
教皇フランシスコ、3月21日、バチカンでの一般謁見 – AP
(2018.3.21 バチカン放送)教皇フランシスコは21日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われた。
「ミサ聖祭」をテーマに続けておられるカテケーシス(教会の教えの解説)の前に、この日が「春分の日」であることに言及。信仰を花々に喩え、「春になると草木は花を開きますが、水やりの足りないものや、根が切れてしまった草木は、十分に花を咲かせることができません。信仰も同様で、愛徳の業や善を行うことで花開くべきキリスト教生活も、しっかりした根を持たなければ、花を咲かせることはできないのです」と話された。そして、「信仰の根とは何でしょうか。それはイエスです」と語り、「イエスという根にしっかりつながり、祈りと秘跡を通してその根元に水をやることで、この春、花開く復活祭を迎えるように」と信者たちに希望を述べられた。
ミサ聖祭をめぐるカテケーシスで、「交わりの儀」の「聖体拝領」について考察され、まず、「キリストは、私たちをご自分と一致させるために、み言葉と聖体を通してご自身を与えられ、私たちはキリストによって養われるために、エウカリスチアを記念します」とし、「最後の晩餐でご自分の体と血を弟子たちに与えられたイエスは、今日も、司祭と助祭、正式に任命された聖体授与の臨時の奉仕者の手を通して、兄弟たちに命のパンと、救いの杯を与え続けています」と語られた。
司祭は聖別されたパンを信者たちに示した後、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」という言葉と共に、喜びと聖性の源であるイエスとの親密な一致を体験するよう、信者たちを聖体拝領に招くが、「この招きは、私たちを喜びに満たすと共に、信仰に照らして、私たちの良心を問い、自分の罪深さを意識させ、罪からの救いを願わうように導くもの」であり、「それゆえに、私たちは信仰のうちに『神の子羊、世の罪を除きたもう主』に向かい、『主よ、私はあなたをお迎えするような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、私の魂は癒されます(日本の教会の典礼では=あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう=)』と祈るのです」。
聖体拝領の意味について、「聖体を拝領する ために行列を作って進むのは私たちですが、実際には、キリストご自身から私たちに会いに来られ、私たちをご自身に似た者にすることを望まれるのです」「『聖体に養われる』とは、私たちが受け取るものに似るように変容させられること。聖体を拝領する度に、私たちはイエスにおいて変容され、イエスにより似た者となります」「パンとぶどう酒が主の体と血に変化したように、聖体を拝領する者は、信仰を通して、『生きたエウカリスチア(聖餐)』へと変容されるのです」と説かれ、司祭は、聖体を信者たちに授ける時、「キリストのからだ」と言い、信者たちは「アーメン」と答えて感謝を表し、キリストと一致するための努力を自覚するが、「キリストと一致しながら、エゴイズムから抜け出し、すべての人がイエスのもとにただ一つとなること、これが聖体拝領の素晴らしさでです」と強調された。
そして、「教会は、信者がミサでキリストの御体を拝領することを熱心に願い、聖体礼拝は、しるしの観点からは(「カトリック・アイ」注:パン=キリストの体=とぶどう酒=キリストの血=の)両形態のもとになされることで、より充実した形式を備えるが、カトリックの教義では、パンの形態だけの拝領でも両形態と同じ恵みが与えられると教えています」と説明され、聖体拝領時の具体的な所作について「通常、信徒は行列を作って聖体拝領へと進み、司教協議会が定めるところに従い、崇敬をもって立って聖体を拝領するか、あるいは跪いて拝領します。その際、聖体を口で受けるか、許可のある所では、手の上に受けることができます」と話された。
さらに、聖体拝領後の沈黙の祈りは「聖体を受けた恵みを心のうちに大切に守るために必要なこと。沈黙の時を少し長くとり、心の中でイエスと話すことが、私たちにとって大きな助けになります」「その際、詩編や賛歌を歌うこともできますが、これらも私たちが主と共にいるための助けになる」と述べられた。
