めようとする言説。時に他者の命を奪うほどの負の力を秘めた言葉の暴力。言葉の後ろに控える人間の心の鏡です。だからこそ、「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送り込まなければ」なりません(ヨハネ23世「フマーネ・サルーティス」)。

(編集「カトリック・あい」)

 

2022年2月26日

・「父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」菊地大司教の年間第7主日のメッセージ

2022年2月19日 (土)週間大司教第65回:年間第7主日

 定例司教総会は、予定より半日早く、木曜日の午後には終了しました。その日は夕方に、ヨルダン大使と懇談。ヨルダンの現状と、難民受け入れの問題と、聖地巡礼へのお誘いのお話を伺い、今後の協力の方向性を確認しました。

 ヨルダンは国際カリタスの会議のために、以前アンマンを訪れたことがあります。そのときの司教の日記のリンクです。その際にも、ヨルダンが受け入れているシリアからの難民の現状を伺い、カリタスヨルダンの運営する難民受け入れ施設を訪問しました。

 前記事でお知らせしたように、今回の司教総会で、司教様たちの担当が更新となりました。私のように交代となった司教もいれば、留任や新任もあります。一覧は、中央協議会のホームページをご覧ください。すでにお知らせしたとおり、カリタスジャパンは成井司教様と、HIV/AIDSデスクは中村大司教様と、それぞれ交代いたしました。 以下、19日午後6時配信の週間大司教第六十五回、年間第七主日のメッセージ原稿です

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【年間第7主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第65回 2022年2月20日】

 「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」

 ルカ福音はこう記して、イエスの弟子となる者はどのような生き方を基本とするべきなのかを説いています。憐れみ深さは,単なる性格としての優しさの問題ではなく、どのような生き方の姿勢を選択するのかの問題です。

 ルカ福音は、人の生きる姿勢について、この世の常識とは真っ向から異なる選択肢を掲げた後に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と記します。この言葉は捉えようによっては、余計な親切の押し売りを招きかねない言葉でもあります。私がしてもらいたいことが、必ずしも他者にとっても喜ばしいことであるとは限らないのは、考えてみるまでもなく当然です。そうであるなら、この言葉はいったい、私たちに何を求めているのでしょう。

 私たち自身は、自分が何をしてほしいのかを、どうして知っているのでしょう。私たちは自分自身を大切に思い、自らの身体と心の声に真摯に耳を傾けるからこそ、自分自身にとって何が必要なのかを識別することができています。多くの場合、その識別の作業は、あたかも当たり前のように毎日の生活で行われるので、その大変さに気がついていないだけなのかも知れません。

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、私たちに、隣人への思いやりの心を求めます。隣人の声に耳を傾ける姿勢を求めます。隣人の命の尊厳を尊重し、その命が十全に生きることができるように、連帯することを求めています。 ルカ福音はまた、「あなた方は敵を愛しなさい」というイエスの言葉を記します。単に隣人への思いやりの心を持つだけでなく、自らに敵対し攻撃してくるものにも愛の心を向けることは、容易なことではありません。

 サムエル記は、サウルが王位を奪われる恐怖から、神が選んだ後継者であるダビデを亡き者にしようとしたことを記しています。ダビデにとって、自らの身を守るためにサウルの命を奪う機会が与えられたにもかかわらず、「サウルが神に選ばれた者であった」という理由で、ダビデは自らの敵に愛のまなざしを向けました。

 ダビデはまさしく、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」という神の言葉を生きる者でした。「自分は、御父によって赦された者だ」という深い自覚が、敵を赦し、愛するする行動へと駆り立てます。 

 「人を裁くな」とイエスは言われた、とルカ福音は記します。私たちはそもそも、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分の方に正義があるかのような勘違いをしながら、何度、人を裁いてきたことでしょう。正義はどこにあるのでしょうか。

 とりわけ、このコロナ禍の二年間、暗闇の中で疑心暗鬼になった私たちは、不安のあまり寛容さを失い、簡単に他者を裁いては自らの心の安定を取り戻そうとしています。私たちは、「自分の計る量りで計り返される」ことを心に留めておかなくてはなりません。

 「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深いものとなりなさい」という言葉は、今年2月11日の「世界病者の日」のテーマでもありました。

 教皇様はメッセージで、「憐れみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべての業の中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります」と記します。

 神に従って生きることを誓っている私たちは、神の本質である憐れみを身に帯びて、強くなりながらも,優しさに満ちあふれた存在でありたい、と思います。

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月19日

・菊地・新会長「司教団全体をまとめ前進させる役割を忠実に果たしていきたい」(大司教の日記より)

2022年2月16日 (水)の菊地大司教の日記より

2022年定例司教総会から

Img_20220216_122641-2 2月14日から17日まで、司教団の定例司教総会が開催されました。全国16教区の司教が全員集まるのは、主にこの総会の機会ですが、すでにお知らせしたとおり、年に三度の会議が行われます。司教たちのためにお祈りくださっていることに感謝いたします。(私の右後ろが日本カトリック会館)

 このたびの司教総会初日から、司教協議会の会長に就任いたしました。任期は3年です。また副会長には、横浜教区の梅村司教様が就任されました。これまで会長を務めてくださった高見大司教様に感謝申し上げます。なお高見大司教様は、ご存じの通り昨年12月末に引退が教皇様によって受理され、来週には後任の中村大司教様の着座式が、長崎で行われる予定です。

 司教協議会は、各教区の上部組織ではありません。ある一定の地域の司教たちが「当該領域のキリスト信者のために結束して司牧的任務を遂行し、特に教会が、法の規定に従って、時と所に即応する使徒職の方式及び要綱を介して人びとに提供する善益をますます推進する任務」のための組織です。(教会法447条)ですから、司教協議会会長が、すなわち日本の教会のトップという意味ではありません。それぞれの教区司教にとってのトップは教皇様です。

 しかし同時に、日本の教会全体として取り組んでいかなくてはならない課題は山積しており、そういった課題のための行動には、当然司教団が率先して取り組まなくてはなりません。教会全体としての具体的な取り組みを責任を持って行うところに、司教協議会の会長の責任があるのだと理解しています。

 もちろん対外的な代表としての顔もあるかと思いますが、それ以上に、司教団全体をまとめ前進させる役割を忠実に果たしていく心づもりです。この新たな役割をふさわしく果たしていく力と知恵があたえられますように、皆様のお祈りをお願い申し上げます。

 現在の感染状況もあり、今回の総会はハイブリッド形式とし、何名かの司教様方はそれぞれの場からの参加となりましたが、初日には教皇大使レオ・ボッカルディ大司教様も潮見までおいでくださり、励ましのメッセージを頂きました。

 なお、今回の総会中に、司教の様々な担当の交代もありました。多くの場合は留任ですが、いくつかの担当で交代がありました。

 私自身は今回でカリタスジャパンの責任司教を降り、新潟の成井司教様に交代していただきました。成井司教様、今後はカリタスジャパンの責任司教として、よろしくお願いします。

 1995年3月に、カリタスジャパンのルワンダ難民キャンプ支援活動に呼ばれてから、98年まではこの難民支援活動担当、その後は援助担当や委員会秘書などを連続してつとめさせていただき、その間にカリタスアジアの地域委員会や国際カリタスの理事会のメンバーも務めました。また2004年に司教となってからは、これまで担当司教、あるいは責任司教を務めてきましたので、都合27年間、何らかの形でカリタスジャパンに関わってきました。

 またその間、2011年から19年までは、カリタスアジアの総裁にも選んでいただきました。この長期間、ご助力くださった皆さん、活動を支援してくださった皆さん、募金にご協力いただいた皆さん、委員会などに協力いただいた皆さん、一緒に活動に携わってくださった皆さん、そしてなによりお祈りくださった皆さんに、心から感謝申し上げます。

この交代で社会司教委員会の委員も降りることになりましたので、同時にHIV/AIDSデスクの担当司教も離れることになります。諸活動にご協力いただいている皆様に感謝いたします。

 

2022年2月17日

・「司教総会のために祈って…そして共に”シノドスの道”を歩もう」ー菊地大司教の年間第6主日メッセージ

2022年2月12日 (土)週間大司教第64回:年間第6主日

2022_2_11_lourdes 東京でも寒い毎日が続いています。年間第6主日となりました。今年は復活祭が四月後半の4月17日となるため、四旬節の始まりも3月にずれ込み、灰の水曜日は3月2日となります。そのため2月中の日曜日は、年間の主日が続きます。

 日本の司教協議会は、毎年2月と7月と12月に、総会を開催しています。12月は主に翌年度(1月から)の予算を承認するためですから一日だけの総会ですが、2月と7月は月曜日から金曜日までを予定しています。2月を「定例司教総会」、7月を「臨時司教総会」、12月を「特別臨時司教総会」と呼んでいます。

 全国に16ある教区の司教が全員集まるのは、この司教総会の機会だけとなっています。もちろん通常の業務対応のため、原則として毎月第1木曜日には常任司教委員会が開催され7名ほどの司教が集まりますが、全員が集まる機会は限られています。

 今年の定例司教総会は、2月14日の午後から18日までの予定で開催されることになっています。昨年の臨時総会ですでに選挙が行われましたので、この2月の司教総会の初日から、私は司教協議会の会長に就任します。副会長は横浜教区の梅村司教様です。

 なお感染症の状況のため、今年の総会は、オンラインを組み入れたハイブリッド形式で行います。また総会中にイグナチオ教会で開催を予定していた、回勅「兄弟の皆さん」の公開勉強会も、オンラインでの配信とすることになりました。これについてはこちらの中央協のリンクをご覧ください

 どうかこの一週間、司教総会のためにお祈りください。聖霊に導かれて、十分な意見の交換の上で、ふさわしい識別を行い、道を見い出すことができるように、お祈りくださいますようにお願いいたします。

