◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」①「ミサで高く上げるのは私たちの心、ケータイではない」―「聖体」カテケーシスの初めに

(2017.11.8バチカン放送局)教皇フランシスコは、バチカンで11月8日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は今週から「聖体」をテーマに、新しいシリーズの考察を始められた。

 考察の導入にあたるこの日、教皇は、教会の中心である「聖体」に眼差しを向け、神とわたしたちの関係をより完全に生きるために、ミサ聖祭の価値と意味を理解することを本質的な課題として示された。

 キリスト教の2千年の歴史の中で、世界中の数多くの信者たちが自らの命に代えてまで聖体を守り、今日もまだ主日のミサに参加するために命を危険に晒さざるを得ない人々の状況に教皇は言及。

 これに関連し教皇は、304年、ディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害下に起きた、北アフリカの信者たちの殉教について語った。

 この共同体は家でミサを捧げている時に逮捕され、なぜ禁止されているミサを行なったのかと尋問された。これに対し、信者たちは「主日なしではわたしたちは生きられません」と答えた。

 教皇は、信者たちのこの言葉は、「聖体を祝えないのならば、わたしたちのキリスト教生活は死んだものになる」ということを意味している、と話された。

 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書6章 53~54節)というイエスの言葉を教皇は引用。北アフリカの信者たちの証しは、ミサ聖祭に参加し、主の食卓に近づくとはどういうことなのか、その問いをわたしたち一人ひとりに呼びかけていると語られた。

 わたしたちはミサの中で、永遠の命のためにほとばしる命の水を求めているだろうか、自分の生活を賛美と感謝の霊的な捧げ物としているだろうか、と教皇は問いながら、聖体の最も深い意味は三位一体の神に対する「感謝」であると強調された。

 第二バチカン公会議は、キリスト者を信仰の偉大さと、神との出会いの素晴らしさの理解へと導こうとする熱意に満ちていたと教皇は語り、教会が典礼によって生き続け、新たにされていくために、適切な典礼の改革を必要とし、真の刷新のために不可欠である、信者たちの典礼的育成に注意が払われたと振り返った。

 ミサ聖祭は、わたしたちの命であるイエス・キリストがそこに現存されるという素晴らしい出来事であり、ミサに参加することは、主の贖いの犠牲と死を再び体験することであると教皇は説いた。

 なぜミサの始まりに十字のしるしをし、罪を認めるのか、なぜミサには朗読があるのか、なぜ司祭はある部分で「心を込めて神を仰ぎ」と言うのか、など、ミサの一つひとつの意味を考えるよう招く中で、教皇は「ミサの中では心を高く上げて神を仰ぐのであって、携帯電話を高く上げるのではありません」と、ミサ中の携帯電話による撮影などの行為を注意された。

 「秘跡の中で、触れるもの、見るものを通して、その秘跡の基礎に立ち返り、本質を再発見することが重要」と教皇は指摘。

 キリストの傷を見て、触れて、それを認めたいと思った使徒聖トマスの願いは、わたしたちの願いでもあり、神の愛のしるしとしての秘跡、特に聖体の秘跡は、その人間の要求に特別な形で答えてくれるものと話された。

 

 

(解説)新しく始まった、パパ・フランシスコのカテキズム-ミサについて- Sr.岡立子

 教皇フランシスコは、水曜日の一般謁見での 「キリスト者の希望」についての一連のカテキズム 全38回 2016年12月7日~2017年10月25日 を終え、11月8日から、 新たに 「ミサ」 La Santa Messa)についてのカテキズムを始めたなぜ、今、「ミサ」なのか?それは、「ミサ」が、①これがなければキリスト者としての「命・生活」を生きることが出来ないほど大切-まさに「命にかかわる」ものなのに、②わたしたちは、その価値、意味を、どれほど意識し、理解し、生きているだろうか、という問いかけから出発している。
実際、「ミサ」についてのカテキズムの第一回目(導入)で、パパ・フランシスコは、ほとんど懇願するように、人々に呼びかけている:ミサは「ショー」ではない。ミサの中で「高く上げる」のは「わたしたちの心」であって、「(写真を撮るための)ケータイ」ではない、と。[以下、講話を部分的ピックアップ。すべて試訳]

