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◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑭「聖体を受け、すべての人がイエスのもとに一つとなる」
ミサ聖祭をめぐるカテケーシスで、「交わりの儀」の「聖体拝領」について考察され、まず、「キリストは、私たちをご自分と一致させるために、み言葉と聖体を通してご自身を与えられ、私たちはキリストによって養われるために、エウカリスチアを記念します」とし、「最後の晩餐でご自分の体と血を弟子たちに与えられたイエスは、今日も、司祭と助祭、正式に任命された聖体授与の臨時の奉仕者の手を通して、兄弟たちに命のパンと、救いの杯を与え続けています」と語られた。
司祭は聖別されたパンを信者たちに示した後、「神の子羊の食卓に招かれた者は幸い」という言葉と共に、喜びと聖性の源であるイエスとの親密な一致を体験するよう、信者たちを聖体拝領に招くが、「この招きは、私たちを喜びに満たすと共に、信仰に照らして、私たちの良心を問い、自分の罪深さを意識させ、罪からの救いを願わうように導くもの」であり、「それゆえに、私たちは信仰のうちに『神の子羊、世の罪を除きたもう主』に向かい、『主よ、私はあなたをお迎えするような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、私の魂は癒されます(日本の教会の典礼では=あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう=)』と祈るのです」。
聖体拝領の意味について、「聖体を拝領する ために行列を作って進むのは私たちですが、実際には、キリストご自身から私たちに会いに来られ、私たちをご自身に似た者にすることを望まれるのです」「『聖体に養われる』とは、私たちが受け取るものに似るように変容させられること。聖体を拝領する度に、私たちはイエスにおいて変容され、イエスにより似た者となります」「パンとぶどう酒が主の体と血に変化したように、聖体を拝領する者は、信仰を通して、『生きたエウカリスチア(聖餐)』へと変容されるのです」と説かれ、司祭は、聖体を信者たちに授ける時、「キリストのからだ」と言い、信者たちは「アーメン」と答えて感謝を表し、キリストと一致するための努力を自覚するが、「キリストと一致しながら、エゴイズムから抜け出し、すべての人がイエスのもとにただ一つとなること、これが聖体拝領の素晴らしさでです」と強調された。
そして、「教会は、信者がミサでキリストの御体を拝領することを熱心に願い、聖体礼拝は、しるしの観点からは(「カトリック・アイ」注:パン=キリストの体=とぶどう酒=キリストの血=の)両形態のもとになされることで、より充実した形式を備えるが、カトリックの教義では、パンの形態だけの拝領でも両形態と同じ恵みが与えられると教えています」と説明され、聖体拝領時の具体的な所作について「通常、信徒は行列を作って聖体拝領へと進み、司教協議会が定めるところに従い、崇敬をもって立って聖体を拝領するか、あるいは跪いて拝領します。その際、聖体を口で受けるか、許可のある所では、手の上に受けることができます」と話された。
さらに、聖体拝領後の沈黙の祈りは「聖体を受けた恵みを心のうちに大切に守るために必要なこと。沈黙の時を少し長くとり、心の中でイエスと話すことが、私たちにとって大きな助けになります」「その際、詩編や賛歌を歌うこともできますが、これらも私たちが主と共にいるための助けになる」と述べられた。
感謝の典礼は、聖体拝領後の拝領祈願によって終わるが、そこで司祭は全会衆を代表し、神に向かい、その食卓に招かれたことを感謝し、受け取ったものがわたしたちの命を変容させることを祈る。教皇は「エウカリスチアは、私たちがキリスト者として生き、よい実を実らせることができるように、私たちを強めてくれます」と締めくくられた。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑬交わりの儀ー「主の祈り」と「平和の賛歌」の意味は
教皇フランシスコは14日、水曜恒例の一般謁見を行われ、「ミサ聖祭」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。この日は「感謝の典礼」に続く「交わりの儀」を考察された。
ミサでは、「感謝の典礼」の「エウカリスチアの祈り」の後、「交わりの儀」に入ると共に、「主の祈り」が皆で唱えられる。教皇は「主の祈り」について、単にキリスト教の多くの祈りの中の一つではなく、「イエスがわたしたちに教えられた偉大な祈り、『神の子らの祈り』です」と語られ、次のようにお話しになった。
「キリスト者にとって『主の祈り』は、洗礼を受けたその日から、イエスの御父に対する気持ちを自分たちのものとして心に響かせるようになる祈りです。『主の祈り』で、私たちはまず、神に向かって『父よ』と呼びかけますが、それは私たちが水と聖霊によって神の子として生まれ変わったからなのです。神の子とする霊を受けずに、誰も神を『アッバ、父よ』と親しみを込めて呼ぶことはできません(ローマの信徒への手紙8章15節参照)」
「『主の祈り』で、私たちは『日ごとの糧』を与えてくださるように願いますが、ここには神の子として生きるために必要な『聖体』への特別な言及があります。続けて『私たちの罪のゆるし』を願いますが、神のゆるしを受けるために『私たちも人をゆるす』ことが必要なのです。このように『主の祈り』は、私たちの心を神に開かせながら、私たちに兄弟愛を持つよう教えています。そして、悪から救ってくださるように祈ります」