 以下、12日午後6時配信の週間大司教第64回、年間第六主日のメッセージの原稿です。

【年間第六主日C(ビデオ配信メッセージ) 週刊大司教第64回 2022年2月13日】

 エレミヤの預言は、「荒れ地の裸の木」と「水のほとりに植えられた木」の対照的な二つの異なる状態にある木を記します。その上で、前者を「人間に信頼し、肉なるものを頼みとし、その心が主を離れ去っている人」、後者を主をよりどころとする「主に信頼する人」である、と記し、私たちが何により頼んで生きているのか、を振り返るように促しています。

 パウロはコリントの教会への手紙で、「キリストの復活を信じることがなければ、私たちの信仰は単なる現世的な生きる術であって、私たち信仰者の復活すらも夢物語に終わる」と指摘します。この世に生きる者でありながら、この世に身を寄せて生きている者ではなく、永遠の命へと招かれている者であることを心に刻んで、私たちは信仰生活を営んでいます。現世的な欲望を満足させるための信仰ではなく、「神の計画のうちにある永遠の時の流れを見据えた信仰」です。

 「カトリック教会のカテキズム」には「私たちが固く信じ希望しているのは、キリストが死者の中から真に復活して永遠に生きておられるように、正しい人々もまた、死後、復活されたキリストとともに永遠に生き、世の終わりにキリストによって復活させられる、ということです」(989項)と記されています。

 私たちはこの信仰における希望に与るために、「主に信頼する人」であり「正しい人」であり続ける努力をしなければなりません。しかしそれは一体どういう意味なのでしょうか。

 「主に信頼する人」であり、また「正しい人」でありたい、と自らの生き方を模索する私たちに、主ご自身は今日、ルカ福音を通じてその道を示されます。

 「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」

 マタイ福音のこの箇所には八つの「幸い」が記されていることから、このイエスの教えを「真福八端」と呼んでいます。ルカ福音には四つの幸せと四つの不幸が記されています。

 「真福八端はイエス・キリストの姿を描き、その愛を映し出しています。受難と復活というキリストの栄光に与る信者たちの召命を表し、キリスト者の生活を特徴づける行動と態度とを明らかにする」(1717項)と「カトリック教会のカテキズム」は記します。

 逆説的な生き方の中にこそ、神の祝福があることを明確にするこのイエスの説教は、私たちが「水のほとりに植えられた木」であり続けるために、この世界で当たり前と思われる幸せの中に生きるのではなく、キリストとともに苦難の道を歩み続けること、また苦難のうちにある人たちとともに歩み続けることを求めます。主にとって、「富んでいる」事や「満腹している」事など、この世界では幸せと判断されることは、実際には「荒れ地」なのだ、とイエスは説教で指摘します。

 改めて、今、共に歩んでいる”シノドスの道”を振り返りましょう。

 「聴くことは最初の一歩ですが、それには偏見のない、開かれた精神と心が必要です。私たちの部分教会(注*小教区、司教区など)は、誰に対し『耳を傾ける必要がある』のでしょうか… マイノリティの人、見捨てられた人、排除された人の声に耳を傾ける場はありますか。耳を傾けることを妨げている偏見や固定観念を認識していますか」と、シノドス事務局の準備文書の設問の二番目に記されています。

 イエスの苦難の道はご自分のためではなく、私たちのためであったように、それに倣う私たちの苦難の道程も、自分のためではなく、すべての人のための苦難の道です。そのためにこそ、互いの状況に耳を傾け、特に「マイノリティの人、見捨てられた人、排除された人」に耳を傾け、ともに歩まれる主を見出し、その傍らに常にあるものとして歩み続けましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月12日

・「殉教者に倣って生き抜くよう、主に呼ばれている」ー菊地大司教の年間第五主日メッセージ

2022年2月 5日 (土)週刊大司教第63回:年間第5主日

Ukon1903_20220204180101 年間第5主日となりました。

 2月の初め、日本の教会の暦では、殉教者たちに思いを馳せる機会となっています。2月3日は福者ユスト高山右近の記念日でした。(写真は、2019年5月にカテドラルに安置された福者ユスト高山右近像を運ぶ、フィリピン出身の信徒の皆さん)

 福者ユスト高山右近は、大名として織田信長や豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉のバテレン追放令以降も信仰を守り抜くために、領地や財産そして地位などをすべて放棄し、金沢で前田家の庇護の元に暮らしていました。しかし1614年、家康によって国外追放となりマニラへ。大変な旅であったのでしょう。到着後に病を得て、ほんの40日ほどのマニラ滞在でしたが、1615年2月3日に帰天されました。

 その当時からすでにマニラにおいて列福運動が起こっていたのだそうですが、その後紆余曲折を経て日本での列福運動が実を結び、2017年2月7日に、大阪で列福式が行われました(そのときの司教の日記へのリンク)。人生のすべてを失って、最後には祖国までも失った高山右近の人生そのものが、殉教の人生だと認められました。(下の写真は大阪での列福式)

 その場しのぎの価値判断、「今さえ良ければ後はどうでも良い」とでも言わんばかりの生きる姿勢が普通になり、絶対的な価値判断があまり顧みられなくなっている、相対的で流動的な現代社会。そのような現代社会に対して、「あくまでも守り抜くべき真理は、どんな代償を払っても捨て去ることができない」という姿勢を貫いた福者ユスト高山右近は、単に信仰者としてだけではなく、「一人の人間の尊厳ある生き方」を示す模範として、その存在に重要な意味があると思います。

Img_9844 現在、日本においてキリスト教を取り巻く環境は大きく変わり、当時のような迫害は存在していません。大きく変化した社会状況の中で、今、「人間は一体何のために生きているのか」という根本的な課題に、私たちはふさわしい回答をもっているでしょうか。

 高山右近の生涯は、常に自分の側からの判断ではなく、自分が常に向かい合って生きる神の立ち位置からの判断を優先させていった生涯であったと思います。そこには「今が良ければ」などという刹那的な判断はあり得ず、神が望まれる人の有り方を常に模索する、へりくだった生き方があったように思います。

 そして、2月5日は日本26聖人殉教者(聖パウロ三木と同志殉教者)の記念日です。今年は感染状況を見極めながらですが、例年通り2月5日の記念日に近い主日、2月6日に、本所教会で殉教祭のミサを捧げることができそうです。

 感染対策で参加者は限定されていますが、殉教者の人生に思いを馳せ、信仰における苦しみと忍耐の意味を考え、「血を持って教会の礎を確立した信仰の先達」に倣って生きることを誓う記念日にしたいと思います。

以下、5日午後6時配信、週刊大司教第63回、年間第五主日のメッセージ原稿です。

【年間第五主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第63回 2022年2月6日】

「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」

 ルカ福音は、主イエスがシモン・ペトロにそのように呼びかけて弟子とした、召命の物語を書き記します。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、プロの漁師としての経験知からイエスの求めに渋々応じたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたって「お言葉ですから」と、弟子たちのリーダーとしてまた教会の頭としての務めを果たし続けることになります。神の呼びかけ、召命は、まさしく人知をはるかに超えた神秘の領域にあります。

 パウロはコリントの教会への手紙で、自らが福音として伝えていることの核心部分を改めて示します。それは、主イエスの受難と死と復活が、夢物語ではなく、現実の出来事であることを、改めて強調し、だからこそ、神の恵みも絵空事ではなく、現実であることを強調しています。

 イザヤ書は、「誰を遣わすべきか」という神の問いかけに、イザヤが「私がここにおります」と応えたことを記しますが、その前段で、神による直接の罪の赦しが預言者を力づけたことを記しています。

 私たちは、絵空事ではない事実に基づいて、自分の力ではなく、呼んでくださった方の力によって、しかもその方による罪の赦しによって、力づけられ、福音を証しし、告げ知らせるものであります。私たちは、主イエスの死と復活の証人です。

 教会は2月5日に、日本26聖人殉教者を記念します。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。

 2019年11月に西坂を訪れた教皇フランシスコは、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。

 「しかしながら、この聖地は死についてよりも、命の勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです」

 聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、命の勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたーと教皇様は指摘されました。

 「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。

 教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち、神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていく、という意味においてであります。

 私たちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げる時、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返るだけではなく、その出来事から、現代に生きる私たちへの希望の光を見い出そうとします。

 私たちは信仰の先達である殉教者を顕彰する時、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音を証しし、告げ知らせる者になる決意を、新たにしなければなりません。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音の証しとして、命を暴力的に奪われる時まで、信仰に生きて、生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音を証しし、告げ知らせたのです。

 私たちは殉教者に倣い生き抜くようにと、今日、主から呼ばれています。

 

(編集「カトリック・あい」)

2022年2月5日

・「愛の心を持って神の福音を告げ知らせよう」ー菊地大司教の年間第4主日メッセージ

2022年1月29日 (土)週刊大司教第六十二回:年間第四主日

 1月最後の主日である年間第四主日は,世界こども助け合いの日と定められています。今年のテーマは、「わかち合うこころはたからもの」とされています。中央協議会のホームページには,次のように説明されています。

 『「世界こども助け合いの日」は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。この日はまず第一に、子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが勧められています。日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています』

 教皇庁宣教事業の児童福祉会が担当する事業で、日本の教会の全国の担当者は、東京教区の門間直輝神父様,東京教区の担当者は教区職員の田所さんです。

 準備されている今年の日本のポスターには、「コロナ禍を超えて、すべてのこどもたちが神さまに愛されているこどもとして互いに助け合い、励ましあって今を乗り越えて欲しいという願いが込められています」と門間神父様が解説しています。

 また昨年のこの日に集められた日本での献金総額は、4700万円を超え、マダガスカル、ナイジェリア、ルワンダ、ウガンダ、ザンビア、ジンバブエ、トリニダード・トバゴ、インド、スリランカ での支援事業のために送金されたとのことです。今年もまた,ご協力とお祈りをお願いいたします。

 2月2日の「主の奉献の祝日」を前に,1月29日午後、日本カトリック管区長協議会(男子)と日本女子修道会総長管区長会の共催による「奉献生活者のミサ」が、イグナチオ教会で捧げられました。本来であれば聖堂一杯に奉献生活者が大集合するのですが,現在の感染状況もあり,主な方々だけが参加して,ミサはオンラインで配信されました。