「なぜ、ミサの中で、司式している司祭が『(わたしたちの)心を高く上げて…』と言うのでしょうか?司祭は『写真を写すために、わたしたちのケータイを高く上げ…』とは言っていません!違います!それは、不快な(見苦しい)ことuna cosa bruttaです!あなた方に言います。わたしはとても悲しい。わたしがここで、サンピエトロ広場で、または大聖堂でミサを捧げているとき、たくさんの携帯電話が上げられているのを見るとき。信徒だけではなく、何人かの司祭、司教までも。お願いです!ミサはショーではありません。ミサは、主の受難と復活に出会いに行くことです。だから司祭は『(わたしたちの)心を高く上げて』と言うのです。これはどういう意味でしょうか?覚えていてください。ケータイは止めてください」

 このようなコンテクスト(文脈)の中で、パパは、ミサ聖祭Eucaristiaを守るために、命までも捨てたキリスト者のことを-そして今日も、命がけで主日のミサにあずかっている信徒たちのことを-思い起こしている。

「304年、ディオクレティアヌス皇帝による迫害の中で、北アフリカの、あるキリスト者のグループが、家でミサを捧げている途中に取り押さえられ、逮捕されました。ローマ地方総督は、尋問の中で、彼らに、なぜ絶対的に禁じられていることを知りながら、それをしたのかと問いただしました。彼らは答えました、『主日なしには、わたしたちは生きられません」。それはつまり、もしわたしたちがミサ聖祭Eucaristiaを捧げることが出来ないなら、わたしたちは生きることが出来ない、わたしたちのキリスト者の命(生活)は死んでしまうだろう、という意味です」

そんな大げさな…と思うだろうか?

「イエスはご自分の弟子たちに言いました。『人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる』(ヨハネ福音書6章 53~54節)」

そしてパパは、先の北アフリカのキリスト者たちは、ミサ聖祭こそ、わたしたちに真の命-永遠の命-を与えてくれることを証ししている、と続けている。

「あの、北アフリカのキリスト信徒たちは、ミサ聖祭を捧げていたから殺されました。彼らは、証を残してくれました:ミサ聖祭のために、地上の命を放棄することが出来ることを。なぜなら、ミサ聖祭は、わたしたちに永遠の命を与えてくれるから。わたしたちを、死に対するキリストの勝利にあずからせてくれるから。そして、この証は、今日のわたしたちに、わたしたち一人ひとりに、答えを求めている、と。この証は、わたしたちすべてに答えを求めています。わたしたち一人ひとりにとって、ミサの「ささげもの」(いけにえ Sacrificio にあずかること、主の「食卓」に近づくことが、どういう意味なのかについて、答えを求めています。
わたしたちは、永遠の命のために「生きた水が湧き出る」、あの泉(水源)を探しているでしょうか?わたしたち命の(生活)を、賛美と感謝の霊的ささげもの(いけにえ)としているでしょうか?わたしたち自身を、キリストと一つの体にしているでしょうか?ミサ聖祭は、まさに「感謝」をささげるとき、神のわたしたちへの、途方もない無償の賜物に、感謝・賛美を「返す」ときである。これこそ、聖なるミサ聖祭Eucaristia―それは「感謝」“ringraziamento”という意味です-の、最も深い意味です。わたしたちを巻き込み、わたしたちを、ご自分の愛の交わりの中に変容する、御父、御子、聖霊の神への感謝」

 そして、パパは、このカテキズムを通して伝えたいことを示している。

「これから始まるカテキズムの中で、わたしは、ミサ聖祭についての幾つかの大切な質問に答えたいと思います。この信仰の神秘を通して、どのように神の愛が輝くかを、再発見、または発見するために」

