◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」④「日曜日にミサに出よう、主が今日を生きる力を与えてくれる」

教皇フランシスコ、12月13日、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見

(2017.12.13 バチカン放送)教皇フランシスコは13日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、ミサ聖祭をテーマに「なぜ日曜日にミサに行くのか」を考察された。

 この中で、教皇はまず、「ミサ聖祭を日曜日に記念することは、教会生活の中心です」としたうえで、「キリスト者は、復活した主と出会い、主のみ言葉に耳を傾け、その食卓に養われ、教会、すなわちこの世におけるキリストの神秘体となるために日曜日のミサに行くのです」と話された。

 そして、イエスの弟子たちは当初から、ヘブライ人が『週の初めの日』、ローマ人が『太陽の日』と呼んでいたこの日に、聖体におけるイエスとの出会いを記念していたが、「それはイエスが死者の中から復活し、弟子たちの前に姿を現され、彼らと共に食べ、彼らに聖霊を与えられた日であったためでした」と説明された。

 また、聖霊降臨の日もキリストの復活から50日目の日曜日に当たることを指摘され、こうしたことから、「キリスト者にとって日曜日は、私たちと共に、私たちのためにおられる主の生きた現存、聖体を祝うことによって聖化された、聖なる日なのです」と語られた。

 そのうえで、「ミサこそがキリスト教的な日曜日を作るのであり、キリスト教的日曜日はミサを中心に回っている、主との出会いの無い日曜日はありえません」と強調され、「世俗化した社会が、ミサ聖祭に照らされたキリスト教的意味を見失っている」ことに遺憾とされ、「祝日や、喜び、小教区共同体、連帯、心身の休息といった意味を取り戻すためにも、日曜日とミサの関係の認識を新たにする必要があります」と訴えられた。

 ユダヤ教の安息日は土曜であり、ローマ社会は奴隷に休日を設けていなかったように、日曜日に休息する習慣は古代にはなく、「日曜日を休みとすることは、まさにキリスト教によってもたらされたものです」、さらに「聖体に力づけられ、奴隷ではなく、神の子として生きる、というキリスト教的意味が、休息の日としての日曜日を形作っているのです」「キリスト無しでは、私たちは日々の疲労や、不安、明日の心配に支配されてしまいますが、日曜日の主との出会いは、勇気と希望を持って今日を生きる力を与えてくれるのです」と語られた。

 また、「『立派に生活し、隣人を愛すれば、日曜日のミサさえ行く必要がない』と言う人に対して、どう答えるべきだろうか」と問われた教皇は、「聖体の尽きることのない泉から、必要な力を汲みとること無しに、福音を実践することは不可能です」と言明。「なぜ日曜日のミサに与るのか。『それは教会の義務だから』と答えるだけでは、十分ではありません。主日のミサに参加するのは、ただイエスの恵み、私たちの間におられる、生き生きとした現存によってのみ、私たちがその教えを実践し、イエスの証し人となれるからなのです」と説かれた。

このエントリーをはてなブックマークに追加