 私は司式を担当し、教皇大使が英語で説教、そして山野内司教様も共同司式に参加。奉献生活を営む方々の教会の福音宣教活動への貢献に感謝し,その道の上に聖霊の導きと祝福を祈り,同時に奉献生活者の生きた証しを通じて福音に多くの人が触れ、さらには召命が豊かに与えられるように,共に祈りをささげました。

 来年こそは,大勢の修道者で聖堂を一杯にし,ともに祈りを捧げたいと願っています。今回のミサの最後には、誓願宣立10年の奉献生活者が,励ましの意味を込めて教皇大使からプレゼントをいただきました。会場には代表として男女それぞれ2人ずつが参加しました。

 奉献生活を営む男女の皆さんに,心から感謝します。

以下、本日午後6時配信の,週刊大司教第62回目、年間第四主日のメッセージ原稿です。

年間第四主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第62回 2022年1月30日

 神の望まれる世界が実現しないのは、一体どうしてなのでしょうか。

 ルカ福音は、ナザレの会堂でイエスが、自らの使命を記したイザヤ書を朗読した後に、神の言葉がその日に実現した、と告げた後のことを記しています。神の言葉に接した人々は、自分たちがよく知るヨセフの子が、このようなことを言うとは一体どういうことだと、つまづいたことを記します。

 神の望まれる世界が実現しない一番の理由は、私たちが、神の言葉をそのままで素直に受け取ることができないことにあります。私たちは、受けた言葉を解釈します。往々にしてその解釈は、神の思いを推し量る識別によらず、自分の経験と知識に基づいた判断による解釈です。私たちは、神の言葉を「この世の価値観」という枠にはめて解釈しようとすることで、その実現を阻んでしまいます。

 エレミヤ書は、預言者エレミヤの召命を物語っています。エレミヤが誕生する前から、彼を預言者に選ばれていた神は、「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ」と命じます。しかも、「私が命じることをすべて」語るようにと、神は指示します。

 すなわち、エレミヤが語ろうとすることは、エレミヤの解釈ではなく、エレミヤの知恵と知識に基づいた言葉でもなく、神が語ることを「すべて」そのままで告げるように、との命令です。そこに人間の価値観の枠組みが介入する余地はありません。だからこそ、簡単には受け入れられないのです。拒絶されるのです。それに対して、「私があなたと共にいて、救い出す」と神は約束されます。「神の言葉に従い、この世の価値観によってゆがめられることなく伝えようとする者と、神は共にいてくださる」という約束であります。

 とは言うものの、ただ単に神の言葉を繰り返していればそれで良いわけではない、とパウロはコリントの教会への手紙に記します。すなわち、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしい”どら”、やかましいシンバルにすぎない」とパウロは記します。

 私たちは、愛の心を持って、神の言葉を語り伝えなくてはなりません。この世の価値観の枠ではなく、神の愛の価値観の枠を前面に掲げて、神の言葉を告げ知らせなくてはなりません。

 「愛は、忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」

 私たち一人ひとりには、一体何が欠けているのでしょうか。自らの言葉と行いを、振り返ってみたいと思います。

 さて、教会は30日を「世界こども助け合いの日」と定めています。以前は「児童福祉の日」と呼ばれ、子どもたちのために何かしてあげる日のように考えられていました。実際には、この日は、「子どもたち自身が使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長すること」を願って制定されたのです。ですから「助け合い」という言葉が入りました。今年のテーマは「わかち合うこころはたからもの」です。

 新型コロナ感染症の世界的拡大で、世界中の子供たちも、心と体に大きな影響を受けています。生活環境の劇的な変化によって、心身に不調を来している子供、経済の悪化によって命の危機に直面する子供… 世界に目を向けると、助けを求める子供の姿が見えてきます。

 生きている神の言葉が共にあることを信じる私たちは、将来の世代を担う子供たちが、互いに助け合い支え合う生き方を選択するよう、神の愛に生きる道を共に歩んで参りましょう。

 

 

2022年1月29日

・「ミサで聖書が朗読される時、神の言葉は生きており、主がおられる」菊地大司教の「神の言葉の主日」メッセージ

2022年1月22日 (土)週刊大司教第六十一回:年間第三主日

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 東京と千葉は,まん延防止等重点措置の実施対象となりました。これについては,一つ前の記事でお知らせしています。原則として現在の感染対策を継続し、その徹底を改めて心したい、と思います。

 1月22日土曜日の午前中、公益財団法人東京カリタスの家主催のペトロ岡田武夫大司教追悼ミサが,東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられました。写真はそのときのものです。

 岡田大司教様は,長年にわたり、この東京カリタスの家の理事長を務めておられ、社会福祉事情の充実にリーダーシップを発揮されました。現在は私が,その後任として理事長を務めさせていただいています。

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 公益財団法人東京カリタスのホームページには,東京カリタスの家の理念が次のように記されています。

 「健康で幸せな生活には『身体的』『精神的』『社会的』『霊的』な健全さが満たされることが、必要です。私たちは生きづらさや苦しみを負っている方々を兄弟、姉妹として迎え、その困難や苦しみを共に担い、寄り添うことを目指します。その方が本来持っている『生きる力』が回復され、自分らしく生きることができるよう、共に歩みます」

 本日のミサは感染状況が深刻化する中でしたので,参列者を限定して行われましたが、イエスのカリタス会のシスター方に聖歌隊を勤めていただき、また暖かな晴天にも恵まれ、穏やかな心で,岡田大司教様の永遠の安息を祈る場となりました。

 以下、22日午後6時配信の週刊大司教第61回、年間第三主日のメッセージ原稿です。なお1月23日の関口教会10時ミサは,「神のことばの主日」であり、なおかつ「ケルンデー」でもありますから、大司教司式ミサです。

【年間第三主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第61回 2022年1月23日】

 ルカ福音書は、公生活の初めに、聖霊に満たされたイエスが、ガリラヤ地方の会堂で教えた話を記します。ナザレの会堂で、イエスに渡されたイザヤ書の言葉こそ、イエスが告げる福音の根幹をなす生きる姿勢を明示したものでした。イエスこそは、捕らわれ人に解放を告げ、主の恵みの年を告げる存在であることが、明らかにされます。

 そのイザヤの言葉を受けて、イエスご自身が「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われた、と記されています。まさしく、人となられた神の言葉は、力ある生きた言葉であります。

 パウロはコリントの教会への手紙で、再び、キリストの体と私たちとの関係を解き明かし、多様性における一致こそが、キリストにおける教会共同体のあるべき姿であることを明確にします。

 ネヘミヤ書は、エルサレムの城壁が総督ネヘミヤによって修復された後,祭司エズラが民に向かって律法を読み上げた出来事を記します。この時、民にとって律法は単なるおきての羅列ではなく、神からの生きた呼びかけの言葉として、心に響き渡りました。

 年間第三主日は「神のことばの主日」とされています。この主日は教皇フランシスコによって2020年から始まりました。神のことばの主日を制定した使徒的書簡「アペルイット・イリス」で教皇様は、神のことばの主日を、「神のことばを祝い、学び、広めることに捧げる」主日とされました。その上で教皇様は、この主日がキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭に、次のように記しています。

 「私たちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なる、ということ以上の意味をもっています。『神のことばの主日』を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」

 その上で教皇様は「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて、語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘し、啓示憲章が「聖体の秘跡に与ることに匹敵する」と指摘する「神の御言葉」との交わりの重要性を説いています。ミサの中で聖書が朗読される時、神の言葉は生きており、そこに主がおられます。私たちを生かしてくださる主の言葉の朗読に、真摯に耳を傾けましょう。

 ところで東京教区にとって本日は、「ケルンデー」であります。教区ホームページには、こう記されています。

 「まだ第2次世界大戦の傷痕の癒えない1954年、当時ドイツのケルン大司教区の大司教であったヨゼフ・フリングス枢機卿は、ケルン大司教区の精神的な復興と立ち直りを願い、教区内の信徒に大きな犠牲を捧げることを求めました。そして その犠牲は、東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助をするという形で実現されていきました」

 そこにはフリングス枢機卿と当時の土井枢機卿との、個人的な出会いもあった、と記されています。それ以来、東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けてきました。そのお返し、という形で、白柳枢機卿の時代に、ミャンマーの教会支援が始まりました。私たちは受けた慈しみに感謝しながら、その愛の心に倣い、率先して愛の奉仕に身を捧げる、生きた神の言葉の証人であり続けたいと思います。

 

2022年1月22日

・「聖霊に導かれて、多様性のうちに一致する」ー菊地大司教の年間第二主日メッセージ

2022年1月15日 (土)週刊大司教第60回:年間第二主日

 週刊大司教も記念すべき60回目となりました。毎週ご覧いただいている皆様には、心から感謝申しあげます。

 感染症の状況下で教会に集まることに困難がある中で始めた毎週のミサのネット配信と、それに続いて始めた週刊大司教でのメッセージ発信ですが、緊急避難措置としてだけでなく、これからもさまざまに役立てていただければ幸いです。

 Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントを訪れていただくと、これまでの60回のすべての週刊大司教に加え、その途中何度か配信したロザリオの祈りや、季節毎のメッセージもご覧いただけます。また現在は、シノドスの歩みのためのビデオも配信していますので、土曜日の夕方や日曜日だけでなく、いつでも訪れて見直し、霊的生活の一助として役立てていただければと思います。

 1月11日に、2022年度の第一次となる教区人事異動を公示いたしました。教区司祭に関しては主な移動はすべて公示しましたが、まIcchi22aだ修道会関係が出そろっていませんし、それ以外でも、今後、数回にわたって人事の公示をする予定です。

 人事異動は、司祭の配置や担当を決定してお願いする立場の私よりも、実際に担当が代わり、新しい場所で新しい挑戦に立ち向かう神父様方の方が、何倍も大変です。特に年齢が上になるほど、新しい環境での再出発は容易ではありません。どうか、新しい主任司祭を迎える小教区などにあっては、司祭を支えて助けてくださいますように、お願い申しあげます。