 なぜなら…とパパは言う…、あまりにもわたしたちは、この秘跡―現在でも 多くの信徒たちが、地上の命と引き換えにしてでも守ろうとしている秘跡-に、ぼーっとしてあずかっているから。ここでパパは、「普段の言葉」で人々に語る。

「非常にしばしば、わたしたちはそこに行き、司祭がミサ聖祭を捧げている間、きょろきょろし、おしゃべりをしています。このようにして、わたしたちは、主の近くで[ミサを]捧げていません。でも、そこに主がおられるのです!もし今日、ここに大統領か、世界的に有名な人が来たとしたら、わたしたちはみんな、その人の近くに行って、挨拶をしようとするでしょう。でも、考えてください。あなたがミサに行くとき、そこに、主がおられる!そしてあなたは、ぼーっとしている。それは主なのです!わたしたちは、このことを考えなければなりません。『でも神父さま、ミサは退屈なんです!』。分かりましたか?忘れないでください:ミサにあずかるとは、主の受難と、あがないをもたらす死を、追体験することです」

 秘跡の中でも、特にミサは、使徒トマスの願い-信じるために、主の体の傷を見て、触れたいという願い-に応えるものだ、とパパは思い起こす。まさに、ミサは、主と出会うための特権的な道である、と。

「土台(基礎)に戻り、本質的なことを再発見すること-諸秘跡を祝う中で、触れ、見るものを通して-は、非常に大切です。使徒トマスの要求 (ヨハネ福音書20章25節参照)―イエスの体の釘の傷跡を見て、それに触れたい-は、神を信じるために、何らかの方法で、神に『触れたい』という望みです。聖トマスが主に願ったことは、わたしたち皆が必要としていることです:主を認めることが出来るために、主を見ること、主に触れること。秘跡は、この人間の要求に応えるために来ます。秘跡は、そして特にミサ聖祭は、神の愛の徴、わたしたちが神に出会うための、特権的な道です」

「このように、今日始めるカテキズムの中で、わたしは、あなた方と共に再発見したいと思います。ミサ聖祭の中に隠されている美しさについて。その美しさは、一度明らかにされたら、わたしたち一人ひとりの命(生活)に、完全な意味を与えてくれます」

 これから始まる、典礼暦の「新しい年」(待降節~)に、わたしたちのキリスト者としての日々に、パパ・フランシスコの「ミサ」についてのカテキズムが同伴する。「分かってるけど~」「だけど現実はね~」…と言って片付けてしまう前に、むしろ、わたしたちの歩みの原点を見つめ直し、一番大切な本質に戻るための「回心」の機会と感謝して、パパの言葉に心を開きたい。
イエス・キリストが、ご自分の命を捧げ尽くして、わたしたちに開いてくださった「永遠の命」に入る、まったくの「恵みの歩み」。その本質に帰るために…。

わたし自身は、わくわくしている。たしかに、ミサ聖祭について、何度も、神学の授業で勉強した。講義を聞いた。本を読んだ。…でも、日々、この信仰の神秘を深め、それを生きていくことに、「もう十分」ということはない。いやむしろ、「よく分かったから、もうそれについて聞かなくていい」と思った瞬間、わたしの心は、主の神秘に対して、主の恵みに対して、閉ざされてしまうのだろう。恵みなしには、あとは「枯れて」しまうだけだ。

…というわけで、ワクワク・ドキドキしながら、わたし自身、パパと一緒に、このキリスト教生活(命)の源であり目的である偉大な神秘に、もう一度、謙虚に、近づいて行きたい。幼子のように、驚き、発見しながら…。
「道」である主イエス・キリストご自身が、わたしたちと共にいてくださいますように。その「道」を示す方、信じる者、主の母マリアが、わたしたちと共に歩いてくださいますように… アーメン

(岡立子・おかりつこ・けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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