「主の祈り」に続いて、司祭は、いつくしみ深い父が、すべての悪から私たちを救い、現代に平和を与えてくださるように祈ります。そして、神の御旨に従い、教会に平和と一致が与えられるように祈った後、「平和のあいさつ」がされる。ここでは、聖体拝領の前に、教会の一致と、互いの愛を表現するために、具体的な態度をもって、平和のあいさつが交換される。この箇所について、教皇は「兄弟愛を生きることのできない心、兄弟愛を傷つけられても、それを修復できない心には、キリストの平和は根付くことができません」と話された。
平和を態度で示した後、「パンを裂くこと」が行なわれる。初代教会の信者たちは、自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現をもって呼ぶようになった(カトリック教会のカテキズム1329項)。イエスが最後の晩餐で行なったパンを裂く行為は、「パンを裂いてくださったときにイエスだとわかった」(参照:ルカ福音書24章30-31節.35節)とエマオでの出来事に記される通り、復活後のイエスと出会った弟子たちを、それがイエスであると気付かせることになった。
聖体拝領の前には「平和の賛歌(アニュス・デイ)」が歌われる。ここには、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ福音書1章29節)と、洗礼者聖ヨハネが呼んだイエスの姿がある。教皇は、子羊が聖書の中で「贖い」と結び付けられてきたことを説明された(参照・出エジプト記 12章1-14節; イザヤ書53章7節; ペトロの手紙1・1章19節; ヨハネの黙示録7章14節)。祈りの中にある会衆は、世にいのちを与えるために裂かれたエウカリスチアのパンのもとに、真の神の子羊、すなわち贖い主キリストを認め、「われらをあわれみたまえ」。「われらに平安を与えたまえ」と祈る。教皇は「イエスご自身が教えてくださった『主の祈り』と共に、神にあわれみと平安を願う『平和の賛歌』は、神と兄弟たちとの交わりの源である聖体の祝宴に参加する準備をわたしたちのために整えてくれるものなのです」と説明された。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑫「感謝の祈り」と聖変化の深い意味
ミサの後半「感謝の典礼」で、パンとぶどう酒が祭壇に運ばれ、パンとカリスをそれぞれ供える祈りに続き、奉納祈願が行われた後、感謝と聖別の祈りである「エウカリスチアの祈り」が始まる。祭儀全体の中心と頂点となる荘厳な祈りについて、教皇は次のように説明された。
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「エウカリスチアの祈り」は、イエスが最後の晩餐で使徒たちと共に食事の席に就いて、パンと杯を取り、感謝の祈りを捧げた( マタイ福音書26章27節; マルコ 同14章23節; ルカ同 22章17.19節; コリントの信徒への手紙1 11章24節)行為に対応しています。
イエスが捧げた感謝は、私たちを救いのいけにえに参与させながら、私たちのすべてのエウカリスチアの中で再生されます。司祭は、心を込めて神を仰ぎ、賛美と感謝を捧げるように会衆を招いた後、そこにいるすべての人を代表し、聖霊において、キリストを通して、御父に向かい、感謝の祈りを高らかに唱えます。
エウカリスチアの祈りの意義は、すべての会衆が神の偉大な業をたたえ、いけにえを捧げることで、キリストと一致すること。一致のためには、理解が必要です。そのために、教会は、人々が、この賛美と祈りにおいて、司祭と一致できるように、人々が理解できる言葉で、これを記念することを望みました。
キリストのいけにえとエウカリスチアのいけにえは、ただ一つのいけにえです(カトリック教会のカテキズム1367項)。ミサ典礼書には、様々な形の奉献文がありますが、そのどれもが美しいものであり、特徴的な要素から構成されています。
叙唱では、特に救い主として御子を遣わされたことに対し、神の賜物に感謝し、「感謝の賛歌」(サンクトゥス)で締めくくられます。ここで、すべての会衆は、天使と聖人たちの声に自らの声を合わせ歌い、神を賛美し、神の栄光をたたえます。
続いて、パンとぶどう酒の供えものを、聖霊によって尊いものにされるように、祈りが捧げられます。
そして、聖霊の働きと、キリストのことばの効力によって、パンとぶどう酒は、キリストの御からだと御血に変化し、キリストはエウカリスチアの秘跡に現存するものとなるのです。(カトリック教会のカテキズム1375項)それは、「これは私のからだ、これは私の血である」とキリストご自身が言われたとおりです。
聖変化の後で司祭が「信仰の神秘」と言うように、これはまさに信仰の神秘。主が栄光のうちに再臨することを待ち、主の死を思い、復活をたたえながら、教会は御父に天と地を和解させるいけにえを捧げるのです。
キリストの過ぎ越しのいけにえと共に、教会は自らを捧げ、「キリストのうちにあって、ひとつのからだ、ひとつの心」となるよう、聖霊に満たされて祈ります。キリストの御からだに養われ、今日、この世においてキリストの生きたからだとなること。それが聖体の秘跡の恵みであり、実りです。
教会は、キリストのいけにえと、その執り成しに一致し、カタコンベに教会の象徴としてしばしば描かれている両腕を広げて祈る婦人のように、熱心に祈ります。十字架上で腕を広げたキリストのように、キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、教会はすべての人のために自らを捧げ、執り成しをする。(カトリック教会のカテキズム1368項)子らを、愛の完徳のもとに集められるように、教皇や司教と一致して祈ります。ミサ中に呼ばれる教皇や司教の名は、普遍の教会と地方教会の交わりのうちに、それが祝われているしるしです。