感謝の典礼は、聖体拝領後の拝領祈願によって終わるが、そこで司祭は全会衆を代表し、神に向かい、その食卓に招かれたことを感謝し、受け取ったものがわたしたちの命を変容させることを祈る。教皇は「エウカリスチアは、私たちがキリスト者として生き、よい実を実らせることができるように、私たちを強めてくれます」と締めくくられた。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

ついて教皇フランシスコ、3月7日、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見 – AP
(2018.3.7 バチカン放送)
教皇フランシスコは7日の水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「ミサ聖祭」をテーマにお話を続けられ、今回は「感謝の典礼」の「エウ カリスチアの祈り(感謝の祈り)」を取り上げられた。
ミサの後半「感謝の典礼」で、パンとぶどう酒が祭壇に運ばれ、パンとカリスをそれぞれ供える祈りに続き、奉納祈願が行われた後、感謝と聖別の祈りである「エウカリスチアの祈り」が始まる。祭儀全体の中心と頂点となる荘厳な祈りについて、教皇は次のように説明された。
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「エウカリスチアの祈り」は、イエスが最後の晩餐で使徒たちと共に食事の席に就いて、パンと杯を取り、感謝の祈りを捧げた( マタイ福音書26章27節; マルコ 同14章23節; ルカ同 22章17.19節; コリントの信徒への手紙1 11章24節)行為に対応しています。
イエスが捧げた感謝は、私たちを救いのいけにえに参与させながら、私たちのすべてのエウカリスチアの中で再生されます。司祭は、心を込めて神を仰ぎ、賛美と感謝を捧げるように会衆を招いた後、そこにいるすべての人を代表し、聖霊において、キリストを通して、御父に向かい、感謝の祈りを高らかに唱えます。
エウカリスチアの祈りの意義は、すべての会衆が神の偉大な業をたたえ、いけにえを捧げることで、キリストと一致すること。一致のためには、理解が必要です。そのために、教会は、人々が、この賛美と祈りにおいて、司祭と一致できるように、人々が理解できる言葉で、これを記念することを望みました。
キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです(カトリック教会のカテキズム1367項)。ミサ典礼書には、様々な形の奉献文がありますが、そのどれもが美しいものであり、特徴的な要素から構成されています。
叙唱では、特に救い主として御子を遣わされたことに対し、神の賜物に感謝し、「感謝の賛歌」(サンクトゥス)で締めくくられます。ここで、すべての会衆は、天使と聖人たちの声に自らの声を合わせ歌い、神を賛美し、神の栄光をたたえます。
続いて、パンとぶどう酒の供えものを、聖霊によって尊いものにされるように、祈りが捧げられます。
そして、聖霊の働きと、キリストのことばの効力によって、パンとぶどう酒は、キリストの御からだと御血に変化し、キリストはエウカリスチアの秘跡に現存するものとなるのです。(カトリック教会のカテキズム1375項)それは、「これは私のからだ、これは私の血である」とキリストご自身が言われたとおりです。
聖変化の後で司祭が「信仰の神秘」と言うように、これはまさに信仰の神秘。主が栄光のうちに再臨することを待ち、主の死を思い、復活をたたえながら、教会は御父に天と地を和解させるいけにえを捧げるのです。
キリストの過ぎ越しのいけにえと共に、教会は自らを捧げ、「キリストのうちにあって、ひとつのからだ、ひとつの心」となるよう、聖霊に満たされて祈ります。キリストの御からだに養われ、今日、この世においてキリストの生きたからだとなること。それが聖体の秘跡の恵みであり、実りです。
教会は、キリストのいけにえと、その執り成しに一致し、カタコンベに教会の象徴としてしばしば描かれている両腕を広げて祈る婦人のように、熱心に祈ります。十字架上で腕を広げたキリストのように、キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、教会はすべての人のために自らを捧げ、執り成しをする。(カトリック教会のカテキズム1368項)子らを、愛の完徳のもとに集められるように、教皇や司教と一致して祈ります。ミサ中に呼ばれる教皇や司教の名は、普遍の教会と地方教会の交わりのうちに、それが祝われているしるしです。