 司祭を支えることには、当然、実際に手を貸すこともあれば、祈りを持って霊的に支えることもあります。特にわたしは霊的な支えこそが重要だと思っていますので、どうか、司祭のためにお祈りくださいますように、またその祈りは「私の思い描くような司祭になりますように」ではなくて、「イエスの御心に導かれ、それを具体的に生きる司祭になりますように」と言う方向でお祈りくださいますよう、心からお願いいたします。

 本日のメッセージでも触れていますが、キリスト教一致祈祷週間が1月18日から25日まで行われます。今年のテーマは「わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みに来たのです」とされ、特に紛争が続く中東地域で信仰を生きている諸教会を心に留めながら、一致を祈ることになっています。カトリック中央協議会のホームページ(こちらのリンク)、または東京教区のホームページ(こちらのリンク)をご覧ください。

 写真は、先日、東京での一致祈祷週間に備えて、東京での祈祷集会を事前に聖公会聖バルナバ教会においてビデオ撮影したときのものです。日本キリスト教協議会の吉高議長が説教をされ、わたしは司式を担当させていただきました。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第60回目の、メッセージ原稿です。

 

 【年間第二主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第60回 2022年1月16日】

ヨハネ福音は、よく知られているカナの婚姻の奇跡物語を記しています。公生活を始めたイエスが、最初に行った奇跡として知られているのが、招かれたカナの婚姻において、水をぶどう酒に変えたというこの奇跡物語です。婚姻の宴は聖書、特に福音の中で、しばしば神の救いや神の支配の実現を例えるために用いられています。イザヤも、神の支配が実現することの喜びを、「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」と記します。

すなわち婚姻の宴のように、あふれんばかりの喜びと希望に満ち溢れているのが、神の救いであり、神の支配の実現であるとされています。その意味で、宴を盛り上げるのに欠かせないワインが枯渇することは由々しき事態であり、イエスは水をワインに変えて、しかもそれを溢れんばかりに与えたと記すことで、救いにおける喜びの源は救い主イエスであることを、福音は明示します。

ヨハネ福音は、イエスが救いの計画を実現するために神の「時」を自覚して行動していたことを、最後の晩餐において弟子たちの足を洗う場面の直前に、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と記すことで明らかにします。

しかしこのカナの婚姻では、聖母に対して「わたしの時はまだ来ていません」と答えています。神ご自身が定めた「時」を変えさせたのは、聖母マリアの信仰とそれに基づく確信です。カナの婚姻の出来事に、わたしたちは、聖母マリアの取次の力と、神の救いの喜びと希望に寄与する聖母の存在の重要さを見出します。

コリント書は、聖霊のたまものが与えられた神の民は、それぞれが与えられた賜物によって多様な働きを実現し、それが同じ聖霊に導かれていることから、一致をもたらしていることを記します。

喜びと希望に満ちた神の救いと支配の実現のためには、聖霊に導かれて、多様性のうちに一致していることが不可欠です。

教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。今年は、マタイ2章の「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」をテーマに掲げ、特に中東の諸教会のために、また人々のために祈ることを求めています。

一致祈祷週間のために用意された資料には「中東の歴史は、昔も今も、紛争と対立にあふれ、血に染まり、不正と抑圧により暗雲に覆われています。・・・この地域では血なまぐさい戦争や革命が繰り返され、宗教的な過激主義が台頭しています」と記されています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、次のように指摘しています。

「あたかもキリスト自身が分裂しているかのようである。このような分裂は真に明らかにキリストの意志に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音をのべ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなっている(1)。」

ただ単に一緒になればよいものでもなく、同じ祈りを一緒にすれば済むものでもない。それよりも「公正と真理に基づいて」互いのことをよく知り合い理解を深め、適切な対話を行って一致して福音を証ししていくことができる道を探っていく努力を、この教令は求めています。

今回のシノドスの歩みも、準備文書で「一つの洗礼によって結ばれた、異なる信仰告白をもつキリスト者間の対話」の重要性を指摘し、その具体的な行動について問いかけています。神の救いと神の支配の実現がもたらす本当の喜びを共にできるよう、多様性の中で一致して歩み続けたいと思います。

2022年1月15日

・「共に歩まれる主に従う決意を新たにしよう」ー菊地大司教の「主の洗礼」メッセージ

2022年1月 8日 (土)週刊大司教第五十九回:主の洗礼

 新しい年の初め、今年は寒い冬になっていますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

 東京は何年ぶりかという雪に覆われました。もちろん前任の新潟や、管理者を務めた札幌での雪と比較すれば、たいした積雪ではありませんが、積雪を想定してできていない都市で、雪を想定して生活していない人が暮らしているとき、大きな混乱を巻き起こします。

 例えば、新潟あたりで、この時期に冬用のタイヤをはいていない車は想像できませんし、外出するときに雪を想定した「冬靴」を履かないことも想像できませんが、そういうことを前提としない町では、さまざまに入り交じって、その混乱には大きなものがあります。車での事故など起きないことを願ってます。

 また生活されている状況で条件は異なるでしょうが、寒さによって体調を崩されたり、生命の危機に瀕することがありませんように。まだまだ寒い日が続くようですし、東京でも降雪がまたあるかも知れません。加えて、感染症の再拡大です。どうぞ健康に留意されますように。

 新型コロナの検査陽性者は、東京においてはこの数日、増加し始めています。すでに第6波が到来した、という声も聞こえてきます。ワクチン接種がある程度進んだことで、重篤化する率は低くなっている、との指摘もありますが、今しばらく状況の推移を見守ります。東京教区では、現時点で、待降節第一主日からの対策を変更する予定はありません。

 一年ほど前、2021年1月6日には、米国大統領選挙の結果に対するさまざまな否定的反応から派生して、議会襲撃事件が発生したり、その後2月1日にはミャンマーで国軍による軍事クーデターが発生しました。

 民主主義が万能ではないとは言え、一人ひとりの命の尊厳を護り尊重することの重要性を主張する立場からは、それは必要な制度であると思います。昨年ギリシャを訪問された教皇様は、民主主義誕生の地で、その民主主義がヨーロッパを初め世界各地で衰退している現状にふれ、「党派心から参加へ、自分の望む意見に固執することからすべての人を生かす行動に参加するために」互いに支え合う連帯を呼びかけられました。

 さまざまに多様な人が入り交じって暮らす国家を一つにまとまることは、大変難しいことだと思います。多民族国家であれば相互理解と連帯が不可欠であり、また歴史の負の遺産が政治に重くのしかかる国も存在します。

 しかし暴力をもって人々の自由意思を弾圧し支配したり、自らの主張を実現しようとすることは、どの国にあっても許されることではありません。特に、たまものである人間の命を危機にさらす行為を国家運営の手段とすることや、排除や差別を生み出す暴力的行動で影響力を行使しようとすることを認めることはできません。

 以下、8日午後6時配信の、週刊大司教第59回、主の洗礼のメッセージ原稿です。

【主の洗礼の主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第59回】 2022年1月9日

 主の洗礼を記念するこの日、イザヤ書はバビロンで捕囚の時を過ごすイスラエルの民に対して、苦難ののちに訪れる神による解放の恵みを語ります。捕囚の苦難を耐え忍ぶことで、「彼女の咎(とが)は償われ」、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」とイザヤは記します。

 パウロはテトスへの手紙で、私たちの救いは、「キリストが私たちのためにご自身をささげられた」ことを通じて、「あらゆる不法から贖い出し」たことによって与えられた恵み、であることを強調します。そして「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と記します。

 私たちの救いは、私たちが正しさによって義と認められて与えられたものではなく、徹底的に神からの恵みであり、神ご自身の苦難を通じて与えられ、それが水と聖霊による洗礼によって実現したことを明確にします。

 ルカ福音は、公生活を始めるにあたって、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。ヨハネ自身が明確にするように、その水による洗礼は罪の赦しの象徴であって、主ご自身が与える聖霊と火による洗礼とは比較にならないものであります。しかし主ご自身は、人間となられ私たちとともに歩まれる意思を明確にし、またそれが私たちの罪を背負って歩まれることを明確にするために、公生活の始めにヨハネの洗礼を受けられました。

 その行為を完全に祝福するように聖霊が鳩のように降り、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(ルカ福音書3章22節)との御父の声が響き渡ります。イエスの人生が御父の御旨に完全に従うものであり、同時に私たちと共に歩まれ、自らの意思ではなく、すべてを捧げ尽くす犠牲の生き方を通じて、人類の救いという恵みを与えられる道を歩まれることを、明確にする出来事です。

 主の洗礼は、主イエスの人間としての歩みを方向付ける、重要な意味を持っています。その苦しみを通じて、私たちを贖ってくださった主は、同じ道を歩むように、と私たちを招かれます。他者のために捧げる苦しみを通じてもたらされる、救いの恵みに与るようにとの招きです。

 私たち「信じるものは洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られ、復活します」(カトリック教会のカテキズム1227項)。キリストに従う私たちは、この人生をどのように生きていくのでしょうか。

 私たちが今、共に歩んでいるシノドスの道は、まさしく主が共に歩んでくださる道程です。この道程の中で主は、私たちが「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」招いておられます。

 シノドス事務局が出した準備文書の分かち合いの手引きとしての設問の第五番目には、こう問いかけが記されています。

 「私たちは皆、宣教する弟子であるので、洗礼を受けた一人ひとりは、いかにして『宣教の主人公』として呼ばれるでしょうか。社会での奉仕に取り組むメンバーを、共同体はどのように支えているでしょうか。彼らが宣教の論理でこれらの責任を生き抜くのを、皆さんはどのように支援していますか。宣教に関連する選びについての識別は、どのようになされていますか、また誰がそれに参加していますか」

 洗礼を受けた私たちは、自分自身のために生きているのではなく、キリストに倣って、キリストのために生きています。今一度、それぞれの生き方を振り返り、共に歩まれる主に従う決意を新たにいたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