祈りは、聖母マリアや聖人たちと共に、生きている人、亡くなった人、教会のすべての成員のために神に捧げられます。エウカリスチアの祈りの中では、誰一人忘れられることはありませんが、締めくくりの「栄唱」が思い出させるように、すべては神へと導かれねばなりません。もし、親族や友人で祈りを必要とする人、または亡くなった人がいれば、彼らの名をここで沈黙のうちに思い起こすか、あるいはその名を記して、ミサの中で呼んでもらうことができます。
ミサは、キリストの犠牲であり、その贖いは無償です。献金は任意にできますが、ミサそのものは、お金を支払って行うものではない、ということを理解する必要があります。
エウカリスチアの祈りの意味をしっかり理解するなら、ミサにより有意義に参加することができます。そして、この祈りは、イエスの弟子であるために欠かすことのできない3つの態度、「いつ、どこでも感謝する」「私たちの生活を愛の贈りものとする」「教会においてすべての人と具体的な交わりを築く」ことを、私たちに教えてくれるでしょう。
(バチカン放送の日本語訳をもとに「カトリック・あい」が編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑪感謝の典礼-私たちのわずかな捧げものをキリストは求められる
ミサでは「ことばの典礼」に続いて「感謝の典礼」が行なわれるが、ここで教会は「多くのしるしを通して、イエスによって十字架の祭壇で結ばれた新しい契約の犠牲を、現存させ続けるのです」と前置きしたうえで、次のように説明された。。
「イエスの十字架の祭壇はキリスト教の最初の祭壇。私たちがミサを祝うため祭壇に近づく時、私たちの記憶は、最初の犠牲が捧げられた十字架の祭壇へと向かいます」「司祭は、主ご自身が最後の晩餐で行い、弟子たちに託されたこと、すなわち、パンと杯を取り、感謝を捧げ、弟子たちに与えて『皆、これを取って食べなさい… これを受けて飲みなさい。これはわたしのからだ、…これは私の血の杯。これをわたしの記念として行ないなさい』と言われたことを、主の代わりに行ないます」「教会は、このようなイエスの指示に忠実に、典礼をイエスの受難の前夜の言葉と行いに合わせて形作ってきたのです」
さらに、具体的に「パンとぶどう酒」を取り上げ、「『パンと杯を取った』というイエスの行為にならって、最初に供え物の準備として、パンとぶどう酒が祭壇に運ばれます。信徒はパンとぶどう酒を司祭のもとに運びますが、これは彼らも『教会の霊的な捧げもの』となることを意味します。信徒たち自身が祭壇にパンとぶどう酒を運ぶことは素晴らしいことです」と述べられた。
そして、パンとぶどう酒のしるしのもとに、信徒たちはその捧げものを司祭の手に渡し、司祭はそれを主の食卓である祭壇の上に置くが、「祭壇はミサ全体の中心、祭壇はキリスト」であり、「祭壇をミサの中心として、常に見つめねばなりません」と強調された。
また、「信徒たちの努力は『大地の実り、労働の恵み』として、『全教会のため』に捧げられ、『全能の父である神が受け入れてくださる』捧げ物となります」「感謝の典礼において、信者たちの生活や、苦しみ、祈り、労働などは、キリストのそのような行為と、キリストの完全な奉献に結ばれ、新たな価値を得ることになるのです」とされたうえで、「奉納」の意味について、次のように説明された。
「私たちの捧げものはわずかであっても、キリストはその『わずかなもの』を必要とされています。日常生活の中の善意や、開かれた心、聖体を通してキリストをふさわしく迎えるためによりよい状態でありたい、という望みを、キリストは私たちに期待されています」「こうしたわずかな捧げものが、キリストの御からだ、御血となって、パンを増やす奇跡(マルコ福音書6章38-44節)のように、キリストの肢体である教会において、すべての人を養い、一致させる聖体の恵みに変容するのです」「奉納において、司祭は教会のこの捧げ物を神が受け入れてくださるように願うことで、『私たちの貧しさ』と『神の豊かさ』の交換という、驚くべき恵みを祈ることになります」。
最後に、「ミサの奉納は、私たちに『自らを捧げる』という霊性を教えてくれます」と語った教皇は、「この霊性が私たちの日常や、人間関係、行動、苦しみなどを照らしてくれますように」と祈られた。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑩説教後の沈黙、「信仰宣言」「共同祈願」の深い意味
まず、先週の”復習”として、「福音朗読」と、それをふさわしい形で説明する「説教」に耳を傾けることは、「神の民の霊的な権利に応え、神のみことばの宝を豊かに受け取ることです」と語り、「主はミサの参加者、司牧者、信者、あらゆる年齢、状況の人に語りかけ、それぞれの心を叩き、慰め、呼びかけ、新しい命と和解を芽吹かせます」と話された。
それゆえ、「説教の後の『沈黙』は、受け取ったみことばの種が心の中に落ちるのを待ち、一人ひとりがそれを考えることを可能にする時間なのです」と続けられた。
この沈黙の後の、参加者一人ひとりの信仰の応えが「クレド」の形において「信仰宣言」される。「信仰宣言」は、会衆全員で唱えられるが、「それは、共に耳を傾けたみことばに対する共通の応えを象徴しています」としたうえで、「みことばを聞くことと、信仰の間には、生き生きとした結びつきがある。信仰とは人間の頭から生まれるのではなく、聖パウロが言うように『信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる』(ローマの信徒への手紙10章17節)ものなのです」と強調された。また、「信仰は、みことばを聞くことによって養われ、それによって秘跡へと導かれます」とも説かれた。
神のみことばに対する信者らの応えは、次に、教会と世界に必要なことを祈り求める「共同祈願」となって表現される。助祭か朗読者によって一つずつ意向が読まれ、会衆は声を合わせ「主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください」と願う。