祈りは、聖母マリアや聖人たちと共に、生きている人、亡くなった人、教会のすべての成員のために神に捧げられます。エウカリスチアの祈りの中では、誰一人忘れられることはありませんが、締めくくりの「栄唱」が思い出させるように、すべては神へと導かれねばなりません。もし、親族や友人で祈りを必要とする人、または亡くなった人がいれば、彼らの名をここで沈黙のうちに思い起こすか、あるいはその名を記して、ミサの中で呼んでもらうことができます。
ミサは、キリストの犠牲であり、その贖いは無償です。献金は任意にできますが、ミサそのものは、お金を支払って行うものではない、ということを理解する必要があります。
エウカリスチアの祈りの意味をしっかり理解するなら、ミサにより有意義に参加することができます。そして、この祈りは、イエスの弟子であるために欠かすことのできない3つの態度、「いつ、どこでも感謝する」「私たちの生活を愛の贈りものとする」「教会においてすべての人と具体的な交わりを築く」ことを、私たちに教えてくれるでしょう。
(バチカン放送の日本語訳をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

聖ペトロ大聖堂に集った一般謁見参加者に挨拶する教皇フランシスコ、2月28日 – REUTERS
(2018.2.28 バチカン放送)教皇フランシスコが28日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で、「ミサ聖祭」をめぐるカテケーシスを続けられた。この日はミサの後半の部分、「感謝の典礼」の考察に進み、「奉納」をテーマに講話された。
ミサでは「ことばの典礼」に続いて「感謝の典礼」が行なわれるが、ここで教会は「多くのしるしを通して、イエスによって十字架の祭壇で結ばれた新しい契約の犠牲を、現存させ続けるのです」と前置きしたうえで、次のように説明された。。
「イエスの十字架の祭壇はキリスト教の最初の祭壇。私たちがミサを祝うため祭壇に近づく時、私たちの記憶は、最初の犠牲が捧げられた十字架の祭壇へと向かいます」「司祭は、主ご自身が最後の晩餐で行い、弟子たちに託されたこと、すなわち、パンと杯を取り、感謝を捧げ、弟子たちに与えて『皆、これを取って食べなさい… これを受けて飲みなさい。これはわたしのからだ、…これは私の血の杯。これをわたしの記念として行ないなさい』と言われたことを、主の代わりに行ないます」「教会は、このようなイエスの指示に忠実に、典礼をイエスの受難の前夜の言葉と行いに合わせて形作ってきたのです」
さらに、具体的に「パンとぶどう酒」を取り上げ、「『パンと杯を取った』というイエスの行為にならって、最初に供え物の準備として、パンとぶどう酒が祭壇に運ばれます。信徒はパンとぶどう酒を司祭のもとに運びますが、これは彼らも『教会の霊的な捧げもの』となることを意味します。信徒たち自身が祭壇にパンとぶどう酒を運ぶことは素晴らしいことです」と述べられた。
そして、パンとぶどう酒のしるしのもとに、信徒たちはその捧げものを司祭の手に渡し、司祭はそれを主の食卓である祭壇の上に置くが、「祭壇はミサ全体の中心、祭壇はキリスト」であり、「祭壇をミサの中心として、常に見つめねばなりません」と強調された。
また、「信徒たちの努力は『大地の実り、労働の恵み』として、『全教会のため』に捧げられ、『全能の父である神が受け入れてくださる』捧げ物となります」「感謝の典礼において、信者たちの生活や、苦しみ、祈り、労働などは、キリストのそのような行為と、キリストの完全な奉献に結ばれ、新たな価値を得ることになるのです」とされたうえで、「奉納」の意味について、次のように説明された。
「私たちの捧げものはわずかであっても、キリストはその『わずかなもの』を必要とされています。日常生活の中の善意や、開かれた心、聖体を通してキリストをふさわしく迎えるためによりよい状態でありたい、という望みを、キリストは私たちに期待されています」「こうしたわずかな捧げものが、キリストの御からだ、御血となって、パンを増やす奇跡(マルコ福音書6章38-44節)のように、キリストの肢体である教会において、すべての人を養い、一致させる聖体の恵みに変容するのです」「奉納において、司祭は教会のこの捧げ物を神が受け入れてくださるように願うことで、『私たちの貧しさ』と『神の豊かさ』の交換という、驚くべき恵みを祈ることになります」。
最後に、「ミサの奉納は、私たちに『自らを捧げる』という霊性を教えてくれます」と語った教皇は、「この霊性が私たちの日常や、人間関係、行動、苦しみなどを照らしてくれますように」と祈られた。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

