(2017.11.21 Crux Vatican Crorrespondent Inés San Martín)
ローマ発―教皇フランシスコは21日、お住いの聖マルタの家で朝ミサの説教で、 文化的、精神的に異なるものへの不寛容、神を信じる人々への迫害にもつながる「イデオロギー的植民地化」の動きが世界中で起きていることを改めて非難した。
教皇はこの「イデオロギー的植民地化」という言葉を、物質的に豊かな国、とくに西欧諸国が、人道援助や開発援助の条件として、自分たちの価値観を自分たちよりも貧しい社会に押し付けることによる、途上国社会への抑圧の一形態として、これまでも使っている。教皇はまた、罪につながる行為として「子殺し」という言葉を使い、世界の約60の国で実質的に合法化されている堕胎についても言及した。
この日の説教で、教皇はまず、今日の迫害には主に宗教的、政治・宗教的、文化的の三つのタイプがある、とし、この三つ目の迫害は、「全てを新しくしようとする新しい文化」が、対象となる人々のもつ伝統、歴史、宗教を取り払おうとすることで生じる、とした。バチカンは慣習として、聖マルタでの教皇の説教を公開しないが、今回は、バチカン・ラジオが報じた。
説教は、この日のミサで読まれた第一朗読、旧約聖書マカバイ記Ⅱの6章18節から31節「エレアザルの殉教」をもとにされた。優れた律法学者だったエレアザルは、異教礼拝の一環として豚肉を食べることを強いられ、これを拒んで処刑されたが、殺される前に、「主はその聖なる知識によって、知っておられる。わたしも死から逃れることができたにもかかわらず、肉体は鞭打たれて、過酷な苦しみを耐え忍んでいるが、魂は、主を畏れ敬うが故に、苦しみを快く受け入れている」と語ったと書かれている。
教皇によれば、エレアゼルが受けたのは文化的な迫害であり、神への忠誠を守るために死刑を宣告されたのであり、聖書に書かれた文化的迫害は、前日のミサで読まれた第一朗読から始まっている。そこに書かれていたのは、あるユダヤ人がユダヤの支配者となったアンティオコス・エピファネスに、同胞の生活様式を律法に反するギリシャ風に権限をくれるように願い出たこと。それが認められて、神の律法で育まれた人々が新しい文化を取り込み、その思想や神々ではなく、「新しい制度」が、それまでの「文化、宗教、律法」を消し去った。だが、人々の中にはエレアザルや他の殉教者のように、自分たちの伝統を尊び、そうした動きに抵抗する者もいた。そして、イデオロギー的文化破壊から迫害が生まれた。そして、「すべて均質で、相違を容認できないようにしたのです」。
そして、教皇は、アンティオコス・エピファネス、神の民の間に「新しい、異教の、世俗的な」慣習をはびこらせた「正道を踏み外したルーツだ」とし、「これが、信仰者さえも迫害するに至る文化的植民地化に通じる道なのです」と語り、「そうした見本を見るために、そこまで過去にさかのぼる必要はない。20世紀に行われた民族の大量虐殺を思い起こしてみましょう。それは新たな、文化的な植民地化です。『すべて均一、純粋な血を持たない者は除外‥』。。すべて同質。異質な者に居場所はない、他人に居場所はない、神の居場所はない、のです」と強く批判した。
さらに、教皇は、エレアザルは神への愛ゆえに自分の命を捧げ、「未来へのルーツ」になった、とし、新しいものがすべて悪いわけではないし、それは「福音を考えれば分かる」ことだが、「新しいものが、主、聖霊、神のルーツから来ているのか、それとも正道を踏み外したルーツから来ているのか」を見分けることが重要だ、と指摘した。
「もともと子供を殺すことは罪であり、出来なかった。だが、今日では、それが出来る。大きな問題にもならない。これが、正道を踏み外した斬新さ、なのです」としたうえで、神の斬新さには、決して「譲歩」がなく、過去を否定し、未来を無視し、今しか見ていないイデオロギー的な植民地化に対して、未来を見据えている、とし「(イデオロギー的植民化を進めようとする人々は)『時』ではなく、『瞬間』を生きており、それ故に、私たちに何も約束することができないのです」と強調。
違いを消し去ろうとする姿勢は「創造主に対する冒涜」。なぜなら、神の創造されたものを変えようとするから、とし、こうした動きに対処するには唯一つの薬しかない。それは、エレアザルがしたような神の証し、すなわち殉教である、と説いたうえで、「私はそのように生きています。異なった考えを持った人たちと対話しますが、私の証しは神の法によってなされるのです」と言明した。
そして、説教を、エレアザルが示した手本が「文化的、精神的な植民地化に直面し、混乱状態にある今、私たち皆を助けになり得ます」と皆を励ます形で締めくくった。