教皇は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ福音書15章7節)というイエスの言葉を引用され、「信仰の薄いわたしたちは、それを信じられるように、主に自分の弱い信仰を助けてもらう必要があります」と話された。
そして、祈りの意向について、「世俗的な論理による要求や、自分のことだけを願うものは、その祈りが天まで上がっていくことはありません」、「神の民の祈りの意向は、教会共同体と世界が具体的に求めるものを代弁すべきで、ただの形式的な祈りや、近視眼的な祈りであってはなりません」と注意を促され、「言葉の典礼」を締めくくる「共同祈願」は、「ご自分のすべての子らをいつくしまれる神の眼差しを、わたしたちも持つように、と招いておられるのに応えるものなのです」とお話しになった。
(バチカン放送日本語版を「カトリック・あい」が編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑨「主は福音朗読を通して話される」「説教はよく準備して、短く」
教皇フランシスコが7日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われ、その中でミサ聖祭をめぐる一連のカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。
この日は「ことばの典礼」中の「福音朗読」と「説教」について考察された。神とその民の対話は「ことばの典礼」を通して育まれ、それは福音の告知で頂点に達する。「福音書朗読の前のアレルヤ唱、または四旬節の詠唱によって、会衆は主を迎え、主に挨拶し、そして主は福音を通して話されるのです」とアレルヤ唱が 果たす役割を説明された。
キリストの神秘が聖書の啓示全体を照らすように、「ことばの典礼」において、福音書は「先に朗読された旧・新の聖書の意味を理解する光となります」とされ、「それゆえ、典礼自体も、福音の朗読と他の朗読を区別するために、福音を特別な栄誉と崇敬で取り囲んでいる」。そのしるしとして、福音の朗読者は叙階された者に限られる、朗読者は最後に福音書に接吻する、会衆は福音朗読の際、起立し、額と口と胸に十字を切る、ろうそくや献香によって福音朗読を通して語られるキリストへの栄誉を表すーなどを挙げられた。
そして、「私たちが起立するのは、福音の朗読を聞くためではない。私たちに話しかけるキリストに対して、主との直接の対話のために、私たちは注意を傾ける必要があるからです」「ミサでは、話の筋を知るために福音を読むのではく、イエスの言われたこと、なさったことを認識するために、その生きた言葉に耳を傾けるのです」と強調された。さらに、「キリストの口とは、福音書である」という聖アウグスティヌスの言葉を引用され、「典礼の中でキリストが福音を告げておられるのなら、ミサに与る私たちはそれに答えなければなりません」と話された。
次に、「キリストはご自分のメッセージが届くように、『司祭の説教』も利用されます」とし、ミサの説教は「適当にその場をしのぐための話でも、会議や、授業での話でもありません。それは主とその民との間に始まった対話を改めて取り上げながら、それが生活の中で完成されることを目指すものであるべきです」と司祭たちの努力を要請。
さらに、教皇は「真の聖書注解は、私たちの聖なる生活」「聖母や聖人たちにとってそうであったように、主のみ言葉は私たちの中で、業となって形をとることで、その目的を達するのです」と話され、「説教を行う者はその役割を良く果たす必要があり、説教を聞く者たちも心を整え、注意を払う必要があります」としたうえで、説教者に「自分のための説教ではなく、イエスの代弁者としてイエスの言葉を説教するように」と求められ、「説教は、祈りとみ言葉の勉強のもとによく準備された、明解で、短いものでなくてはならず、10分を超えないことが望ましい」と具体的に説明された。
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑧「ミサの聖書朗読で神の言葉を聞くだけでなく、実行して」
それゆえ、聖書の言葉-第一・第二朗読、答唱詩編、福音-が読まれる時、「私たち心を広げて、神ご自身が語りかける言葉に耳を傾け、他のことを考えたり、おしゃべりをしていてはいけません」としたうえで、「聖書のページは書かれたものから神によって話される生きた言葉となり、神は私たちにそれを聞くように、と呼びかけられます」と説かれた。
さらに、「神は私たちに語られ、私たちは、そのみ言葉に耳を傾けた後で、聞いたことを実行に移さなければなりません」「私たちは神のみ言葉を聞くことを必要としています。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイ福音書4章4節)とイエスが言われたとおり、それは人生にかかわる問題です」と指摘され、その意味で「ことばの典礼」は、「主が私たちの霊的生活の糧として並べてくださる”食卓のごちそう〟であり、食卓は、旧約・新約の両聖書から幅広く汲み上げた宝物に満ちあふれています」と述べられた。
続いて、典礼の一年間を導く共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)による3通りの周期の豊かさはもとより、第一、第二朗読の観想を助ける答唱詩編の重要性に触れながら、これらの朗読や聖書からとった歌の唱和は「共同体の、また信者一人ひとりの歩みに寄り添いながら、教会の交わりを表し、それを促していくのです」と語られ、「朗読を怠ること、あるいは聖書以外のテキストで置き換えることは禁じられています」とし、「み言葉を聞かず、別のもので代用することは、神とその民の対話を損じることになるのです」と注意された。