教皇フランシスコ、1月31日、バチカンでの一般謁見 – AP
(2018.1.31 バチカン放送)教皇フランシスコは31日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見を行われ、「ミサ聖祭」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を再開され、「神とその民の対話である『ことばの典礼』」をテーマに話された。
その中で、まず、ミサの導入部に続く「ことばの典礼」は「神のみ業とご計画について耳を傾けるために集う私たちのために、ミサの本質をなす部分の一つ」と強調。ミサで聖書が読まれる時、「神ご自身がご自分の民に語りかけ、キリストご自身が言葉を通して福音を告げるのです」と語られた。
それゆえ、聖書の言葉-第一・第二朗読、答唱詩編、福音-が読まれる時、「私たち心を広げて、神ご自身が語りかける言葉に耳を傾け、他のことを考えたり、おしゃべりをしていてはいけません」としたうえで、「聖書のページは書かれたものから神によって話される生きた言葉となり、神は私たちにそれを聞くように、と呼びかけられます」と説かれた。
さらに、「神は私たちに語られ、私たちは、そのみ言葉に耳を傾けた後で、聞いたことを実行に移さなければなりません」「私たちは神のみ言葉を聞くことを必要としています。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイ福音書4章4節)とイエスが言われたとおり、それは人生にかかわる問題です」と指摘され、その意味で「ことばの典礼」は、「主が私たちの霊的生活の糧として並べてくださる”食卓のごちそう〟であり、食卓は、旧約・新約の両聖書から幅広く汲み上げた宝物に満ちあふれています」と述べられた。
続いて、典礼の一年間を導く共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)による3通りの周期の豊かさはもとより、第一、第二朗読の観想を助ける答唱詩編の重要性に触れながら、これらの朗読や聖書からとった歌の唱和は「共同体の、また信者一人ひとりの歩みに寄り添いながら、教会の交わりを表し、それを促していくのです」と語られ、「朗読を怠ること、あるいは聖書以外のテキストで置き換えることは禁じられています」とし、「み言葉を聞かず、別のもので代用することは、神とその民の対話を損じることになるのです」と注意された。
また教皇は「主のみ言葉は、私たちが道に迷わないために、欠くことのできない助け」とし、「典礼の中で響くみ言葉に養われ、照らされることなしに、どのようにして私たちは地上の巡礼を続けることができるでしょうか」と会衆に問われ、「神のみ言葉は、耳で聞くだけでは十分ではありません。み言葉の種を心に受け、それが実を結ぶようにしなくてはならないのです」「耳で聞いたみ言葉が心に移り、次に心から手に移り、良い業となっていくように」と会衆を促された。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

教皇フランシスコ、1月10日、バチカンでの一般謁見 – ANSA
(2018.1.10 バチカン放送)教皇フランシスコは10日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、ミサ聖祭をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、ミサの「栄光の賛歌」と「集会祈願」の部分について考察した。
教皇はまず、ミサの始めの「回心の祈り」で「信者たちは自らの思い上がりを脱ぎ捨てた後、罪びとであることを自覚し、赦しに対する希望のうちに、ありのままの姿で神と向かい合うことになる」と前回解説のポイントを改めて指摘したうえで、「まさにこの、人間の惨めさと神のいつくしみの出会いから、『栄光の賛歌』に表現される主への感謝が生まれてくるのです」と「栄光の賛歌」の解説に進まれた。
そして、栄光の賛歌の冒頭で「天のいと高きところには神に栄光」と、ベツレヘムでイエスが降誕した際の天使たちの歌が、天と地を結ぶ喜ばしい知らせとして再び繰り返され、「地には善意の人に平和あれ」と、祈りながら私たちもこれに関わっていく過程を示された。