 

2022年1月8日

・「聖母に倣い、聖霊の導きに従う勇気を」菊地大司教の元旦・神の母聖マリア祭日ミサ

2022年1月 1日 (土)神の母聖マリア@東京カテドラル

2014_img_0610 一年の初め、1月1日は、神の母聖マリアの祭日です。また教会はこの日を「世界平和の日」とも定めています。この一年を聖母の御保護に委ね、その取り次ぎに信頼しながら、聖母とともに主イエスに至る道を歩み続けましょう。

 教皇様は年の瀬の12月28日、長崎教区の高見三明大司教様の引退願いを受理され、後任として補佐司教である中村倫明司教様を大司教に任命されました。中村大司教様、おめでとうございます。長崎教区の大司教としての着座式は、2月23日に行われると伺っています。伝統ある教区の責任者として重責を担われる中村大司教様のために、聖霊の助力と導きを祈りましょう。(長崎教区ホームページの、お二人の略歴のページのリンクです

 手元に中村司教様の写真がないか探したのですが、唯一データがあったのは、その昔、新潟教会の四旬節黙想会においでいただいたときのものでしたが、それは「変装」してお話ししておられるので、ここには掲載しません。上のリンク先の長崎教区ホームページに、中村大司教様のお写真があります。高見大司教様のあとに掲載されています。そちらをご覧ください

 司教職は叙階によって与えられるので、司祭が生涯司祭であるように、司教も生涯司教です。ただし、教区司教(いわゆる教区長)などの役職には75歳という定年があり、教区司教は75歳になると「必ず」教皇様に引退願いを出さなくてはなりません。高見大司教様の引退は、この75歳という定年の引退です。高見大司教様は、1946年3月生まれで、現在ちょうど75歳です。

 教区司教の任命は教皇様の専権事項ですから、提出された引退願いをどのように扱うのかは、教皇様次第です。即座に認められることも時にありますが、多くの場合は、後任が決まるまで続けるよう指示されるか、事情がある場合は当分の間とどまるように指示されることもあります。

 いずれにしろ役職からの引退であって、司教職からの引退ではありません。教皇様によって引退届の取り扱いが、当分の間継続するようにという決定でなく、他の二つの場合、即座に後任を選任する手続きが開始されます。なお枢機卿の場合、教区司教などの役職から引退したとしても、80歳になるまでは教皇選挙の投票権があり、またバチカンの諸省庁のメンバー(委員)としても残ることになります。

 司教選任の手続きは、その地方教会がバチカンのどの省庁の管轄下にあるかで異なります。日本などの宣教地は福音宣教省、歴史的にキリスト教国は司教省、カトリックの東方典礼の教会は東方教会省です。フランスなどいくつかの国では、過去の歴史的経緯や条約での取り決めから、司教の任命にその国政府の同意が必要な場合があり、その場合は国務省も関わります。いずれにしろ、それぞれの国に派遣されている教皇大使が、候補者の選任にあっては重要な役割を果たすことはどの場合でも共通です。

 以下、本日2022年1月1日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた神の母聖マリアのミサ説教の原稿です。なお説教の最後でも触れている、世界平和の日にあたって発表されている教皇様の年頭の平和メッセージ本文は、中央協議会のこちらのリンクに全文が掲載されています。

【神の母聖マリア 東京カテドラル聖マリア大聖堂 2022年1月1日】

 皆様、新年明けましておめでとうございます。

  2022年が、皆様にとって、慈しみ深い神の祝福に満たされた年でありますように、お祈りいたします。

 主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身のいつくしみに満ちた選択に感謝を捧げる私たちは、暦において新しい一年の始まりのこの日を、誕生した御子の母である聖母に捧げ、神の母聖マリアを記念します。

 ルカ福音は、不思議な出来事に遭遇し、その意味を理解できずに翻弄される羊飼いや、その話を聞いた人々の困惑を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。しかし福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記します。

 神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きを黙想し識別に努められた、観想するおとめであります。常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り黙想する姿を、喧噪のうちにあふれる情報に踊らされる私たち現代社会に生きる者に、倣うべき模範として示されています。

 2020年の初頭からすでに二年間、私たちは感染症の脅威にさらされ、命の危機を肌で感じてきました。その危機は、今現在でもまだ、過ぎ去ってはいません。その脅威は世界のすべての人に及んでいるとは言え、命の危機の程度には差があり、またその対策にも格差が生じ、経済的にまた政治的に不安定な国では十分な対策を講じることができていないとも報道されています。

 ある程度の十分な対策に費用を割くことのできる先進国でも、社会全体が被っている影響は大きく、経済格差が広がり、感染症のためだけではなくそれに伴う社会の構造的課題の増大によって、命が危機に直面しています。

 新しい年の初めにあたり、共に祈りをささげたいと思います。現在の世界的な難局を、共に連帯のうちに支え合いながら乗り越えていくことができるように、聖霊の導きを祈りましょう。教皇様が幾たびも呼びかけられてきた世界的な連帯は、さまざまな理由から実現していません。

 特に、私たちの政治のリーダーたちを、また経済界のリーダーたちを、聖霊が賢明と叡智と剛毅の賜物をもって導いてくださるように祈りたいと思います。また命を守るために日夜努力を続けておられる医療関係者の上に、護りがあるように祈り続けたいと思います。

 私たちは、それぞれの生きている場で、それぞれが出来ることに忠実でありながら、互いに助け合い支え合う連帯の絆を深める努力に努めたいと思います。神から与えられた賜物である命が、その始めから終わりまで例外なく、守られ育まれ、尊厳が保たれる世界の実現に努めたいと思います。

 世界の各地で、武力による紛争が、そして圧政による人権侵害が、命を危機にさらしています。命を守るために、危険を冒して旅立ち、国境を越えてきた難民の人たちが、安住の地を得ることなく、命の危機に直面しています。

 この混乱のさなかで、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

 教皇ヨハネパウロ二世は、神からの賜物である命の神秘とその尊さを説く回勅「命の福音」の締めくくりに、こう記しています。

 「キリスト誕生の秘義のうちに神と人との出会いが起こり、神の子の地上での人生の旅、十字架上で自らの命を捧げることを頂点とする旅が始まります」

 その上で教皇は、聖母の役割についてこう記しています。

 「すべての人の名のもとに、すべての人のために、『命であるかた』を受け入れたのは、おとめにして母であるマリアでした。…マリアは、『自身がそのかたどりである教会と同じように、再生の恵みを受けたすべての人の母です。事実、マリアは、すべての人を生かしているいのちそのものである方の母です」

 神の母である聖母マリアは、信仰に生きる私たちすべての母でもあります。聖母の生きる姿勢に倣い、私たちも、神の導きを霊性に識別し、聖霊の導きに、勇気を持って身を委ね、神が望まれる正しい道、すなわち人間の命の尊厳を守る道を歩んでいきたいと思います。

 その意味で、この二年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない行動は、隣人愛の選択であるとともに、神から与えられた賜物である生命を生きている私たちの努めでもあります。

 もちろん社会のなかにあって霊的な支柱となるべき教会ですから、最も大切なミサの公開中止などは極力避けたいと思いますので、今後も状況を見極めながら、適宜判断を続けます。感染対策の指針がしばしば変更となって混乱を招く場合もあり、大変申し訳なく思っています。新しい年になっても、今しばらくは慎重な対応が必要だと思われます。支え合いながら、互いの命に思いを馳せ、歩んで参りましょう。

 ところで一年の初めの日は、教会にとって、世界平和の日でもあります。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた「平和のための 祈りの日」であります。

 今年の世界平和の日にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。今年のメッセージのテーマは、「世代間対話、教育、就労ー恒久的平和を築く道具として」とされています。

 教皇様は今年の平和メッセージで、安定した平和を築くための道として、歴史の記憶を守る高齢者と未来を切り開く若者の対話の必要性を説き、さらには世界各国における教育への投資の重要性、さらには労働者の尊厳の推進の大切さを説いています。

 「世代間の対話」は、恒久的な平和を実現するために不可欠であると、教皇様は強調されています。また、「教育」は自由と責任と成長の条件であり、さらには総合的な人類の発展に不可欠な人間の尊厳の完全な実現のために、「労働」を尊厳あるものにすることを避けて通ることはできない、と教皇様は説いておられます。

 真の平和の実現のために、社会の現実における個々の問題に取り組むことはもちろん不可欠ですが、同時に総合的な視点を持つことの必要性を説かれる教皇様は、誰ひとり排除されない世界の実現を目指して、私たちに「歴史から学び、傷をいやすために過去に触れ、情熱を育て、夢を芽生えさせ、預言を生み、希望を花開かせるために未来に触れる」ようにと呼びかけておられます。

 改めて、神の秩序が確立された世界の実現を目指し、すべての命が守られる世界を生み出すことができるように、教皇様の思いに心を合わせ、平和への思いを新たにいたしましょう。

(編集「カトリック・あい」)

2022年1月1日

・「日本の教会のために全力を尽くしたい」菊地・東京大司教の新年メッセージ


東京教区のみなさん、主の降誕と新年のおよろこびを申し上げます。

大司教 タルチシオ 菊地 功

 東京教区のみなさん、主の降誕と新年のおよろこびを申し上げます。

「明けない夜はない」などと言われますが、この二年ほどの間、私たちは感染症によってもたらされた世界的規模の暗闇の中で彷徨ってきました。たびかさなる波の襲来や変異株の出現など、不安を増し加える出来事が相次ぐ中、徐々にウイルスの研究も進み、夜明けは近いと感じることができるようになりました。

 しかし、さまざまな形で影響を受けた世界では、感染症からだけではなく経済的にも、いのちが危機に直面し続けています。

 この二年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない行動は、隣人愛の選択であるとともに、神から与えられた賜物である生命を生きている私たちの努めでもあります。ミサの公開中止などは極力避けたいと思いますので、今後も状況を見極めながら、判断を続けます。感染対策の指針がしばしば変更となって混乱を招く場合もあり恐縮ですが、ご理解いただきますようにお願いいたします。新しい年になっても、今しばらくは慎重な対応が必要だと思われます。互いに支え合いながら、歩んで参りましょう。