また教皇は「主のみ言葉は、私たちが道に迷わないために、欠くことのできない助け」とし、「典礼の中で響くみ言葉に養われ、照らされることなしに、どのようにして私たちは地上の巡礼を続けることができるでしょうか」と会衆に問われ、「神のみ言葉は、耳で聞くだけでは十分ではありません。み言葉の種を心に受け、それが実を結ぶようにしなくてはならないのです」「耳で聞いたみ言葉が心に移り、次に心から手に移り、良い業となっていくように」と会衆を促された。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑦「集会祈願の前の『沈黙』は、聖霊の声に耳を傾けること」
教皇はまず、ミサの始めの「回心の祈り」で「信者たちは自らの思い上がりを脱ぎ捨てた後、罪びとであることを自覚し、赦しに対する希望のうちに、ありのままの姿で神と向かい合うことになる」と前回解説のポイントを改めて指摘したうえで、「まさにこの、人間の惨めさと神のいつくしみの出会いから、『栄光の賛歌』に表現される主への感謝が生まれてくるのです」と「栄光の賛歌」の解説に進まれた。
そして、栄光の賛歌の冒頭で「天のいと高きところには神に栄光」と、ベツレヘムでイエスが降誕した際の天使たちの歌が、天と地を結ぶ喜ばしい知らせとして再び繰り返され、「地には善意の人に平和あれ」と、祈りながら私たちもこれに関わっていく過程を示された。
「栄光の賛歌」に続いて、また「栄光の賛歌」がない場合は「回心の祈り」に続いて、「集会祈願」が唱えられる。「集会祈願」の内容は、典礼暦に沿いつつ、日ごとに変り、そのミサを特徴づけるものとなる。そして、司祭は「祈りましょう」と、信者たちをしばらくの間、沈黙の祈りに導くが、教皇はこの沈黙を「神の御前で良心を正し、それぞれの祈りを心にわき上がらせるために必要なものです」と指摘、「沈黙とは単に話さないことではなく、心の声、特に聖霊の声に耳を傾けることなのです」と強調された。。
さらに、祈りの前の沈黙は「気持ちを集中し、なぜ自分がそこ(ミサ)にいるのかを意識させ、心に耳をすまし、その心を神に向かって開くために重要」とし、「そこで私たちは、毎日の苦労や、喜び、苦しみを主に打ち明け、助けと寄り添いを求めると共に、病気や試練にある家族や友人のために祈り、教会と世界の未来を神に託すのです」と語られた。
司祭は一人ひとりの祈りを集め、会衆全体の名によって、共同の祈りを神に上げて、ミサの導入部は終了する。教皇は司祭たちに対し「この祈りの間、沈黙を大切にし、決してミサの進行を急ぐことのないように」と願われた。また、司祭は集会祈願を、初代教会のキリスト者のように両手を広げて祈るが、「その姿は十字架上で両手を広げたキリストに倣うものであり、キリストは祈りと共にそこにおいでになるのです」と話された。
「ローマ典礼の祈りは、簡潔であると同時に、豊かな意味に満ちています」とされた教皇は、「いかに神と向き合い、どのように何を神に願うのか、を学ぶために、ミサ以外の機会にもミサ典書の中の祈りを観想する」ように勧められた。
(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑥「弱さを認め、心を開き、慈しみを求める、それが『回心を求める祈り』」
教皇フランシスコが3日、バチカンで2018年初の水曜一般謁見を行われ、ミサ聖祭をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、ミサの導入部での「回心の祈り」について考察された。
まず、回心の祈りは「神と兄弟たちの前で自分の罪を認めることで、ミサ聖祭に、よりふさわしい態度で臨めるように助けるもの」と前置したうえで、「私たちは皆、罪びとであるがゆえに、司祭による回心への招きは、祈りの中にある共同体全体に向けられてます」と話された。
続いて、「自分のことや、自分の成功だけでいっぱいの心で、何を神に捧げることができるのでしょうか」と参加者に問いかけ、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ福音書8章9-14節)を引用して、「尊大な者は『自分は正しい人間だ』と自惚れているために、赦しを受けることができず、義とされて家に帰ったのは、自分の惨めさを知り、謙遜に憐れみを請う徴税人でした」とし、「沈黙のうちに良心の声を聴くことで、私たちの思いが神の思いとかけ離れ、私たちの言葉や行いが福音の教えと反対の世俗的なものだということに気づかせられます」と説明された。
そして、ミサの始めに行われる回心の祈りについて、共同体として参加者が共に告白するが、祈りの言葉は「私」(一人称単数)であり、この罪の総告解の式文を通して「一人ひとりが、思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯したことを、神と兄弟に対して告白するのです」としたうえ、「自分が行えたはずの善を行なわなかったという意味で、『怠り』も告白すべき罪の一つ」とし、「隣人に対して悪いことを行なわない、というだけでは十分ではない。善を行う機会を逃してはなりません」と説かれた。
また、神と兄弟の両方に自分の罪を告白することで、「罪が、私たちを神から引き離すだけでなく、兄弟たちからも引き離すものだ、ということを、私たちに理解させます」と語られ、さらに、「回心の祈りを声を出して唱える時、胸を手で打つ動作をしますが、これは罪がまさしく自分のものであると誠実に認め、他に転嫁するものではないことを表しています」と解説された。
