◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」③「ミサのため聖堂に入るとき、『ゴルゴダの丘』を思い起こそう」

教皇フランシスコ、11月22日、バチカンでの一般謁見 – AFP

(2017.11.22 バチカン放送)

 教皇フランシスコは22日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で「ミサ」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)として、「キリストの過ぎ越しの神秘の記念としてのミサ」について考察された。

 まず、教皇は「聖書的な意味での『記念』とは何でしょうか」と問いかけられ、「『記念』とは、単に過去の出来事を思い出す以上のこと、今ここに現存させ、私たちがその救いの力を分かち合うことができるようにすることなのです」としたうえで、「ミサを捧げるごとに、イエスは十字架上でなさったように、私たちに慈しみを注がれ、私たちの心、人生、そしてすべての世界を新たにしてくださいます」と説かれた。

 さらに「聖体は、私たちを常に神の救いの業の頂点に導く」とされ、「十字架の犠牲が祭壇で行なわれるたびごとに、われわれのあがないのわざが行なわれる」という第二バチカン公会議の「教会に関する教義憲章」第3項の言葉を引用され、「日曜ごとに、私たちは、罪と死に対するキリストの勝利にあずかり、聖霊の力によって、その命を分けていただきます。ミサ聖祭で主の過ぎ越しの神秘にあずかることで、私たちが、殉教者たちのように証しをし、イエスがなさったように、死に打ち勝ち、他の人々を愛し、私たち自身を自らの意志で捧げるように力づけてくれるのです」と強調された。

 また教皇は「もし、キリストの愛が私の中にあるなら、私は自分自身を完全に他人のために捧げることができる。殉教者たちは、まさにこのイエスの死に対する勝利の確信のもとに自らの命を捧げました。キリストの愛の力を体験して初めて、私たちは恐れず自分を自由に捧げることができるようになります」と語られ、「ミサのために聖堂に入る時、『自分はカルワリオ(ゴルゴダ=イエスが十字架につけられ、亡くなられた丘)に入るのだ。ここで、イエスは私のためにご自分の命を与えられたのだ』と考えるように。そうすれば、ミサの中でおしゃべりはなくなり、沈黙のうちに、救われたことに対する涙と喜びに満たされことになるでしょう」と助言された。

(バチカン放送の日本語訳をもとに、バチカン広報発表の公式英語文を参考にして編集しました。「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加