「栄光の賛歌」に続いて、また「栄光の賛歌」がない場合は「回心の祈り」に続いて、「集会祈願」が唱えられる。「集会祈願」の内容は、典礼暦に沿いつつ、日ごとに変り、そのミサを特徴づけるものとなる。そして、司祭は「祈りましょう」と、信者たちをしばらくの間、沈黙の祈りに導くが、教皇はこの沈黙を「神の御前で良心を正し、それぞれの祈りを心にわき上がらせるために必要なものです」と指摘、「沈黙とは単に話さないことではなく、心の声、特に聖霊の声に耳を傾けることなのです」と強調された。。
さらに、祈りの前の沈黙は「気持ちを集中し、なぜ自分がそこ(ミサ)にいるのかを意識させ、心に耳をすまし、その心を神に向かって開くために重要」とし、「そこで私たちは、毎日の苦労や、喜び、苦しみを主に打ち明け、助けと寄り添いを求めると共に、病気や試練にある家族や友人のために祈り、教会と世界の未来を神に託すのです」と語られた。
司祭は一人ひとりの祈りを集め、会衆全体の名によって、共同の祈りを神に上げて、ミサの導入部は終了する。教皇は司祭たちに対し「この祈りの間、沈黙を大切にし、決してミサの進行を急ぐことのないように」と願われた。また、司祭は集会祈願を、初代教会のキリスト者のように両手を広げて祈るが、「その姿は十字架上で両手を広げたキリストに倣うものであり、キリストは祈りと共にそこにおいでになるのです」と話された。
「ローマ典礼の祈りは、簡潔であると同時に、豊かな意味に満ちています」とされた教皇は、「いかに神と向き合い、どのように何を神に願うのか、を学ぶために、ミサ以外の機会にもミサ典書の中の祈りを観想する」ように勧められた。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

教皇フランシスコ、12月13日、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見
(2017.12.13 バチカン放送)教皇フランシスコは13日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、ミサ聖祭をテーマに「なぜ日曜日にミサに行くのか」を考察された。
この中で、教皇はまず、「ミサ聖祭を日曜日に記念することは、教会生活の中心です」としたうえで、「キリスト者は、復活した主と出会い、主のみ言葉に耳を傾け、その食卓に養われ、教会、すなわちこの世におけるキリストの神秘体となるために日曜日のミサに行くのです」と話された。
そして、イエスの弟子たちは当初から、ヘブライ人が『週の初めの日』、ローマ人が『太陽の日』と呼んでいたこの日に、聖体におけるイエスとの出会いを記念していたが、「それはイエスが死者の中から復活し、弟子たちの前に姿を現され、彼らと共に食べ、彼らに聖霊を与えられた日であったためでした」と説明された。
また、聖霊降臨の日もキリストの復活から50日目の日曜日に当たることを指摘され、こうしたことから、「キリスト者にとって日曜日は、私たちと共に、私たちのためにおられる主の生きた現存、聖体を祝うことによって聖化された、聖なる日なのです」と語られた。
そのうえで、「ミサこそがキリスト教的な日曜日を作るのであり、キリスト教的日曜日はミサを中心に回っている、主との出会いの無い日曜日はありえません」と強調され、「世俗化した社会が、ミサ聖祭に照らされたキリスト教的意味を見失っている」ことに遺憾とされ、「祝日や、喜び、小教区共同体、連帯、心身の休息といった意味を取り戻すためにも、日曜日とミサの関係の認識を新たにする必要があります」と訴えられた。
ユダヤ教の安息日は土曜であり、ローマ社会は奴隷に休日を設けていなかったように、日曜日に休息する習慣は古代にはなく、「日曜日を休みとすることは、まさにキリスト教によってもたらされたものです」、さらに「聖体に力づけられ、奴隷ではなく、神の子として生きる、というキリスト教的意味が、休息の日としての日曜日を形作っているのです」「キリスト無しでは、私たちは日々の疲労や、不安、明日の心配に支配されてしまいますが、日曜日の主との出会いは、勇気と希望を持って今日を生きる力を与えてくれるのです」と語られた。
また、「『立派に生活し、隣人を愛すれば、日曜日のミサさえ行く必要がない』と言う人に対して、どう答えるべきだろうか」と問われた教皇は、「聖体の尽きることのない泉から、必要な力を汲みとること無しに、福音を実践することは不可能です」と言明。「なぜ日曜日のミサに与るのか。『それは教会の義務だから』と答えるだけでは、十分ではありません。主日のミサに参加するのは、ただイエスの恵み、私たちの間におられる、生き生きとした現存によってのみ、私たちがその教えを実践し、イエスの証し人となれるからなのです」と説かれた。