回心の祈りでは、罪を告白した後、「聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟たちに、罪深い私のために神にお祈りください」と願うが、教皇はここに、神との完全な一致へ向かって歩む私たちを支える、諸聖人たちとの貴重な交わりを見出された。そして、「聖書は、罪の後に心を新たにする恵みに自分自身を開いた『回心者たち』の輝かしい模範を示してくれます」と述べ、「神よ、私を憐れんでください、御いつくしみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください」(詩編51章3節)と祈ったダビデ王や、父親のもとに戻ってきた放蕩息子、「神さま、罪びとの私を憐れんでください」(ルカ福音書18章13節)と祈った徴税人、また、聖ペトロや、ザアカイ、サマリアの女などの言葉や姿勢を思い起こすように言われた。
そして、「自分の弱さを認めると当時に、心を開き、私たちを変容させ、回心させる神のいつくしみを祈り求める。これがミサの始めに行なう回心の祈りの意味なのです」と締めくくられた。
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑤「ミサはすべての参加者による”シンフォニー”」
(2017.12.20 バチカン放送)
教皇フランシスコは20日、バチカンで水曜恒例の一般謁見をされた。パウロ6世謁見ホールのステージには、モミノキやプレゼピオ(イエスの降誕場面を再現した馬小屋の模型)が飾られ、降誕祭を待つ喜びを演出。
謁見中、教皇は「ミサ聖祭」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、ミサの儀式の具体的な進行の考察をされ、ミサの開祭の儀の所作や言葉、その意味を確認され、「ミサは『みことばの典礼』と『感謝の典礼』から成り、この二つの部分が緊密につながって、一つの礼拝の行為を形成しています」と説明。この前後に、導入としての「開祭の儀」、締めくくりとしての「閉祭の儀」が加わり、ミサの一連の流れを作っている、と話された。
そして、儀式は全体で一つのものであり、切り離すことのできないものだが、「それぞれの場面を説明することで、信者たちがこれらの聖なるしるしの意味を知り、ミサを完全に体験し、その素晴らしさを味わうことができますように」と前置されたうえで、まず、開祭の儀について、「回心の祈り」「あわれみの賛歌(キリエ・エレイソン)」「栄光の賛歌(グロリア)」「集会祈願」と、進行の一つひとつをたどりながら、この導入部の目的を「共に集った信者たちが一つの共同体となり、神のみことばに耳を傾け、感謝の典礼をふさわしく祝えるようにすることにあります」と説明された。
ミサは十字架のしるしをもって、共同体として神の礼拝を始めるが「この開祭の儀に遅刻しないことが大切であり、むしろ早めに着いてミサのために心の準備をすることが望ましいと思います」と述べられ、「時計を見ながら『説教の後に到着すれば、まだ間に合う』と思うのは、良くない習慣です」と注意された。
入祭の歌と共に、司式者である司祭や、奉仕者たちは行列をつくり聖堂の内陣に進み、祭壇に向かって礼をし、崇敬のしるしとして祭壇に接吻し、献香するが「これはミサがキリストとの愛の出会いであり、祭壇はキリストご自身の象徴であることを表しています」とし、「共同体が祭壇の周りに集うのは、共同体の中心であるキリストを見つめ、キリストの近くにいるためなのです」と話された。
さらに、司祭の言葉と所作に合わせて、一同は「父と子と聖霊のみ名によって」と十字架のしるしをきるが、「これによって信者たちは、これから行われるミサが『三位一体の神の名のもとに行われる』ことを意識します」とされ、「その意味や仕方を知らない子どもたちに、十字架のしるしを正しくすることを早くから教えるようにしましょう」と親たちに勧められた。そして、「十字架のしるしによって、私たちは自分自身の洗礼を思い起こすだけでなく、私たちのために人となられ、十字架上で死に、栄光のうちに復活されたイエス・キリストにおける神との出会いを、この典礼の祈りの中に改めて認識することができるのです」とその意味を強調された。
ミサでは、これに続いて、司祭が「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」とあいさつをし、会衆は「また司祭とともに」と答えるが、「ミサがこうして対話の形式のうちに始まり、様々な音程の声や、沈黙と共に、すべての参加者が一つの霊に生かされ、『一つのシンフォニー』を形作っていく」とされた。
そして「生まれつつあるこの祈りのシンフォニーは、すぐに感動的な場面にさしかかります。それは『自分の罪を意識するように』と司祭が人々を回心へと導く場面です」と指摘。「私たちは皆、罪びとであり、それゆえ、ミサの始まりに、赦しを請うのです」とされ、「この回心の祈りは、ただ犯した罪を思うだけでなく、神と兄弟の前で、謙遜と誠実さをもって告白するように」と促すもの、と説明。
最後に、「聖体が、キリストの死から命への、過ぎ越しの神秘を真に現存させるものであるなら、私たちがまず、すべきことは『キリストと共に新しい命に復活するために、自分たちの死の状況を認識することではないでしょうか」と語り、そのための「回心の祈り」の大切さを強調された。(バチカン放送の内容をもとに「カトリック・あい」が分かりやすく編集しました)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」④「日曜日にミサに出よう、主が今日を生きる力を与えてくれる」
この中で、教皇はまず、「ミサ聖祭を日曜日に記念することは、教会生活の中心です」としたうえで、「キリスト者は、復活した主と出会い、主のみ言葉に耳を傾け、その食卓に養われ、教会、すなわちこの世におけるキリストの神秘体となるために日曜日のミサに行くのです」と話された。
そして、イエスの弟子たちは当初から、ヘブライ人が『週の初めの日』、ローマ人が『太陽の日』と呼んでいたこの日に、聖体におけるイエスとの出会いを記念していたが、「それはイエスが死者の中から復活し、弟子たちの前に姿を現され、彼らと共に食べ、彼らに聖霊を与えられた日であったためでした」と説明された。
