◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」②「ミサは祈り、神との出会い、沈黙の時も必要」

(2017.11.15 バチカン放送)教皇フランシスコは11月15日、、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で、先週から始められた聖体祭儀をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、この日は「ミサは祈りである」をテーマに話された。

 まず、ミサ聖祭の素晴らしさを理解するために、教皇はミサの一つの側面、「ミサは祈り。最高、至高にして、同時に最も具体的な祈り」ということから始めたいと述べられ、「祈りとは何でしょうか」と問いかけて、「祈りとは、まず何よりも神との対話、神との個人的な関係」と強調された。

 そして「人生が主との最終的な出会いに向かう道であるように、人間は創造主である神との出会いにおいてのみ、自身の完全な実現をみるように関係づけられています」と語り、「創世記が語っているように、神はご自分にかたどって人を創造されましたが、御父、御子、聖霊の三位一体の神の、その愛の完全な関係に、私たちも入るように造られているのです」と説明された。

 神は燃える柴の間から、モーセに「私はある。私はあるという者だ」(出エジプト記 3章14節)と言われ、さらに「あなたたちの先祖の神、イサクの神、ヤコブの神である主である」と神の民のためのその存在を示されたが、イエスもまた、弟子たちを呼ばれる時、「弟子たちがごご自分とともにいるようにと呼ばれます」とし、ミサは「イエスとともにいて、イエスを通し、神と兄弟たちとともにいるための、この上ない瞬間」と話された。

 また、教皇は「祈りにおいては、すべての真の対話と同じように、沈黙することも必要です」とされ、「祈りの沈黙はイエスと一緒に沈黙しているということ」として、「私たちがミサに与る時、ミサの始まる直前まで隣の人とおしゃべりをしていることがありますが、その時間は、おしゃべりのための時間ではなく、イエスとの対話、イエスとの出会いを準備するための沈黙の時間なのです」と注意された。そして、「神は、神秘の沈黙からみことばを発せられ、私たちの心に響きます」と語り、福音書の中で「イエスもまた人里離れた場所で祈っていた」ことを思い起こされた。

 弟子たちは、イエスの御父との深い関係を目の当たりにして、自分たちもそれに加わりたいと思い、「主よ、私たちにも祈りを教えてください」(ルカ福音書11章1節)と求めたが、イエスがまず教えたことは、「父よ」と、御父に子の信頼と謙遜を込めて呼びかけられねばならない、ということだったと指摘。「天の国に入るには、子どものように自らを小さくせねばならないのです」と子どもが親に寄せる信頼と親密に満ちた態度が求められている、とされた。

 また、もう一つ大切なことは、「子どものように、驚きの心を持つこと」と述べ、「世界を知るためにいろいろなことを尋ねる好奇心と驚きに満ちた子供のような態度が、主との常に生き生きとした出会いに必要です」と話された。

 さらに、イエスは、ニコデモという人物との出会い(ヨハネ福音書 3章1-21節)で、人は新たに生まれる必要がある、と説いていることを取り上げ、「新たに生まれるとはどういうことか、これが私たちの信仰の根本的な問い。新たに生まれ、やりなおす喜び、それはすべての真の信者の望みなのです」とされ、「私たちはその望みを持っているでしょうか。日常の忙しさの中で、本質を見つめる目、霊的な生活、祈りにおける主との出会いを見失っていないでしょうか」と問いかけられた。

 そのうえで、「主は私たちの弱さにおいても、私たちを愛され、私たちを驚かせ続けられます」として、「主は、真の慰めの源である恵みを、聖体を通して私たちにお与えになり、ミサの中で、私たちの弱さに会いに来られるのです」と結ばれた。

(編集「カトリック・あい」)

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