 さて、教会は今、シノドスの歩みをともにしています。詩編100の3節に、「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と記されていますが、洗礼によってキリストの体において一つに集められた私たちは、神に養われる羊の群れとして、神の民を形作っています。わたしたちはともに歩む共同体です。

 第二バチカン公会議の教会憲章は、教会が個人の信心の積み重ねであると同時に、一つの神の民であることを強調しました。教会憲章には、「しかし神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」(教会憲章9)と記されています。

 神の民を形作るわたしたち一人ひとりには、固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりが自らに与えられた役割を自覚し、それを十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音をあかしする存在となることができます。わたしが司教職のモットーとしている「多様性における一致」は、それぞれの役割を認識し、その役割を忠実に果たすところに多様性の意味があり、キリストの体をともに作り上げることに、一致があります。

 わたしたちの信仰は、共同体における「交わり」のうちにある信仰です。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

 交わりによって深められたわたしたちの信仰は、私たち一人ひとりに行動を促します。「交わり」は互いの声に耳を傾ける「聞く」態度を生み出し、そこから「参加」を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを自覚し、それを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。ここにシノドスのテーマ、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」の意味があります。

 今回のシノドスの歩みを通じてわたしたちは、共同体における信仰の感覚をとおして、神の民であるという自覚を深めるように招かれています。確かに会議を開いて、設問に回答を見出していく作業は、何かを成し遂げたという実感を与えてくれます。ところが今回、教皇様は、会議をして結論を出すことよりも、「神の民」であることの自覚を共有するための学びや分かち合いの過程そのものが大切なのだと強調されます。

 教区担当者である小西神父が中心になって、さまざまな学びのためのビデオを作成しておりますので、是非ご覧いただき、その内容について、複数の方と心に浮かんだ思いを分かち合うことを、それぞれの小教区では続けていただければと思います。

 教会は社会の現実の苦しみ、特に今般のパンデミックによる痛みへの共感を持つように招かれています。社会にあって今を一生懸命に生きている人たち、すなわち貧しい人々との対話や連帯へと招かれています。いのちを生きる道や文化の多様性を尊重するように招かれています。

 シノドスの歩みに合わせて、東京教区では先に発表した宣教司牧方針を深めてまいります。宣教司牧方針は、私たちの教会が、「宣教する共同体、交わりの共同体、すべてのいのちを大切にする共同体」となることを目指しています。この実現のため、シノドスの歩みから私たちはさまざまな示唆をいただくことができます。

 宣教司牧方針を具体化して行くにあたって、この春には、東京教区のカリタス組織である「カリタス東京」が誕生します。教会にとって愛の奉仕の業は、福音宣教と祈りや典礼と並んで、欠かすことのできない本質的な要素です。同時に、現在の教区の体力の中で、広くさまざまな課題に取り組むためには、組織を集中させることが不可欠です。教区内ですでに活動しているさまざまな動きと連動しネットワークを強化しながら、教会の愛の奉仕の業を深めてまいります。

 教区カテキスタ養成を含めた生涯養成に関しては、コロナ禍で実施が滞ってしまったところがありますが、状況の緩和に合わせて、さらに充実させていくよう努めます。

 また、宣教協力体の見直し作業と、小教区規約の規範版の作成を、教区宣教司牧評議会に諮りながら、作業部会を設置して議論を深める予定でした。残念ながら宣教司牧評議会を開催することができずに一年が経過してしまいました。これも状況の緩和を見極めながら、早急に作業を再開する予定です。

 ところで、この2月からわたしは、日本カトリック司教協議会の会長に就任することになりました。任期は3年です。選出していただいた司教様方の期待に応え、日本の教会のために全力を尽くしたいと思います。また、先般わたしは、アジア司教協議会連盟の事務局長にも選出されました。アジア各国の司教協議会のこの連盟は、日々の実務を香港に駐在する事務局次長に委ねるものの、任期の2024年末まで、できる限り責務を忠実に果たしたいと思います。求められている責務を忠実に、ふさわしく果たすことができるように、皆様のお祈りによる支えを、心からお願いいたします。

 先般教皇様は、仙台司教として淳心会会員のエドガル・ガクタン師を任命されました。仙台教区の皆様にお祝いを申し上げると同時に、東京教区にとっては松原教会の主任司祭を失うことにもなりました。ガクタン被選司教のこれからの活躍の上に、神様の祝福を祈ります。

 なお、今年2022年の待降節第一主日から、日本語の典礼式文が変更となります。30年余にわたる翻訳作業と、試行錯誤と、典礼秘跡省との交渉の実りです。今後、式文以外のミサのさまざまな祈りの文章も新しくなっていきます。よりふさわしい典礼を行うことができるように、この際、典礼についても学びを深めていただきますようにお願いいたします。

 新しい年の初めにあたり、皆様の上に、全能の御父の豊かな祝福がありますように、お祈りいたします。

2022年1月1日

・「聖なる家族の一員となるよう招かれる主に、積極的に応えよう」菊地大司教の聖家族の主日メッセージ

2021年12月25日 (土)週刊大司教第五十八回:聖家族の主日

Img_0327 今年の降誕祭は土曜日ですので、翌日の主日が聖家族の主日となります。今夜の週刊大司教は、25日の夜ですが、翌26日の聖家族の主日の福音に基づいてのお話です。

 なお来週1月1日は、週刊大司教をお休みにします。新年1月1日は午前10時から、関口教会のミサを大司教司式ミサとして配信しますので、そちらをご覧ください。新年の週刊大司教は、1月8日土曜日の午後6時、主の洗礼の主日から再開です。

 このクリスマス直前に、バチカンからはちょっとしたうわさ話が流れてきていました。

 2017年1月1日に、それまで聖座(バチカン)に設置されていた「正義と平和評議会」「開発援助促進評議会」「移住・移動者司牧評議会」および「保健従事者評議会」が統合されて、新しい部署、「人間開発のための部署」が設置されました。

 これは英語名称が「Dicastery for Promoting Integral Human Development」といいますので、どちらかというと「総合的人間開発促進局」とでも言うのだろうと思います。その責任者は、それまで正義と平和評議会の責任者であったピーター・タクソン枢機卿です。(その頃の最初の会議参加の「司教の日記」はこちらです

 この新しい部署は、統合されたそれぞれの評議会の務めを引き継ぎ、それぞれがデスクとして業務を続けてきました。ですから、新しい部署が創設されたからと言って、正義と平和の務めが消滅したり移住移動者への関わりがなくなったりしたわけではなく、部署内には新しいセクションが設けられて務めの精査が行われてきました。

 とはいえ、それまで存在していた4つの評議会を統合したことと、特に難民セクションは教皇様直轄となり、その担当責任者の一人であるマイケル・チェルニー師(イエズス会)が枢機卿となったことなどから、組織の見直しが必要ではないか、ともささやかれていました。今年の夏には、教皇様の指示で、シカゴのスーピッチ枢機卿による業務監査も行われ、同じような業務監査が行われた役所ではその後、責任者が交代となったことから、この部署でもタクソン枢機卿が交代となるのではと推測されていました。

 教皇様が、ラウダート・シなどにおいて、『総合的』という概念を強調されていることもあり、シングルイシューへの取り組みから総合的(インテグラル)な視点への転換は、教会の社会系の活動に広く求められていることでもあります。その意味で、この部署が創設されたことには大きな意味があったと思いますし、教会が社会正義の実現のために幅広く取り組んでいくための総合的担当部署の創設は、この時代にあって不可欠だと思います。

 しかし同時にそれは、組織が巨大化することも意味し、報道によれば、この部署はバチカンの中で予算規模が上から三番目という、結構巨大組織となっていたこともあり、新しい部署として運営するタクソン枢機卿には大きな苦労があったと思います。

 この部署が誕生したときに定められた規約は、試行期間として5年と定められていましたし、聖座の役職は5年で一期を基本としているので、このところ、タクソン枢機卿の去就が注目されていました。教皇庁広報官は23日の記者発表で、教皇様がタクソン枢機卿から提出された5年任期終了に伴う辞表を受理し、1月1日から新しい指導体制が決まるまでの間、チェルニー枢機卿を代理の責任者として任命されました。今後の展開に注目したいと思います。

 タクソン枢機卿は、私がまだガーナの小教区で働いていた頃、1991年9月にケープコースト大司教区の名物司教だったジョン・アミサ大司教(ガーナ人初の司教)が交通事故で急死し、その後を受けて92年10月に後任の大司教に任命されました。その時、ご本人は博士号取得直前でローマに留学しておられました。

 大司教任命を受けて急遽福音宣教省に呼び出されたタクソン師は、ジーパンにシャツ姿だったので、玄関の警備員に追い払われた、というのは有名な話です。その頃に福音宣教省長官だったトムコ枢機卿から直接聞いたので、本当だと思います。大司教に任命された当時から、ガーナの教会でも一歩も二歩も図抜けた存在であった、と記憶しています。初のアフリカ出身の教皇候補と噂されることもしばしばです。今後のタクソン枢機卿に(まだ73歳です)注目したいと思います。

 以下、25日午後6時配信の週刊大司教第五十八回のメッセージ原稿です。

【聖家族の主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第58回】 2021年12月26日

皆様、主の降誕おめでとうございます。

誕生した幼子は、飼い葉桶に寝かされて、聖ヨセフと聖母マリアによって、その命を守られています。受肉した神のみ言葉は、家族のうちに誕生し、家族によって守られ、育まれました。降誕祭直後の主日は、聖家族を黙想する日であります。

使徒ヨハネは、「神の掟を守る人は、神のうちにいつもとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」と記しています。まさしく聖家族を構成する聖ヨセフと聖母マリアは、神の言葉に従順に従い、その御旨の実現のために人生を捧げられたことで、神の掟を守る人であることをあかしし、その故にこの家族のうちに神は常にとどまり、この家族を聖なる家族とされました。