また、聖霊降臨の日もキリストの復活から50日目の日曜日に当たることを指摘され、こうしたことから、「キリスト者にとって日曜日は、私たちと共に、私たちのためにおられる主の生きた現存、聖体を祝うことによって聖化された、聖なる日なのです」と語られた。
そのうえで、「ミサこそがキリスト教的な日曜日を作るのであり、キリスト教的日曜日はミサを中心に回っている、主との出会いの無い日曜日はありえません」と強調され、「世俗化した社会が、ミサ聖祭に照らされたキリスト教的意味を見失っている」ことに遺憾とされ、「祝日や、喜び、小教区共同体、連帯、心身の休息といった意味を取り戻すためにも、日曜日とミサの関係の認識を新たにする必要があります」と訴えられた。
ユダヤ教の安息日は土曜であり、ローマ社会は奴隷に休日を設けていなかったように、日曜日に休息する習慣は古代にはなく、「日曜日を休みとすることは、まさにキリスト教によってもたらされたものです」、さらに「聖体に力づけられ、奴隷ではなく、神の子として生きる、というキリスト教的意味が、休息の日としての日曜日を形作っているのです」「キリスト無しでは、私たちは日々の疲労や、不安、明日の心配に支配されてしまいますが、日曜日の主との出会いは、勇気と希望を持って今日を生きる力を与えてくれるのです」と語られた。
また、「『立派に生活し、隣人を愛すれば、日曜日のミサさえ行く必要がない』と言う人に対して、どう答えるべきだろうか」と問われた教皇は、「聖体の尽きることのない泉から、必要な力を汲みとること無しに、福音を実践することは不可能です」と言明。「なぜ日曜日のミサに与るのか。『それは教会の義務だから』と答えるだけでは、十分ではありません。主日のミサに参加するのは、ただイエスの恵み、私たちの間におられる、生き生きとした現存によってのみ、私たちがその教えを実践し、イエスの証し人となれるからなのです」と説かれた。
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」③「ミサのため聖堂に入るとき、『ゴルゴダの丘』を思い起こそう」
教皇フランシスコは22日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で「ミサ」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)として、「キリストの過ぎ越しの神秘の記念としてのミサ」について考察された。
まず、教皇は「聖書的な意味での『記念』とは何でしょうか」と問いかけられ、「『記念』とは、単に過去の出来事を思い出す以上のこと、今ここに現存させ、私たちがその救いの力を分かち合うことができるようにすることなのです」としたうえで、「ミサを捧げるごとに、イエスは十字架上でなさったように、私たちに慈しみを注がれ、私たちの心、人生、そしてすべての世界を新たにしてくださいます」と説かれた。
さらに「聖体は、私たちを常に神の救いの業の頂点に導く」とされ、「十字架の犠牲が祭壇で行なわれるたびごとに、われわれのあがないのわざが行なわれる」という第二バチカン公会議の「教会に関する教義憲章」第3項の言葉を引用され、「日曜ごとに、私たちは、罪と死に対するキリストの勝利にあずかり、聖霊の力によって、その命を分けていただきます。ミサ聖祭で主の過ぎ越しの神秘にあずかることで、私たちが、殉教者たちのように証しをし、イエスがなさったように、死に打ち勝ち、他の人々を愛し、私たち自身を自らの意志で捧げるように力づけてくれるのです」と強調された。
また教皇は「もし、キリストの愛が私の中にあるなら、私は自分自身を完全に他人のために捧げることができる。殉教者たちは、まさにこのイエスの死に対する勝利の確信のもとに自らの命を捧げました。キリストの愛の力を体験して初めて、私たちは恐れず自分を自由に捧げることができるようになります」と語られ、「ミサのために聖堂に入る時、『自分はカルワリオ(ゴルゴダ=イエスが十字架につけられ、亡くなられた丘)に入るのだ。ここで、イエスは私のためにご自分の命を与えられたのだ』と考えるように。そうすれば、ミサの中でおしゃべりはなくなり、沈黙のうちに、救われたことに対する涙と喜びに満たされことになるでしょう」と助言された。
(バチカン放送の日本語訳をもとに、バチカン広報発表の公式英語文を参考にして編集しました。「カトリック・あい」)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」②「ミサは祈り、神との出会い、沈黙の時も必要」
(2017.11.15 バチカン放送)教皇フランシスコは11月15日、、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で、先週から始められた聖体祭儀をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、この日は「ミサは祈りである」をテーマに話された。
まず、ミサ聖祭の素晴らしさを理解するために、教皇はミサの一つの側面、「ミサは祈り。最高、至高にして、同時に最も具体的な祈り」ということから始めたいと述べられ、「祈りとは何でしょうか」と問いかけて、「祈りとは、まず何よりも神との対話、神との個人的な関係」と強調された。
そして「人生が主との最終的な出会いに向かう道であるように、人間は創造主である神との出会いにおいてのみ、自身の完全な実現をみるように関係づけられています」と語り、「創世記が語っているように、神はご自分にかたどって人を創造されましたが、御父、御子、聖霊の三位一体の神の、その愛の完全な関係に、私たちも入るように造られているのです」と説明された。
