・教皇説教師の待降節黙想会講話③「 キリストが『女から生まれた』意味は」

Pope Francis listens to Cardinal Cantalamessa's second Advent SermonPope Francis listens to Cardinal Cantalamessa’s second Advent Sermon  (Vatican Media)

(2021.12.17 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇付きの説教師、ラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が17日、教皇フランシスコとバチカンの高官たちが参加する待降節黙想会で3回目、最終の講話を「時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者として遣わされた」(聖パウロのガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)をテーマに行なった。

*「女から生まれた」ことはキリストの人間性の証拠

 枢機卿は、まず、「女から生まれた」という言葉に注目し、「この言葉が無ければ、キリストは『天上的な、肉体を持たない幻想』ーつまりキリスト仮現説(カトリック・あい注:キリスト教の神学、キリスト論において、イエスの身体性を否定する教説)が広げようとしたキリスト像ーになるだろう、と述べた。

 そして、「『女から』、肉体を持って生まれることは、『キリストの人間性の明確な証拠』です」と、聖レオ一世教皇(390年 – 461年)の言葉を引用して強調した。

*聖母マリア、教会、個々のキリスト教徒は結ばれている

 枢機卿は、聖パウロが聖母マリアを「女性」と呼ぶことで、「『イブ』から始まり、『太陽をまとって月を足元に置いた黙示録の女性』で終わる長い聖書の伝統の中に、彼女-教会ーを置いています」、さらに「このことはまた、ヨハネ福音書の中で、カナの婚宴とゴルゴタで、ご自分の母に言及されたイエスのなさり方を反映しています」と指摘。

 このようにして「教父たちは、教会、聖母マリア、そして個々のキリスト教徒のイメージを密接に結びつけ」ており、聖書が一つについて述べていることは、他の二つにも同様に適用することができる、として次のように語った。

 「霊感を受けた聖書の中で、聖母マリアー教会ーについて普遍的な意味で語られていることは、聖母マリアの個人的な意味で理解されており、乙女である聖母マリアの特定の意味で語られていることは、聖母ー教会ーの一般的な意味で理解されています… ある意味で、すべてのキリスト教徒は、神の御言葉の花嫁、キリストの母、娘そして姉妹であり、それはそのまま、汚れのない、実り豊かな存在である、と見られているのです。これらの言葉は、教会について普遍的な意味で、マリアについて特別な意味で、個々のキリスト教徒について特定の意味で使われています(Isaac of Stella=12世紀のイングランドの神学者、哲学者=の言葉より)」

 *キリストは教会にこの世へのメッセージを託した

 「ですから、マリアがその胎にイエスを宿し、この世のために、イエスを肉体として産んだように、教会も、あらゆる年齢の人のために、”イエスを産まねば”なりません… 教会を見る人は誰であっても、そこに目を止めるのでなく、イエスに目を向けるべきなのです」と枢機卿は続け、「これは、教会が自己言及的にならないようにする、非常に努力を要する取り組みであり、現在の最も素晴らしい二人の教皇、ベネディクト16世とフランシスコが頻繁に強調されているテーマでもあります」と述べた。

 さらに「キリストは、救いのメッセージを教会に託し、この世に教会を派遣したのですーもっとも、多くの人がいまだに、そのメッセージを受け取ることを無意識に夢見ている状態ではありますが」と付け加えた。

*だが、教会内部には様々な危険、”分裂の壁”が潜む

 だが、「そのようなメッセージを託された教会の内部には、さまざまな危険と”分裂の壁”が潜んでいる。その中には、行き過ぎた官僚主義、意味のない祭儀の残滓、祭服、昔の法律、そして今では瓦礫に過ぎない論争などが含まれています」と警告した。

 また、枢機卿は「世界の周辺部に手を差し伸べ、キリストのメッセージを届けることで、教会を『前進』させた」として、教皇フランシスコに感謝を表明。

 さらに、「個々のキリスト教徒は、この世のために、キリストを負わなければなりません」と述べ、次のように指摘した。

*”キリストの母”に必要なのは、御言葉を聴き、実践すること

 「福音書の中で、イエスは”キリストの母”になる方法を私たちに説明しています。それは御言葉を聴いて、実践することです(ルカ福音書8章21節参照)。この二つが必要です。マリアも、この二つのプロセスを通して、キリストの母になりました。キリストを胎に宿し、そしてキリストを産むことによってです」

 同時に、枢機卿は、二つの形の”精神的中絶”を警告。その一つは、「イエスを胎に宿すが、産まない」ーつまり、「御言葉を進んで受け入れるが、それを具体的な行動で実践しない」ことであり、もう一つは、「”体外受精”のように、キリストを胎に宿さずに、産む」ことだ。

 「このような人たちは、優しさ、神の愛、あるいは正しい意図によって動機づけられることなく、多くの良いことを演じます。習癖や偽善で動機づけられた行為です。私たちの行いは、それと異なり、心からの、神の愛と信仰に根差したものである場合に限って、良い行いなのです」と強調。

*実践に必要な「健全な識別」

 そして、心の中で考えことを実践しようとする際に必要なこととして、「健全な識別」を挙げ、次のように語った。

 「その際、私たちは1つのことに注意する必要があります。それは、新しい人生を送るという決意や決断を、私たちの生き方や習慣を変えるような、表に見えるようなやり方で、速やかに具体的​​な行動に移さねばならない、ということです。決断が実行されないなら、イエスは胎に宿られますが、お生まれにはなりません。”霊的な堕胎”になってしまう」と改めて警告した。

*まず、「ほんの少しの沈黙」から始めよう

 最後に枢機卿は「まず始めるべきは、『私たちの周りと私たちの心の中に、ほんの少しの沈黙』を作ることです。そうすることで、私たちは、処女マリアによってこの世に生を受けたイエスを取り巻いた”瞑想的な沈黙”を映し出すことができるでしょう」と講話を締めくくった。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2021年12月18日