ルカ福音は、イエスが十二歳になったときの家族の話を記しています。過越祭のためにエルサレムに上ったとき、その帰路、少年イエスがエルサレムに残り、家族と離れてしまったときの逸話であります。

三日目に見出されたイエスは、自らが神の子であることを明示され、真の家族は神のもとにあることを示されますが、同時にイエスは、神の掟を守る両親から離れることなく、そのもとにとどまるために、一緒に旅を続けます。

私たちが教会共同体を考えるとき、そこには「地上の教会と天上の善に飾られた教会」が実在し、互いに別なものではなく、「複雑な一つの実在」を構成している、と教会憲章は指摘します。同様に、家族においても、地上の家族と天上の家族があり、私たちは、その両者によって育まれる存在です。

教皇フランシスコは使徒的勧告「(家庭における)愛の喜び」の冒頭に、「家庭において生きられている愛の喜びは、教会にとっても大きな喜びです」と記します。その上で、「家庭が健全であることは、世界と教会の将来にとって、決定的に重要なことです(31)」と記します。

しかし同時に、現実の世界では、「理想とするような家族でなく、厳しい状況に直面する家族や崩壊してしまった家族、また家族そのものが存在しないような状況があること」を認識し、教会のこれまでの態度を反省してこう記しています。

「私たちは長い間、恵みに開かれるよう励ますことをせずに、単に教義や生命倫理や道徳の問題に執拗にこだわることで、家庭を十分に支え、夫婦の絆を強め、彼らの共同生活を意味あるものにしたと信じてきました。(37)」

司牧的配慮の重要性を説かれる教皇様は、その上で、「教会は、家庭の中の家庭であり、すべての家庭教会が持つ命によって、たえず豊かにされています」と記して、教会と家庭のきずなを強調されています。

回勅「Fratelli tuitti(兄弟の皆さん)」において教皇様は、「教会共同体という家庭」で共に旅するよう、私たちを招かれ、そのためには兄弟姉妹の絆のうちに連帯しなければならない、と強調されます。

神の掟を守ろうとする私たちは、共同体の中に神がいつも、とどまってくださることを信じています。この共同体は、私たちにとって天上の家族に連なる家族であります。教皇様は、「私たち信者は、神は万人の御父という理解がなければ、兄弟愛の呼びかけに盤石な根拠はない(272)」と記します。この現実の中で、聖なる家族の一員となるよう招かれる主に、積極的に応えましょう。

(編集「カトリック・あい」、表記は原則として当用漢字表記にしています)

2021年12月26日

・「神の愛に倣い、前進を続ける連帯の共同体に」菊地大司教の主の降誕ミサ

2021年12月24日 (金) 主の降誕、おめでとうございます。

Christmas2021 主の降誕の夜を迎えました。おめでとうございます。

 今年もまた困難な状況の中でのクリスマスとなりました。皆様は、どのような状況で、クリスマスを迎えておられるでしょうか。

 暗闇の中に誕生した幼子は、いのちの創造主である神のみ言葉の受肉です。暗闇に輝く、命の希望の光です。クリスマスのミサが、まず最初に夜に行われるのには、闇に輝く光の与える希望を、心で感じるという大切な意味があるのだと思います。

 皆様、お一人お一人の心にも、闇に輝く光がともされ、希望が生み出されますように。

以下、24日午後9時の東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられたミサの説教原稿です。

【主の降誕 夜半ミサ(配信ミサ)東京カテドラル聖マリア大聖堂) 2021年12月24日午後9時

 順風満帆な人生というものは、どこかにありそうで実際にはないと言うことを、この二年間わたしたちは肌で感じさせられています。どんなに自分の人生がうまくいっていると思っていても、自然の力の前で、わたしたちはなすすべもなく立ち尽くしてしまうことがありうるのだということを、世界的な規模で、この時代を生きているほぼすべての人が自覚するという、凄まじい状況の中に、わたしたちは置かれています。

 暗闇に取り残されたとき、希望の光はどこから来るのかと必死になって探し回るように、この二年間、一体何を信じたら良いのかも定かでなく、意見が対立し、互いに自分の正当性を主張して、時にはののしり合いにまで発展しながら、光を求めて、人類は彷徨っています。

 助け合わなくては生きていけない。支え合わなければ生きてはいけない。そんなことは当たり前と分かってはいるけれど、しかし自分のいのちが危機に直面するとき、そこまで考える余裕はない。ただでさえ孤立と孤独が深まっていると指摘されてきた現代社会にあって、この二年の感染症による危機は、わたしたちを分断と利己主義と孤立へと強烈にいざなってきました。

 教皇様は、今年の貧しい人のための世界祈願日のメッセージで、パンデミックによって格差が激しくなり貧困が増し加わって命を危機に直面させていることを指摘し、こう記しています。

 「貧困層は激増しており、残念ながらそれは今後数か月は続くでしょう。一部の国はパンデミックのきわめて深刻な影響を受け、もっとも弱い立場の人は生活必需品も得られなくなっています。炊き出しに並ぶ長蛇の列は、こうした事態の悪化を如実に表しています」

 その上で教皇様は、「個人主義的な生活様式は貧困を生み出すことに加担し、しかも貧困の状況の責任をすべて貧しい人に負わせてばかりです。しかし、貧困は運命の産物ではありません。エゴイズムの結果です」と指摘されています。わたしたちを覆っている暗闇は、その深さを増し加えています。暗闇は命を危機に直面させています。

 主イエスの降誕を祝うこの夜、イザヤ書は「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」と告げています。

 ルカによる福音は、闇夜のただ中に、羊飼いが恐れを抱くほどの強烈な光が輝き渡り、救い主の誕生を告げたと記しています。

 イザヤ書は、暗闇に輝く光として誕生する幼子が、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、その支配は、「正義と恵みの業によって」永遠に続くであろうと記します。

 ルカ福音は、輝く光の中で天使たちが、神を賛美して「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったと記します。

 パウロは、「恵み」は、わたしたちに「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」、希望を持って栄光の現れを待つようにと教えている、と記します。

 その上でパウロは、キリストが受肉し、わたしたちとともに時の流れの中で命を生き、「ご自身を捧げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖いだし、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだった」と記しています。

 わたしたちが光を必要とする暗闇に生きていると言うことは、それは神が定めた秩序に逆らっている状況であり、パウロによれば「不法」の状態であり、「この世で、思慮深く、正しく、信心深く」生きていくための恵みに欠けた状態であり、さらには、命を生きる希望を失った状態であり、平和の欠如であり、それが故に、神の御心に適う状況ではありえない。

 だからこそ、神は、自ら定めた秩序を回復し、賜物として与えられた命が生きる希望を取り戻すようにと、自ら人となり、わたしたちとともに歩まれる道を選ばれました。

 わたしたちは、キリストの言葉に、命を生きる光を見出します。わたしたちは、キリストの行いに、命を生きる光を見出します。光を見出すからこそ、わたしたちはその言葉と行いを自らのものとし、今度は暗闇の中でわたしたち自身が光を輝かせようとします。わたしたちは、命の希望を告げしらせ、神の秩序を打ち立て、正義と恵みを具体的に生きる者となりたいと思います。

 教会は、この困難な社会の状況の中で、広がる格差による分断が孤立と孤独を深める社会の中で、教皇フランシスコが繰り返されるように、いつくしみを具体的にもたらす野戦病院として、出向いていく教会であり続けたいと思います。

 教皇様は回勅「フラテリ・トゥッティ(兄弟の皆さん)」において、兄弟愛と社会的友愛に生きるようにと呼びかけ、「一人で救われるのではなく、ともに救われる道しかない(32)」ことを強調されます。その上で教皇様は、「孤立することで、成長したり充実感を得たりする人はいません。愛はそのダイナミズムによって、ますます寛容さ、他者を受け入れるいっそうの力を求めます。・・・わたしたちは、歴史のダイナミズムと、民族・社会・文化の多様性のうちに、互いに受け入れ合い配慮し合う兄弟姉妹から成る共同体を形成する使命が宿っている(96)」と指摘されています。

 教会は今、シノドスの道をともに歩んでいます。教会は、救いの完成を目指してともに歩んでいく神の民です。暗闇の中で一人でもがき、道を見いだそうそうとする共同体ではなく、互いに支え合い、受け入れ合い、配慮し合う共同体です。教会は、命の与え主である神が、すべての人を救いへと招いておられる御父であると信じているからこそ、誰ひとり排除されず、忘れ去られることなく、ともに歩む民であることを自覚し実現しようとしています。

 シノドスの道をともに歩むときに、互いに「識別する」、「聞く」、「参加する」という三つの行動が、大切であると、準備文書は指摘しています。

 わたしたちには、今までの歩み、今の歩み、これからの歩みを静かに黙想し、聖霊はわたしたちをどのように導き、どのように力づけ、どちらの方へと向かわせているのかに気づくことが求められます。

 わたしたちは、教会に集う人々が教会をどのように受けとめているのかについて、お互いに耳を傾けあわなければなければなりません。聞くためには、寛容さと忍耐が必要です。

 そして、わたしたちキリスト信者の基本的な姿勢の一つは、参加です。ミサに、祈りに、ボランティアグループに、ひいては地域の活動に、社会に積極的に参加することが求められます。コロナ禍で参加の形は変わりつつありますし、参加の仕方についても創造性が求められています。

 教会共同体が、互いに支え合い、歩みをともにする交わりの共同体であるならば、教会は救いの完成を先取りする存在として、暗闇の中で輝く光となることができるでしょう。

 人となられた神の積極的な行動力に倣い、またわたしたちの贖いのために自らを捧げられた神の愛に倣い、わたしたちも常に前進を続ける連帯の共同体、神の民であるように努めましょう。

 

2021年12月24日

・「福音を求める地へ出向いていく」菊地大司教の待降節第4主日メッセージ

2021年12月18日 (土)週刊大司教第五十七回:待降節第四主日

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 待降節も終盤です。今年は主の降誕が土曜日なので、待降節第四週が十分にあります。良いクリスマスを迎えるためにも、良い準備をいたしましょう。