神は燃える柴の間から、モーセに「私はある。私はあるという者だ」(出エジプト記 3章14節)と言われ、さらに「あなたたちの先祖の神、イサクの神、ヤコブの神である主である」と神の民のためのその存在を示されたが、イエスもまた、弟子たちを呼ばれる時、「弟子たちがごご自分とともにいるようにと呼ばれます」とし、ミサは「イエスとともにいて、イエスを通し、神と兄弟たちとともにいるための、この上ない瞬間」と話された。
また、教皇は「祈りにおいては、すべての真の対話と同じように、沈黙することも必要です」とされ、「祈りの沈黙はイエスと一緒に沈黙しているということ」として、「私たちがミサに与る時、ミサの始まる直前まで隣の人とおしゃべりをしていることがありますが、その時間は、おしゃべりのための時間ではなく、イエスとの対話、イエスとの出会いを準備するための沈黙の時間なのです」と注意された。そして、「神は、神秘の沈黙からみことばを発せられ、私たちの心に響きます」と語り、福音書の中で「イエスもまた人里離れた場所で祈っていた」ことを思い起こされた。
弟子たちは、イエスの御父との深い関係を目の当たりにして、自分たちもそれに加わりたいと思い、「主よ、私たちにも祈りを教えてください」(ルカ福音書11章1節)と求めたが、イエスがまず教えたことは、「父よ」と、御父に子の信頼と謙遜を込めて呼びかけられねばならない、ということだったと指摘。「天の国に入るには、子どものように自らを小さくせねばならないのです」と子どもが親に寄せる信頼と親密に満ちた態度が求められている、とされた。
また、もう一つ大切なことは、「子どものように、驚きの心を持つこと」と述べ、「世界を知るためにいろいろなことを尋ねる好奇心と驚きに満ちた子供のような態度が、主との常に生き生きとした出会いに必要です」と話された。
さらに、イエスは、ニコデモという人物との出会い(ヨハネ福音書 3章1-21節)で、人は新たに生まれる必要がある、と説いていることを取り上げ、「新たに生まれるとはどういうことか、これが私たちの信仰の根本的な問い。新たに生まれ、やりなおす喜び、それはすべての真の信者の望みなのです」とされ、「私たちはその望みを持っているでしょうか。日常の忙しさの中で、本質を見つめる目、霊的な生活、祈りにおける主との出会いを見失っていないでしょうか」と問いかけられた。
そのうえで、「主は私たちの弱さにおいても、私たちを愛され、私たちを驚かせ続けられます」として、「主は、真の慰めの源である恵みを、聖体を通して私たちにお与えになり、ミサの中で、私たちの弱さに会いに来られるのです」と結ばれた。
(編集「カトリック・あい」)
◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」①「ミサで高く上げるのは私たちの心、ケータイではない」―「聖体」カテケーシスの初めに
(2017.11.8バチカン放送局)教皇フランシスコは、バチカンで11月8日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は今週から「聖体」をテーマに、新しいシリーズの考察を始められた。
考察の導入にあたるこの日、教皇は、教会の中心である「聖体」に眼差しを向け、神とわたしたちの関係をより完全に生きるために、ミサ聖祭の価値と意味を理解することを本質的な課題として示された。
キリスト教の2千年の歴史の中で、世界中の数多くの信者たちが自らの命に代えてまで聖体を守り、今日もまだ主日のミサに参加するために命を危険に晒さざるを得ない人々の状況に教皇は言及。
これに関連し教皇は、304年、ディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害下に起きた、北アフリカの信者たちの殉教について語った。
この共同体は家でミサを捧げている時に逮捕され、なぜ禁止されているミサを行なったのかと尋問された。これに対し、信者たちは「主日なしではわたしたちは生きられません」と答えた。
教皇は、信者たちのこの言葉は、「聖体を祝えないのならば、わたしたちのキリスト教生活は死んだものになる」ということを意味している、と話された。
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書6章 53~54節)というイエスの言葉を教皇は引用。北アフリカの信者たちの証しは、ミサ聖祭に参加し、主の食卓に近づくとはどういうことなのか、その問いをわたしたち一人ひとりに呼びかけていると語られた。
わたしたちはミサの中で、永遠の命のためにほとばしる命の水を求めているだろうか、自分の生活を賛美と感謝の霊的な捧げ物としているだろうか、と教皇は問いながら、聖体の最も深い意味は三位一体の神に対する「感謝」であると強調された。
第二バチカン公会議は、キリスト者を信仰の偉大さと、神との出会いの素晴らしさの理解へと導こうとする熱意に満ちていたと教皇は語り、教会が典礼によって生き続け、新たにされていくために、適切な典礼の改革を必要とし、真の刷新のために不可欠である、信者たちの典礼的育成に注意が払われたと振り返った。
ミサ聖祭は、わたしたちの命であるイエス・キリストがそこに現存されるという素晴らしい出来事であり、ミサに参加することは、主の贖いの犠牲と死を再び体験することであると教皇は説いた。
なぜミサの始まりに十字のしるしをし、罪を認めるのか、なぜミサには朗読があるのか、なぜ司祭はある部分で「心を込めて神を仰ぎ」と言うのか、など、ミサの一つひとつの意味を考えるよう招く中で、教皇は「ミサの中では心を高く上げて神を仰ぐのであって、携帯電話を高く上げるのではありません」と、ミサ中の携帯電話による撮影などの行為を注意された。
「秘跡の中で、触れるもの、見るものを通して、その秘跡の基礎に立ち返り、本質を再発見することが重要」と教皇は指摘。
キリストの傷を見て、触れて、それを認めたいと思った使徒聖トマスの願いは、わたしたちの願いでもあり、神の愛のしるしとしての秘跡、特に聖体の秘跡は、その人間の要求に特別な形で答えてくれるものと話された。