 本日12月18日、前東京大司教である岡田武夫大司教様が帰天されて一年となりました。昨年の帰天時には、コロナ禍で、教区の皆での落ち着いたお別れのミサなどもできませんでした。残念に思います。さいたま教区と東京教区の両者で長年牧者の務めを果たされた岡田大司教様ですから、本来であれば、さいたま教区や東京教区の大勢の方とともに感謝の祈りをささげ、永遠の安息を祈るべきところです。

Okada1sta 先週末土曜日の午後、岡田大司教様が心を込めて指導されていた東京教区のアレルヤ会の皆さんと、カテドラルで追悼のミサを捧げました。あらためて、永遠の安息を祈ります。

 以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第57回目のメッセージ原稿です。

【待降節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)週刊大司教第57回 2021年12月19日】

 間もなく主の降誕です。教会の伝統には、重要な祝日や特別な願い事があるときに、9日間の連続した祈りを捧げる習慣があり、ラテン語の数字の9から「ノベナ」と呼ばれています。さまざまな機会にノベナの祈りが捧げられますが、特に聖霊降臨祭前と降誕祭前のノベナが知られています。

 フィリピン出身の信徒の方々には、早朝に集まりノベナのミサに与る「シンバンガビ」が有名で、東京でも、主に夕方ですが、このミサが捧げられる教会があります。教会は、主の降誕を喜び祝うために、心を込めて準備を進めます。

 ミカの預言は、エルサレム近くの小さな町ベツレヘムから、イスラエルの王が現れると記し、「主の力、威厳を持って」治める王の支配こそが、神の平和の実現である、と述べています。

 ヘブライ人への手紙は、旧約時代のいけにえが、形に捕らわれ心の伴わないものとなったことで神から離れる結果となったことを指摘し、「新約の契約は『御心を行うために』来られた主ご自身のいけにえによって、ただ一度で成し遂げられ、私たちは自らの救いのために形式的な祈りを捧げ続けるものではなく、新しい命に招いてくださる主を讃え、神を賛美するのだ」と指摘します。

 ルカ福音は、聖母マリアのエリザベトご訪問を記しています。教皇フランシスコは使徒的勧告k「福音の喜び」の終わりで、マリアのご訪問に触れ、「マリアは… すぐに動かれる聖母、人に手を貸すために、自分の村から『急いで』出掛ける方です。正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです(288項)」と記しています。

 私たちが待ち望んでいる救い主は、形式的な崇敬を求めているのではなく、福音の実現が待ち望まれている地へ出向いていって、神の望まれる秩序を打ち立て平和を実現するように、と私たちを招いておられます。主ご自身が、その道程を共に歩んでくださいます。

 私たちが今、共に歩んでいるシノドスの道は、まさしく主が共に歩んでくださる道程です。準備文書に記されているいくつかの設問は、回答を求めているものではなく、それを基にした「小さなグループでの振り返りと分かち合い」のための手引きです。

 今歩んでいるシノドスの道程は、小さな会議をたくさんすることではなくて、まず「教会とは一体何であるのか」の共通理解を深め、それが共に歩む神の民なのだ、という認識を共有し、その上で、歩み続けるために、小さなグループでの振り返りと分かち合いが求められています。東京教区で毎週提供しているビデオで是非、学びを深めていただき、その後に、小さなグループで祈りのうちに分かち合いを進めていただくことを期待しています。

 準備文書の手引きの設問で2番目に「聴くこと」の大切さが指摘され、次のように記されています。

 「聞くことは最初の一歩ですが、それには偏見のない、開かれた精神と心が必要です。私たちの部分教会は、誰に対し『耳を傾ける必要がある』でしょうか… 耳を傾けることを妨げている偏見や固定観念を認識していますか」

 聖母は、天使のお告げに耳を傾ける方です。共に歩まれる主ご自身も、私たちの声に耳を傾けてくださる方です。私たちは、神の民として共に歩もうとするとき、互いの声に耳を傾けているでしょうか。声を拾い上げようとしているでしょうか。振り返りたいと思います。

(編集「カトリック・あい」)

2021年12月18日

・教皇説教師の待降節黙想会講話③「 キリストが『女から生まれた』意味は」

Pope Francis listens to Cardinal Cantalamessa's second Advent SermonPope Francis listens to Cardinal Cantalamessa’s second Advent Sermon  (Vatican Media)

(2021.12.17 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇付きの説教師、ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が17日、教皇フランシスコとバチカンの高官たちが参加する待降節黙想会で3回目、最終の講話を「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者として遣わされた」(聖パウロのガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)をテーマに行なった。

*「女から生まれた」ことはキリストの人間性の証拠

 枢機卿は、まず、「女から生まれた」という言葉に注目し、「この言葉が無ければ、キリストは『天上的な、肉体を持たない幻想』ーつまりキリスト仮現説(カトリック・あい注:キリスト教の神学、キリスト論において、イエスの身体性を否定する教説)が広げようとしたキリスト像ーになるだろう、と述べた。

 そして、「『女から』、肉体を持って生まれることは、『キリストの人間性の明確な証拠』です」と、聖レオ一世教皇(390年 – 461年)の言葉を引用して強調した。

*聖母マリア、教会、個々のキリスト教徒は結ばれている

 枢機卿は、聖パウロが聖母マリアを「女性」と呼ぶことで、「『イブ』から始まり、『太陽をまとって月を足元に置いた黙示録の女性』で終わる長い聖書の伝統の中に、彼女-教会ーを置いています」、さらに「このことはまた、ヨハネ福音書の中で、カナの婚宴とゴルゴタで、ご自分の母に言及されたイエスのなさり方を反映しています」と指摘。

 このようにして「教父たちは、教会、聖母マリア、そして個々のキリスト教徒のイメージを密接に結びつけ」ており、聖書が一つについて述べていることは、他の二つにも同様に適用することができる、として次のように語った。

 「霊感を受けた聖書の中で、聖母マリアー教会ーについて普遍的な意味で語られていることは、聖母マリアの個人的な意味で理解されており、乙女である聖母マリアの特定の意味で語られていることは、聖母ー教会ーの一般的な意味で理解されています… ある意味で、すべてのキリスト教徒は、神の御言葉の花嫁、キリストの母、娘そして姉妹であり、それはそのまま、汚れのない、実り豊かな存在である、と見られているのです。これらの言葉は、教会について普遍的な意味で、マリアについて特別な意味で、個々のキリスト教徒について特定の意味で使われています(Isaac of Stella=12世紀のイングランドの神学者、哲学者=の言葉より)」

 *キリストは教会にこの世へのメッセージを託した

 「ですから、マリアがその胎にイエスを宿し、この世のために、イエスを肉体として産んだように、教会も、あらゆる年齢の人のために、”イエスを産まねば”なりません… 教会を見る人は誰であっても、そこに目を止めるのでなく、イエスに目を向けるべきなのです」と枢機卿は続け、「これは、教会が自己言及的にならないようにする、非常に努力を要する取り組みであり、現在の最も素晴らしい二人の教皇、ベネディクト16世とフランシスコが頻繁に強調されているテーマでもあります」と述べた。

 さらに「キリストは、救いのメッセージを教会に託し、この世に教会を派遣したのですーもっとも、多くの人がいまだに、そのメッセージを受け取ることを無意識に夢見ている状態ではありますが」と付け加えた。

*だが、教会内部には様々な危険、”分裂の壁”が潜む

 だが、「そのようなメッセージを託された教会の内部には、さまざまな危険と”分裂の壁”が潜んでいる。その中には、行き過ぎた官僚主義、意味のない祭儀の残滓、祭服、昔の法律、そして今では瓦礫に過ぎない論争などが含まれています」と警告した。

 また、枢機卿は「世界の周辺部に手を差し伸べ、キリストのメッセージを届けることで、教会を『前進』させた」として、教皇フランシスコに感謝を表明。

 さらに、「個々のキリスト教徒は、この世のために、キリストを負わなければなりません」と述べ、次のように指摘した。

*”キリストの母”に必要なのは、御言葉を聴き、実践すること

 「福音書の中で、イエスは”キリストの母”になる方法を私たちに説明しています。それは御言葉を聴いて、実践することです(ルカ福音書8章21節参照)。この二つが必要です。マリアも、この二つのプロセスを通して、キリストの母になりました。キリストを胎に宿し、そしてキリストを産むことによってです」

 同時に、枢機卿は、二つの形の”精神的中絶”を警告。その一つは、「イエスを胎に宿すが、産まない」ーつまり、「御言葉を進んで受け入れるが、それを具体的な行動で実践しない」ことであり、もう一つは、「”体外受精”のように、キリストを胎に宿さずに、産む」ことだ。

 「このような人たちは、優しさ、神の愛、あるいは正しい意図によって動機づけられることなく、多くの良いことを演じます。習癖や偽善で動機づけられた行為です。私たちの行いは、それと異なり、心からの、神の愛と信仰に根差したものである場合に限って、良い行いなのです」と強調。

*実践に必要な「健全な識別」

 そして、心の中で考えことを実践しようとする際に必要なこととして、「健全な識別」を挙げ、次のように語った。

 「その際、私たちは1つのことに注意する必要があります。それは、新しい人生を送るという決意や決断を、私たちの生き方や習慣を変えるような、表に見えるようなやり方で、速やかに具体的​​な行動に移さねばならない、ということです。決断が実行されないなら、イエスは胎に宿られますが、お生まれにはなりません。”霊的な堕胎”になってしまう」と改めて警告した。

*まず、「ほんの少しの沈黙」から始めよう

 最後に枢機卿は「まず始めるべきは、『私たちの周りと私たちの心の中に、ほんの少しの沈黙』を作ることです。そうすることで、私たちは、処女マリアによってこの世に生を受けたイエスを取り巻いた”瞑想的な沈黙”を映し出すことができるでしょう」と講話を締めくくった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

2021年12月18日